曹休 文烈


このエントリーをはてなブックマークに追加

曹休 文烈

 

 

生没年:?~太和2年(228)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

 

勝手に私的能力評

 

曹休 魏 名将 千里の駒 残念な晩年 知将

 

統率 A 荊州戦線の御大将。曹洪の手柄である定軍山の戦いの初戦大勝は彼の手によるものであり、統制力、戦闘力共にかなり上位と見てよいだろう。
武力 B 曹操軍の最精鋭騎馬隊・虎豹騎を率いたこともある。かわいい血縁だからというのもあるだろうが、弱い奴にそんな兵を引きさせるほど曹操の目は節穴ではない。
知力 B+ 意外かもしれないが、猛将と知将の2種類に分けた場合、曹休は知将タイプと言っていい。それだけに、石亭での痛恨の大敗が足を引っ張る。
政治 D 政治家でない以上高く評価はできない。
人望 B 曹丕の腹心として後を任される等、総大将に相応しい名声を持っていたようだ。しかしまあ、賈逵との子供じみたやり取りのせいで台無しになった感はある。

スポンサーリンク

 

曹休(ソウキュウ)、字は文烈(ブンレツ)。

 

昔から「無能」として、ひとつの戦いの敗戦ばかりを取り上げられることに定評がある人物ですね。史書を見る限り、それまでは曹操(ソウソウ)一族のやたら優秀な将軍の一人といった感じの人物だったのですが……最期の最期で名誉を挽回できずに亡くなったのが惜しまれます。

 

 

とはいえ、有名ゲームである無双シリーズにも、曹洪ら有力な曹一族を抑えて出演が決まっており、これからメディアによって大きく取り上げられ始めるのかなという期待を感じさせる人物。

 

今回は、そんな曹休の伝を辿ってみることにします。

 

 

 

 

 

 

 

我が千里の駒

 

 

曹操の一族は元々大身の富豪で一族も多くの人が集まっていましたが、世の中が戦乱になると一族の多くは故郷を捨てて疎開。曹休の一家も、この時に故郷を後にした曹一族のうちの1つでした。

 

 

そんな曹休一族は父親を中心に分家として独立した生活をしていましたが、曹休が十数歳の時に病死。残ってくれた食客の1人と共に父を埋葬すると、今度は長江を渡って呉に出立。すでに母も年老いており、極力安全なところで最後まで無事に過ごそうという魂胆があったのかもしれません。

 

 

 

そうして疎開先の呉でしばらく暮らすことになろうかというある時、一族の曹操が兵を挙げて決起したとの知らせが曹休の元へと届きました。

 

曹休は曹操の元にはせ参じることを決め、安全地帯の呉を抜け出して荊州に遡上。偽名を使って感心の目を掻い潜り、に間道伝いに北上し、やっとのことで曹操の元へと駆けつけることができたのです。

 

 

 

曹休を見た曹操は彼を気に入り、「我が千里の駒である」と側近に紹介し、以後は曹操の息子である曹丕と共に生活させるなど、我が子同然の特別待遇を施しました。

 

さらには自身の最精鋭騎馬隊「虎豹騎(コヒョウキ)」の指揮すらも一時期任せていたらしく、平時の宿営として側仕えするほどに信頼されていたのです。

 

 

 

 

まさかの張飛撃退

 

 

建安22年(217)、それまで漢中(カンチュウ)を巡って曹操と争っていた益州の劉備(リュウビ)が、ついに攻撃の手を本格化させます。

 

この時に軍を率いてやってきたのは、張飛(チョウヒ)、馬超(バチョウ)、呉蘭(ゴラン)らの精鋭部隊。

 

 

 

この時、曹操軍の大将は曹洪(ソウコウ)でしたが、曹操はその援軍として曹休を派遣します。

 

「扱いは参軍(軍師)だが、今回の戦いの真の大将はお前だ。しっかりやれよ」

 

大将の曹洪も曹操からの言伝を聞くと、曹休に実質的な指揮を譲るようになりました。

 

 

さて、こうして事実上の大将となった曹休の指揮のもと、張飛馬超ら歴戦の名将を迎え撃つことになった曹操軍。

 

 

劉備軍は呉蘭を大将として下弁(カベン)という地に陣を張っていましたが、翌年の建安23年(218)、張飛が別動隊を率いて曹操軍後方の固山(コザン)を占拠。曹洪軍を曹操本隊と分断する動きを見せます。

 

張飛が後方寸断に動いたと知った曹洪軍の面々は混乱し、「手薄になった呉蘭の本隊を狙う」か、はたまた「張飛の別動隊を攻撃して安全を確保する」かの二択に作戦が分かれますが、どう動くかをためらって行動に移せませんでした。

 

そんな時、実質的な対象である曹休は、敵の動きを観察し、曹洪らにひとつの提案をしました。

 

 

張飛の別動隊が本当にこちらを孤立させるつもりなら、威嚇するようにあからさまに動くのはおかしい。これはきっと罠でしょう。ここは呉蘭本隊を一気に攻め、敵が大勢を固める前にカタをつけましょう」

 

 

曹休の提案に、歴戦の猛将である曹洪もニッコリ。すぐに曹休の言った通りに手はずを整え、準備が整う前の呉蘭を急襲します。

 

案の定手薄となっていた呉蘭隊は曹洪軍の来襲に大いに動揺し、呉蘭や副将の雷銅は戦死。曹休の読みは見事に当たり、記念すべき最初の大戦を華々しい成果で飾ることに成功しました。

 

 

このままでは孤立してしまうと見た張飛隊もそそくさと退却。こうして、劉備軍は漢中から一時撤退を余儀なくされます。

 

この後曹操軍は結局漢中を失陥してしまいますが、初戦は曹休の活躍もあって、かなり優勢に事が運んでいたのですね。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

対呉戦線の総司令官

 

 

 

曹操が亡くなって兄弟分の曹丕がその後を継ぐと、曹休も前後の功績をたたえられて領軍将軍(リョウグンショウグン)に任ぜられ、さらに爵位を与えられて東陽亭侯(トウヨウテイコウ)に封ぜられました。

 

その少し後に夏侯惇が亡くなると仮節(カセツ:軍法違反者の処罰権限)を与えられ、さらに鎮南将軍(チンナンショウグン:南方を統べる大将クラス)、都督諸軍事(トトクショグンジ:現場総指揮官)にまで昇進し、いよいよ対呉戦線の総司令という立場が固まりました。

 

この時、曹丕は自ら曹休の見送りをしていたとあり、どことなく二人の友情の度合いが伺えますね。

 

 

まず、小手調べとばかりに孫権(ソンケン)が曹休に軍勢を差し向けますが、流れるようにこれを撃退。同時に別動隊に長江を渡らせ、孫権軍の陣営を数千軒にかけ焼き討ちを敢行するなど、強烈なしっぺ返しも行っています。

 

 

 

さらに位を挙げて征東将軍(セイトウショウグン:東側の軍事総司令)に位を上げた曹休は、黄初3年(222)の曹丕自らによる親征にも参加し、権力の証明として金のまさかりを与えられ、一軍の総指揮官として名将・張遼(チョウリョウ)ら20余りの軍勢の総監督を務めることとなりました。

 

 

曹休の壮大な軍勢を見た孫権は当然迎撃部隊を差し向けますが、孫権軍の迎撃隊の船が強風で転覆する事故が発生したのを見て、曹休は孫権軍への強襲を敢行。敵兵数千人を死に追いやる大戦果を挙げたのです。

 

 

結局この親征は撤退という形で失敗に終わりましたが、それでも孫権軍相手に奮戦した曹休の功績は大きく、揚州牧(ヨウシュウボク:揚州の州長官)に任命。呉を倒した暁にはその本拠地一帯を治めることになったのです。

 

 

 

黄初7年(226)に曹丕が死去すると、後を継いだ曹叡(ソウエイ)から爵位を昇進され、引き続き対呉の戦線を任されます。

 

そして皇帝入れ替わりの混乱に乗じて孫権が攻めてきた際には、近辺に駐在していた孫権軍をもはや語ることなどないとばかりに粉砕。

 

大将を討ち取り、配下の将軍たちは前後して降伏してきました。どうでもいい話ですが、ここで降伏した将軍の中には、あの韓当(カントウ)の息子もいたとか……

 

 

この活躍で大司馬(ダイシバ:国防長官的なアレ。軍事を取り仕切る超大型官僚職)任命され、曹休の功績、実力は魏国でも指折りの存在になったのですが……ここから待っていたのは世にも恐ろしい急降下の人生でした。

 

 

 

 

 

石亭の戦い、そして……

 

 

 

太和2年(228)、曹叡は呉征伐の軍を起こし、司馬懿(シバイ)と共に軍を二分し、曹休は片方の軍勢を指揮するようになりました。

 

 

折しもこの時、呉の武将である周魴(シュウホウ)が七通の手紙を書いて、降伏の意を表明します。

 

最初は曹休も疑っていましたが、孫権が周魴を疑って詰問したり、周魴も当時切るのは御法度とされた髪を切って謝罪しようやく許される様などをスパイから聞いて、「周魴の裏切りは事実だった」と断定。

 

曹休は、周魴の案内を受けて敵軍の城にまで全軍を進め、一気に勝負をつけようと考えます。

 

 

 

……しかし、実はこの投降は。周魴の七通の手紙も、孫権の疑念も、果ては髪を切っての迫真の謝罪も、すべてが曹休を誘い込むための策だったのです。

 

気付いたころにはすでに時遅く、曹休が出立した皖城(カンジョウ)は呉の襲撃を受けて落城。

 

 

 

「……汚名を着たまま、引き下がれるものか」

 

 

ここまで常勝、失敗を知らない曹休は、ここで撤退することなく力押しに進軍。そこには呉蜀の軍勢を派手に打ち破った策士・曹休の面影はなく、まんまと敵大将・陸遜(リクソン)の伏兵により大敗。

 

事態を察した友軍の賈逵(カキ)により曹休はなんとか助け出されますが、軍は壊滅に近く、別方面を攻撃していた司馬懿もこの敗北に伴い撤退し、作戦が失敗してしまいます。

 

 

 

この戦いにより曹休は精魂尽き果てた曹休は病を得て、曹叡らの励ましも虚しく、汚名を返上することもできず世を去りました。死因は背中の悪性の出来物だったそうです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

親孝行者

 

 

 

さて、曹休を代表する逸話の一つとして「肉親への情」という点があります。

 

儒教では必須の科目とも言ってもいい孝行なので、多少大げさに書かれている可能性もありますが……呉郡太守だった祖父の肖像画を見ると、長椅子から下りて、涙ながらに礼拝し、周囲の大人たちはこれを見て感嘆したとか。

 

 

 

当然、ここまでの情は育ててくれた母にも向けられており、母の死に際してこんな逸話も残っています。

 

母の死に際し、曹休は孝行の限りを尽くして哀悼した。

 

食事も満足に取れないほどの状態だったので、これを気遣った曹丕が喪を切り上げさせて肉を食べさせ酒を飲ませようとしたものの、曹休はその様子を見てますます衰弱するばかり。

 

曹休が故郷で母の葬式を上げたいと申し出ると、曹丕も「一晩で埋葬し、また帰ってくること」を条件にこれを許可した。

 

 

かくして葬式を上げて戻ってきた曹休を見ると、曹丕は慰めの言葉をかけてやった。

 

 

 

うーん、親が亡くなって悲しいのは間違いないですし、曹休の気持ちもわかりますが、喪主当人が衰弱するほどオーバーリアクションだと、親としてもかえって死にきれないというか……

 

何にせよ、それだけいい人だったのは間違いないでしょう。

 

 

 

賈逵とは仲が悪い?

 

 

また、賈逵伝には、曹休が賈逵を嫌っているような描写も数あります。

 

例えば、曹丕が賈逵を都督に任じようとすると、「剛直な性格で人を軽んじます」と讒言を入れて妨害を行っています。

 

 

また、石亭の戦いにおいても救援してくれた賈逵に対して「俺が捨ててきた武器を今すぐ拾いに行け」と無茶ぶりを命じて怒られたり、「来るのが遅かった」という理由で懲罰しようとしたり……

 

うーん、何ともギスギス……

 

 

 

対して賈逵の報は別段悪印象などなかったようですが……彼の剛直でどこまでも自重しない姿勢は、曹休からすると癪に障るところがあったようです。どっちかというと曹休が小さいだけなのは言うまでもない

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 2巻

 

 

正史 三国志〈2〉魏書 2 (ちくま学芸文庫)

中古価格
¥236から
(2017/11/12 20:43時点)

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

曹操
三国志の主人公と言えば、一般的には劉備が思い浮かばれるかもしれませんが、正史基準に考えてマジで答えを出すなら、この人こそ主人公にふさわしいと言えるでしょう。
曹丕
魏の初代皇帝は実はこの人。悪ふざけが過ぎたりする辺りやはり曹操の子ですが、こちらはおふざけの質が心理攻撃に偏っているためドS王子と呼ばれることに……
曹叡
別名・土木の鬼。宮殿を大量に増設して国の財政を傾けた暗君みたいに言われることもありますが、それは貧民層に仕事を与えて救うための政策という説も……
卞氏(武宣皇后)
貴賤でいえば「賤」に属する身分の人でしたが……曹操は才女を見つけるとそんなものお構いなしにかっさらうのです。実際、よくできた人だったんだなと。
曹彰
本当はもっと下の方に伝が記載されている人物……。曹操の息子の中で、武勇ひとつのみを、それもかなり色濃く継いだ人物です。
曹昂
死んで孝行息子となった長子。その実力は史書からは計れず未知数……
夏侯惇
魏の重臣筆頭格。曹操軍のメインヒロインです。
韓浩
屯田制で有名な人。他にも何人も携わっていますが、彼ばかりが有名に……
史渙
曹操軍初期の勇将……なんだがどうにも影が薄い……
夏侯淵
別名・白地将軍。これは蔑称だから敬意を表してこう呼んじゃあかんよ。
曹仁
( ゚∀゚)o彡゜てっぺき!てっぺき!!
曹純
曹仁の弟で、曹仁伝のついでに記述あり。 文句なしの名将……のはずなんですが、活躍期間がネック……
曹洪
ドケチでがめつい人。ですが、忠義に厚くここ一番で魅せてくれる頼れる人物です。
曹真
ハイパーチートデブ。人知勇すべてを持ち合わせる贅沢ぶりは、まさに将の中の将。 息子が残念なことでも有名です。
曹爽
豚になったさわやかさん
鄧颺
曹爽の取り巻きその1
丁謐
親父はそこそこ面白い人なんだけど、この人は……いや、司馬懿に喧嘩吹っ掛けたんだから大したものか。
畢軌
みんな大好き曹爽軍団の一員だよー
何晏
ヤク中にして仲間を見殺しにしようとする外道、そのくせ文学の才能は随一と言えるほどに突出……なかなか面白な人物です。
李勝
名前通りにはいかなかったよ
桓範
曹爽の取り巻きで唯一まとも・・・と思ったらDVの逸話があったでござる。
夏侯尚
ヤンデレ感漂う曹丕のマブダチ。
夏侯玄
優秀な外戚の人材なんですが……下手に人望があり過ぎても自滅するんだなって……
荀彧
穏やかで頭が良く、漢室への忠誠心の高い宰相…………と思っていたのか。
荀攸
打つ手に失策無し。賈詡と共にそう評されたガチ軍師。この人は戦場で策を練っている方が強く、むしろそういう仕事が専門だったのでしょう。脳筋絶対殺すマン。
賈詡
三国志の最優良軍師の一人。暗黒……?
袁渙
袁紹らと同族、つまり名族!
張範
なんつーかニート。すっげえニート。立派な人ですがニート。
涼茂
暴君相手に啖呵切って諫めた人。でもこの話の信憑性は微妙な物で……
国淵
史書の記述に大穴を開ける正論屋。俺この人好きやww
王脩(王修)
田疇はしばしば胡散臭いと言われますが……この人の忠義が胡散臭いとケチをつける声はまず聞きません。すげぇよ……仕えたのは袁譚なんだぜ。
田疇
ぶっちゃけ独立勢力でしょ、この人。
鮑信
曹操は後漢末の乱世において天下を統一寸前まで平定した英傑。その前半生で彼を評価した人物は数少ないですが、やはり見る人は見ているのです。
鍾繇
鍾会の親父さん……ですが、それ以上のアピールポイントが山ほどあるのに目立たないのが不思議だなと思いました。山椒。
華歆
正史では持ち上げられすぎなくらいの聖人君子、演義ではどうしようもないクズ。落差が激しすぎやしませんかね←
王朗
ただの国賊扱いとか遺憾でござる
程昱
けっこう有名どころですが、やはり知名度はまだ二流。 ガチムチの、気骨あふれるおじいさん。
郭嘉
天才軍師。そこに何らかの間違いがあるわけではありませんが……傅子の誇張表現どうした←
董昭
演義ではベジタリアン。本当この人って暗黒よね。なんだかんだいい人っぽい感じもするけど。
劉曄
こっちはガチな皇族。にもかかわらず人を殺したりアグレッシブ!
蒋済
キレッキレ酔いどれ軍師。この手の策士や謀臣はどうにも情に薄いとか心無いとかそういう印象を受けますが……この人を見ればその先入観も薄れるはず。
劉馥
短歌行で反発して斬られた人物として有名ですが、それは演義のお話。正史だと、「トンデモな能力を持った名政治家」の一人として、ひっそりと歴史に名を馳せてます。
温恢
合肥の緩衝材にしておそらく軍事の専門家。
賈逵
かきふらい
李孚
袁紹軍の文官で、後曹操軍に。こんなマニアックな人物、誰が知ろうってんだよ……
任峻
屯田政策試用の実行者。扱いは武官でいいのかな?
杜畿
激流に身を任せどうかしてしまった結果亡くなった人。つまり死因:溺死。報われねぇ……
倉慈
ネットで検索すると、大抵「掃除」に関するあれこれが出てくるような人。政治家としては、「恐れられながらも敬愛される」という最高の資質を持った辺境伯です。
張遼
魏の中でも最強クラスのレジェンド。
楽進
ちっちゃい突撃大将。最近無双シリーズにも顔を出しましたが、それまではどうにも地味。しかし、魏でも五本指に入る大将とも言われた武将で、その実力は折り紙付きです。なお資料の少なさ……
于禁
スミマセン、擁護のためとはいえ、記述と比べてもいろいろ書きすぎました……
張郃
無双だとなぜか美しい人。武官で食邑4300戸ってすごくね?
徐晃
用意周到な無敗の将軍。この人のやってること、再現しようとすると気が遠くなりそうです。
朱霊
不遇の歴戦武将。徐晃伝に彼の伝が付伝されていますが、載っている事績は失態だけ。活躍はまったく別の人物伝ばかりという。なにこれ、いじめ?
李典
無双では勘の人、三國志シリーズではハイバランスながら凹凸のないフラットな能力。武官だけど学者志向。そんな人。
李通
魏が誇るTHE・勇将の一人。なんか魏って猛将タイプの影薄いよね。
臧覇
どっかで「めっぱ」とか間違って読まれてた人。 まあ、マイナーだから仕方ないね!
孫観
臧覇の部下代表。
文聘
ブンペイペーイ(゚Д゚)
呂虔
これまたマイナーどころ。名太守です。
許褚
ゲームではだいたいほんわか癒し系。
典韋
どのゲームでも人情派の荒くれとして出るゲームですが、実際の出自もそんな感じだったとか……。なおスキンヘッドだったかどうかは不明。
龐徳
ヘッポコ于禁との対比として祭り上げられる勇将。
王粲
三国志の文学者代表格。前半生がブサメンの悲哀を物語っている……
桓階
正義のためなら伝統も破る。不義理のイメージをとことんぶち壊す帝王擁立論者です。
陳羣
謹厳実直なエリート官僚ですが、九品中正法や曹操への物騒な提案などから、腹黒な食わせ物の可能性が……
楊俊
やる気のないニート・司馬懿の実力を見抜いた眼力の持ち主。
趙儼
まったくと言っていいほど目立たないものの、曹操軍の影の柱石と言ってもいい大人物。
孫礼
猛獣狩りと孤軍奮闘に定評のある人物。というか孤立無援の中戦うとか虎を徒歩で追い払おうとするとか、本当何なんこの人。
満寵
誰かがこの名前をオンラインゲームで名乗っていた時、三国志ファンを名乗る腐女子から「卑猥な名前をつけるな」と怒られたことがあるらしい。なぜだ。
田豫(田予)
北方にて異民族と戦い続けた定住型傑物。陳寿も 「あの程度で終わる人間じゃないだろ」と述べていますが……
牽招
田豫に次ぐ北方エキスパート。この人も地味に劉備と関係持ちなのね……。というか、この人も大概モーヲタなのが面白いです。
郭淮
魏軍きってのピンチヒッター。しかし病気には弱いようで、大事な局面で二度も……
徐邈
酒、聖人、酒ェ!!
王淩
言う事聞かない人。後戻りできず専横路線に乗り切った司馬懿に対し、齢80で喧嘩を吹っ掛けるという剛毅なお方です。
毌丘倹
連鎖反応に巻き込まれての反逆、処刑。おまけに名前が覚えにくいから覚えても貰えない。何とも不遇な……
鄧艾
吃音で有名ですが、たぶんアスペルガーも併発してたんじゃないかな?
薛悌
誰この人と思って調べたら普通に傑物だったでござる
閻行
人物伝第一号がまさかの超マイナー武将。 「こいつ誰だよ」って人も多いでしょうが、実はとある有名武将を一方的に叩きのめしたことも……
殷署
微妙に強そうな人……だし実際に大物くさいが、記述は……うん。
棗祗
屯田は大反対の嵐で曹操自身も難色を示したのですが、一部部下が強固に主張したので結局実行、思いがけない成果を上げました。棗祗は、特に強固に主張した人物ですね。
高祚・解𢢼
正直、ただの一発屋。人物伝の主役に取り上げるのも同化という人物ですが、面白いのでやります。
師纂
彼が悪なのか鄧艾が悪なのか……

ホーム サイトマップ
お問い合わせ