曹叡 元仲


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曹叡 元仲

 

 

生没年:建安9年(204)?~景初3年(239)

 

所属:魏

 

生まれ:豫洲沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

 

統率 B 戦場に立ったという話はないが、ピンチの合肥新城への増援には自ら赴こうとしている。というか軍事的資質はかなり高そう
武力 D 武勇に関しては不明。
知力 父親の遺伝子をどこに捨ててきたのか、戦局を読み切る才覚は達人級。ここだけは曹操に似たらしい。名より実を取るタイプというのがどうにも曹操の家系らしい。
政治 A- 数々の土木建築を是と見るか否と見るかで評価は大きく変わりそう。少なくとも国庫をスカスカにした件は擁護できないが、農民保護政策の可能性もある以上低くはできない。
人望 曹魏二代目にして最後の名君とも呼ばれ、賛否両論ながら私は普通に名君であると思いたい。諫言は素直に聞く、実質の伴わない名声を嫌うなどといった性格から、実際にかなり慕われていた様子。

 

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曹叡(ソウエイ)、字は元仲(ゲンチュウ)。魏帝国の2代目皇帝で、ちょうど諸葛亮(ショカツリョウ)の北伐時に魏の皇帝を遣っていた人ですね。

 

また、中学や高校の歴史の勉強の時に、邪馬台国の卑弥呼が中国に使者を派遣して金印を受け取ったという話がありましたが、ちょうどその時の皇帝がこの人です。

 

 

事実上、魏に君臨した最後の「まともな」皇帝ですね。この後は皇族と司馬懿(シバイ)らによる政争や内部の反乱によって国は崩れていき、最終的に晋になり替わってしまうわけですが……

 

そんな事実があってか、この曹叡、どうにも暗愚に書かれがちです。というのも、三国志が編纂されたのは魏にとってかわった晋の時代。晋の皇族である司馬氏にとって「優秀な皇帝が並んだ魏から帝位を譲らせました」では晋という国自体の信頼性と正当性に関わるわけで、どうしてもあえて悪評で貶める対象を作る必要があったのでは……というのが私の考えです。

 

 

 

まあ、個人的推察はどうでもいいとして……まずは本伝:明帝紀の記述を追っていきましょう。

 

 


 

 

 

 

時代の移り変わり

 

 

 

諸葛亮の死により蜀の北伐が頓挫する少し前、漢帝国最後の皇帝であった劉協(リュウキョウ)が死去。曹叡はこの時、自ら白い喪服を着用して彼の死を悼み、喪に服したと伝えられています。

 

 

奇しくも、献帝と諸葛亮が死亡したことにより、時代はまた一歩進んだことを知らしめることとなりました。

 

その後蜀内の混乱によって北伐は一時取りやめられ、呉も単独で魏との戦いを続けるのは不可能と判断して領内に撤退。こうして、魏領内には一時の平穏が訪れ、以後曹叡は、軍事でなく内政手腕を主に見られるようになってきます。

 

 

 

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善政か悪政か

 

 

 

ここで、曹叡の内政において、彼の死までに行われた大まかな物を、箇条書きでまとめてみましょう。

 

 

 

・「鞭打ちは不真面目な官吏への戒めであって死刑宣告ではない」とし、無実の罪を着せられて鞭打ちで死ぬ者も出ていたのを憂いて政令を緩和(五丈原の戦い勃発時)

 

・家臣の諫言を聞かず、複数回宮殿を建造、改築

 

・崇文観(スウブンカン)なるものを設置し、文才に秀でた者を招集し任用

 

・周辺での獄死者の数が多かったため、死刑制度を緩和

 

・複数回大赦を行う

 

・領内の合併、名称変更

 

・卑弥呼から送られた使者に金印と銅銭を授ける

 

 

 

 

とまあ、ざっと流せばこんなところでしょうか。

 

ここで特に注目されているのは、太字にしている部分ですね。宮殿の増築や改築。

 

 

本伝には「このせいで魏の財政が傾いた。民も農業の時期を奪われた」と散々な言われようで、世の歴史家にも「暗君の証だ!」と槍玉に掲げられることが多い政策ですね。

 

 

しかし、これには「行き場をなくした民が職にあぶれることがないため」、そして「自身の権威を世に知らしめるため」という見方もあります。

 

また、注目すべきは、意外にも懲罰を緩めるなど善政ともいえる政策も多い点。他にも、曹叡伝その1にも書いた、「身寄りのない人物への扶持米大盤振る舞い」等、どちらかというと無実の罪人や社会的弱者に目を向けたものが多いという点。

 

 

実は当時の社会、民というとそこそこの力を持った名士や地主などを指す言葉で、その他大勢の人には人権がないと言っても良い時代でした。

 

曹叡は、言ってしまえばこの時代における“民”の声を無視し、民ともいえないゴミ同然の輩に仕事を与え、小作農以外の事をさせた……という見方もできます。

 

こう見ると、どことなく改革者としての側面が見えてきませんか?

 

 

 

ちなみに『魏略』では、宮殿増設の仔細と同時に、とんでもないことをやらかしたという記述が載っています。

 

それが、以下の政策。

 

 

・兵士の娘が無関係の職の者に嫁いだ場合は、無理やり召し上げて兵士と再婚させる

 

・美人は後宮に入れる

 

・兵士の娘の身代わりに奴隷の女でも可とする

 

 

このトンデモ政策のせいで人身売買が盛んにおこなわれたとか何とか。

 

 

また、近年では宮殿だけでなくインフラ設備も同時に行ったらしいという話もあり、実は本当に「農民の収入を考えた政策」だったとする声も……

 

まあ魏略は基本魏に対してはマイナスイメージで書かれていますので……

 

 

 

 

 

人事において:画餅はお嫌い?

 

 

 

さて、続けて人事の方も見ていきましょう。

 

実はこの人、「絵に描いた餅」の語源にもなったとも伝えられています。

 

 

というのも、当時人々にもてはやされていた四聡八達なるグループが互いを格付けし合い、勝手な批評で表面上の名声を総なめしていましたが、曹叡はこれを嫌悪。

 

こういったステマグループを指して「画餅」と呼び、「名声ばかりでその実役に立たない」と断じて罷免し、ここで排除された人物の多くは曹叡死後まで見向きもされなかったとか。

 

 

こんな感じで「実」を求めるスタイルを貫いた曹叡ですが、信頼した家臣に対しては比較的寛容だった模様。

 

言ってしまえば「常識外れ」な政策には多くの家臣が口を辛くして諫言しましたが、曹叡はこれを聞く耳持たずという様子だったとはいえ、結局罰することなく、たとえ諫言を自分が無視したとしても特にお咎めはしなかったそうな。

 

 

独裁志向の強い曹叡ですが、こういった広い度量は持ち合わせており、ここに関しては高い評価を得ています。

 

 

 

 

 

軍事方面は相変わらず

 

 

 

さて、周辺勢力が沈静化したとはいえ、まだまだ魏とは完全な敵対勢力なのは変わらず。曹叡は蜀の北伐を退けた後も呉の侵攻、そして北方民族の不穏な動きがありました。

 

これに対しても、曹叡はしっかりと対応できる将を派遣し撃退、あるいは遠征を成功に導いています。

 

 

 

また、景初2年(238)に怪しい動きを見せていた公孫淵が裏切って「燕」の国を興し独立すると、曹叡は周囲の反対を押し切って討伐を決定。

 

司馬懿を起用し、この戦いを一任。この抜擢は大成功であり、司馬懿は電光石火の勢いで公孫淵を駆逐し、燕と同盟していた呉からの援軍が到着してしまう前に決着をつけることに成功したのです。

 

これにより、魏は呉蜀との戦いにおける一応の後顧の憂いを断つことに成功しました。

 

 

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早すぎる死

 

 

 

曹叡の死は、公孫淵討伐や邪馬台国とのやり取りの翌日である景初3年(239)。享年36と言われており、あまりにも早すぎる死は魏という国を根本から揺るがしてしまったと言われています。

 

実際、彼の死後曹魏は一気に勢いを無くし、正始10年(249)の「正始の変」を皮切りに、司馬一族によって魏を乗っ取られていく形になります。

 

 

結果、独裁や革新のために財政を傾けるだけで打開策を打ち出す前に亡くなった曹叡は「贅沢のために民を苦しめた悪政者」として描かれるようになり、「寛容で自然の成り行きに任せた体制」を掲げた司馬一族の簒奪を正当化する材料になってしまったのです。

 

 

 

人物評

 

 

三国志を手掛けた陳寿は、彼をこう評しています。

 

沈着剛毅で決断力と見識を併せ持ち、心意気をもって行動し、君主として非常に優れた気概を持っていた。

 

しかし人々が疲弊している中で権力の象徴である宮殿を造営してしまった点は、将来への考慮を考えれば大きな失敗だった。

 

 

また、ほぼ同時代に歴史を記した孫盛も、彼に対して以下のような評を残しています。

 

 

天性容姿に優れ、立つと髪は地面に触れ、口数は少なく、剛毅で決断力があった。政治は自ら執り行うことが多かったが、大臣を厚遇して善意ある直言を聞き入れ、厳しい諫言を受けてもその者を殺すことはなかった。主君としては非常に立派な器量の持ち主であったのだ。

 

しかし反面、徳行によって人々を教化せず、皇族を厚遇して足元を固めることもせず、国家の大権を一部重臣に偏らせることで皇族の守りを崩してしまった。なんと悲しい事か。

 

 

 

いずれにせよ、君主としての器はあるが政治力にいささかの難あり、といった評価ですね。

 

本当、父親ともども早死にしたのがあまりに痛すぎる。独裁体制を目指して動いていながら、一番肝心な地固めをきちんと行う事が出来ず、最も危険な時に死んでしまったわけです。

 

 

曹丕も曹叡も完全に非凡な英雄といったポジションにいるような人ですが、そんな彼らが地固めもできてないうちに亡くなったせいで、せっかくの国が滅ぶ羽目になったのは、何とも皮肉なものです……。

 

 

 

 

結局誰の子?

 

 

 

さて、曹叡についてもう一つ疑問があるのですが……この人、結局誰の子?

 

 

実は彼の生母である甄氏は、元々は袁紹(エンショウ)の次男である袁煕(エンキ)の妻。それを曹丕がかっさらって略奪婚したわけで、ハッキリ言ってしまうと、この時に袁煕のこを授かっていても不思議はないわけです。

 

 

というわけで、まず曹丕が袁煕から甄氏を略奪した時を見てみますと、「曹操が冀州を平定した時」。つまり、建安10年……西暦でいえば205年になります。

 

そして曹叡が亡くなった年が西暦でいえば239年。享年は36歳。つまり数え年で言うと204年生まれ説……あれ?

 

 

 

本伝の記述を考えると曹丕が甄氏を娶る前に曹叡は生まれていたという事になり、どう考えてもおかしいです。

 

当時、曹操は袁家とは戦争状態。我が子が美女を連れてきて「娶りたい」と言っても、その連れ子には敵方の血が流れているわけです。普通は殺すか、それが忍びなくてもよそに養子にやるはず……

 

 

 

ちなみにですが、曹叡の出生を206年とし、曹丕の略奪婚を冀州平定の一年前である204年とする話もあります。そして204年と言えば、曹操が冀州の大都市である鄴を制圧した年であり、これまたなかなか説得力がある。

 

 

 

……とまあこんな感じで、この話はなかなか複雑な様子。できれば、他記事でもっと明確に書いていきたい複雑な話ですね。

 

 

 

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【曹叡伝2】名君? 暗君?【曹叡伝2】名君? 暗君?

続きを読む≫ 2018/10/04 13:48:04

 

 

 

2代目魏皇帝

 

 

 

曹叡は生まれて以来、祖父である曹操に可愛がられて彼のそばで育ったと言われています。彼が十代半ばのころに曹操は亡くなっていますから……もしかしたら、こういう幼いころから曹操から軍事のノウハウを受け継いで、その分野での才能が開花したのかもしれませんね。

 

 

さて、そんな曹叡は延康元年(220)に父・曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと武徳侯(ブトクコウ)、その翌年には皇族として斉公(セイコウ)、さらに平原王(ヘイゲンオウ)と高い爵位を授けられ、曹丕の跡取りとして一目置かれる存在でした。

 

 

しかし、母の甄氏(シンシ)は父の曹丕と不仲であり、最終的に甄氏は曹丕によって誅殺されるという事件すら発生。曹丕にしてみればその子である曹叡にも思うところがあったらしく、しばらく皇太子としての地位を得られなかったと言われています。

 

 

 

しかし黄初7年(226)、曹丕が病を得て重体となると、ようやく曹叡は皇太子に任命され、曹丕が崩御するとそのまま帝位に即位、即位後に大々的な大赦を行いました。

 

この大赦では自らの生母でありながら冷遇の末亡くなった甄氏に向けて文昭皇后(ブントクコウゴウ)の諡号を与えると同時に、曹丕によって皇后とされた郭氏(カクシ)を皇太后と認め呼称。

 

異母弟の曹蕤(ソウズイ)に王位を与えたほか、家臣団にもしっかりと格差をつけて爵位を与えたのです。

 

 

 

『魏末伝』では、曹丕が曹叡を認めるまでのいきさつが書かれています。

 

一緒に狩りに出かけた時、曹丕は鹿の親子を発見。すかさず母親の鹿を射抜き、曹叡には子を射抜くよう言いますが、曹叡はこれを拒否。

 

「母親の命を奪われた小鹿の命を追い打ちで奪うなど、私にはできません」

 

そう言って泣き崩れる我が子を見て、曹丕は曹叡の器を評価。皇太子に立てることを決めたのだとか。

 

 

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優れた慧眼

 

 

 

さて、国のトップの突然の死、そして突如としての世代交代。これらの流れの中で、少なからず国内では混乱が起こります。

 

そんな混乱の隙を突こうと、鳴りを潜めていた東呉の孫権(ソンケン)による魏領侵攻が本格化。手始めに、文聘(ブンペイ)の守る江夏(コウカ)の地に攻めかかってきたのです。

 

 

早速朝廷では対応策の会議が開かれますが、曹叡は至って冷静。本来は水軍の戦闘力に定評のある孫権軍が陸地からの侵攻を行っていることを指摘し、「不意を突いて攻めてきたつもりなのだろう」と予想。

 

さらに文聘がすでに持久戦の形成にもっていっていることから、曹叡は早期に撤退することを予測しました。

 

そして国境地帯の慰撫を目的として援軍を送り込み、この予測通り本当に孫権を退けてしまったのです。

 

 

また、孫権軍の別動隊が他のルートを辿って複数個所を攻撃しましたが、これも曹休(ソウキュウ)と司馬懿を派遣して撃退。特に司馬懿が受け持った戦線では敵将を一人討ち取る大勝利に終わったとか。

 

 

 

その後も父の代に寝返ってきた孟達(モウタツ)の蜀への寝返り疑惑事件を司馬懿に一任し、結果として司馬懿が完璧に近い形で解決するなど、軍事慧眼はかなりのものであったと思われます。

 

 

また結果の良し悪しは見方次第ですが、先祖代々の霊廟を建てたりお供え用の作物を作る籍田(セキデン)を耕したり、他にも董卓(トウタク)によって握り潰されて以来の貨幣である五銖銭(ゴシュセン)を正式に発行を再開。

 

毛氏(モウシ)を皇后に立てて一族を列侯に置き、子のいない老人や寡婦、孤児など自立の難しい者に扶持米を下賜するなど、内政にもなかなかに力を入れている様子が記述からわかります。

 

 

また、後の太和3年(229)には曹操の祖父である曹騰(ソウトウ)の代まで遡り尊号を送ることに。そして以下父の曹丕までの位牌を霊廟のある鄴(ギョウ)まで迎えにやり、そのまま新規完成した洛陽の霊廟に移して安置して奉ることに。ここまででも先祖関係の政治活動や公務の記述がいくつかある点を見るに、かなり先祖への敬意を深く持っていたのかもしれませんね。

 

 

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北伐でのアレコレ

 

 

 

さて、先述した孟達の裏切り事件は蜀が手引きしていた事であり、その少し後から諸葛亮による北伐、それに呼応した孫権による魏領侵攻は本格化します。

 

まず、諸葛亮が西涼の民衆を扇動し、安定(アンテイ)、天水(テンスイ)、南安(ナンアン)の地を占拠。彼らによる魏侵攻の足掛かりを与えてしまいました。

 

 

この状況に対し、曹叡は大将軍の曹真(ソウシン)を起用。大部隊を統率させ、一斉に蜀軍撃退に進発したのです。

 

そして、その途上で要衝である街亭(ガイテイ)に陣取る敵軍を大破。この勝利が決め手になり、諸葛亮は敗走して失った3郡も奪還。第一次北伐を退けることに成功したのです。

 

 

 

しかし、一方の孫権との戦いでは、曹休が敵軍の周到な罠に引っかかった挙句大敗し、責任を感じてかまもなく死去した他、天災である干ばつにも見舞われる等、必ずしも思った通りに事が運んでいたわけではない様子が伺えます。

 

 

そんな中、曹叡は人材の充足に努め、儒教を根本とした官吏任用の他、「重臣らは各々優れた大将を一人ずつ推挙するように」と勅使を出すなどしています。

 

 

 

そんな中再び諸葛亮が陳倉(チンソウ)の地を攻撃してきましたが、こちらは曹真の読み通りであり、援軍を派遣してあっさり撃破。

 

 

また、この辺りから北方の国境沿いでも、遼東(リョウトウ)太守の公孫恭(コウソンキョウ)が弟の公孫淵(コウソンエン)に地位を奪われる等問題が発生。曹叡は公孫淵を新たに遼東太守に置くことで一応の問題終息を得ますが、後々またしても公孫淵に事業を邪魔されるように……。

 

 

 

 

太和4年(230)に曹真主導のもと蜀への反攻計画が実行されましたが、長雨によって道の崩落などが相次いで撤退を余儀なくされていました。

 

さらに追い打ちをかけるように、翌年の太和5年(231)には曹真が死去。これを機と見てか、ふたたび諸葛亮が魏領へと進行してきたのです。

 

 

曹叡は、曹真の後を継いで大将軍となった司馬懿に総大将の任務を授け、諸葛亮撃退の任務を言い渡しました。

 

この時、司馬懿は全軍統括に不慣れだったのか大いに苦戦しますが、辛くもこれを撃退。勝利はしましたが、局地戦では黒星が目立つほか名将の張郃(チョウコウ)を失うなど、かなりの痛手となったようです。

 

 

 

そして後の青龍2年(234)に行われた五丈原の戦いでは、司馬懿に対し「諸葛亮とは正面切って戦わず、持久戦を展開するように」と申し伝えることにしました。

 

司馬懿はこの通りに不動の防備体制で諸葛亮を迎え撃ち、ついに彼が過労死して蜀軍が撤退するまでさしたる犠牲も無く耐え抜いたとされています。

 

 

 

また、同時に攻めてきた呉の孫権に対しても、主将の満寵(マンチョウ)に「私自らが出向く。合肥(ガッピ)で防備を固めるように」と伝え、自ら出陣。実は「自分が着くころには孫権は撤退しているだろう」という予測を立てていましたが、まさにその通りになったとか。

 

 

なお、話は少し戻りますが……青龍元年(233)に北方で起きた異民族の反乱においても、現地の将からの上奏文を見ただけで「無理矢理誘われて反乱に参加した奴がいる」と見抜き、刺激せぬようにと戒めたところ、まさに懸念の通りになったという記述もあります。やはり曹操譲りの戦術眼。曹丕とはまるで違う。

 

 

 

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【曹叡伝1】中央にいるのに軍事能力ヤバい人【曹叡伝1】中央にいるのに軍事能力ヤバい人

続きを読む≫ 2018/10/04 13:47:04
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