【曹丕伝1】魏帝爆誕


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【曹丕伝1】魏帝爆誕

 

 

 

 

曹操の息子

 

 

曹丕は曹操の子として生を受けましたが、元来は側室の子。相応の地位こそ約束されていましたが、曹操の覇業が順当に行けば、本来後継者の立場につく人物ではありませんでした。

 

 

そんな曹丕の運命が変わったのは、建安2年(197)、一度曹操に降った張繍(チョウシュウ)が、曹操の正室の子であり兄でもある曹昂(ソウコウ)を討ち取ってしまった時。

 

 

この時に曹操は自分の嫡子を失っただけでなく、それに起こった正室からも絶縁を宣言されてしまい、さらには曹昂の弟も早くに病死。

 

こういった曹操にとっての不幸が立て続いた結果、曹丕の母親に当たる人物が、彼女に代わって曹操の新しい正室になったのです。

 

 

さて、この曹丕、『魏書』によれば幼いころからかなりの神童だったようで、8歳にしてすでに文章力抜群。さらに剣術や馬術といった個人武勇にも優れていたため、11歳の時にはすでに曹操と共に戦場へと赴いています。

 

 

なんか生まれから吉兆として超常現象が発生していた等という昔の偉人の過去にありがちなテンプレ設定も述べられたりもしていますが、その辺りは割愛。

 

 

『張繍伝』には、兄を殺した張繍をいびり倒して自殺に追い込んだとされますが、真偽は不明。まあ、それくらいやりかねないと見られていた証拠の一つなのでしょう。

 

また、『魏略』では占いの結果、「40歳の時に苦難があり、それを過ぎれば80まで生きられる」という意味深な結果を引き当てられ、占い通りに40歳で苦難に見舞われ、克服できずに亡くなった……などというものも。

 

 

なお、武術に関しては両手に武器を持つと強かったらしく、この辺は「三國無双」シリーズでの武器が双剣であることで再現されていたりも。

 

 

 

建安16年(211)には、曹丕は五官中郎将(ゴカンチュウロウショウ)として宮廷内の禁軍、各官の掌握や曹操の補助役に励み、ここで実質的に後継者としての立場が決定しているようにも見えます。

 

 

……が、これに納得していない名士層が弟の曹植(ソウショク)を担ぎ上げて曹操の後継者を主張。お互いの兄弟仲は悪かった様子はないのですが、双方の側近たちの間で激しい跡目争いが発生してしまったのです。

 

 

その跡目争いの期間、実に6年間。建安22年(217)に、正式に太子に任命されるまでの間、双方の側近衆がしのぎを削り合ったのです。

 

 

演義はじめ多くの三国志作品では曹丕と曹植のギスギスの争いが描かれていますが、曹植は原則として跡目から一歩引く姿勢を見せることが多く、「冷遇迫害された」とある割に曹丕も曹植を割といい立場(さすがに実権皆無だけども)に置いている辺り、二人の兄弟仲はよかったという説が最近では有力だったり。

 

 

 

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太子曹丕、魏帝へ

 

 

 

 

 

ともあれ、曹操が崩御すると曹丕はそのまま魏王の地位に上がり、2月になるとさっそく役職を自らの意に沿って任命。

 

重役として名前が挙がっているのは太尉(タイイ:軍事長官)となった賈詡(カク)、相国(ショウコク:内閣総理大臣。他にも丞相の呼び名も)には華歆(カキン)、そして御史大夫(ギョシダイフ:副大臣)には王朗(オウロウ)といった面々。

 

他にも二代目という事もあって父の代からの功臣にも報いる必要があったようで、父の親友であった夏侯惇(カコウトン)を将軍の最高位である大将軍に任命しています。

 

 

また、前王朝の漢が滅んだ遠因となっている宦官の一定以上の出世を禁止するなど、内部の強化に尽力。自身の苦い経験を活かして嫡子の曹叡(ソウエイ)を早めに侯の爵位をあてがうなどの跡目争い対策にも余念のない動きを見せています。

 

 

他にも「民のためにあるものに重税と厳しい禁令が課せられているのはどうなのか」として、渡し場や関所の通過税や理不尽と感じた禁令の撤廃に着手。同時に使者を各地に派遣して巡行させ、悪徳な役人の徹底的な弾劾にも乗り出しており、領内の慰撫にも尽力しました。

 

 

前後して年号も延康に変更されましたが……この元号はまた年内には変更された不遇のもの。たまには思い出してあげてください

 

 

 

こうした領内慰撫や、その間に行った閲兵などの誇示もあり、曹操没後も領内が荒れる様子はほとんどありませんでした。

 

また、異民族の王らや当時臣従を申し出ていた孫権からも貢物を受け取るなど各国からも恐れられ、蜀軍で孤立していた孟達(モウタツ)が降伏してくるなど、父:曹操の遺した勢力、威名を損ねないようしっかりと後継ぎの任をこなしていったのです。

 

 

ただし孟達に関しては後にまた魏を裏切っており、そんな彼を曹丕が重宝したことから危険視する声も当時からありました。

 

これに対し曹丕は「毒を以て毒を制す」といった旨の発言をしており、どうにもわかった上での運用だったとか何とか……

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで曹丕による治世を見ていた献帝:劉協(リュウキョウ)は、曹丕ら魏からの圧力にも耐えかね、有名無実の形骸と化していた漢王朝にピリオドを打つことを決意。

 

禅譲の儀式を終えた曹丕は晴れて魏の初代皇帝となり、年号を黄初と変更。魏帝国の幕開けとなったのです。

 

 

この一連の動きは、表向きは献帝による望みという形で書かれており、曹丕は18回も禅譲を断ったとされています。

 

当時の国のトップは神にも等しい扱いを受けているのもあり、間違っても簒奪とすると傷がつくのは明白だったのです。

 

 

もっとも、皇帝からの一方的な禅譲としていてもこれほどの悪評が立つ辺り、当時の情勢の難しさが見て取れます……

 

 

 

禅譲により皇帝で亡くなった劉協はその後山陽(サンヨウ)公の地位を与えられ、その皇子らも王から列侯に降格。

 

 

 

高祖:劉邦からなる漢王朝は、こうして長い歴史を閉じることとなったのです。

 

 

 

が、その一方で蜀の劉備は魏帝国建立に反発して漢王朝の後継たる蜀帝を自称。さらには臣従していた孫権までも数年後に離反し、世は俗にいう三国時代に突入。大勢力がそろったことで完全な乱世は終わりを告げますが、まだまだ戦いの日々は終わる様子を見せませんでした。

 

 

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