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孟達 子度

 

 

生没年:?~太和2年(228)

 

所属:蜀

 

生まれ:涼州扶風郡

 

 

 

 

孟達(モウタツ)、字は子敬(シケイ)。後に子度(シド)。三国志にはみっともない裏切り者のような人物が時折登場しますが、孟達はその中でも筆頭格にメジャーな人物ですね。

 

恐らく、三国志においてかじった程度の知識の方でも、名前だけなら知っているのではないでしょうか?

 

 

孟達の人生は派手な裏切りによって彩られていると言ってもよく、その最期も裏切りの中で力尽き果てる……というものです。当然そんな人生であるため、魏でも蜀でも彼の伝の取り扱いは無し。史書に時折名前を出すだけの人物になっています。

 

が、よく見ると、それらの裏切り行為は外的要因も大きく、一概に彼一人を責められないのもまたひとつの事実。今回は、彼の裏切りにまみれた事績を追って、その辺りを私なりに考えていきたいと思います。

 

 

 

 

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最初の裏切り

 

 

 

孟達の父親は涼州刺史(リョウシュウシシ:州の監査官。小さな州ならば長官職)であり、彼の家柄はなかなかに恵まれたものだったようです。

 

彼は何のめぐりあわせか法正(ホウセイ)と知り合いになり、地元の飢饉に際して2人で故郷を脱出。そのまま南の益州(エキシュウ)に出て、劉璋(リュウショウ)の基で厄介になることになりました。

 

 

その後、しばらくして荊州(ケイシュウ)南部で割拠していた劉備(リュウビ)が劉璋の援軍要請に二つ返事で承諾すると、孟達は法正と共に2千の兵を率いて劉備の迎えに出立。そのまま法正から軍を預かる形で全軍を率い、劉備領に到着。

 

孟達はそのまま劉備の命令で領内に駐屯し、防衛軍の援軍部隊としてしばらく江陵(コウリョウ)に留まり、劉備による劉璋への裏切りと益州の乗っ取りを静観する形で、しれっと劉備軍に鞍替えしたのです。

 

 

また、字を変えたのもこの時で、これは劉備の叔父が子敬という字を使っていた事からの配慮だと言われています。

 

 

 

さて、こうして何気なく劉備軍の一員に加えられた孟達は、益州攻略の後に宜都(ギト)太守に昇進。建安24年(219)に、漢中(カンチュウ)から川を下り荊州を攻撃するという遡上作戦の指揮官に抜擢されたのです。

 

劉備の養子である劉封(リュウホウ)の援軍もあって見事に荊州の上庸(ジョウヨウ)の奪取に成功し、魏の領地を削り取るための楔を打ち込むことが出来ました。

 

 

しかし、当の孟達は劉封との折り合いが悪く……これが、彼を稀有な人生に叩き落す要因になっていったのです。

 

 

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孟達、魏へ寝返る

 

 

 

元々仲が悪くなにかといがみ合っていた劉封でしたが……なんと、孟達に激しい怒りを覚えた劉封は孟達の軍楽隊を自身の権力で没収。2人の仲は完全に決裂してしまいました。

 

さらには、荊州の南から軍を動かしていた関羽(カンウ)が、占領したばかりの上庸にまで援軍要請を派遣。孟達らは占領したばかりの上庸と関羽からの要請のどちらかをあきらめなければならない岐路に立たされました。

 

この時、孟達らが選んだのは上庸でした。上庸は魏軍の注意を逸らすための貴重な楔であり、関羽軍に向かうはずだった敵軍の目線を逸らすだけでなく、もし後世に回れたならそのまま前線拠点になる重要な土地。失陥は許されなかったのです。

 

 

しかし、その後関羽は一転して敗勢に回り、そのまま敵軍に捕縛され処断。援軍を拒絶した判断が、荊州戦線大将である関羽の死という重い責任を背負い込む要因になってしまったのです。

 

劉備は、この知らせを聞くと激怒。孟達は、劉封との確執だけでなく劉備からの怒りにも気を配らなければならない立場に置かれたのです。

 

 

とうとう進退窮まった孟達は、もはやこれまでと魏への亡命を決意。劉備に対して別れの手紙をしたため、やむなく魏へと降伏したのでした。

 

 

やむを得ない降伏によって評判を落とし、後に裏切りキャラとして定着してしまう孟達でしたが……この時の唯一の救いと言えば、魏の帝である曹丕(ソウヒ)が彼を気に入った事でしょうか。

 

『魏略』では、人物鑑定士に「将軍の器」と称されたことで曹丕に大いに尊敬され、実際に会った際も優雅な物腰と傑出した弁舌の才能で、曹丕の車に同乗するほどに信頼されています。

 

この度が過ぎた好待遇を快く思わず讒言する者もいましたが、曹丕はまったく取り合わなかったのです。

 

 

正史本伝でも、そのまま将軍職と上庸含めた3郡をまとめて新設された新城(シンジョウ)の太守になっており、やはり降将にしても大きな待遇を受けていたのは間違いないようです。

 

 

 

 

 

裏切りの果てに……

 

 

 

こうして魏でも確かな立場を確立し、結果的に劉備を裏切ってしまったものの安泰を得ることができた孟達。しかし、その安泰も、曹丕という後ろ盾ひとつに守られてのものでした。

 

黄初7年(226)に曹丕が病気で亡くなると、孟達の立場は一気に暗転。魏に寝返った後も諸葛亮(ショカツリョウ)と文通していたのもあって、周囲から冷たい目で見られるようになっていきました。

 

ましてや、自分の立場は裏切り者。周囲からは「どうせまた裏切る」と思われており、さらには蜀との国境線に任地を持つのも、魏での周囲よりの心証を悪くしていったのです。

 

 

 

と、そんな不安な立ち位置の孟達に対して、諸葛亮はとうとう「戻ってこい」と義への裏切りを示唆する手紙を送り付けてきました。さらには、蜀の重臣である李厳(リゲン)らからも、次々と手紙を贈られてくる始末。

 

孟達はこの時動きを決めかねていたようでしたが……なんと、しびれを切らした諸葛亮が、魏の軍中で孟達と不仲であった申儀(シンギ)に、孟達の裏切りを密告。

 

これが決め手となり、孟達は魏国の中で完全に孤立。いよいよたまらなくなって、人生最期の叛逆に踏み切ったのです。

 

 

 

しかし、追い詰められた人物のやぶれかぶれの反乱など、容易に対処されるのが常です。この動きはすでに司馬懿(シバイ)に察知されており、孟達の叛逆を知るや否や4倍近い孟達討伐軍を結成。

 

そのまま強行軍で数日と経たずに戦場に到着し、あっという間の進軍に驚いた部下らがまとめて降伏。司馬懿の電撃戦によってまともに戦えなくなった孟達は、頼みの諸葛亮にも見捨てられて16日という短期間で敗北。

 

その首は洛陽で曝され、大通りの四辻で焼かれることになったのでした。

 

 

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仕方なし?裏切りマン?

 

 

 

と、このように孟達の裏切りは、そのほとんどが周囲の環境によってやむなくおこなわれた突発的な物だったのがわかります。

 

が、彼の周辺にいた人物による孟達評によると、どうも単なる被害者というわけではないようです。

 

 

まず、孟達が魏に降った時、嫉妬による讒言の他にも、司馬懿や劉曄(リュウヨウ)といった人物がいざという時の危険性を曹丕に述べています。

 

その中でも劉曄による進言は史書にも残っており、以下のように述べたとされています。

 

 

才知に任せて策を好み、一時の利益を気にする人物。道理や恩寵を思う事が出来るとは思えません。国境付近の境界に置くのは危険です。

 

 

また、諸葛亮が彼に寝返り工作を仕掛けた時にも、蜀の中で費詩(ヒシ)という人物が孟達の性格と危険性を指摘しています。

 

劉璋に忠義を尽くさず、劉備を裏切った小人物です。反覆常無し。あんな奴に手紙なぞ出す意味があるとは思えません。

 

 

うーん、これまた手厳しい。

 

ちなみにこの進言を受けた諸葛亮は反論せず黙りこくり、司馬懿によって孟達が窮地に陥った際も「不義理な男はアテにならんな」と思い返し、結局見捨てることにしたと言われています。

 

 

 

孟達の裏切り行為自体は、正直仕方のないことがほとんどです。実際に劉備を裏切らずに帰った劉封は関羽を見捨てた罪で殺されていますし、魏においても後は裏切りの材料を探すなりでっちあげるなりして処刑するだけというすんでの状況に追い込まれています。

 

どれも、裏切らなければ殺されかねない危険な状態だったと言えるのです。

 

 

……が、これらがすべて外的要因によるもので孟達にまったく非がないと言い切るには、当時の人々の評価がちょっと気になります。

 

孟達は弁舌が巧みで非常に有能感あふれる人物だったのでしょうが、それだけに自分の才を過信し、結果として裏切り以外の道を選べなくなってしまった……案外、彼の真相はこんなところなのかもしれませんね。

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