満寵


このエントリーをはてなブックマークに追加

【満寵伝1】デカい体の万能選手

 

 

 

 

 

不正はっ!絶対っ!許しませんっ!

 

 

 

満寵の家柄について正史では記述がありませんが……推測するにそこそこの家の出だったのでしょう。満寵は18歳の時に郡の督郵(トクユウ:太守の属官で郡の監査官)に任命され、早くから役人の立場に立ちます。

 

が、時代は乱世。すでに長官の権力などたかが知れており、そのため有力な人物は好き勝手するような時勢でした。当然、満寵らの郡にも、そのような不届き者が何人も現れ、民衆にも被害を与えるようになります。

 

 

そこで、太守は満寵に命令し、好き勝手動き回る有力者らを一斉検挙。有力者たちはこれに懲りて、以後余計な真似をしなくなりました。

 

 

 

しかし、この当時好き勝手するのは無官の有力者だけではありません。満寵の郡の太守があるとき交代になり、張苞(チョウホウ:張飛の息子ではない)という人物が代わりに太守に就任。この張苞は前太守と違い、汚職で私腹を肥やすようながめつい人物だったのです。

 

普通ならば、1属官が太守に背くのは重罪。言ってしまえば反逆に等しい行為です。こんなゲス相手でも、当時は黙って従うのが筋でしたが……なんと、満寵は張苞に対して叛逆を決意。

 

張苞の留守中に官吏を集め、彼の出かけ先に突入。汚職容疑で太守の張苞を逮捕してしまったのです。

 

が、筋を通すのは立派であっても、当時の価値観ではこれは叛逆行為。報復行為や不当な怒りを向けられる危険もあったため、満寵は一通りの取り調べを終えるとその日のうちに辞職。官位を捨てて故郷へと帰っていったのです。

 

 

 

 

 

高官だから罪のチャラ?知るかボケ

 

 

 

公正かつ清廉を地で行く満寵ですが……これは曹操(ソウソウ)によって招聘を受けて彼の配下に収まってからも、一切弛むことはありません。

 

 

満寵は曹操配下に加わると、そのお膝元である許(キョ)の長官という身分に立ちます。この時、曹操の一族である曹洪(ソウコウ)の私兵が、主の身分を笠に着て好き勝手法を犯していましたが、満寵はそれを知るや否や、法を無視した曹洪の私兵を逮捕。徹底的に取り調べを行ったのです。

 

この時、曹洪が手紙を送って脅しつけるも、満寵はこれを無視。そして曹洪が曹操に対して「満寵を辞めさせてくださいよ」と働きかけると、自身の身分がまだ有効なうちに曹洪の私兵を処刑してしまったのです。

 

 

曹操はこれを聞くと、怒りを覚えるどころか逆に大喜び。「こういう罪状の処理はこうじゃなきゃな!」と気を良くしたそうな。

 

 

 

さらには、高官を歴任した楊彪(ヨウヒョウ)なる名士が逮捕された際にも、満寵は取り調べを執行。

 

荀彧(ジュンイク)や孔融(コウユウ)といった有力名士らがこぞって「ゆるーい尋問だけで勘弁してやってくれ」と嘆願する中、満寵は「法規を曲げる官吏があるか」と決まり通りのキツめの尋問を執り行ったのです。

 

……が、この時の尋問は逆に楊彪の潔白を証明するためのものだったように史書には書かれています。というのも、満寵は尋問結果を曹操に報告し、「別段証言が二転三転することもありませんでしたし、ハッキリとした罪状も見当たりませんでした。このまま処刑してしまうと、楊彪の名声の高さを考えるに、逆に殿の名声を傷つけることになるでしょう」と進言し、楊彪の釈放に一役買ったのです。

 

 

とはいえ、注釈を施した裴松之が言うに、彼的にはこれは人格を疑う逸話だった模様。

 

「あれほど名家の人間はたとえ罪状が明らかでもかばわなければならない。それをさしたる罪状もなしに痛めつけたのだから、満寵のそれは酷吏の所業だ。これはどれほどの善行を積んでも帳消しにできない大罪だぞ」と血相を変えたかのような批判を残しています。

 

当時の名士がどれほど人々に神格化されていたかがわかるような注釈ですね。

 

スポンサーリンク

 

 

軍事においても有能……!

 

 

 

建安5年(200)の官渡の戦いにおいては、満寵は前線にこそ立ちませんでしたが、汝南(ジョナン)太守として地元の慰撫に奔走。汝南は敵軍の総大将・袁紹(エンショウ)の本貫地であり、彼の影響力が非常に大きい地域だったのです。

 

案の定、満寵の治める汝南では袁紹に味方する豪族が続々と反乱を起こしますが……これを予見していた満寵は速やかに兵500を集めると、反逆者を各個撃破。陥落させた砦は20以上、処刑された主導者は10人余り、そして二万戸の戸籍と2千の兵を得、汝南の農業を発展させることに成功したのです。

 

 

建安13年(208)の曹操による荊州進行にも従軍しましたが、この戦いは孫権(ソンケン)軍により手ひどく敗北。その後は勢いに乗る孫権への備えとして、再び汝南太守に復職しています。

 

 

そして、建安24年(219)の関羽(カンウ)による北上阻止の戦力として、満寵は再び最前線に立ちます。

 

満寵は総大将である曹仁(ソウジン)の補佐役の一人として関羽の猛攻を耐えしのぎますが……この時、大雨により近くの川が決壊。城壁は水にどっぷり浸かってしまい、于禁(ウキン)率いる頼みの援軍も水害の影響で壊滅という緊急事態に陥りました。

 

さらには元々の曹仁軍は兵糧の備えも少なく、関羽軍と比べると兵力的にも劣勢。敗色濃厚で、もはや戦う気力すらも残されていない地獄と化していたのです。

 

 

「もうどうしようもない。完全に囲まれる前に、船に乗って逃げよう」

 

誰かが、こんな提案を皆にしました。それだけ、状況は絶望的だったのですね。

 

 

しかし、満寵はこの場での敗北のさらにその先を見据えていました。

 

「いや、ここで撤退すれば、関羽は川を挟んだ南方をすべて平定するだろう。しかしここに我らがいる以上、関羽は背後を突かれるのを恐れて行動ができないはず。ここは耐えしのごう」

 

総大将の曹仁は、満寵の進言に対して大きくうなずき、覚悟の証として白馬を水に沈めて(!?)徹底抗戦の覚悟を決めました。

 

そして、そんなところに徐晃(ジョコウ)の援軍が到着し、なんと関羽の軍を撃破。さらに呉の孫権も動き出したことで、形勢は逆転し、この危地を耐え抜くことができたのです。

 

 

曹操の死後曹丕(ソウヒ)が魏の主になると、満寵は揚武将軍(ヨウブショウグン)、そして後に呉を破ったことで伏波将軍(フクハショウグン)に昇進。魏の重鎮の一人として頭角を現し……そして、後につけられる「呉軍絶対殺すマン」という仇名(友人命名)通りの活躍を示すことになるのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

呉軍絶対殺すマン・覚醒

 

 

 

曹丕は呉軍に対して何度か征伐を自ら行っていますが……その征伐の中のある時。満寵は先発隊として湖を隔てて呉と対峙した時のこと。

 

何気ないある日、満寵は唐突に、全軍にこのように指示を出します。

 

「今夜は風が強くなる。そういう時、奴らは決まって火攻めを仕掛けてくるのだ。各々、しっかり備えておけよ」

 

 

かくして全軍はその晩に敵軍の奇襲に十分な用心をしましたが……なんと、満寵の予測通りに呉軍が10部隊という大規模な奇襲部隊を用いた強襲作戦に乗り出したのです。

 

備えをしっかりとしていた満寵軍はそれらを落ち着いて迎撃し、さらには火計をも不発に終わらせて敵を大々的に撃破。この功績で爵位を上げ、満寵は呉軍の天敵としての才覚を覚醒させるに至ったのです。

 

 

そして前将軍、豫洲刺史(ヨシュウシシ:豫洲の監査官)となって数年の月日が流れた太和3年(229)、やや下火だった孫権軍との戦いが再び燃え上がり、後に云う石亭の戦いが勃発。

 

満寵はこの戦いには別動隊として参加しましたが……大将である曹休(ソウキュウ)の経験不足と退路のない地を進軍していることに不安を感じ、密かに朝廷にその胸中を上奏。

 

 

かくして曹休は満寵の懸念通り大敗北を喫して撤退。その敗北も、慌てて駆けつけた味方によって強引に退路をこじ開けてもらっての物という手ひどいものだったとされています。

 

 

曹休は羞恥と申し訳なさから病をこじらし、ほどなく死去。対揚州方面の総大将は曹休の死で不在になり……ここに来て、対呉のキラー役として多大な活躍をすることになる満寵が、総大将として孫呉に立ち向かうことになるのです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

【満寵伝2】呉軍は絶対追い返す
呉を追い返す。味方が足を引っ張っても追い返す。作戦とか全部見破って追い返す。
【満寵伝3】何これ完璧超人?
軍事もよし、政治もよし、性格も公正と、割と隙の無い満寵。この人、欠点あるの?

ホーム サイトマップ
お問い合わせ