ちょこっとこばなし


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三国志の一国・呉の人的礎を築き上げた人物、孫堅(ソンケン)。

 

本音はどうあれ表向きは漢帝国の忠臣として国家に忠義を尽くしていた孫堅ですが、そんな彼にもかなり黒い噂があります。

 

 

それが、伝国の玉璽(ギョクジ)と言われる国家最大級のお宝を見つけ出し、あろうことかこれをパクって持ち逃げしたというもの。

 

 

いかにも胡散臭い話ですが……今回は孫堅伝に載っている説話を追ってみたいと思います。

 

 

 

 

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そもそも玉璽って何?

 

 

 

璽というのは、言ってしまえば高い身分にある人が公的文書に使うための印鑑のようなもの。その材質には身分で完全に区切りが付けられ、低い身分から銅、銀、金、玉の順にグレードアップしていきます。

 

つまり、玉璽というのは国のトップが使う公文の印綬というとんでもない代物なのです。

 

 

当然、当時は厳格な身分制度が敷かれており、それこそ衣服の材質から色、姿格好まで身分によって完全に制限されていました。

 

 

そんな中、たかが1将軍にすぎない孫堅が皇帝専用のシロモノを持ち出したのだから、これが本当なら処刑必至の反逆行為です。

 

ましてや孫堅が持ち去ったのは伝国の玉璽。これははるか古来から歴代の皇帝が持っていたというまさに伝説のアイテム。この世に唯一無二の宝にして、「これを持つ者は次期皇帝と決まっている」とすら言われるような物だったのです。

 

 

この玉璽は、董卓(トウタク)によって都が焼かれた際に他の宝ともども紛失したと言われていますが……そんな失われた宝にはあらぬ噂が付き物。「孫堅が玉璽を得た」という話は、そんな噂が大きくなって歴史書に記載されるほどになったものなのですね。

 

 

 

 

 

呉書「井戸から拾ったよ!」

 

 

 

こんな話が出回った大方の原因は、呉を正当な王朝として描かれた呉国の伝記・『呉書』の記述にあると見ていいでしょう。

 

 

孫堅はすでに焼き尽くされて廃墟となった洛陽(ラクヨウ)に一番乗りし、漢王朝の王室を祀る廟を丁寧に掃除、その凋落と都の変わり果てた姿を悲しんでいました。

 

 

さて、そんな折、孫堅軍が駐屯していた付近にある井戸から、突如として五色の不気味な煙が立ち込めます。しかもその煙は、毎朝のようにモクモクと噴出するばかり。兵たちは井戸を気味悪がり、それ以降そこの井戸水を飲もうともしなくなりました。

 

この事態を怪しんだ孫堅は、ついに井戸の捜索を開始。孫堅軍の兵士は井戸に潜って、その煙の正体を突き止めようとしたのです。

 

 

こうして捜索が始まってしばらくとしないうちに、ついに煙の正体が明らかになります。その煙は、かつて内乱の折に官吏によってその井戸に捨てられた伝国の玉璽。孫堅はとんでもないものを見つけてしまいました。

 

 

 

 

江表伝「屋根の上で見つけたとかほざいて偽物よこしてきたよ」

 

 

 

一方、『江表伝』によれば、「呉の主張によれば、6つの伝国の玉璽と思しき印を見つけたらしい」という事が書かれています。

 

後に呉が滅んだ時、伝国の玉璽を晋に返そうとします。が、この時に晋に送られた印綬はすべて黄金製の御璽。その中に玉でできたものはひとつもなかったため、結局は偽物だと判明したとか何とか。

 

 

 

しかし、虞喜の著した『志林』では、以下のような言葉が書かれています。

 

伝国の玉璽は、晋に返還された6つの御璽とは別物。それらを一緒くたにして孫堅と玉璽の話を嘘と決めるのは早計だ。

 

さらには「返還された6つの御璽に書かれた文面は、本物と一文字たりとも違いがなかった」とも述べています。つまり、偽物にしては巧妙に出来過ぎているという主張ですね。

 

 

 

ちなみにこれらに対する裴松之のコメントは、「漢室への忠誠が高い孫堅はそんなことしない!」というもの。孫堅の二心の有無はともかく、確かに黙っておくとはちょっと思えません。

 

 

 

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結局どうなのさ?

 

 

 

個人的には正直有り得ない話だと思いますが……この話の真相は残念ながらどうとも言い切れませんね。

 

『後漢書』には孫堅が拾ったのを通じ、紆余曲折を経て玉璽が許都に渡った旨の記述もあり、案外嘘と言い切れないのがまた難しいです。

 

 

ともあれ、呉が「玉璽を拾った」と大々的に喧伝する理由はなんとなく察しがつきます。

 

 

要するに、「自分たちの王朝を正当とするための大義名分」というのが、推測として妥当なところでしょう。

 

魏は漢王朝から正式な禅譲を受けた、本当の意味での後継者。蜀はそんな魏への禅譲を認めない、自称漢王朝の後継者。対して呉は、漢王朝も魏も否定して自分たちの王朝を作っていい理由はありません。

 

 

おそらく、そんな呉建国の理由の弱さを補うために、「孫堅が玉璽を拾った=呉が光景になるのは運命づけられていた」という理由を大々的にアピールしたのでしょう。

 

とはいえ、こうして玉璽を持ち帰ったアピールをするという事は、孫堅が裏で皇帝になる野心を持っていた逆賊という証左。これはこれで、孫堅の名誉的にアレな話ですが……

 

 

ともあれ、事の真偽はともかく、孫堅が伝国の玉璽を得た噂は当時からもあり、それを呉が大々的に喧伝して建国の大義名分にした。おおよそこの話がここまで広まった理由は、こんなところでしょう。

 

 

ちなみに『山陽公載記』によれば、この玉璽は袁術(エンジュツ)が孫堅の妻を人質に取って奪い取ったとかいうこれまた眉唾な話がありますが……これは後に「孫策が袁術の兵を借りるカタに玉璽を使った」という演義の創作の元になっていますね。

 

 

続きを読む≫ 2018/11/06 20:55:06

 

 

 

 

外見はイマイチ

 

 

当時の人物評では、容姿に関してもかなり重要視されることが多いです。

 

つまり、風貌が立派=大物、あるいはその逆も然りと、見た目だけでその人の性格、器の大きさまで勝手に決められることもあったとか。まあ、この辺りは現代でも似たようなことが言えますが……

 

 

そんなわけで、英雄として破格の評価を受ける曹操はさぞや立派な容姿を持った美丈夫であろうかと思ってしまいそうなものですが……

 

 

意外なことに、不細工、背は小さいとあり、とてもではありませんが、見た目から入るような人物評では一切の評価されないであろう容貌だったそうです。

 

ちなみに正史三国志でも主要人物の容姿に関しては少なからず触れているものですが、曹操の容姿には一切言及されていません。この事から、風采が上がらなかったのは間違いないでしょう。

 

 

事実、曹操は見た目に相当コンプレックスを抱えていたようです。

 

 

 

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家柄にもコンプレックスが……

 

 

曹操が周囲からバカにされたり批難される際は、容姿よりもまず出自に関するものが多かったそうな。

 

というのも、曹操の祖父は「卑しい」とされる宦官であり、さらにはその宦官たちが周囲と実権を奪い合ったのが乱世の根源なので、もう宦官の孫というだけで周囲からは差別の対象であったのです。

 

 

実際に曹操が高官に上り詰めた時も、周囲の知識人は容姿とセットで馬鹿にされ、さらには袁紹(エンショウ)との開戦時に袁紹配下の陳琳(チンリン)という人がばら撒いた誹謗中傷文には、しっかりと曹操の家柄を言及した文があり、これによって曹操の怒りは頂点まで達したと言われています。

 

 

 

 

結果、清廉潔白な合理主義者に

 

 

というわけで、曹操は裕福な家ではあったものの、謂れのない理由で嫌われていた曹操はすっかりグレてしまって、官職に就く前は遊侠気取りで遊び放題。叔父に怒られても逆に罠に嵌めたという逸話すらも残るほどの、言ってしまえば不良少年になっていました。

 

祖父も自分のせいでグレてしまった曹操に引け目を感じたのか、受け取りたくもない金を受け取って曹操のために放出する始末。

 

 

この時、同じく裕福な名家ながらもイマイチ報われない系図に生まれた袁紹(エンショウ)なんかともつるんで遊びまわったらしく、信憑性は低いものの、二人で共謀して花嫁を強奪したなどという逸話も残っています。

 

まあ、これも一種の青春ですね。

 

 

が、このグレて遊び回るようになるほどの日々は曹操に恩恵ももたらします。

 

どうにも世俗の仲間に入れてもらえなかった曹操は、最終的には迷信や定観に捉われない視野を手に入れたのです。

 

 

実際に役人になってからは、商人が金儲けのために始めた怪しげな宗教を一切禁じたり、高官とつながっている汚職役人を批評覚悟で軒並み追放したりなど、当時の風説や風評に一切惑わされず本質を見極める洞察力と、周囲の批評や弾劾を恐れず行動する胆力を身に着けたのです。

 

これらは後に「求賢令」という身分を問わない登用制度を打ち立てるなど、当時の固定観念を徹底的に壊すような合理思想を以って、並み居る群雄を追い抜いて天下に覇を唱えるに至ったのです。

 

 

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秩序と正義の人・曹操

 

 

特に演義での悪玉系曹操を知っている人は、この見出しの文面に違和感を覚えるかもしれませんが……

 

特に若いころの曹操は本当に熱血漢というか、上に描いた通り、「自分の正義を実行するためには、それで利益を失う悪人の言葉は徹底して排除する」という、苛烈なまでの正義感を持った、清廉潔白な人物だったのです。

 

 

やはりこれには、宦官の出であるというコンプレックスが非常に強かったのでしょう。祖父の代から一般の宦官と違って善玉に徹していた曹家でしたが、曹操は特に、宦官とは強く対立していたのです。

 

 

当時は十常侍(ジュウジョウジ)という宦官グループが政権を実質的に牛耳っており、少しでも自分たちに歯向かう者には濡れ衣を着せて処刑するという有り様。『党錮の禁』として歴史書にも載っているこの一大粛清から始まる宦官政権によって、当時の反宦官の人たちは、死ぬ、疎開、押し黙って従うのいずれかを選択する必要があったのです。

 

 

そんな中で曹操は蹇碩(ケンセキ)という超有力宦官の叔父を法に従って処刑したり、宦官の専横を朝廷に訴えたり、任地で賄賂を受けている汚職宦官を一斉にクビにしたりと、かなりアグレッシブに反宦官の姿勢を見せています。

 

 

こういった動きにより、曹操は中央、ひいては官職からの撤退を余儀なくされるようになっていくわけですが……これらは悪玉として知られる曹操からは想像もつかないほどの『綺麗な』行動と言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

曹操自身、やさぐれながらも人情家で熱血漢な性格でもあったのは間違いないですが……これらの徹底した潔癖ともいえる対応は、もしかしたらコンプレックスからくる宦官への反抗心の表れなのかもしれませんね。

 

 

 

 

曹操 コンプレックス チビ ブサメン 宦官

 

 

続きを読む≫ 2017/10/30 15:57:30

 

 

どうも。突然ですが、曹操と呂伯奢(リョハクシャ)の話をご存知でしょうか?

 

 

大まかなあらすじは、反董卓連合の発足前。当時董卓の部下(というか漢王朝の臣下で董卓より身分は下)だった曹操が、董卓の招聘を無視して都・洛陽からの脱出を図った時のこと。

 

董卓の追撃の手は激しく、曹操も偽名を使っての逃避行を余儀なくされ、一説には一度拘留され、駐屯していた兵士の一人に助けられたという逸話まで出るほどだったとか。

 

 

そんな折に曹操が立ち寄ったのが、旧友である呂伯奢という人物の館。

 

 

結論から書くと、ここでちょっとした事件が起きたため曹操は呂伯奢の家族を皆殺しにしてしまうのですが……実は、その皆殺しまでの過程が、時代が進むたびにひどいことになってしまっているのです。今回はそんなお話。

 

 

 

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魏書の場合

 

 

まずは、三国志の中の魏王朝の歴史を魏の視点から国の都合も交えて綴った『魏書』に、この話のいきさつが記されているのがわかります。

 

では、最初はどんな話だったのかというと、以下の通り。

 

呂伯奢は留守だったが、その子供たちは曹操を知っていたので家に迎え入れてくれた。

 

しかし、迎え入れたのは実は騙し討ちにするため。

 

呂伯奢の息子たちは食客(私兵)とグルになって、曹操の荷物や馬を略奪しようと考えていた。

 

突然包囲され、強盗紛い(というかまんま強盗)の恐喝を受けた曹操は、やむを得ず刀を自ら手に取って数人をその場で殺し、逃げ去った。

 

 

うん、全体的に呂伯奢の家族が悪い。

 

これは魏、さらに言えば曹操が大正義である魏書に載っていた話で、曹操が悪者にならないよう全面的に被害者であると捏造された可能性は否めませんが……出典はあくまでこれが最初。ともすれば、信憑性は一番高いでしょうね。

 

個人的には他の逸話もなかなか捨てがたいというかあり得る話ですが……その辺はまた個人の解釈に委ねられるでしょうね。

 

 

 

 

世語もなかなかあり得る話を……

 

 

続けてこの話が出るのは、魏や晋のエピソード集・『魏晋世語』という書物にあるお話。

 

これは三国志に注釈を入れた裴松之(ハイショウシ)をはじめ、多くの歴史家にも注目された書物ですが、当の裴松之は「信用できない怪しさ満点の書物だが、面白い話は結構ある」とか何とかで……。

 

さて、そんな世語にある呂伯奢一家殺害のエピソードがこちら。

 

 

呂伯奢には五人の息子がいたが、皆礼儀をよくわきまえた「よくできた人物」だった。

 

しかし、時の権力者・董卓に逆らった身。結局世間は権力者こそ絶対正義の世の中だから、自分がいつ政府に売り飛ばされるかわからない。

 

不安を募らせ疑心暗鬼に陥った曹操は、夜に息子を含む八人を殺害し、そのまま逃亡した。

 

 

信憑性の薄い資料とはいえ、これもまたなんともあり得る話。

 

確かに、権力者に逆らって命を狙われる身とあっては、安心や安息などどこにもありません。

 

どう考えても曹操が悪いですが、情状酌量の余地はある話ですね。

 

 

 

雑記でさらに悪化

 

さらに時代が飛んで西晋末期。孫盛(ソンセイ)という人がつけた雑記にある話は、もはや曹操への悪意すら直接感じられる内容になっています。

 

孫盛自体が曹操を貶める意図があったかどうかは省きますが……少なくとも当時の人々の間では、すでに西暦300年を超えた頃からアンチ曹操の流れがあったのがわかる内容ですね。

 

さて、その内容は以下の通り。

 

 

呂伯奢一家が食器を用意する音を聞いて勘違い。

 

「殺される」と疑心暗鬼に陥った曹操は一家を夜のうちに皆殺しにした。

 

直後に自分の勘違いであると思った曹操は悲愴に駆られたが、

 

 

「俺は正義だ! ジャスティスだ! だから天下に背いてもいい!

 

だが天下の奴らが俺に背くのは許さん!! 俺は絶対だフハハハハハ!!」

 

と、思いっきり開き直った。

 

 

曹操クズじゃねーか。

 

 

ちなみに三国志演義では、ご丁寧にこの後呂伯奢本人を追いかけて殺害し、騒ぎになるのを防いでいます。

 

 

…………いや、さすがに騒ぎを起こすのはまずいので、演義のみならず実際に呂伯奢が殺された可能性は高いですが……

 

 

 

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何にせよ、時代が進むごとに悪党として描かれていく曹操の、その闇堕ちの過程が少しわかるような、そんなお話ですね。

 

 

まあ、曹操自体実利、合理主義者なので礼や孝行という概念を正義よりも重視する儒教とは合わない部分もあり、世間からも早くから悪党呼ばわりされていたという側面もあります。

 

 

何にせよ、この後の曹操はすっかり悪役にされ、儒教精神に基づく建前にしがみついていた劉備が正義の味方になっていくのは、なんとも感慨深いというか、やはり世間の思想が善悪を決めるのだなと痛感する事実ですね……

 

 

続きを読む≫ 2017/08/19 19:39:19

 

 

 

 

曹操と言えば、時代を超越した英傑、乱世の奸雄にして治世の能臣、はたまたその逆……とまあ様々な評価をされる人物ですが、いずれも「非凡である」という点においては、どの人物、どの文献でもだいたい同一の評価を得ています。

 

三国志好きのみならず、少しだけでもこの時代の知識があれば、すぐに誰かわかるほどの大人物ですね。

 

 

さて、そんな曹操、実は大の「孫子ファン」としても知られています。

 

 

 

というのも、

 

世に出回っている孫子は、彼の注釈を元に、さらにいろんな人物が独自解釈を加えたもの

 

 

孫子に影響を受けてあれこれと注釈を施した人物の先駆けこそが、この曹操というわけですね。

 

 

 

そんな孫子大好きの曹操、戦争においてもめっぽう強く、当時用兵の達人として名が知られていた劉備をして「曹操自身が来たら勝てない」と言わしめるほどだったと言われています。

 

さて、そんな天才用兵家・曹操の生涯の勝率…………

 

 

 

なんと驚異の約80%とまで言われています。

 

 

そもそもどこぞの馬の骨とも知れない雑魚群雄から、それも自前の兵力は最初の戦いで董卓軍にボコボコにされてからのマイナススタートを考えれば、もはや並の群雄ではとても相手にならないレベルの戦上手であるとわかります。

 

 

 

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曹操の得意戦術は「疾風怒濤の奇襲戦」

 

 

孫子には、以下の言葉があります。

 

「戦いは正を以て合っし、奇を以て勝つ」

 

 

どういうことかというと、「戦争は正攻法でぶつかり、奇襲や奇策で勝つ」。つまり、奇襲は奇策は用意こそするものですが、正攻法でぶつかることで、奇襲奇策による勝利をより万全にする。あるいは、正攻法で敵と対峙し、勝てるタイミングで奇襲を炸裂させる。

 

早い話が、正攻法は通常攻撃、奇襲は条件さえ整えば発動できる必殺技のようなものですね。

 

 

そしてもう一つ。

 

「勝ち易(やす)きに勝つ」

 

これは文字通りですね。「一番勝てそうなタイミングで勝ちを拾う」。歴戦の名将は、神がかり的な軍略による奇跡的大勝利を好みません。基本的に、「誰でも勝てる」と言えるような状況で勝負に出るのを良しとします。

 

 

曹操の戦い方も、おおよそこんな感じだったようです。

 

「正攻法で耐えしのぎながら勝てるタイミングを見計らい、ここぞというタイミングで勢いよく飛び出して疾風怒濤の奇襲で勝負を決める」。

 

 

 

この戦い方が如実にでたのが、有名な官渡の戦いだったのではと思います。

 

相手は数で圧倒的に勝る袁紹(エンショウ)軍。しかも総大将の袁紹は英雄としてはめっぽう強く、正攻法ではさしもの曹操にも、とても勝ち目があるものではありませんでした。

 

前哨戦でこそ顔良、文醜という袁紹軍の大将格を討ち取って圧倒しますが、袁紹本人が出てくると曹操軍はじりじりと後退し、本陣である官渡に追いつめられます。その上苦し紛れの決戦にも敗北し、あと一歩で壊滅という事態に陥ってしまったのです。

 

勝ちに乗り、全軍で官渡城を攻め立てる袁紹軍。誰もが、この戦いでは袁紹の勝利を予見したとすら言われています。

 

しかしこの時、奇跡的にも許攸(キョユウ)という人物が曹操軍に投降してきます。

 

許攸は意地の汚い性格で、犯罪を犯した家族が逮捕されたのをきっかけに袁紹軍を離反。戦争に必要な物資をそろえた兵糧庫の場所という情報を手土産に、曹操へと自分を売り込みに来たのです。

 

許攸の下卑た人格を知る部下たちはこの情報を嘘であると思い二の足を踏む中、当の曹操は一部参謀の同意を得るとすぐに出陣。許攸の情報通り、兵糧庫へ自ら奇襲部隊を進めます。

 

そして結局、この行動により兵糧庫は陥落。事態を察した袁紹が派遣した軽装の救援部隊も蹴散らし、ついには袁紹軍に大勝。生涯の窮地を乗り切ったのです。

 

 

まさに「奇襲による勝利」、「勝てると見れば即座に勝ちに行く」という姿勢が、大英雄・袁紹の圧倒的大軍を打ち破った決め手と言えるでしょう。

 

 

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大軍指揮にもなると……

 

 

さて、そんな天才兵法家・曹操にも、苦手とする戦いがあります。自ら奇襲を仕掛けるという手段が使えない、大軍を率いての大合戦です。

 

 

例えば赤壁の戦いでは呉の大都督・周瑜に手ひどい敗北を喫しましたし、漢中をかけた劉備との決戦では、ひたすら防戦に専念する劉備を相手に攻めあぐねて退却、この戦いも落としています。

 

そしてこちらは負け戦ではありませんが、涼州の軍閥との決戦においても、大将である馬超自らの突撃を前にあわやというシーンもありました。

 

 

人には得意不得意があるとは言いますが、あの天才曹操にもこんな弱点があったんですね……

 

 

 

 

曹操と孫子兵法

続きを読む≫ 2017/06/29 21:11:29

 

 

 

最近、本屋でも孫子兵法とかをしばしば見かけますよね。

 

同じ兵法書でも、呉子、六韜、三略その他いろいろと……幾多の兵法書に水をあけて大人気です。

 

曰く、「経営術にも応用できるから超おすすめ!」とか何とか。

 

 

まあ、実際そんな謳い文句も理解できてしまうほど、現代に通用する部分が多い……というのが私の考え。

 

 

 

さて、じゃあ孫子兵法って何物なのかという点に、今回は軽く触れていきましょう。

 

……三国志で有名なあの人が、本格的に絡んでいるんですよ。

 

 

 

 

大物たちの愛読書!

 

 

 

歴史を見ても、孫子兵法が好きな人たちは強い人が多いです。

 

風林火山の教えを拝借し、今や孫子以上に有名な言葉にしてしまったかもしれない人・武田信玄、座右の銘として孫子の名前を挙げた征服者・ナポレオン……他にも古今東西、いろんな人たちが好んで孫子に親しんでます。

 

それだけとんでもない本なんですね。

 

というか、古書は大抵、けっこうおもしろいことを書いてます。

 

 

 

肝心な教えの内容は?

 

 

 

要約すると、以下の通り。

 

 

 

・勝てない戦いは断固として避けるべし。十分勝てそうな場合のみ戦うといい

 

・自分と相手の力量、情報は事細かに調べ上げ、事前準備の段階で「誰でも勝てる状況」を作る人こそ一番すごい

 

・戦いは騙し合いである。正攻法と奇襲をうまく混ぜて、不意打ち(奇襲)で、敵の予想外の場所を崩すことが、勝利を確定させる手段である。

 

・自他の兵力や性格、戦う場所、敵の状況によって変幻自在に戦い方を変えることが重要である。

 

・そもそも戦争は国家の一大事。最終手段である。理想は「戦わずして勝つ」

 

 

 

ふむ、こんなところか(´・ω・`)

 

特に中国の兵法書は、書いた人の武勇伝的なところが大きく、けっこう曖昧な部分が多いです。

 

 

 

孫子はその中でも特に抽象的な部分の多い書物の一つで、だからこそ戦争以外にもいろいろと知ることができるのが強みですね。

 

 

 

例えば生き方だったり、人間関係だったり、経営術だったり……。

 

中国古書は、何だかんだ人間の心理を突いたものが多いです。
紀元前から心理学や哲学が色々盛んとか、人間っていったい何なんだ……。

 

 

 

 

 

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勝つことがいいとは限らない?

 

 

「百戦百勝は善の善なる物に非ず」

 

孫子の一説に、こんな言葉もあります。

 

 

つまり、「戦って勝ちまくる事は本当にすごい事とは言えない」とまあ、こんな感じの意味になります。

 

簡単に言うと「戦争して勝つだけでは能がない」と。こんな感じ。

 

 

争うのではなく、心を攻めることが上策。

 

 

もし勝っても、ダメージがあまりに大きそうなら、いっそ負けて逃げてしまうのも一つの手段。

 

 

 

プライドが高いと、どうしても戦って屈服させてしまいたくなるものですが、それだけだと、どこかで痛み分けになってしまいますからね。

 

どこかに必ず「落としどころ」を考えて戦いの場に臨むのも、1流のトップの役目なのかもしれません。

 

 

 

実は今出回っているのは……

 

 

そんな世界的に有名な孫子兵法ですが、実は三国志に、これを出回らせた立役者がいるのです。

 

ズバリ、曹操! この人こそ、孫子の教えを忠実に再現し戦い、天下に王手をかけるに至った人物です。

 

 

また、隠遁生活時代には孫子の注釈にも力を入れており、今出回ているものは彼の注釈が加わったものをベースにしているとか。

 

 

曹操……いったい何者なんだ、この人は……

 

 

続きを読む≫ 2017/03/26 01:46:26
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