荀彧 文若


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荀彧 文若

 

 

生没年:延熹6年(163)~建安17年(212)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州潁川郡潁陰県

 

 

勝手に私的能力評

 

荀彧 後漢 魏 潁川 危険人物 宰相 王佐の才 かーちゃん 曹操

 

統率 D+ 潁川名士の元締めとも言うべき存在だが、戦争に出るようなタイプではない。最期は連れていかれたけど。
武力 D 武勇に関しては不明。
知力 S- 司馬懿からも「彼以上の知者は知らん」とまで言われたとかで。実際に曹操軍における留守番役としては、この上ない功績を立てた。最期にしくじったのが無念。
政治 S 内政と言っても主な活躍場所は朝廷内の工作や人事的な意味での政治だが……彼の推挙や工作活動にほとんど間違いはない。
人望 S 家柄良くて頭も良くてイケメンとくれば寄り付かない人はいないだろうが……実際、かなりの影響力を持っていた。というか曹操を尻に敷く奥さんみたいでなんか笑える。

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荀彧(ジュンイク)、字は文若(ブンジャク)。漢室を立て直すために英雄・曹操を招き入れたものの、その曹操によって漢室を脅かされ、最期には排除されてしまった悲劇の名宰相ですね。

 

彼も趙雲と同じく別伝を立てられて崇拝されている人物で、その人気の高さが伺えます。

 

 

彼の漢室への見方は、まさに「乱世を抑える旗印」。そのため、あくまで漢王朝への忠義に殉じた英雄的存在として正史でも演義でも描かれており、晋の足掛かりを作った司馬懿(シバイ)からも尊敬される人物でした。

 

 

 

……が、この人の記述は見ているとどうにも胡散臭い。というのも、功績そのものは文句の言いようがないのですが、漢室至上主義にしては、どうにも曹操にベッタリとくっつきすぎなのではと……

 

 

今回はそこのところの裏も考えつつ、荀彧の生涯を追っていこうと思います。

 


 

 

 

 

人物評

 

 

さて、荀彧のヤバさ(!?)を断片的に述べたところで、今度は歴史家たちの荀彧評を見てみましょう。

 

 

まず、三国志を編纂した陳寿は、彼をこのように評しています。

 

 

荀彧は涼やかないでたちで、道理をわきまえた態度と王を支える宰相の風格を持っていた。

 

また時運を認知出来る能力と先見の明をも持ち合わせていたが、自己の理想を確立することができなかった。

 

 

つまり、イケメンでとんでもない切れ者、しかも態度や風格まで良好のオーバースペック気味の人間と評しながら、自分の思い描く天下を掴むところまでは行かなかったとしています。

 

 

また、徹頭徹尾後漢の臣下という立場で曹操を支えながら三国志の魏書に、しかも重臣としてその伝が立てられている辺り、陳寿からすると「荀彧の本心は魏にあった」という解釈が見えてきます。

 

 

 

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しかし一方で、

 

・最初から最後まで漢王朝の家臣としての立場で居続けた

 

曹操の魏公就任に反対した

 

 

という事実から、「漢王朝に最期まで尽くした、まさに忠義の化身である」とする声も大きく、この2つの意見が織り交ざって現代の荀彧像はかなり複雑な物になっています。

 

 

特に荀彧を漢の忠臣とするにあたって、漢王朝の家臣をまとめた「後漢書」にも荀彧伝があったり、また三国志を注釈した裴松之も荀彧の忠義を疑問視する声には逐一反対意見を述べていたりと、特に荀彧=漢王朝のために最後に曹操と争った忠臣」という見方はかなり根強いと見てよいでしょう。

 

 

が、一方で荀彧忠臣説においては「荀彧曹操擁立って、言ってしまえば泥棒のために壁を壊して金庫の鍵まで開けてあげたようなものだよね?」というツッコミも上がっており、なかなかに荀彧評はカオスなことになっていますね。

 

 

 

特に荀彧忠臣説を採る唐の司馬光なんかは「本伝にはしばしば、『荀彧は漢の高祖・劉邦や漢帝国が建立した時の話を引き合いに出して、曹操の動きを例えた』みたいな記述があるが、あれは絶対嘘だ。創作だ! 漢の忠臣である荀彧が損なことをするはずがない!」とどう考えても感情論本伝の内容にまで言及しており、もはや理論性もクソもあったものではないくらいまで話が白熱化しているのが伺えます。

 

 

 

 

実際のところはどうなのか……

 

 

 

実際のところと銘打ちながらも、結局は個人的な意見になってしまいますが……

 

どうにも「漢王朝の威光を利用し、曹操を理想の帝王に染め上げる」といった大方針が、荀彧の本性のような気がしてなりません。

 

 

そしてもう一つの特徴として見えてくるのが、「漢史ヲタ」。

 

司馬光が嘘と断じた話でも出てきましたが、荀彧曹操に求めた覇道には、常に「過去の歴史」に根差したものでした。とはいえ歴史話を持ち出して何かを説くのは当時の基本だけど

 

 

荀彧の場合、持ち出す故事はだいたい漢王朝の設立とか、そんなところ。

 

 

例えば漢室の帝を奉戴することを献策した時にも「高祖・劉邦は、項羽によって当時の帝を殺された際は喪に服して忠義を示し、多くの人の感銘を得ました」などとたとえ話を切り出しており、曹操袁紹との戦いを決める際にもやはり劉邦と項羽の差を説いて話を進めています。

 

 

極めつけは官渡の戦いの際にも、逃げようとした曹操に対し、「劉邦と項羽は天下を争う時に、どちらも自分から逃げようとはしませんでしたぞ!」と強く諫言しています。

 

 

 

ちなみに劉邦はご存知の通り、この後天下を手中に収めて漢帝国を築き上げていますし、曹操を漢から続く新たな時代の始祖に仕立て上げようという野心があったのでしょう。

 

 

 

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その死の真相や如何に?

 

 

 

さて、荀彧の死の真相ですが……正直、よくわかりません。

 

とにかく言えるのは、

 

 

1・曹操の公爵就任に反対

 

2・失脚し憂悶の内に死去

 

 

この2点。

 

 

まず、荀彧の失脚について。

 

 

 

荀彧は実のところ、曹操の戦争に参陣したことというのがほとんどありませんでした。特に漢王朝を奉戴してからというもの、常に中央の朝廷で漢臣として働き詰めで、そこから動いた形跡はありません。

 

 

にもかかわらず、その死の間際は軍の慰労のために中央を離れ、しかもそこから中央に帰れないまま引き留めを食らって、結局寿春で病死。

 

その後、曹操は晴れて魏公に就任したわけですが……。

 

 

 

どう考えても話が出来過ぎています。やはりこれは、魏公就任に賛成した面々、あるいはそんな話が幕僚内で出たことによって荀彧を警戒した漢の直臣のどちらかの手によって完全に失脚してしまったと考えるのが妥当でしょう。

 

 

 

では、なぜ荀彧は魏公就任に反対したのでしょうか?

 

 

これに関しては、もしかしたら先述の「漢史ヲタ」という勝手な推測から考えて、新の王莽(オウモウ)が頭に浮かんだのかもしれません。

 

王莽は前漢と後漢のちょうど境目の辺りに生きたじんぶつで、彼は前漢から帝位を簒奪し、新王朝を建国。しかしわずか1代で漢王朝に帝位を奪い返され、後漢王朝の幕開けの踏み台になったという汚名が長い歴史に刻まれた人物なのです。

 

 

もしかしたら荀彧は、曹操の魏公就任に対し、この王莽の末路を想像してしまい、真っ向から魏公就任に反対していたのかもしれません。

 

 

 

あるいは、もう一つ思い浮かぶ要因としては、自己保身。

 

 

実は漢王朝は曹操の庇護を受けてはいたものの、その実水面下では曹操派と王朝派の熾烈な権力争いが続いており、時には曹操暗殺未遂に繋がるなど必ずしも良好な関係とは言い切れませんでした。

 

 

そんな中で、曹操派の幕僚である董昭(トウショウ)らが曹操の魏公就任の話を持ち掛けたのですから、形の上では漢室の直臣として王朝とベッタリの荀彧としては、身の危険を感じる状況だったとしてもおかしくないでしょう。

 

 

いずれにせよ、荀彧はあのタイミングで死ぬべくして死んだ、あるいは殺されたのは間違いなく、おそらく病死しなくても曹操、あるいは漢室によって獄死という末路が待っていたのではないかと言われています。

 

 

この二人の関係の終わりには、いったいどんな闇があったというのか……。

続きを読む≫ 2018/02/05 15:32:05

 

 

 

 

荀彧スパルタ覇王擁立法

 

 

 

さて、実は呂布の反乱に際して曹操の安全策を否定し独自の「覇業論」を唱えたあたりからそれっぽい片鱗はありましたが……袁紹との関係が悪化するにあたり、そのスパルタな方針がより明確になりつつありました。

 

 

 

「最近曹操の様子がおかしい」

 

 

皆口々にそう言っており、「きっと戦いで負けがこんでいたのが原因だろう」と噂をしていました。しかし、荀彧だけは「何かあるな」と察知し、曹操にわけを問い詰めます。

 

すると曹操が取り出したのは、袁紹からの手紙。内容は曹操の品格、人物、果ては家柄までをも馬鹿にしたような挑発文だったのです。

 

 

「自分の何倍もの巨大勢力を誇る袁紹と戦うとかもう無理死ぬ」とばかりにうろたえる実はヘタレ曹操に、荀彧は今一度、はっきりと自らの覇王論を主張。

 

 

 

袁紹さえ倒せば天下を取れたも同然! 度量、知略、武力、徳義。すべてにおいて殿は勝っておられます! 何を恐れるものがあろうか!」

 

 

袁紹は、言わば時代を象徴する英雄。つまらない人物と思われがちですが、十分な大物なのです。そんな大人物が何倍もの勢力を頼りに攻めかかってこようかという時にこの姿勢。この完全に開き直った在り方が、もしかしたら荀彧の本当の姿なのかもしれません。あと地味に主君の尻叩いてる

 

 

その後も荀彧はまるで強気の姿勢を崩さず、家臣団の「袁紹に勝つのは難しいな」という意見に対しても声高に否定。

 

袁紹の人材は性格に難があって癖が強い。崩れ去るのはそう遠くないぞ」とやはり強気の姿勢を崩さず、建安5年(200)、とうとう曹操地獄に突き落とす袁紹との決戦のため許都より送り出したのでした。

 

 

 

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前門の袁紹、後門の荀彧

 

 

 

「敵軍の対象である顔良(ガンリョウ)、文醜(ブンシュウ)は所詮匹夫の勇」。荀彧は戦前の袁紹軍人物評でそう主張していましたが、曹操荀彧の予見通り先鋒隊を率いてきた顔良、文醜両将をそれぞれ1度の戦いで討ち取って初戦を優位に進めていました。

 

 

しかし、相手は「天下に最も近い」と謳われる袁紹軍。序盤の優位などあっという間に覆され、曹操軍は砦内に押し込まれて窮地に陥っていました。

 

さらに死に物狂いの防戦を続けているうちに大事な兵糧も欠乏。いよいよ全滅の危機に立たされた曹操「もうヤダおうち帰る!」前線基地を放棄、後退して仕切り直すことを決意。

 

その旨を荀彧に手紙で伝えますが、「ここが天下の正念場。退いたほうが負ける状況です。そろそろ戦場でも変化が起きるはず。それに乗じて奇策を用いるのです!」と激励。早い話が、「勝つまで帰ってくるな!」と曹操に喝を入れたのです。

 

 

前には敵、後ろはおっかないカーチャン幕僚。完全に挟み込まれて逃げ場がないことを悟った曹操は、思いとどまり一念発起。

 

荀彧の手紙の通り、敵の輸送隊を捕捉して袁紹軍の補給を絶ち、ついに勝利を収めたのでした。

 

 

 

 

 

曹操の尻叩き

 

 

 

さて、官渡の戦いに勝ったとはいえ、未だに袁紹との戦力差は超劣勢を免れた程度。さらに袁紹も存命でなかなか隙が見当たらず、もう一度決戦を挑もうにも兵糧も不足状態でした。

 

そのため、曹操袁紹との決着を断念。ひとまず南の劉表(リュウヒョウ)に標的を変えようとしますが……これを許さないのが荀彧。「袁紹が力を盛り返せば成功の機会は失われます! 敗北で力を失った隙を狙うのです!」と、再び対袁紹の戦線に曹操を放り投げたのです。

 

そんなやり取りの後、圧倒的な強豪・袁紹との戦いに明け暮れた曹操ですが……官渡の戦いから2年後の建安7年(202)、袁紹が病気のため死去。袁紹の息子らの間で跡目争いがおこり、また西に派遣した鍾繇が手なずけた馬騰(バトウ)ら西涼の軍勢の介入もあって形勢は次第に逆転していったのです。

 

 

そして建安9年(204)、曹操はついに袁紹の本拠地であった鄴(ギョウ)を制圧。冀州(キシュウ)牧に就任し、もはや袁紹の遺した勢力など天下に無き物とすることに成功したのです。

 

なおこの時臣下には「昔は冀州を中心に九州を設置し、広大な領地を治めたとか。殿もそうなさいませ」と曹操に進言する者がいましたが、荀彧はこの意見には真っ向から反対。「今の情勢で独裁を目指せば、周囲の反感を買って面倒なことになる」と力説し、曹操にこの案を取り下げさせたのです。

 

 

そしてついに建安12年(207)、曹操袁紹の息子らを含む北方の脅威を完全に駆逐。天下の大半を手にすることになったのです。

 

この時曹操配下には大規模な賞与が行われましたが、荀彧もその中で領土の大幅加増を受け、領土食邑は2千戸と、かなりの大身になったのでした。

 

 

 

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謎の死

 

 

 

さて、建安13年(208)には、曹操はいよいよ南への転身を決意。荀彧に戦略構想について尋ねますが、荀彧は「南の劉表も追い詰められたことは悟っているでしょう」と推察し、堂々と進軍する一方、軽装の部隊で間道を抜けて奇襲作戦を決行し戦意を削ぐ作戦を献策。

 

曹操がその通りに進む途上、偶然にも劉表が病死。その後を継いだ息子の劉琮(リュウソウ)は抵抗の遺志を示さず曹操に降伏するというラッキーに見舞われました。

 

 

これによって無傷で荊州を得た曹操は調子づいてさらに南進を進めますが……この時、劉備と手を結んだ江東の孫権(ソンケン)が差し向けた軍勢に抵抗され敗北。

 

これ以降の曹操は精彩を欠き、荀彧との関係もギクシャクするようになっていったようです。

 

 

 

そんなこんなで関係が冷え込みつつあった建安17年(212)の事。この時、曹操幕僚たちの中では「曹操を公爵に」という声が高まり、曹操もこれに悩んで荀彧に相談してみることに。

 

すると荀彧の答えは、

 

「漢の忠臣として立ち上がった以上、下手に上にのし上がって『正義の軍団』の印象を損なうのはよろしくありません」

 

 

とのもの。この時の曹操は、「まあ荀彧が言うのならば」と一度公就任を取りやめますが、内心では曹操による天下をいち早く望む群衆との板挟みか野心ゆえか、気持ちは穏やかではなかったとか。

 

 

また、この年、曹操孫権討伐の軍を上げており、この時荀彧は「軍の慰労」という形で中央の朝廷から引っ張り出されてしまっています。

 

さらにその後も軍中に引き留められる形となり、中央には戻れず仕舞い。早い話が、失脚してしまったのではと歴史家の間では言われています。

 

 

その後曹操軍は孫権討伐のために自領を旅立っていきますが、荀彧は病気のために寿春(ジュシュン)に残留。その地でそのまま病死してしまったのでした。

 

 

『魏氏春秋』では、病死の過程についての有名な逸話が載っています。

 

 

曹操はある時、荀彧に慰労のために料理を送りましたが、荀彧が箱を開けると、その中身は空っぽ。

 

つまり、「用済み」。そう解釈した荀彧は、服毒自殺。

 

 

これの他にも、荀彧の死は曹操の冷酷さをアピールするための材料として使われている事が多く、なかなか興味深い……

続きを読む≫ 2018/02/03 15:10:03

 

 

 

王佐、乱世に出る

 

 

 

荀彧は「性悪説」でおなじみの荀子の子孫と言われており、地元の潁川で多大なネットワークを構築している名士。しかも本人も相当な逸材だったようで、曹操の才を早くから見抜いていた何顒(カギョウ)の人物評をして「王佐の才(帝王の宰相としての逸材)」とまで言わしめたとされています。

 

 

 

そんな荀彧が世に出たのは永漢元年(187)の事。孝廉(コウレン:地元推挙)によって守宮令(宮中の文房具などの備品管理)に任継されました。

 

 

……が、そのしばらく後、宮中は政争によって都が荒廃し董卓(トウタク)が実権を握ると、地方官僚の役職を願い出て中央を脱出。そのまま任地には赴かず地元に逃げ帰りました。

 

そして帰ってきた故郷で、長老たちに向けて先祖代々からの土地を捨てての疎開を提言。しかし、当時生まれ出た土地は特別なものとされており、これを捨てるのは一大決心と言える大変な事でした。

 

当然、ほとんどは土地を捨てる決心がつかず、結局董卓と反発した群雄たちによる争いが始まってしまったのです。

 

 

そんなこんなで中、荀彧らを招集しようと冀州(キシュウ)の州牧をしている韓馥(カンフク)から、直々のお誘いがかかってきました。

 

冀州と言えば、都の洛陽から黄河を挟み、さらに奥地へ向かった先。結局誰も自分の言葉に従わなかったため、荀彧は自分の一族を引き連れて韓馥に会いに行くことにしたのです。

 

 

 

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我が子房

 

 

 

 

さて、こうして冀州の韓馥に会いに行くことになった荀彧ですが、ここで一つ、とんでもない報告を受けたのです。

 

なんと韓馥の勢力は、名族である袁紹(エンショウ)に権限を譲渡する形で滅亡。荀彧が行こうとしていた冀州の主は、既に韓馥ではなくなってしまったのです。

 

 

しかし、袁紹はちょうど自身の手足になる人材を探しているところで、高名な名士である荀彧が来たことを喜び、すぐに改めて招集。上客として迎え入れられ、同郷者や兄弟が袁紹に任用されているのもあって特別待遇を受けることになったのです。

 

……が、当の荀彧は「袁紹は大事を為す器ではない」と考え、そのまま別の主君を探す道を選んだのです。

 

 

 

と、そんな折、当時は奮武将軍(フンブショウグン)という将軍を自称していたにすぎない曹操に着目。

 

おそらく、何か感じ入る所があったのでしょう。「この男ならば大事を為せる」とばかりに袁紹の元を去り、初平2年(191)、荀彧はまだまだ群雄としてもあまりに小さい曹操の陣営へと自ら身を投じたのです。

 

 

曹操は思わぬ良家の大物が自らに仕官したことで大喜び。荀彧を指して「我が子房(前漢の天才軍師・張良)」と褒め称え、彼を司馬(シバ:司馬と言えば国家軍事の元締めだが、おそらくここでは曹操の属官と思われる)に任命し、以後曹操荀彧と助けを得て、天下の大勢力にのしあがることになるのです。

 

 

 

 

 

兗州危機

 

 

 

さて、こうして曹操軍に収まった荀彧ですが、この頃の曹操には一つ懸念がありました。

 

西の長安にて天下を狙う董卓。彼は以前曹操を叩きのめしたこともあり、この時も群雄としては破格の戦力でしばしば曹操領の付近にまで出撃していた危険人物です。

 

 

……が、董卓を警戒する曹操に比べ、荀彧は素知らぬ顔。「董卓は敵を作り過ぎました。いずれ内乱によっていなくなるでしょう」と述べ、翌年にはその予測通りに董卓は死亡。李傕(リカク)らが跡を継いだものの、以後その勢力は崩落の道を歩むようになるのでした。

 

 

 

さて、そんな中、曹操は兗州(エンシュウ)を掌握し、州牧に昇進。ついに1つの州を傘下に収め、群雄としてようやく独り立ちが叶ったのです。

 

 

そんな折の興平元年(194)、曹操は同盟関係にある袁紹の依頼を受け、お隣の徐州(ジョシュウ)に割拠する陶謙(トウケン)への攻撃を開始。荀彧は留守番役として兗州にとどまりましたが……この時、どういうわけか曹操の親友である張邈(チョウバク)からの使者が、荀彧の守る城へとやってきたのです。

 

 

董卓の元で勇名をはせた、あの呂布(リョフ)が援軍に来てくれました。彼らに戦ってもらうため、兵糧をいただけないでしょうか?」

 

 

これを聞いた荀彧は、すぐに事の次第を察知。「張邈らが呂布を迎え入れて曹操を裏切った」と断定して、即座に軍備を整えることに。同時に同じく守備を任されていた夏侯惇(カコウトン)に救援を要請し、臨戦態勢を整えます。

 

 

 

しかし、驚くべきことに、荀彧が戦闘準備を整えた時点で、兗州のほとんどが呂布側に呼応。さらに荀彧の城でも上級官吏の大半が裏切るという大変な事態になってしまっていたのです。

 

結局、到着した夏侯惇によって反乱を計画した者が数十人処刑されたことで騒ぎは収まりましたが……それでも周囲は敵だらけ。まだまだ予断を許さない状況は続いていました。

 

 

荀彧はこの状況を打破するため、漁夫の利を狙ってやってきていた西隣の豫洲(ヨシュウ)刺史である郭貢(カクコウ)と面談し、彼の軍勢の乱入を阻止。

 

その後、同じく呂布の侵攻を食い止めていた程昱(テイイク)らとの連携を密にし、郡の太守を説得して一部領土を回復。結局、荀彧らは自らの守る鄄(ケン)の他、范(ハン)、東阿(トウア)の3郡を確保。

 

 

こういった荀彧らのおかげで、曹操は間一髪で領土の失陥を免れ、後に飢饉により停戦。呂布と引き分けに持ち越すことができたのです。

 

 

 

その後、呂布としばらくにらみ合いが続いたある日、対立していた徐州の陶謙が死亡したことを聞いた曹操は、すかさず徐州平定を画策。まず東で力を整えた後、満を持して呂布と決着をつけようとしたのです。

 

……が、荀彧はこれに対しては反対意見を述べ、「まずは本拠地の安全確保が先です」と呂布討伐を進言。曹操荀彧の言うとおりに兵を動かし、呂布と再戦。今度は見事に大勝し、兗州から駆逐することに成功したのです。

 

 

 

 

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名士ネットワーク

 

 

 

建安元年(196)、董卓残党らによる荒廃から逃れるため、漢の帝が東へと脱出し、再び元の都である洛陽まで逃げてきました。

 

曹操はこれを見て、自らの影響下である許(キョ)に帝を迎え入れ、そこを首都とすることを計画。これには「簡単にはいきません」と反対する意見も多くありましたが、荀彧は完全にGOサイン。

 

 

「お国を気にかけて忠誠を形で示すのは、諸国への良い宣伝になりますし、その威光を使って民衆の忠誠心や各国と対応するに有利な状況、そして漢帝国を慕う英傑を招き寄せることができます。それに、現在帝を護衛している面々も、帝の庇護対象相手に足は引っ張れないでしょう。周囲の群雄が漢室に忠誠を抱いている今のうちに行動すべきです」

 

 

うーん、この漢の忠臣らしからぬ黒さ

 

 

かくして荀彧の意見を聞き入れた曹操は洛陽まで軍勢を派遣。帝を擁して各国に号令することで大義名分を得、司空(シクウ:法務大臣)と車騎将軍(シャキショウグン:本当はトップの大将軍だったが形上曹操の上にいる袁紹がゴネたため一つ下のランクに)の地位に任命されることとなったのです。

 

この時に荀彧もまた侍中(ジチュウ:皇帝の質問等への対応役)・尚書令(ショウショレイ:皇帝への上奏文を取り扱う)といったその気になれば皇帝を操ることもできる地位を二つ兼任するようになりましたが、その業務姿勢は清廉で厳正であったと伝えられています。

 

 

 

また、この以前から曹操軍の人材確保にも一役買っており、「漢室中央に仕えることになった荀彧の代わりに曹操を支えられる」として紹介した甥の荀攸(ジュンユウ)、そして山椒名宰相として知られる鍾繇(ショウヨウ)の二人を筆頭に、多くの人材を曹操陣営に加入させたのです。

 

 

荀彧が引っ張ってきたとされる人材は、同郷では戯志才(ギシサイ)、荀彧(カクカ)、陳羣(チングン)、杜襲(トシュウ)、辛毗(シンピ)、趙儼(チョウゲン)。さらには他所からも司馬懿(シバイ)や華歆(カキン)、王朗(オウロウ)、杜機(トキ)などそうそうたる面子。

 

彼らの他にも多くの大臣を輩出しており、推挙した人物の中で大成しなかったのは厳象(ゲンショウ)や韋康(イコウ)くらいのもので、しかも彼らも「反乱や内乱に巻き込まれて殺された」というのが小身で終わった原因であり、必ずしも能力が凡庸だったわけではないのだから驚きですね。

 

 

 

さて、そんなこんなで荀彧のバックアップもあって、張繍(チョウシュウ)や復活した呂布などのライバルを全て併呑した曹操。彼はいよいよ、これまで上の立場にあった袁紹との直接対決に臨むようになります。

 

しかし、双方の物量差は圧倒的。苦戦は必至という有り様でしたが、そんな二人の力量差を見ても、荀彧の目にはいろんな意味で迷いがありませんでした。

続きを読む≫ 2018/01/31 13:38:31
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