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満寵 伯寧

 

 

生没年:?~正始3年(242)

 

所属:魏

 

生まれ:兗州山陽郡昌邑県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 S- 魏軍驚異のディフェンス能力。人望厚く兵もうまくまとめており、攻め寄せる呉軍をプチプチ潰しまくって恐れさせた。
武力 C 武勇に関する話は聞かないが、呉軍撃退の中で寡兵で戦う無茶もした。
知力 A+ 知者・王凌すら噛ませになるレベルの知将。合肥新城を築いて呉軍の得意を潰し、完全に抑え込んでしまった。
政治 B+ 任地移動の時には、兵も民も勝手についてきて大問題になった。それだけ統治に優れていたのだろう。
人望 人望の厚さは上記の通り。王凌派閥意外との争いに関してもほとんど聞かず、王凌派に関しても人格よりも「耄碌した」と歳を理由に讒言された。

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満寵(マンチョウ)、字を伯寧(ハクネイ)。魏ではどういうわけか、たびたび呉蜀の侵攻軍を片っ端から叩き潰すトンデモなエースが排出されるわけですが……彼もその中で呉相手のエキスパートの一人ですね。

 

その実力と実績の割に存在感が薄めで、ライトな三国志ファンには「何この卑猥な名前」と存在を認知されなかったひたすら憐れな過去があると聞いたことがありますが……無双にも出てきましたし、現代ではそこそこ以上に有名になったのではないでしょうか。

 

 

というか、無双ではモブ時代でもハッスルしてますね。風雲満寵城……。

 

さて、今回はそんな満寵の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

政治をやらせればなあなあにしてしまう可能性はまず0で、軍事をやらせれば1流のディフェンス能力で敵軍をはじき返す。満寵の活躍はまさにハイバランサーといえるそれで、隙らしい大きな隙は見当たりません。

 

さて、そんな満寵を、陳寿は以下のように評価しています。

 

 

意志を貫くこと強固で、勇気がある上に策謀があった。

 

 

前者は若い日の上司にも容赦ない公平な政治スタンス、後者は孫権をフルボッコにした合肥での攻防の数々を象徴するものになってます。

 

軍事における孫権の策略をことごとく潰す姿は、まさに張遼とは違った恐怖を彼に植え付けたことでしょう。

 

 

一方の政治に関しても、その公正なスタイルは主に下々の兵卒や平民からウケた模様。満寵が揚州の軍事都督として汝南を離れる際にも幼子から老人まで多くの民衆が満寵について行くと言い張って聞かず、それを見ていた監視役が言い出しっぺの中心人物を殺してしまおうかと検討したほどだとか。

 

結局この一件では勅使が出され、特に距離の近かった近親兵千人だけが随行を赦されて決着しましたが……民衆が規則をかなぐり捨てようとするほど、満寵は慕われていたようですね。

 

 

 

また、合わせて9千6百戸とも言われる広大な領地(五大将の一人である張郃も4千6百ほど)を与えられましたが、満寵自身は別段宝や蓄財に興味がなかったために、家には余計な財産は余っていなかったとされています。

 

 

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重箱の隅をつついてみる

 

 

 

さて、そんな欠点らしい欠点のない良将である満寵ですが……「わー完璧すごーい」で終わらせるのも面白くないので、あえて重箱の隅をつついてみましょう。

 

満寵伝を見ると、彼の公平な政治スタンスは非常に素晴らしい、評価されるべきものであることは間違いありません。

 

 

しかし、満寵個人の処世という意味合いでの話になってくると……少々危ないかもと思える部分もあります。

 

それを示す主な要因は、以下の逸話から読み取れます。

 

 

・楊彪への仕打ち

 

・王凌との確執

 

 

 

まず、楊彪への仕打ちから。これは、少なくとも当時の名士層を敵に回す行為か、それに近しいものがあるかもしれません。楊彪はドマイナーな「誰それ?」系の人物ですが、当時は高官を渡り歩いた、まさに名士中の名士。

 

 

裴松之が憤慨した辺りからわかる通り、名士とは例えるなら神様です。人が神様に対し「間違っているから」と罰を与えると、その神を信仰する面々からの非難はほぼ確実。

 

当時の人々……少なくとも裴松之の時代では理不尽に悪く言われる要因の一つとして小さくないと言えるでしょう。

 

 

そして、王凌との確執は、王凌の勝手な行動による無駄な損害、そして逆恨みした王凌派閥による不当な讒言という小さいながらも確かな災いを招いています。

 

無論、王凌側が明らかに悪いのは確かですが……もともとは満寵と王凌の対立が招いたことでもあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

とまあ、以上の通り重箱の隅を穴が開くくらいつっつきまわしたところで総評を言うなら……媚びない人物

 

無論、媚びずに正義を貫く姿勢は間違いなく評価されるべき、立派な人格者の資質でしょう。が、実際に立派であるかどうかとその場の人がなす評価も別。

 

 

率直に言ってしまえば、ゴミみたいな超小物から見た清廉潔白なハイパー人格者は、やはり見るべき場所も無いゴミ、と。

 

実際に郡の太守である張苞や曹操軍の重鎮にいる曹洪など人格的にアレな人たちの恨みを買っており、人物的な綺麗さの反面、汚い奴らとあえて仲良くする処世術は持ち合わせていなかった(というか興味なかった?)のではないでしょうか。

 

 

なまじ綺麗で完璧すぎる人物ゆえ、心の穢れきった人物や同じ人格者でも満寵に及ばないというコンプレックスを持った人物により、不必要に敵視される……。これが、満寵のほぼ唯一と言える弱点だったのかもしれませんね。

 

 

『孫資別伝』でもやはり謂れのない讒言を受けたという記述があり、この時には孫資(ソンシ)が褒め称える事でかばってやったとあります。やはり心の腐った奴ほど敵に回しやすいか、満寵……!

 

 

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ウワバミ満寵?

 

 

 

満寵の意外な一面として創作や史書に出るのは、お酒の話。出所は不明ですが……大酒飲みで、しかも酔っぱらわないというハイパー酒豪属性を持ち合わせることもしばしばあります。

 

 

『世語』においては、満寵の大酒飲みという特性を利用して、王凌の一派により讒言が行われた旨の話があります……が、この時も満寵は大量の酒を飲まされたうえで普段と変わらない対応をして、讒言が根も葉もないと断定されています。

 

 

また、三国志演義では悪口を言わせたら天下無双のクソ暴言野郎論客・禰衡(デイコウ)に、こんなことを言われています。

 

「満寵なんて酒粕食わせとけばええんや!!」

 

 

 

……さて、ここまで酒ネタがあるのなら、どこかに元ネタがありそうなものなのでしょうが……残念ながら私は見つけられませんでした。

 

 

 

さて、とりあえずこんな感じで、魏が誇る地味な完璧超人・満寵について書かせていただきました。

 

実は今回、ブログを読んでくださった方のリクエストを受けて満寵伝をこうして書き写しさせていただきましたが……なるほど、この人はすごい。

 

 

地味なのに史書を読んでみたらとんでもない人物だったというのも歴史ではしばしばありますが、満寵はその好例ではないでしょうか。

 

政治〇。戦争〇、人格〇。何をやらせても絵になっちゃうトンデモ超人、満寵。この度無双にも出演しましたし、今後もっと知名度が上がっていく人物なのではないでしょうか?

 

続きを読む≫ 2018/07/22 13:56:22

 

 

 

 

呉軍絶対殺すマン

 

 

 

さて、こうして対呉軍の中心人物として今後の活躍が期待された満寵でしたが……太和4年(230)、いきなりその力を見せつける時が来ます。

 

孫権は、対呉の総大将が変わったのを好機と見て前線基地の合肥(ガッピ)に総攻撃をかけると大々的に通達、大部隊を編成して魏領に侵攻してきたのです。

 

 

満寵は防備を強化するために、周辺の各州から兵を集めるよう朝廷に上奏、こちらも大部隊で迎え撃ちます。

 

しかし、呉軍はほどなくして退却。合肥の強固さに太刀打ちできず、早々に引き上げることにしたのでした。

 

 

これによって軍団を解散して臨戦態勢を説くようにとのお触れが朝廷から届きますが……満寵は、心の中ではこの撤退を訝しんでいたのです。

 

「まさか、この撤退は敵の偽装なのでは?」

 

満寵は万一に備え、部隊を解散させず合肥に駐屯させることに。そしてその十数日後、孫権軍は再び姿を現し、合肥に総攻撃を繰り出したのでした。

 

しかし、満寵が敵の備えを看破したことにより、魏は十分な備えを残して迎撃。孫権軍を打ち破ることに成功し、今度こそ孫権は自領へと帰っていったのです。

 

 

さらにそのしばらく後、今度は敵の重鎮である陸遜(リクソン)が、対岸にある盧江(ロコウ)に侵攻。この時も味方は大慌てで救援に向かうよう進言しますが、満寵は特に慌てた様子も無し。

 

「盧江は狭いが、将兵ともに1流だ。しばらくは持ちこたえるだろう。それより、敵が船た後詰部隊を置いて2百里も侵攻しているのが怪しい。大方誘い込むための罠だろうから、敵に合わせて後手で動けばいい」

 

かくして満寵は軍を整え、東の楊宜口(ヨウギコウ)へと進軍。陽動作戦失敗を悟った陸遜は速やかに撤退していき、作戦は失敗に終わったのです。

 

 

このように孫権は毎年の如く合肥に攻め寄せましたが、満寵はすべて撃退。呉軍の魏領への道は、満寵という一人の壁によって完全に封鎖されてしまったのでした。

 

 

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味方との確執?

 

 

 

さて、満寵は味方である王凌(オウリョウ)という人物とはイマイチ仲が悪かったようで、この対呉戦線でも一つ問題を引き起こしています。

 

 

というのも、呉の将軍である孫布(ソンフ)なる人物が投降を申し入れ、「遠すぎてこちらからは出向けないので迎えに来てください」などと言っていた時の事。

 

この時満寵は「これは敵の罠だ」として放置を決め込んでいましたが、王凌は逆に「迎えに行ってやりたい」と主張して満寵に兵を貸すよう要求していたのです。

 

 

意見が割れていたある日のこと、満寵は偶然にして、一度中央に向かわなければならない用事が出来ました。この時、留守を担当する属官に「王凌が迎えに行こうとしても兵を貸すなよ」と厳命し、属官も王凌から力添えの要請を受けても断固として拒否したのです。

 

しかし、王凌はそれでもあきらめるものかと、部下を派遣して独断で孫布を迎えに行き、そのまま孫布の襲撃を受けて兵の多くを失ってしまったのでした。

 

 

 

『世語』では、王凌はこれに前後して「満寵はいい加減歳なのに酒をかっ食らっている。今の身分にふさわしくない」と讒言した旨が書かれています。

 

万一のため朝廷は満寵を試すことにして、酒を大量に飲ませた上でその様子を観察しましたが……当の満寵は酔いつぶれた様子は無し。結局朝廷は満寵を信じることにし、慰労の言葉をかけてそのまま任地に帰したのです。

 

 

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希望と絶望の風雲満寵城

 

 

 

さて、張遼(チョウリョウ)、満寵と優秀な将軍のおかげでこれまで固守し続けることができた合肥の城ですが、満寵にはその城の立地について気になる部分がありました。

 

それが、水辺を望むように建っており、揚州の主要拠点であるの寿春(ジュシュン)から遠いという点。

 

水軍指揮は呉軍の十八番ですし、寿春から遠いとあっては味方の援軍もそれだけ遅れる。とすれば、敵は水軍を展開させて迅速に合肥を包囲できるのに、味方は援軍の到着が遅れてそれを阻止できない……という懸念があったわけですね。

 

 

満寵はこれらの欠点を克服すべく、合肥城の廃城と移設を上奏。

 

これには中央の参謀である蒋済(ショウサイ)が「防衛線の後退は敵を勢いづかせます」として反対しましたが、満寵はさらに続けて「孫子兵法には『兵は軌道なり』とあり、こちらを惰弱に見せて誘い込むのも立派な作戦です」と反論して朝廷に「満寵の発言に理あり」と思わせ、合肥移設の許可を引き出すことに成功しました。

 

 

 

そうしてその年のうちに孫権が再び合肥を攻撃するように動きましたが……満寵が移設した合肥新城は水辺のはるか遠方。地の利が無いと見た孫権は、20日以上も上陸しようとはしませんでした。

 

諸将はこの様子を見て「敵がビビている」と判断しますが、満寵だけは孫権の攻撃を予見して、あらかじめ6千の兵を伏兵部隊として潜伏させて時期を待ちます。

 

 

かくして、「そろそろ敵が油断した頃だろう」と、孫権は突如上陸し、合肥新城へと進撃を開始。しかし、満寵の伏兵部隊によりまたしても撤退する羽目になってしまったのでした。

 

そして青龍2年(234)……諸葛亮(ショカツリョウ)最期の北伐に合わせて、孫権は持てる全力を投入し、再び合肥新城へと攻め寄せてきたのです。

 

 

 

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合肥新城は魔性の城よ!

 

 

 

その数、十万。青龍2年(234)に行われた合肥攻撃は、孫権の本気度からして違いました。

 

満寵は即座に合肥新城へと急行しましたが、これまでと本気度の違う大軍勢相手に、将兵の空気もさぞピリついたものがあった事でしょう。

 

曹叡伝にあたる『明帝紀』では、満寵は撤退して寿春で戦う事を考えていましたが、曹叡に却下されて結局合肥新城で戦うことになっています。

 

また、孫権軍本隊だけでなく、陸遜や一族の孫韶(ソンショウ)らも1万の別動隊を率いての進軍。圧巻の軍勢に、さしもの満寵も確実な勝算を見出せなかったのでしょう。

 

 

とはいえ、だからと言って無策で戦って負けるわけにもいきません。合肥新城に入った満寵は、すぐに義勇兵数十人を募集。彼らを集めて松の枝を折って油をかけた即席の松明を持たせ出陣し、風上へと移動。

 

そして、追い風の中で松明を敵に思いっきり投げかけて敵軍の攻城兵器を焼き払い、呉の攻め手を封殺。

 

さらには張穎(チョウエイ)ら味方も大いに奮戦し、ついには孫権の甥である孫泰(ソンタイ)を戦死に追い込む等の大健闘を見せます。

 

 

こうして攻めきれなくなった孫権は、曹叡自らが率いる援軍が出立したという知らせを受けて別動隊ともども撤退を決意。満寵らはこの激戦を耐え抜くことが出来、間接的に諸葛亮の北伐を失敗させる要因を作ることができたのです。

 

 

 

その翌年、孫権が今度は屯田を開いて前線の補給拠点を作ろうと考えましたが……孫権が選んだのは、敵軍の駐屯地からは大きく離れた土地。これを満寵は見逃すはずもなく、ある程度拠点が様になったのを見計らって攻撃。食料をすべて焼き払い、手に入れた物資は恩賞として部下に渡しました。

 

 

 

と、このように知名度の数倍派手な戦果を挙げた満寵ですが……歳の波には勝てず、景初2年(238)に現役を引退。

 

名誉職である太尉(タイイ:元は軍事の総責任者であり政界の花形だが、この時は権限も仕事も多くない)に就任し、その4年後の正始3年(242)に死去。自身の息子らが列侯に取り立てられるのを見送った後のことでした。

 

景侯の諡が与えられ、その風格を受け継いだ満偉(マンイ)が後を継ぎました。

続きを読む≫ 2018/07/21 21:07:21

 

 

 

 

 

不正はっ!絶対っ!許しませんっ!

 

 

 

満寵の家柄について正史では記述がありませんが……推測するにそこそこの家の出だったのでしょう。満寵は18歳の時に郡の督郵(トクユウ:太守の属官で郡の監査官)に任命され、早くから役人の立場に立ちます。

 

が、時代は乱世。すでに長官の権力などたかが知れており、そのため有力な人物は好き勝手するような時勢でした。当然、満寵らの郡にも、そのような不届き者が何人も現れ、民衆にも被害を与えるようになります。

 

 

そこで、太守は満寵に命令し、好き勝手動き回る有力者らを一斉検挙。有力者たちはこれに懲りて、以後余計な真似をしなくなりました。

 

 

 

しかし、この当時好き勝手するのは無官の有力者だけではありません。満寵の郡の太守があるとき交代になり、張苞(チョウホウ:張飛の息子ではない)という人物が代わりに太守に就任。この張苞は前太守と違い、汚職で私腹を肥やすようながめつい人物だったのです。

 

普通ならば、1属官が太守に背くのは重罪。言ってしまえば反逆に等しい行為です。こんなゲス相手でも、当時は黙って従うのが筋でしたが……なんと、満寵は張苞に対して叛逆を決意。

 

張苞の留守中に官吏を集め、彼の出かけ先に突入。汚職容疑で太守の張苞を逮捕してしまったのです。

 

が、筋を通すのは立派であっても、当時の価値観ではこれは叛逆行為。報復行為や不当な怒りを向けられる危険もあったため、満寵は一通りの取り調べを終えるとその日のうちに辞職。官位を捨てて故郷へと帰っていったのです。

 

 

 

 

 

高官だから罪のチャラ?知るかボケ

 

 

 

公正かつ清廉を地で行く満寵ですが……これは曹操(ソウソウ)によって招聘を受けて彼の配下に収まってからも、一切弛むことはありません。

 

 

満寵は曹操配下に加わると、そのお膝元である許(キョ)の長官という身分に立ちます。この時、曹操の一族である曹洪(ソウコウ)の私兵が、主の身分を笠に着て好き勝手法を犯していましたが、満寵はそれを知るや否や、法を無視した曹洪の私兵を逮捕。徹底的に取り調べを行ったのです。

 

この時、曹洪が手紙を送って脅しつけるも、満寵はこれを無視。そして曹洪が曹操に対して「満寵を辞めさせてくださいよ」と働きかけると、自身の身分がまだ有効なうちに曹洪の私兵を処刑してしまったのです。

 

 

曹操はこれを聞くと、怒りを覚えるどころか逆に大喜び。「こういう罪状の処理はこうじゃなきゃな!」と気を良くしたそうな。

 

 

 

さらには、高官を歴任した楊彪(ヨウヒョウ)なる名士が逮捕された際にも、満寵は取り調べを執行。

 

荀彧(ジュンイク)や孔融(コウユウ)といった有力名士らがこぞって「ゆるーい尋問だけで勘弁してやってくれ」と嘆願する中、満寵は「法規を曲げる官吏があるか」と決まり通りのキツめの尋問を執り行ったのです。

 

……が、この時の尋問は逆に楊彪の潔白を証明するためのものだったように史書には書かれています。というのも、満寵は尋問結果を曹操に報告し、「別段証言が二転三転することもありませんでしたし、ハッキリとした罪状も見当たりませんでした。このまま処刑してしまうと、楊彪の名声の高さを考えるに、逆に殿の名声を傷つけることになるでしょう」と進言し、楊彪の釈放に一役買ったのです。

 

 

とはいえ、注釈を施した裴松之が言うに、彼的にはこれは人格を疑う逸話だった模様。

 

「あれほど名家の人間はたとえ罪状が明らかでもかばわなければならない。それをさしたる罪状もなしに痛めつけたのだから、満寵のそれは酷吏の所業だ。これはどれほどの善行を積んでも帳消しにできない大罪だぞ」と血相を変えたかのような批判を残しています。

 

当時の名士がどれほど人々に神格化されていたかがわかるような注釈ですね。

 

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軍事においても有能……!

 

 

 

建安5年(200)の官渡の戦いにおいては、満寵は前線にこそ立ちませんでしたが、汝南(ジョナン)太守として地元の慰撫に奔走。汝南は敵軍の総大将・袁紹(エンショウ)の本貫地であり、彼の影響力が非常に大きい地域だったのです。

 

案の定、満寵の治める汝南では袁紹に味方する豪族が続々と反乱を起こしますが……これを予見していた満寵は速やかに兵500を集めると、反逆者を各個撃破。陥落させた砦は20以上、処刑された主導者は10人余り、そして二万戸の戸籍と2千の兵を得、汝南の農業を発展させることに成功したのです。

 

 

建安13年(208)の曹操による荊州進行にも従軍しましたが、この戦いは孫権(ソンケン)軍により手ひどく敗北。その後は勢いに乗る孫権への備えとして、再び汝南太守に復職しています。

 

 

そして、建安24年(219)の関羽(カンウ)による北上阻止の戦力として、満寵は再び最前線に立ちます。

 

満寵は総大将である曹仁(ソウジン)の補佐役の一人として関羽の猛攻を耐えしのぎますが……この時、大雨により近くの川が決壊。城壁は水にどっぷり浸かってしまい、于禁(ウキン)率いる頼みの援軍も水害の影響で壊滅という緊急事態に陥りました。

 

さらには元々の曹仁軍は兵糧の備えも少なく、関羽軍と比べると兵力的にも劣勢。敗色濃厚で、もはや戦う気力すらも残されていない地獄と化していたのです。

 

 

「もうどうしようもない。完全に囲まれる前に、船に乗って逃げよう」

 

誰かが、こんな提案を皆にしました。それだけ、状況は絶望的だったのですね。

 

 

しかし、満寵はこの場での敗北のさらにその先を見据えていました。

 

「いや、ここで撤退すれば、関羽は川を挟んだ南方をすべて平定するだろう。しかしここに我らがいる以上、関羽は背後を突かれるのを恐れて行動ができないはず。ここは耐えしのごう」

 

総大将の曹仁は、満寵の進言に対して大きくうなずき、覚悟の証として白馬を水に沈めて(!?)徹底抗戦の覚悟を決めました。

 

そして、そんなところに徐晃(ジョコウ)の援軍が到着し、なんと関羽の軍を撃破。さらに呉の孫権も動き出したことで、形勢は逆転し、この危地を耐え抜くことができたのです。

 

 

曹操の死後曹丕(ソウヒ)が魏の主になると、満寵は揚武将軍(ヨウブショウグン)、そして後に呉を破ったことで伏波将軍(フクハショウグン)に昇進。魏の重鎮の一人として頭角を現し……そして、後につけられる「呉軍絶対殺すマン」という仇名(友人命名)通りの活躍を示すことになるのです。

 

 

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呉軍絶対殺すマン・覚醒

 

 

 

曹丕は呉軍に対して何度か征伐を自ら行っていますが……その征伐の中のある時。満寵は先発隊として湖を隔てて呉と対峙した時のこと。

 

何気ないある日、満寵は唐突に、全軍にこのように指示を出します。

 

「今夜は風が強くなる。そういう時、奴らは決まって火攻めを仕掛けてくるのだ。各々、しっかり備えておけよ」

 

 

かくして全軍はその晩に敵軍の奇襲に十分な用心をしましたが……なんと、満寵の予測通りに呉軍が10部隊という大規模な奇襲部隊を用いた強襲作戦に乗り出したのです。

 

備えをしっかりとしていた満寵軍はそれらを落ち着いて迎撃し、さらには火計をも不発に終わらせて敵を大々的に撃破。この功績で爵位を上げ、満寵は呉軍の天敵としての才覚を覚醒させるに至ったのです。

 

 

そして前将軍、豫洲刺史(ヨシュウシシ:豫洲の監査官)となって数年の月日が流れた太和3年(229)、やや下火だった孫権軍との戦いが再び燃え上がり、後に云う石亭の戦いが勃発。

 

満寵はこの戦いには別動隊として参加しましたが……大将である曹休(ソウキュウ)の経験不足と退路のない地を進軍していることに不安を感じ、密かに朝廷にその胸中を上奏。

 

 

かくして曹休は満寵の懸念通り大敗北を喫して撤退。その敗北も、慌てて駆けつけた味方によって強引に退路をこじ開けてもらっての物という手ひどいものだったとされています。

 

 

曹休は羞恥と申し訳なさから病をこじらし、ほどなく死去。対揚州方面の総大将は曹休の死で不在になり……ここに来て、対呉のキラー役として多大な活躍をすることになる満寵が、総大将として孫呉に立ち向かうことになるのです。

続きを読む≫ 2018/07/20 20:48:20
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