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【満寵伝2】呉軍は絶対追い返す

 

 

 

 

呉軍絶対殺すマン

 

 

 

さて、こうして対呉軍の中心人物として今後の活躍が期待された満寵でしたが……太和4年(230)、いきなりその力を見せつける時が来ます。

 

孫権は、対呉の総大将が変わったのを好機と見て前線基地の合肥(ガッピ)に総攻撃をかけると大々的に通達、大部隊を編成して魏領に侵攻してきたのです。

 

 

満寵は防備を強化するために、周辺の各州から兵を集めるよう朝廷に上奏、こちらも大部隊で迎え撃ちます。

 

しかし、呉軍はほどなくして退却。合肥の強固さに太刀打ちできず、早々に引き上げることにしたのでした。

 

 

これによって軍団を解散して臨戦態勢を説くようにとのお触れが朝廷から届きますが……満寵は、心の中ではこの撤退を訝しんでいたのです。

 

「まさか、この撤退は敵の偽装なのでは?」

 

満寵は万一に備え、部隊を解散させず合肥に駐屯させることに。そしてその十数日後、孫権軍は再び姿を現し、合肥に総攻撃を繰り出したのでした。

 

しかし、満寵が敵の備えを看破したことにより、魏は十分な備えを残して迎撃。孫権軍を打ち破ることに成功し、今度こそ孫権は自領へと帰っていったのです。

 

 

さらにそのしばらく後、今度は敵の重鎮である陸遜(リクソン)が、対岸にある盧江(ロコウ)に侵攻。この時も味方は大慌てで救援に向かうよう進言しますが、満寵は特に慌てた様子も無し。

 

「盧江は狭いが、将兵ともに1流だ。しばらくは持ちこたえるだろう。それより、敵が船た後詰部隊を置いて2百里も侵攻しているのが怪しい。大方誘い込むための罠だろうから、敵に合わせて後手で動けばいい」

 

かくして満寵は軍を整え、東の楊宜口(ヨウギコウ)へと進軍。陽動作戦失敗を悟った陸遜は速やかに撤退していき、作戦は失敗に終わったのです。

 

 

このように孫権は毎年の如く合肥に攻め寄せましたが、満寵はすべて撃退。呉軍の魏領への道は、満寵という一人の壁によって完全に封鎖されてしまったのでした。

 

 

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味方との確執?

 

 

 

さて、満寵は味方である王凌(オウリョウ)という人物とはイマイチ仲が悪かったようで、この対呉戦線でも一つ問題を引き起こしています。

 

 

というのも、呉の将軍である孫布(ソンフ)なる人物が投降を申し入れ、「遠すぎてこちらからは出向けないので迎えに来てください」などと言っていた時の事。

 

この時満寵は「これは敵の罠だ」として放置を決め込んでいましたが、王凌は逆に「迎えに行ってやりたい」と主張して満寵に兵を貸すよう要求していたのです。

 

 

意見が割れていたある日のこと、満寵は偶然にして、一度中央に向かわなければならない用事が出来ました。この時、留守を担当する属官に「王凌が迎えに行こうとしても兵を貸すなよ」と厳命し、属官も王凌から力添えの要請を受けても断固として拒否したのです。

 

しかし、王凌はそれでもあきらめるものかと、部下を派遣して独断で孫布を迎えに行き、そのまま孫布の襲撃を受けて兵の多くを失ってしまったのでした。

 

 

 

『世語』では、王凌はこれに前後して「満寵はいい加減歳なのに酒をかっ食らっている。今の身分にふさわしくない」と讒言した旨が書かれています。

 

万一のため朝廷は満寵を試すことにして、酒を大量に飲ませた上でその様子を観察しましたが……当の満寵は酔いつぶれた様子は無し。結局朝廷は満寵を信じることにし、慰労の言葉をかけてそのまま任地に帰したのです。

 

 

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希望と絶望の風雲満寵城

 

 

 

さて、張遼(チョウリョウ)、満寵と優秀な将軍のおかげでこれまで固守し続けることができた合肥の城ですが、満寵にはその城の立地について気になる部分がありました。

 

それが、水辺を望むように建っており、揚州の主要拠点であるの寿春(ジュシュン)から遠いという点。

 

水軍指揮は呉軍の十八番ですし、寿春から遠いとあっては味方の援軍もそれだけ遅れる。とすれば、敵は水軍を展開させて迅速に合肥を包囲できるのに、味方は援軍の到着が遅れてそれを阻止できない……という懸念があったわけですね。

 

 

満寵はこれらの欠点を克服すべく、合肥城の廃城と移設を上奏。

 

これには中央の参謀である蒋済(ショウサイ)が「防衛線の後退は敵を勢いづかせます」として反対しましたが、満寵はさらに続けて「孫子兵法には『兵は軌道なり』とあり、こちらを惰弱に見せて誘い込むのも立派な作戦です」と反論して朝廷に「満寵の発言に理あり」と思わせ、合肥移設の許可を引き出すことに成功しました。

 

 

 

そうしてその年のうちに孫権が再び合肥を攻撃するように動きましたが……満寵が移設した合肥新城は水辺のはるか遠方。地の利が無いと見た孫権は、20日以上も上陸しようとはしませんでした。

 

諸将はこの様子を見て「敵がビビている」と判断しますが、満寵だけは孫権の攻撃を予見して、あらかじめ6千の兵を伏兵部隊として潜伏させて時期を待ちます。

 

 

かくして、「そろそろ敵が油断した頃だろう」と、孫権は突如上陸し、合肥新城へと進撃を開始。しかし、満寵の伏兵部隊によりまたしても撤退する羽目になってしまったのでした。

 

そして青龍2年(234)……諸葛亮(ショカツリョウ)最期の北伐に合わせて、孫権は持てる全力を投入し、再び合肥新城へと攻め寄せてきたのです。

 

 

 

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合肥新城は魔性の城よ!

 

 

 

その数、十万。青龍2年(234)に行われた合肥攻撃は、孫権の本気度からして違いました。

 

満寵は即座に合肥新城へと急行しましたが、これまでと本気度の違う大軍勢相手に、将兵の空気もさぞピリついたものがあった事でしょう。

 

曹叡伝にあたる『明帝紀』では、満寵は撤退して寿春で戦う事を考えていましたが、曹叡に却下されて結局合肥新城で戦うことになっています。

 

また、孫権軍本隊だけでなく、陸遜や一族の孫韶(ソンショウ)らも1万の別動隊を率いての進軍。圧巻の軍勢に、さしもの満寵も確実な勝算を見出せなかったのでしょう。

 

 

とはいえ、だからと言って無策で戦って負けるわけにもいきません。合肥新城に入った満寵は、すぐに義勇兵数十人を募集。彼らを集めて松の枝を折って油をかけた即席の松明を持たせ出陣し、風上へと移動。

 

そして、追い風の中で松明を敵に思いっきり投げかけて敵軍の攻城兵器を焼き払い、呉の攻め手を封殺。

 

さらには張穎(チョウエイ)ら味方も大いに奮戦し、ついには孫権の甥である孫泰(ソンタイ)を戦死に追い込む等の大健闘を見せます。

 

 

こうして攻めきれなくなった孫権は、曹叡自らが率いる援軍が出立したという知らせを受けて別動隊ともども撤退を決意。満寵らはこの激戦を耐え抜くことが出来、間接的に諸葛亮の北伐を失敗させる要因を作ることができたのです。

 

 

 

その翌年、孫権が今度は屯田を開いて前線の補給拠点を作ろうと考えましたが……孫権が選んだのは、敵軍の駐屯地からは大きく離れた土地。これを満寵は見逃すはずもなく、ある程度拠点が様になったのを見計らって攻撃。食料をすべて焼き払い、手に入れた物資は恩賞として部下に渡しました。

 

 

 

と、このように知名度の数倍派手な戦果を挙げた満寵ですが……歳の波には勝てず、景初2年(238)に現役を引退。

 

名誉職である太尉(タイイ:元は軍事の総責任者であり政界の花形だが、この時は権限も仕事も多くない)に就任し、その4年後の正始3年(242)に死去。自身の息子らが列侯に取り立てられるのを見送った後のことでした。

 

景侯の諡が与えられ、その風格を受け継いだ満偉(マンイ)が後を継ぎました。

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