曹丕 子桓


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曹丕 子桓

 

 

生没年:中平4年(187)~黄初7年(226)

 

所属:魏

 

生まれ:豫洲沛国譙県

 

勝手に私的能力評

 

曹丕 魏 文帝 ドS王子 詩 文学 典論 いじめっ子 名君

 

統率 D+ 臣下の統制や統治に関しては見事だが、戦争は……うん、お察しください。
武力 B+ 双剣のプロ。自慢話の中では腕の立つ猛将すら屈服させたこともあるとか。強い(確信)
知力 A 記憶力抜群の文学王子。頭も当然キレキレで、他人の戦争の解説ならばほとんど読みは完璧だった。なお自分が戦ったとき……
政治 S まさに文帝。魏の基本骨子を作り上げた名君と言わざるを得ない。長生きすれば魏はもっと繁栄できたはず。
人望 A 外道な逸話や冷酷な話に事欠かないが胸襟を開いた相手にはとことん尽くし、実際に名君として今なお名を上げられる。史書でも性格全否定だが、非道エピソードは後世の創作や妄想も結構多い。

 

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曹丕(ソウヒ)、字は子桓(シカン)。魏を建国したのは曹操ですが、魏を帝国にしたのと初代皇帝になったのはこの人。

 

戦争はイマイチ振るいませんが、政治面ではまさにひとつの時代の入れ替わりとなった初代皇帝として素晴らしい功績を残しています。

 

 

……まあ、その反面冷酷で陰険な簒奪者という評価もあって、むしろこっちが主流であんまよく言われていない人ですがね。

 

こういったマイナス評価(あと魏書での無駄な功績アゲ)もあってか、他の人物伝は充実してるサイトや書籍も彼の記述だけはあっさりしている場合も多いです。

 

 

 

今回は頭を空にして、本伝で書かれている彼の功績を見ていきましょう。

 

 

 

※曹丕の列伝は本当は文帝紀と言いますが……まあ、曹操伝と同じく、わかりやすく表示しておきます。

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 1巻

 

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後世の評価は概ね「外道」

 

 

曹丕と言えば外道。外道と言えば曹丕。という訳で、彼の素晴らしい外道精神は現代にも多く残っており、残念ながらその一面をまるっと全否定することは難しいでしょう。

 

 

 

三国志を編纂した陳寿の評は、おおむねこんな感じ。

 

 

文学的素質は人並み外れ、筆を下ろせば文章になった。また広い知識と優れた記憶力を持っており、その他の方面でも多く活躍した人物である。

 

 

この有能さに加えて広い度量を持ち、公平な誠意をもってつとめ、道義の存立に努力を傾け、徳心を充実させることができれば、古代に名を馳せた名君賢者と肩を並べたであろう。

 

 

 

要するに、性 格 全 否 定  。後世に伝わる曹丕像は、おおよそこの評にある通り、「超有能な、素晴らしい外道精神の持ち主」という感じで固定されています。

 

 

いや、中には能力すらも全否定したような文献作品もいくつか点在したりも……

 

 

 

こういった悲惨な評価を下された背景としては、おおよそ、妻の甄氏(シンシ)、そして弟の曹植(ソウショク)。さらには父の代の功臣である于禁(ウキン)、曹洪(ソウコウ)、夏侯尚(カコウショウ)といった面々に対する仕打ちが主な原因でしょう。

 

 

 

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それぞれへの仕打ちとしては……

 

 

甄氏――年上の妻。袁紹の子の元妻で、略奪愛という形で結ばれる。晩年曹丕の寵愛を側室の郭氏に奪われていき、嫉妬したか元々不仲だったか恨み言を口にしたばかりに、曹丕から死を賜る。

 

 

曹植――弟。さすがに後継者候補であり、落選したもののまだまだ根強い支持を得ていたため、側近皆殺しの上、領土を次々と鞍替えされる。もっとも、これに関しては曹植が叛逆の神輿にされるのを防ぐための政治的措置であり、双方の仲事態は良かったとされている。

 

 

于禁――関羽に降伏したことを呉国内で(主に虞翻とかいうジジイに)散々いびられ、罪悪感からやつれていたところ、帰還後曹丕に励まされることで希望を与えられる。が、曹操の墓に関羽相手に命乞いする自分の絵が描かれていたことから憤死。曹丕は元々この否がらせを実行する気で優しく声をかけたのだ。

 

 

曹洪――昔彼から借金しようとしたときに断られたことを根に持ったらしく、ゴロツキ同然の配下が不祥事を働くとそれを口実に処刑しようとする。もっとも、妻の郭氏や母親の卞氏までもが止めに入ったため中断したが、曹丕のねちっこい怨嗟エピソードの代表格として有名。

 

 

夏侯尚――曹丕の一族を娶っていたが、それとは無関係な妾と本当の愛に目覚めてしまいヤンデレとして覚醒。怒った曹丕はその妾を殺してしまうが、すでにヤンデレと化した夏侯尚は憔悴しきり、妾の墓を掘り返すなどすっかり病んでしまう。曹丕はそれを聞いて「昔奴は友人としてふさわしくないと言っていた者がいたが、マジでその通りだな」とブチギレるものの、直接会って「これはやり過ぎた」と考えを改め反省。なお、夏侯尚はその後すぐ死んだ。

 

 

 

他にも丁儀(テイギ)という人物を曹操が気に入って娘を娶らせようとしたときも、「目が見えない男はふさわしくありませんな。片目つながりで、夏侯惇殿のご子息に嫁がせるのはどうでしょう」と皮肉を返して思いとどまらせ、しかも後年処刑する(そもそも曹植派で曹丕側の重臣を讒言して処刑に追い込んでいるから普通にどっこい)等、悪行の数々は枚挙に暇がありません。

 

 

 

皇帝簒奪者であり、同時に苛烈なところがあった曹丕は、実際悪く言われるだけの行動をしていたのは間違いないでしょう。

 

 

 

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ちょっと擁護してみる

 

 

 

さて、これだけの事をしてきた曹丕ですが……中には、ある意味仕方ないと思われる部分もいくつか点在します。

 

 

まず、曹植一派への冷酷な仕打ちについて。後継者争いでは、元々曹植本人にそんな気がなかったような記述が多いにも関わらず、曹植派の重臣は実権を握るため、曹植を神輿に後継者の地位を奪うように動いていたのが明らかです。

 

 

その結果、曹丕側の人間にも無罪の罪に問われたり処刑される者が出るなど、この後継者争いは相当に深い問題であると言えるでしょう。

 

そのため、曹植派の粛清や力を持たせないための権勢は致し方のない事だったのかもしれません。当然、曹植に関しても然り。当人にその気がなかったとしても、いつ誰が担ぎ上げようとするかわかったものではありませんので、どうしても実権ある立場に置くのは難しかったと思われます。

 

 

 

 

さて、その他では曹洪に関してですが、これは本当にお金の貸し借りだけを蒸し返した問題なのかが不明。曹丕自身に訊いてみるしかないような問題と言えるでしょう。

 

 

そもそも曹洪自身の素行はお世辞にもいいとは言えず、曹操を超える財を築く銭ゲバ、さらには戦場で破廉恥なパーティーを開催してしてお堅い文官に怒られる等、割と問題行動の多い人物です。

 

死刑というのはさすがに私情無しとは言い切れませんが、功臣と言えど罪があれば罰するという事自体は、公平性でいえば間違った判断ではありません。

 

 

話半分で信憑性の高い話ではありませんが、『魏略』に載っている曹洪の反省文には、ケチな一面ではなく「貪欲、強欲な性格」を反省する旨が書かれており、まあケチと関連付けることもできますが、本当に関連性があるかどうか……

 

 

 

 

そして于禁にしでかした、最悪の主君ともいえないクソみたいな行為について。これに関しては、まさに「曹操の墓に落書きをする」というとんでもない非常識行為であり、民衆への政治の一環で墓とか慈愛とかを訴えかけている曹丕がやる事かと言われると疑問符が付きます。

 

そもそも、2009年に曹操の墓が見つかった時も于禁の情けない土下座姿は見当たらなかったようで、落書きの話は正史本伝にあると言っても話半分と見てもいいかもしれません。

 

また、于禁の息子である于圭(ウケイ)は何事もなかったかのように于禁の爵位を受け継いでますし(さすがに周囲の風当たりはきつかったかもしれませんが)、信じられないとまでは言えないものの結構怪しい逸話になりつつあります。

 

 

 

甄氏や夏侯尚は……現在手持ちの情報からは何とも言えませんのでノーコメントで。

 

 

 

 

ともあれ、曹丕の冷酷さや非道さは、当時の曹操の跡継ぎ事情や難しい情勢がそうさせた部分もあるのかもしれません。

 

 

当人は気の合った友人には危いと言えるほどに胸襟を開いており、描いた詩の中身もかなりデリケートな性格が出ています。もしかしたら、実際の曹丕は器と能力こそ後継者としてこの上ない逸材とはいえ、性格そのものは人の上には向いていない、繊細で多感、ちょっぴり気難しくて打たれ弱い内気な人物だったのかもしれませんね。

 

 

え、鮑勛? 知らない人ですね

 

 

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【曹丕伝3】曹丕は本当に冷酷なのか?【曹丕伝3】曹丕は本当に冷酷なのか?【曹丕伝3】曹丕は本当に冷酷なのか?

続きを読む≫ 2018/10/04 13:36:04

 

 

 

 

九品官人法制定

 

 

 

晴れて皇帝になった曹丕は、まずは自分たちの先代らにそれぞれ帝の諡号を奉ることを決定。父の曹操を武帝とし、さらには祖父であった曹嵩(ソウスウ)には太帝の称号を贈ることにしました。

 

さらには自らの母である卞氏(ベンシ)を皇太后とし、正式に自らが皇帝であるという示威を内外に行ったのです。

 

 

 

また、当時盛況であった儒教の祖である孔子や後漢の祖である光武帝を大々的に祭ったりと先人を敬う姿勢を見せて民心を掴んだり、周辺異民族の懐柔、さらには官職名やその権限、また各地の地名を変更したりと内部の安定、董卓(トウタク)によって廃止された五銖銭(ゴシュセン)の復活など、影響力増大に腐心している様子が伺えます。

 

 

五銖銭に関しては、後々物価が高騰したのを理由に取りやめています。

 

 

さらには能力主義を徹底させるため、幕僚である陳羣(チングン)の草案を可決し、九品官人法(キュウヒンカンジンホウ:官僚の中に評価担当者を置き、その評価を元に官位を九段階に分類する)を制定。

 

さらに地域推挙である孝廉の推挙枠上限を撤廃し、「特別有能な者は条件に限らず推挙するように」としたのです。そのしばらく後には老成してから大身となった偉人らを取り上げ、年齢制限すら撤廃しています。

 

 

 

また、曹操配下の重鎮である曹仁を大将軍、大司馬(ダイシバ:軍事最高職)に置くなどし、蜀の皇帝を名乗り始めた劉備、臣従はしているものの動きが怪しい孫権に備えます。

 

 

そして孫権劉備の間で夷陵の戦いが行われた後、ひと段落をついて、とうとう孫権が敵対。曹丕はこれを討伐すべく、大規模な親征を行う事となったのです。

 

 

 

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その戦の手腕

 

 

 

さて、曹丕の呉征伐は計3回行われることになりますが……残念ながら、曹丕には父と同じような軍事的才能はなかったといってよいでしょう。

 

 

まず、夷陵の戦い直後に行われた大規模攻勢。これは揚州、荊州をまたぐ全面攻撃で、3方向に別れての進軍になりましたが、結果から言うと長期対陣の末疫病により撤退することとなっています。

 

その過程で陥落寸前の江陵(コウリョウ)を攻めたり、曹休などが敵の先遣隊を撃破したりとなかなかいい感じではあったのですが……ここは呉が強すぎたと言えるでしょう。

 

 

そして問題なのが、その1年後の黄初5年(224)。ここでは曹丕自らが前線に出ての直接対決となったのですが、敵軍が用意したハリボテの城砦にビビッて撤退

 

さらにその翌年黄初6年(225)にも懲りずに攻め込みますが、今度は川の水が凍り付き、身動きが取れない間に奇襲を受けてあえなく撤退という散々な戦果でした。

 

 

重臣の賈詡(カク)からも、「今は攻めずに守りましょう」と言われたこともあり、やはり用兵に関しては難があったのかもしれません。

 

 

 

 

一方政治は絶好調

 

 

 

さて、年をまたいだ遠征の合間に、領内の慰撫と安定に努めていた曹丕ですが……戦争と打って変わり、こちらはまさしく順調そのものでした。

 

 

まず、自身の皇后に新しく郭氏(カクシ)を立てると、漢王朝の腐敗の原因を真っ先に取り除くため、「婦人による政治への口出しは無用」という国令を出し、自身の皇后の親族による政治の席捲、そして皇后との仲を利用した出世のルートを完全に遮断してしまったのです。

 

漢王朝の腐敗は皇后の血族と宦官の間の争いと政治の独占から起こったものであり、曹丕はこれに学んで危険を取り除いたわけですね。

 

 

また、後年には国家反逆罪以外の罪の密告を一切禁止し、それまでどの勢力でも横行していた讒言の出所を遮断するなど、政治体制の清浄化にも着手しています。

 

その一方で連れ合いのない男女や重病、貧困などで生活できない者の為に物資による生活保護制度を立てたり、そのまま埋葬されるのが普通だった当時の民の葬儀事情を一新するなど、民にとってプラスになるような政策も続け、そのおかげで領内には安定した治世をもたらしたのです。

 

 

その他にも仇討ちの禁止や、どう考えても道理に合わない儲けのための新興宗教取り締まりなどにも力を入れており、とにかく、「漢の腐敗から始まった乱世を収束させる」という1点に向けて様々な政策を打ち出している様子がわかります。

 

 

戦争はともかく、着実に政治で乱世を終わりに向かわせる。そんな曹丕の姿は、まさに戦乱を超えた次代を象徴すべきものだったのかもしれません。しかし、そんな曹丕による治世は、悲しいかな長くは続かなかったのです。

 

 

 

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あまりに早すぎる死

 

 

 

 

曹操が作った地盤を、着々と万全のものにし、乱世を終わらせる力にする。曹丕の役割は、もしかしたらそんなものだったのかもしれません。

 

しかしそれには固定概念や広まった悪習を断ち切るだけの力と時間が必要で、曹丕にはそのうちの「時間」という要素が著しく欠如していたのです。

 

 

 

在位して7年目の黄初7年(226)。曹丕は許昌(キョショウ)へと行幸のため向かいましたが、ちょうど門をくぐろうかというその時、何の理由も無く、許昌の門の壁が崩れ落ちたのだとか。

 

 

何とも不吉に思い、結局門をくぐらずその場をやり過ごすことにした曹丕でしたが……不幸にも、この予兆は何ヶ月と待たずに現実として襲い掛かってきたのです。

 

 

結局帰還して九華台(キュウカダイ)なる宮殿を立て、それからしばらくした5月のこと、これまで患っていた軽い病が重篤化し、危機に陥ります。そのため、曹丕は念のために息子の曹叡を皇太子に任命し、万一に備えることにしました。

 

 

が、それから1月と経たずして、曹丕の病はいよいよ重篤化。事ここに至って観念した曹丕は、重臣である曹真曹休陳羣司馬懿を急ぎ召し寄せ、「息子の曹叡を支えるように」と遺言し、そのまま息を引き取ったのです。

 

 

享年40。皇帝となってわずか在位7年という驚きの短さでした。

 

 

その後を継いだ次代皇帝、明帝と称される曹叡も、彼とはまた違った有能さを持った人物で立派に帝の仕事を成し遂げましたが、なんと彼も早死にしてしまうのですから、運命という物は恐ろしいものです。

 

 

ともあれ、急速に内部を固めて乱世を文治によって終わらせようとした曹丕でしたが、そのあまりに早い死は曹魏に暗い影を落とし、滅亡を一気に早めることになってしまったと歴史家の中では言われています。

 

 

【曹丕伝2】在位7年は短すぎた【曹丕伝2】在位7年は短すぎた【曹丕伝2】在位7年は短すぎた

続きを読む≫ 2018/10/04 13:28:04

 

 

 

 

曹操の息子

 

 

曹丕は曹操の子として生を受けましたが、元来は側室の子。相応の地位こそ約束されていましたが、曹操の覇業が順当に行けば、本来後継者の立場につく人物ではありませんでした。

 

 

そんな曹丕の運命が変わったのは、建安2年(197)、一度曹操に降った張繍(チョウシュウ)が、曹操の正室の子であり兄でもある曹昂(ソウコウ)を討ち取ってしまった時。

 

 

この時に曹操は自分の嫡子を失っただけでなく、それに起こった正室からも絶縁を宣言されてしまい、さらには曹昂の弟も早くに病死。

 

こういった曹操にとっての不幸が立て続いた結果、曹丕の母親に当たる人物が、彼女に代わって曹操の新しい正室になったのです。

 

 

さて、この曹丕、『魏書』によれば幼いころからかなりの神童だったようで、8歳にしてすでに文章力抜群。さらに剣術や馬術といった個人武勇にも優れていたため、11歳の時にはすでに曹操と共に戦場へと赴いています。

 

 

なんか生まれから吉兆として超常現象が発生していた等という昔の偉人の過去にありがちなテンプレ設定も述べられたりもしていますが、その辺りは割愛。

 

 

『張繍伝』には、兄を殺した張繍をいびり倒して自殺に追い込んだとされますが、真偽は不明。まあ、それくらいやりかねないと見られていた証拠の一つなのでしょう。

 

また、『魏略』では占いの結果、「40歳の時に苦難があり、それを過ぎれば80まで生きられる」という意味深な結果を引き当てられ、占い通りに40歳で苦難に見舞われ、克服できずに亡くなった……などというものも。

 

 

なお、武術に関しては両手に武器を持つと強かったらしく、この辺は「三國無双」シリーズでの武器が双剣であることで再現されていたりも。

 

 

 

建安16年(211)には、曹丕は五官中郎将(ゴカンチュウロウショウ)として宮廷内の禁軍、各官の掌握や曹操の補助役に励み、ここで実質的に後継者としての立場が決定しているようにも見えます。

 

 

……が、これに納得していない名士層が弟の曹植(ソウショク)を担ぎ上げて曹操の後継者を主張。お互いの兄弟仲は悪かった様子はないのですが、双方の側近たちの間で激しい跡目争いが発生してしまったのです。

 

 

その跡目争いの期間、実に6年間。建安22年(217)に、正式に太子に任命されるまでの間、双方の側近衆がしのぎを削り合ったのです。

 

 

演義はじめ多くの三国志作品では曹丕と曹植のギスギスの争いが描かれていますが、曹植は原則として跡目から一歩引く姿勢を見せることが多く、「冷遇迫害された」とある割に曹丕も曹植を割といい立場(さすがに実権皆無だけども)に置いている辺り、二人の兄弟仲はよかったという説が最近では有力だったり。

 

 

 

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太子曹丕、魏帝へ

 

 

 

 

 

ともあれ、曹操が崩御すると曹丕はそのまま魏王の地位に上がり、2月になるとさっそく役職を自らの意に沿って任命。

 

重役として名前が挙がっているのは太尉(タイイ:軍事長官)となった賈詡(カク)、相国(ショウコク:内閣総理大臣。他にも丞相の呼び名も)には華歆(カキン)、そして御史大夫(ギョシダイフ:副大臣)には王朗(オウロウ)といった面々。

 

他にも二代目という事もあって父の代からの功臣にも報いる必要があったようで、父の親友であった夏侯惇(カコウトン)を将軍の最高位である大将軍に任命しています。

 

 

また、前王朝の漢が滅んだ遠因となっている宦官の一定以上の出世を禁止するなど、内部の強化に尽力。自身の苦い経験を活かして嫡子の曹叡(ソウエイ)を早めに侯の爵位をあてがうなどの跡目争い対策にも余念のない動きを見せています。

 

 

他にも「民のためにあるものに重税と厳しい禁令が課せられているのはどうなのか」として、渡し場や関所の通過税や理不尽と感じた禁令の撤廃に着手。同時に使者を各地に派遣して巡行させ、悪徳な役人の徹底的な弾劾にも乗り出しており、領内の慰撫にも尽力しました。

 

 

前後して年号も延康に変更されましたが……この元号はまた年内には変更された不遇のもの。たまには思い出してあげてください

 

 

 

こうした領内慰撫や、その間に行った閲兵などの誇示もあり、曹操没後も領内が荒れる様子はほとんどありませんでした。

 

また、異民族の王らや当時臣従を申し出ていた孫権からも貢物を受け取るなど各国からも恐れられ、蜀軍で孤立していた孟達(モウタツ)が降伏してくるなど、父:曹操の遺した勢力、威名を損ねないようしっかりと後継ぎの任をこなしていったのです。

 

 

ただし孟達に関しては後にまた魏を裏切っており、そんな彼を曹丕が重宝したことから危険視する声も当時からありました。

 

これに対し曹丕は「毒を以て毒を制す」といった旨の発言をしており、どうにもわかった上での運用だったとか何とか……

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで曹丕による治世を見ていた献帝:劉協(リュウキョウ)は、曹丕ら魏からの圧力にも耐えかね、有名無実の形骸と化していた漢王朝にピリオドを打つことを決意。

 

禅譲の儀式を終えた曹丕は晴れて魏の初代皇帝となり、年号を黄初と変更。魏帝国の幕開けとなったのです。

 

 

この一連の動きは、表向きは献帝による望みという形で書かれており、曹丕は18回も禅譲を断ったとされています。

 

当時の国のトップは神にも等しい扱いを受けているのもあり、間違っても簒奪とすると傷がつくのは明白だったのです。

 

 

もっとも、皇帝からの一方的な禅譲としていてもこれほどの悪評が立つ辺り、当時の情勢の難しさが見て取れます……

 

 

 

禅譲により皇帝で亡くなった劉協はその後山陽(サンヨウ)公の地位を与えられ、その皇子らも王から列侯に降格。

 

 

 

高祖:劉邦からなる漢王朝は、こうして長い歴史を閉じることとなったのです。

 

 

 

が、その一方で蜀の劉備は魏帝国建立に反発して漢王朝の後継たる蜀帝を自称。さらには臣従していた孫権までも数年後に離反し、世は俗にいう三国時代に突入。大勢力がそろったことで完全な乱世は終わりを告げますが、まだまだ戦いの日々は終わる様子を見せませんでした。

 

 

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【曹丕伝1】魏帝爆誕【曹丕伝1】魏帝爆誕

続きを読む≫ 2018/10/04 13:17:04

 

 

 

 

 

 

詩や文章と言えば、三国志ファンのだいたいの人が曹植を連想するでしょう。

 

 

……が、実は曹植、才能があるからいろいろ書いていただけであんまり詩に関しては興味がなかったようで、「男はそんなことより槍働きだ!」と述べていた模様。

 

 

 

文学の才能に関しては、曹植が三国志でも随一と言えるかもしれません。が、文学を誰が一番愛していたかと言われると、曹丕こそがトップと言ってよいかもしれません。

 

 

 

 

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国政にも表れた文章愛!

 

 

 

曹丕の文章ラブは目を瞠るものがあり、皇帝という忙しい身分、それも短命であるにも関わらず、自身が制作した文章作品は実に100近くにも上ったとされています。

 

 

その文学への愛情から学問の奨励にも力を入れていたらしく、儒学の祖である孔子の廟を改修した上、その付近には廟の守護として100戸もの吏卒を置き、さらには学者を住まわせるために、外周に広々とした屋敷を作って学者を住まわせるようにしたこともありました。

 

 

 

世界最古と言われる文学の評論文なんかも手がけており、曹丕の文学100篇ほどをすべて合わせ、現代でも「典論」という名前で記述に残っています。

 

しかもそれだけには終わらず、儒学者を集めて経伝の編纂も行っており、この儒学者を使ってまとめた文章は1000を超えるとか何とか。

 

 

 

そんな曹丕の文学愛が極まった言葉が、こちら。

 

「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」

 

つまり、「文章は国を治めるための重大な事業であり、永久に朽ちることのない盛大な仕事である」という意味合いの一文ですね。これを、典論のうちの評論部分である「論文」で述べている辺り、もはや筋金入りの文章オタクと称してよいでしょうね。

 

 

 

 

 

 

七言詩の創始者

 

 

 

当時の詩は五言詩といって、文字通り五文字で一句として区切られる形態がメインでした。

 

 

が、七字一句の七言詩という異端例外の形態の詩が魏王朝のあたりからぽつぽつと作られるようになり、唐の時代まで進むとむしろ七言詩がメインになり替わるという革命が起きたのです。

 

 

では、この七言詩は誰が作ったものなのか……

 

 

それが、実は曹丕ではないかと巷では言われています。というのも、現在曹丕以前に七言詩の文体の詩は見つかっておらず、現状では彼の作った七言詩こそが最古のものであるとされているのです。

 

 

 

そんな曹丕の七言詩、名を「燕歌行(エンカコウ)」。

 

内容は、以下の通りとなっています。

 

 

秋風蕭瑟天気涼
草木搖落露為霜
羣燕辭帰雁南翔
念君客遊思断腸
慊慊思帰戀故郷
君何淹留寄他方
賤妾煢煢守空房
憂来思君不敢忘
不覚涙下霑衣裳
援琴鳴絃發清商
短歌微吟不能長
明月皎皎照我牀
星漢西流夜未央
牽牛織女遥相望
爾獨何辜限河梁

 

 

 

秋風蕭瑟として天気涼し

 

草木搖落して露霜となる

 

羣燕辭し帰りて雁南に翔る

 

君が客遊を念いて思ひ腸を断つ

 

慊慊として帰るを思ひ故郷を戀はん

 

何為れぞ淹留して佗方に寄る

 

妾煢々として空房を守り

 

憂ひ来りて君を思ひ敢へて忘れず

 

覚えず涙下りて衣裳を霑すを

 

琴を援き絃を鳴らして清商を發するも

 

短歌微吟長くする能わず

 

明月皎皎として我が牀を照らし

 

星漢西に流れ夜未だ央きず

 

牽牛織女遥かに相望む

 

爾独り何の辜ありて河梁に限らる

 

 

秋風が寂しく吹きわたり、すっかり冷え込んでまいりました。
草木は葉を落とし、露は霜へと変わっていっています。

 

ツバメの群れは南へ飛び立ち、雁は南からやって来たのに、
旅先のあなたが帰らぬのを思うと、まさに断腸の思いです。

 

心は満たされず、帰りたいと思って故郷を恋しく思っているのでしょう。
あなたは何故、帰ってこないのです?

 

あなたの留守を私は一人で守っていますが、
あなたの事を忘れることができず、
ひとりでに涙がこぼれ、衣服を濡らすばかりです。

 

琴を引き弦を鳴らし、澄んだ音を立てたりもしてみましたが、
それに合わせて歌えども長く続けることが出来ません。

 

 

月明かりが煌々と私の寝台を照らしつけ、
天の川が西へと流れていっているのに、まだ夜が明けることはありません。

 

彦星と織姫もとっくにお互い顔を合わせているのに、
あなたは何の罪があって、川に隔たれたままなのですか……

 

 

 

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要するに、長期の戦争、それも遠征に従軍した旦那を待つ妻の詩ですね。

 

 

 

さて、まじめなことを言いますと……こういったしんみりした詩の雰囲気から、曹丕の神経質さ、そして感傷的で奥深い性格という物が見えてくる気がします。

 

冷酷、非道、血の色は青……いろいろ言われる曹丕ですが、根の部分は案外、ナイーブで傷つきやすい、多感な青年のような部分を持ち合わせていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

最後に盛大にやらかそう

 

 

 

 

さて、このまましんみりで終わってもまあそれはそれでよいのですが……せっかくなので、典論の「自叙」から、ちょっと曹丕の調子に乗りやすい意外な一面をかいつまんで暴露して、このページを示させていただきましょうか。

 

 

 

以下、「自叙」より意訳、抽出

 

 

 

非道な悪党:董卓が天下を握り、それをよしとしない正義の群雄が立ち上がった時代があった。

 

董卓は群雄たちにやられて最終的に長安に逃げたが、今度は各地で戦乱や賊による横暴が問題になった時代が来た。

 

 

そんな時俺は5歳だったが、父上は弓を教えてくれた。俺は1年で極めた。

 

馬に乗ってる経験もあったもんで、8歳で流鏑馬ができるようになった。

 

 

まあ、この頃は忙しかったからね。俺も父上についてっていろんな戦を見てきた。

 

 

で、建安年代の初めのころ、張繍とかいうヤローが降伏したけどすぐに反旗を翻して、兄貴と従兄が死んだ。当時10歳余りだった俺は馬で逃げ切れたけど。

 

 

 

 

文武ってのは、それぞれに上手く対応して使い分けるもんなのよね。だから遠征の中で育った俺も、小さい頃から弓馬に慣れ親しんで、今も強さは変わらん。

 

鳥獣を追えば十里を走る。で、走りながら百歩先をぶち抜こうとするわけよ。

 

鍛えてたから毎日健康! 今でも割とヒャッハーできるぜ。

 

 

 

そーいや、父上が冀州を制圧した時だったか。異民族の奴らから弓と馬のいいやつが贈られてきたから、晩春で獣も肥えるでいい時期だったんで、兄貴分の曹真と、1日掛けで狩りをやったんよ。

 

その時大量!鹿が9頭、雉やらなんやらの鳥類が30羽くらい捕まってな。父上の幕僚の荀彧が俺に感心して「弓馬は難しいですな」とか言ってたから、俺はコツってのを教えてやったわけよ。

 

 

 

 

それと剣術ってあるじゃん? 俺、あれのいろんな流派の師匠から学んだけど、やっぱアレだね。都会最強。クソ田舎はダメだわ本当。

 

武芸に通じるとかいう将軍と飲みながら剣術について話したんだけど、言ってることがもう滅茶苦茶。話にならん。で、我慢ならなくなった俺が「俺も剣術は愛好してたよ」と言ってやったら、流れでそいつと立ち会うことになった。

 

なお、この時の俺の獲物は酔い覚ましにかじってたサトウキビ(笑)

 

勝負? 余裕よ。数合も打ち合わないうちに俺は肘に3回当てたからね、3回。

 

 

で、それが納得できないってんだから、リベンジマッチを申し込んできたわけよ。たぶん、この時の俺の剣が卑怯だって見えたんじゃねえかな?

 

「俺の剣は実践向きでね。面じゃ当てにくいから肘にしたんだわメンゴメンゴ」と付け足す俺。それでもあくまで将軍は「もう一度お手合わせ願う」っていうもんだから、挑戦に応じてやったんだ。

 

 

二度目の立ち合いの時、俺の勘がピンと働いた。「こいつは突きで仕留めてくる」ってね。

 

だから俺は、あえて深く進み出る……ように見せかけて誘いをかけた。で、まんまとかかった将軍は懇親を込めた突きを放ってくる。そいつを俺はサッとかわし、額に一撃。サッと切って軽く揉んでやったのだった。

 

 

周囲からの大☆喝☆采! 俺はクールに座に戻り、笑いかけてこう言ってやったのだ!

 

 

「昔、陽慶(ヨウケイ)という名医は、弟子の淳于意(ジュンウイ)に医学の秘術を授けるとき、彼が学んだことを全部捨てさせたのだと聞いている。俺も、将軍に同じことを望むぞ」

 

 

 

 

というかそもそもアレよね。自分から「優れてる」とか言っちゃダメだわ。

 

俺も若い頃は「俺TEEEE!!」なんてイキってた時期もあったけど、神業知ると「すげー」ってなっちゃうのね。袁敏(エンビン)とかいうやべー人についてあれこれ学んだんだけど、。変幻自在で相手の手の内がわからないとかマジ怖いわ。

 

路地でその人に斬りかかられたら俺なんて一瞬で殺される。

 

 

 

 

俺ってあんまり物事を楽しいとか思わないタチなんだけど……おはじき! あれは楽しいよね。

 

若いときは技術を徹底的に磨き上げて、あれの詩なんかも作って熱烈に歌い上げ……

 

都には先達のすげープロがいたらしいんだけど、ああいう人らと手合わせできなかったのがマジ惜しいわ。

 

 

 

 

父上はさ、詩だの文学だのを愛用してその書籍を戦場にまで持ち出すんだ。しかも、それだけじゃなく常々自分で反省し、こうおっしゃってたっけ。

 

 

「人間若い頃から学問を好み、専ら思慮にふけることが出来るのだが、歳を重ねるうちにその心を忘れてしまう。長じてから学問によく励むものは、ただ俺と袁遺しかいない」ってさ。

 

 

この言葉に共感した。だからこそ、俺は若い頃から詩経だの論語だのを読み漁り、成人してからも教養本の有名どころを根こそぎかっさらって、歴史本に関しても余さず目を通したってわけよ。

 

 

 

さすがにアレっぽさ面白さ重視のためにかなーり文章は端折って崩しましたが、だいたいこんな感じの事を書いてます。

 

何だかんだ曹操の子と言うか……多感で人間味あふれるからこその面倒くささがにじみ出ている自叙伝ですね。

 

 

ちなみに私は、これ見て脳内の曹丕像が自信もプライドもブレブレのイキリキャラで固定されました。

 

 

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【曹丕伝4】文学への飽くなき崇拝【曹丕伝4】文学への飽くなき崇拝

続きを読む≫ 2018/07/08 22:52:08
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