【曹丕伝4】文学への飽くなき崇拝


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【曹丕伝4】文学への飽くなき崇拝

 

 

 

 

 

 

詩や文章と言えば、三国志ファンのだいたいの人が曹植を連想するでしょう。

 

 

……が、実は曹植、才能があるからいろいろ書いていただけであんまり詩に関しては興味がなかったようで、「男はそんなことより槍働きだ!」と述べていた模様。

 

 

 

文学の才能に関しては、曹植が三国志でも随一と言えるかもしれません。が、文学を誰が一番愛していたかと言われると、曹丕こそがトップと言ってよいかもしれません。

 

 

 

 

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国政にも表れた文章愛!

 

 

 

曹丕の文章ラブは目を瞠るものがあり、皇帝という忙しい身分、それも短命であるにも関わらず、自身が制作した文章作品は実に100近くにも上ったとされています。

 

 

その文学への愛情から学問の奨励にも力を入れていたらしく、儒学の祖である孔子の廟を改修した上、その付近には廟の守護として100戸もの吏卒を置き、さらには学者を住まわせるために、外周に広々とした屋敷を作って学者を住まわせるようにしたこともありました。

 

 

 

世界最古と言われる文学の評論文なんかも手がけており、曹丕の文学100篇ほどをすべて合わせ、現代でも「典論」という名前で記述に残っています。

 

しかもそれだけには終わらず、儒学者を集めて経伝の編纂も行っており、この儒学者を使ってまとめた文章は1000を超えるとか何とか。

 

 

 

そんな曹丕の文学愛が極まった言葉が、こちら。

 

「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」

 

つまり、「文章は国を治めるための重大な事業であり、永久に朽ちることのない盛大な仕事である」という意味合いの一文ですね。これを、典論のうちの評論部分である「論文」で述べている辺り、もはや筋金入りの文章オタクと称してよいでしょうね。

 

 

 

 

 

 

七言詩の創始者

 

 

 

当時の詩は五言詩といって、文字通り五文字で一句として区切られる形態がメインでした。

 

 

が、七字一句の七言詩という異端例外の形態の詩が魏王朝のあたりからぽつぽつと作られるようになり、唐の時代まで進むとむしろ七言詩がメインになり替わるという革命が起きたのです。

 

 

では、この七言詩は誰が作ったものなのか……

 

 

それが、実は曹丕ではないかと巷では言われています。というのも、現在曹丕以前に七言詩の文体の詩は見つかっておらず、現状では彼の作った七言詩こそが最古のものであるとされているのです。

 

 

 

そんな曹丕の七言詩、名を「燕歌行(エンカコウ)」。

 

内容は、以下の通りとなっています。

 

 

秋風蕭瑟天気涼
草木搖落露為霜
羣燕辭帰雁南翔
念君客遊思断腸
慊慊思帰戀故郷
君何淹留寄他方
賤妾煢煢守空房
憂来思君不敢忘
不覚涙下霑衣裳
援琴鳴絃發清商
短歌微吟不能長
明月皎皎照我牀
星漢西流夜未央
牽牛織女遥相望
爾獨何辜限河梁

 

 

 

秋風蕭瑟として天気涼し

 

草木搖落して露霜となる

 

羣燕辭し帰りて雁南に翔る

 

君が客遊を念いて思ひ腸を断つ

 

慊慊として帰るを思ひ故郷を戀はん

 

何為れぞ淹留して佗方に寄る

 

妾煢々として空房を守り

 

憂ひ来りて君を思ひ敢へて忘れず

 

覚えず涙下りて衣裳を霑すを

 

琴を援き絃を鳴らして清商を發するも

 

短歌微吟長くする能わず

 

明月皎皎として我が牀を照らし

 

星漢西に流れ夜未だ央きず

 

牽牛織女遥かに相望む

 

爾独り何の辜ありて河梁に限らる

 

 

秋風が寂しく吹きわたり、すっかり冷え込んでまいりました。
草木は葉を落とし、露は霜へと変わっていっています。

 

ツバメの群れは南へ飛び立ち、雁は南からやって来たのに、
旅先のあなたが帰らぬのを思うと、まさに断腸の思いです。

 

心は満たされず、帰りたいと思って故郷を恋しく思っているのでしょう。
あなたは何故、帰ってこないのです?

 

あなたの留守を私は一人で守っていますが、
あなたの事を忘れることができず、
ひとりでに涙がこぼれ、衣服を濡らすばかりです。

 

琴を引き弦を鳴らし、澄んだ音を立てたりもしてみましたが、
それに合わせて歌えども長く続けることが出来ません。

 

 

月明かりが煌々と私の寝台を照らしつけ、
天の川が西へと流れていっているのに、まだ夜が明けることはありません。

 

彦星と織姫もとっくにお互い顔を合わせているのに、
あなたは何の罪があって、川に隔たれたままなのですか……

 

 

 

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要するに、長期の戦争、それも遠征に従軍した旦那を待つ妻の詩ですね。

 

 

 

さて、まじめなことを言いますと……こういったしんみりした詩の雰囲気から、曹丕の神経質さ、そして感傷的で奥深い性格という物が見えてくる気がします。

 

冷酷、非道、血の色は青……いろいろ言われる曹丕ですが、根の部分は案外、ナイーブで傷つきやすい、多感な青年のような部分を持ち合わせていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

最後に盛大にやらかそう

 

 

 

 

さて、このまましんみりで終わってもまあそれはそれでよいのですが……せっかくなので、典論の「自叙」から、ちょっと曹丕の調子に乗りやすい意外な一面をかいつまんで暴露して、このページを示させていただきましょうか。

 

 

 

以下、「自叙」より意訳、抽出

 

 

 

非道な悪党:董卓が天下を握り、それをよしとしない正義の群雄が立ち上がった時代があった。

 

董卓は群雄たちにやられて最終的に長安に逃げたが、今度は各地で戦乱や賊による横暴が問題になった時代が来た。

 

 

そんな時俺は5歳だったが、父上は弓を教えてくれた。俺は1年で極めた。

 

馬に乗ってる経験もあったもんで、8歳で流鏑馬ができるようになった。

 

 

まあ、この頃は忙しかったからね。俺も父上についてっていろんな戦を見てきた。

 

 

で、建安年代の初めのころ、張繍とかいうヤローが降伏したけどすぐに反旗を翻して、兄貴と従兄が死んだ。当時10歳余りだった俺は馬で逃げ切れたけど。

 

 

 

 

文武ってのは、それぞれに上手く対応して使い分けるもんなのよね。だから遠征の中で育った俺も、小さい頃から弓馬に慣れ親しんで、今も強さは変わらん。

 

鳥獣を追えば十里を走る。で、走りながら百歩先をぶち抜こうとするわけよ。

 

鍛えてたから毎日健康! 今でも割とヒャッハーできるぜ。

 

 

 

そーいや、父上が冀州を制圧した時だったか。異民族の奴らから弓と馬のいいやつが贈られてきたから、晩春で獣も肥えるでいい時期だったんで、兄貴分の曹真と、1日掛けで狩りをやったんよ。

 

その時大量!鹿が9頭、雉やらなんやらの鳥類が30羽くらい捕まってな。父上の幕僚の荀彧が俺に感心して「弓馬は難しいですな」とか言ってたから、俺はコツってのを教えてやったわけよ。

 

 

 

 

それと剣術ってあるじゃん? 俺、あれのいろんな流派の師匠から学んだけど、やっぱアレだね。都会最強。クソ田舎はダメだわ本当。

 

武芸に通じるとかいう将軍と飲みながら剣術について話したんだけど、言ってることがもう滅茶苦茶。話にならん。で、我慢ならなくなった俺が「俺も剣術は愛好してたよ」と言ってやったら、流れでそいつと立ち会うことになった。

 

なお、この時の俺の獲物は酔い覚ましにかじってたサトウキビ(笑)

 

勝負? 余裕よ。数合も打ち合わないうちに俺は肘に3回当てたからね、3回。

 

 

で、それが納得できないってんだから、リベンジマッチを申し込んできたわけよ。たぶん、この時の俺の剣が卑怯だって見えたんじゃねえかな?

 

「俺の剣は実践向きでね。面じゃ当てにくいから肘にしたんだわメンゴメンゴ」と付け足す俺。それでもあくまで将軍は「もう一度お手合わせ願う」っていうもんだから、挑戦に応じてやったんだ。

 

 

二度目の立ち合いの時、俺の勘がピンと働いた。「こいつは突きで仕留めてくる」ってね。

 

だから俺は、あえて深く進み出る……ように見せかけて誘いをかけた。で、まんまとかかった将軍は懇親を込めた突きを放ってくる。そいつを俺はサッとかわし、額に一撃。サッと切って軽く揉んでやったのだった。

 

 

周囲からの大☆喝☆采! 俺はクールに座に戻り、笑いかけてこう言ってやったのだ!

 

 

「昔、陽慶(ヨウケイ)という名医は、弟子の淳于意(ジュンウイ)に医学の秘術を授けるとき、彼が学んだことを全部捨てさせたのだと聞いている。俺も、将軍に同じことを望むぞ」

 

 

 

 

というかそもそもアレよね。自分から「優れてる」とか言っちゃダメだわ。

 

俺も若い頃は「俺TEEEE!!」なんてイキってた時期もあったけど、神業知ると「すげー」ってなっちゃうのね。袁敏(エンビン)とかいうやべー人についてあれこれ学んだんだけど、。変幻自在で相手の手の内がわからないとかマジ怖いわ。

 

路地でその人に斬りかかられたら俺なんて一瞬で殺される。

 

 

 

 

俺ってあんまり物事を楽しいとか思わないタチなんだけど……おはじき! あれは楽しいよね。

 

若いときは技術を徹底的に磨き上げて、あれの詩なんかも作って熱烈に歌い上げ……

 

都には先達のすげープロがいたらしいんだけど、ああいう人らと手合わせできなかったのがマジ惜しいわ。

 

 

 

 

父上はさ、詩だの文学だのを愛用してその書籍を戦場にまで持ち出すんだ。しかも、それだけじゃなく常々自分で反省し、こうおっしゃってたっけ。

 

 

「人間若い頃から学問を好み、専ら思慮にふけることが出来るのだが、歳を重ねるうちにその心を忘れてしまう。長じてから学問によく励むものは、ただ俺と袁遺しかいない」ってさ。

 

 

この言葉に共感した。だからこそ、俺は若い頃から詩経だの論語だのを読み漁り、成人してからも教養本の有名どころを根こそぎかっさらって、歴史本に関しても余さず目を通したってわけよ。

 

 

 

さすがにアレっぽさ面白さ重視のためにかなーり文章は端折って崩しましたが、だいたいこんな感じの事を書いてます。

 

何だかんだ曹操の子と言うか……多感で人間味あふれるからこその面倒くささがにじみ出ている自叙伝ですね。

 

 

ちなみに私は、これ見て脳内の曹丕像が自信もプライドもブレブレのイキリキャラで固定されました。

 

 

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