後世の評価は概ね「外道」
曹丕と言えば外道。外道と言えば曹丕。という訳で、彼の素晴らしい外道精神は現代にも多く残っており、残念ながらその一面をまるっと全否定することは難しいでしょう。
三国志を編纂した陳寿の評は、おおむねこんな感じ。
文学的素質は人並み外れ、筆を下ろせば文章になった。また広い知識と優れた記憶力を持っており、その他の方面でも多く活躍した人物である。
この有能さに加えて広い度量を持ち、公平な誠意をもってつとめ、道義の存立に努力を傾け、徳心を充実させることができれば、古代に名を馳せた名君賢者と肩を並べたであろう。
要するに、性 格 全 否 定 。後世に伝わる曹丕像は、おおよそこの評にある通り、「超有能な、素晴らしい外道精神の持ち主」という感じで固定されています。
いや、中には能力すらも全否定したような文献作品もいくつか点在したりも……
こういった悲惨な評価を下された背景としては、おおよそ、妻の甄氏(シンシ)、そして弟の曹植(ソウショク)。さらには父の代の功臣である于禁(ウキン)、曹洪(ソウコウ)、夏侯尚(カコウショウ)といった面々に対する仕打ちが主な原因でしょう。
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それぞれへの仕打ちとしては……
甄氏――年上の妻。袁紹の子の元妻で、略奪愛という形で結ばれる。晩年曹丕の寵愛を側室の郭氏に奪われていき、嫉妬したか元々不仲だったか恨み言を口にしたばかりに、曹丕から死を賜る。
曹植――弟。さすがに後継者候補であり、落選したもののまだまだ根強い支持を得ていたため、側近皆殺しの上、領土を次々と鞍替えされる。もっとも、これに関しては曹植が叛逆の神輿にされるのを防ぐための政治的措置であり、双方の仲事態は良かったとされている。
于禁――関羽に降伏したことを呉国内で(主に虞翻とかいうジジイに)散々いびられ、罪悪感からやつれていたところ、帰還後曹丕に励まされることで希望を与えられる。が、曹操の墓に関羽相手に命乞いする自分の絵が描かれていたことから憤死。曹丕は元々この否がらせを実行する気で優しく声をかけたのだ。
曹洪――昔彼から借金しようとしたときに断られたことを根に持ったらしく、ゴロツキ同然の配下が不祥事を働くとそれを口実に処刑しようとする。もっとも、妻の郭氏や母親の卞氏までもが止めに入ったため中断したが、曹丕のねちっこい怨嗟エピソードの代表格として有名。
夏侯尚――曹丕の一族を娶っていたが、それとは無関係な妾と本当の愛に目覚めてしまいヤンデレとして覚醒。怒った曹丕はその妾を殺してしまうが、すでにヤンデレと化した夏侯尚は憔悴しきり、妾の墓を掘り返すなどすっかり病んでしまう。曹丕はそれを聞いて「昔奴は友人としてふさわしくないと言っていた者がいたが、マジでその通りだな」とブチギレるものの、直接会って「これはやり過ぎた」と考えを改め反省。なお、夏侯尚はその後すぐ死んだ。
他にも丁儀(テイギ)という人物を曹操が気に入って娘を娶らせようとしたときも、「目が見えない男はふさわしくありませんな。片目つながりで、夏侯惇殿のご子息に嫁がせるのはどうでしょう」と皮肉を返して思いとどまらせ、しかも後年処刑する(そもそも曹植派で曹丕側の重臣を讒言して処刑に追い込んでいるから普通にどっこい)等、悪行の数々は枚挙に暇がありません。
皇帝簒奪者であり、同時に苛烈なところがあった曹丕は、実際悪く言われるだけの行動をしていたのは間違いないでしょう。
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ちょっと擁護してみる
さて、これだけの事をしてきた曹丕ですが……中には、ある意味仕方ないと思われる部分もいくつか点在します。
まず、曹植一派への冷酷な仕打ちについて。後継者争いでは、元々曹植本人にそんな気がなかったような記述が多いにも関わらず、曹植派の重臣は実権を握るため、曹植を神輿に後継者の地位を奪うように動いていたのが明らかです。
その結果、曹丕側の人間にも無罪の罪に問われたり処刑される者が出るなど、この後継者争いは相当に深い問題であると言えるでしょう。
そのため、曹植派の粛清や力を持たせないための権勢は致し方のない事だったのかもしれません。当然、曹植に関しても然り。当人にその気がなかったとしても、いつ誰が担ぎ上げようとするかわかったものではありませんので、どうしても実権ある立場に置くのは難しかったと思われます。
さて、その他では曹洪に関してですが、これは本当にお金の貸し借りだけを蒸し返した問題なのかが不明。曹丕自身に訊いてみるしかないような問題と言えるでしょう。
そもそも曹洪自身の素行はお世辞にもいいとは言えず、曹操を超える財を築く銭ゲバ、さらには戦場で破廉恥なパーティーを開催してしてお堅い文官に怒られる等、割と問題行動の多い人物です。
死刑というのはさすがに私情無しとは言い切れませんが、功臣と言えど罪があれば罰するという事自体は、公平性でいえば間違った判断ではありません。
話半分で信憑性の高い話ではありませんが、『魏略』に載っている曹洪の反省文には、ケチな一面ではなく「貪欲、強欲な性格」を反省する旨が書かれており、まあケチと関連付けることもできますが、本当に関連性があるかどうか……
そして于禁にしでかした、最悪の主君ともいえないクソみたいな行為について。これに関しては、まさに「曹操の墓に落書きをする」というとんでもない非常識行為であり、民衆への政治の一環で墓とか慈愛とかを訴えかけている曹丕がやる事かと言われると疑問符が付きます。
そもそも、2009年に曹操の墓が見つかった時も于禁の情けない土下座姿は見当たらなかったようで、落書きの話は正史本伝にあると言っても話半分と見てもいいかもしれません。
また、于禁の息子である于圭(ウケイ)は何事もなかったかのように于禁の爵位を受け継いでますし(さすがに周囲の風当たりはきつかったかもしれませんが)、信じられないとまでは言えないものの結構怪しい逸話になりつつあります。
甄氏や夏侯尚は……現在手持ちの情報からは何とも言えませんのでノーコメントで。
ともあれ、曹丕の冷酷さや非道さは、当時の曹操の跡継ぎ事情や難しい情勢がそうさせた部分もあるのかもしれません。
当人は気の合った友人には危いと言えるほどに胸襟を開いており、描いた詩の中身もかなりデリケートな性格が出ています。もしかしたら、実際の曹丕は器と能力こそ後継者としてこの上ない逸材とはいえ、性格そのものは人の上には向いていない、繊細で多感、ちょっぴり気難しくて打たれ弱い内気な人物だったのかもしれませんね。
え、鮑勛? 知らない人ですね
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