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田豫(田予) 国譲

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:幽州漁陽郡雍奴県

 

 

 

 

田豫(デンヨ)、字は国譲(コクジョウ)。三国志の世界では、魏呉蜀の三国による激闘の記録ばかりが取り佐多されており、その裏側というのはほとんど知られていません。

 

しかし、三国それぞれが当時の中国国土外の異民族と激しく抗争しており、そのため三国の戦いの裏側にも多くの傑物が潜んでいるのです。

 

 

田豫なんかは、まさにその筆頭格。中央での戦禍でも一級線の活躍ができる人物ですが、彼は北方にて烏丸や鮮卑といった異民族らとの戦いに身を投じ続けたのです。

 

今回は、そんな田豫の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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多くの英雄と交わる者

 

 

 

田豫は意外にも乱世の英雄たちと縁があったようで、曹操(ソウソウ)の他にも劉備(リュウビ)、公孫瓚(コウソンサン)ともつながりがあります。

 

田豫が最初に史書に姿を見せたのは、劉備が公孫瓚の客将として出向いた時。この時の田豫はまだ少年だったのですが、劉備には大いに信頼されていました。

 

が、劉備が中央の豫洲(ヨシュウ)に転勤になると、田豫は老年の母の身を慮って同行を辞退。劉備は「お前と大業を果たせなくなったのが残念だと別れを惜しんだとされています。

 

 

 

その後、田豫は公孫瓚の元に仕えることになります。

 

公孫瓚と袁紹(エンショウ)の間で繰り広げられた戦いが激化したある時、公孫瓚の配下の将軍である王門(オウモン)なる人物が袁紹に寝返り。田豫の元に1万以上の大軍を率いて押し寄せてきたのです。

 

周囲は絶望ムードに包まれましたが、そんな中で田豫は突然城門の上に立ち、王門に対してこう言い放ったのです。

 

「あなたが袁紹に降ったのは相応の理由があったからだと思ったが、ここで我らに乱暴を働くなら、所詮あなたは戦乱を好む山賊と同じだな。それでもいいならさっさと攻めてもいよ!」

 

田豫の弁舌を聞いた王門は、なんだか自分の行いが急に恥ずかしくなって撤退。田豫は口先ひとつで人々を守ったのです。

 

 

公孫瓚は田豫に才能があると考えたものの、「才ある者は感謝しない」という持論に固執し田豫を隔離。結局公孫瓚は袁紹に滅ぼされ、田豫は自分と友人であった鮮于輔(センウホ)の元に向かったのです。

 

しかし、時は乱世。数多の群雄が立っては消滅していき、もはや誰に味方すればよいのかわからない状態。

 

鮮于輔もこの時相当味方づくりに迷ったようで、田豫はそんな鮮于輔に以下のように訴えかけています。

 

 

曹操(ソウソウ)こそが今後伸びていくでしょう。さあ、早く帰順を。モタモタしてはいられません」

 

 

かくして、鮮于輔は曹操に帰順。田豫も彼を説得したことから曹操に評価され、彼の属官を経て県令(ケンレイ:大きな県の長官)として地方に出て、高い治績を上げたため弋陽(ヨクヨウ)の郡太守にまで上り詰めたのです。

 

また、袁紹の旧領を併呑した後の烏丸征伐にも参加したようで、この時は北方で独立勢力を保っていた田疇(デンチュウ)を味方に引き入れるための使者を派遣しています。

 

 

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策士田豫

 

 

 

 

さて、こうして曹操の軍中に収まった田豫ですが……赤壁の戦いで曹操が敗北してしばらく、北方民族の動きが再び活発化。これを重く見た曹操は建安23年(218)、自身の息子である曹彰(ソウショウ)を烏丸討伐に赴かせ、田豫をその副将につけたのです。

 

討伐隊は一旦の休息として易水(エキスイ)の北に駐屯していましたが……なんとこの時、伏兵として数千の騎兵が討伐軍に奇襲。部隊は混乱に落ちりました。

 

 

しかし、そこで取り乱さず的確な指揮を行ったのが田豫でした。彼は地形を利用して即座に策を編み出し、車で円陣を敷いて内部に弓兵を配置。

 

さらに兵に見せかけた人形を置くことで敵軍を誘導し、敵が偽兵に邪魔されて進めなくなったところを一斉掃射。散り散りに逃げる敵軍を追撃して大勝利を収めたのです。
その後、曹彰の暴走活躍と田豫の策によって、烏丸の敵対勢力はあっという間に併呑されたのです。

 

 

翌年には南陽(ナンヨウ)太守に就任しましたが、この時の南陽は前太守の圧政に対する反乱の名残で逃亡者が多数山賊に身をやつし、死刑囚500が収容されているという有り様でした。

 

田豫はこの時、死刑囚全員と面会して全員に恩赦を与え、更生の道を示してやったのです。この噂はすぐに周辺に広がり、噂を聞いた山賊たちもすぐに山賊団を解散。一帯は一夜にして静けさを取り戻したと言われています。

 

 

 

 

北方の守り神

 

 

 

黄初元年(220)、曹丕(ソウヒ)が帝に即位すると、今度は再び北方にある鮮卑族の動きが活発化。田豫は護烏丸校尉(ゴウガンコウイ:対北方異民族のエキスパート)として再び北方に着任します。

 

こうして再び異民族との戦いに身を投じた田豫がもっとも恐れていた事態は、部族間の団結。異民族は基本的に部族同士で独立していましたが、外敵によって一致団結するのがもっとも危険だと判断したわけですね。

 

そこで田豫が編み出したのは、離間策。互いの部族が反目し、敵対し合うように仕組んだわけですね。

 

 

これによってお互いに疑心暗鬼になり始めた異民族でしたが、ついに1部族が異民族間の約定をたがえ、部族間の団結が決裂。強豪であった3部族のうち1部族が周囲から攻撃を受け、田豫に救援要請を求めてきたのです。

 

土地勘のない田豫は退路を断たれたり包囲されたり常に不利な状態での戦いを強いられましたが、いずれも策略を用いて逆転。

 

 

また、あくまで服従を拒否していた烏丸族の骨進(コツシン)という大王に対しても田豫は強硬手段を取り、なんとたったの100騎ほどで骨進の治める部落に侵入。慌てて服従しようとした骨進を斬り、周囲に威名を轟かせたのでした。

 

 

その後も周囲を荒らしまわった山賊の討伐や危険な相手の力を削ぎ落すといった働きに注力すること9年。田豫をはじめとしたエキスパートによって北方の治安は守られ、その活躍が認められて長楽亭侯(チョウラクテイコウ)の爵位が与えられることに。

 

しかし北方の権力者の座を狙う王雄(オウユウ)によって讒言を受けたため、田豫は再び北方を離れ汝南(ジョナン)太守に転任。殄夷将軍(テンイショウグン)となりました。

 

 

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晩年も知は衰えず

 

 

 

さて、こうして汝南太守となった田豫でしたが、太和6年(232)には攻め寄せてきた呉軍を撃退。この時、敵の大将を討ち取ることに成功しています。

 

 

そして、これに前後して、田豫は再び、今度は汝南太守のまま青州の軍を率い、北方に軍を向けることになったのです。というのも、遼東(リョウトウ)を有する公孫淵(コウソンエン)が反逆。対処の適任者として、田豫が推挙されたのが理由ですね。

 

この時に進軍をつづけた田豫でしたが、ここで公孫淵は呉と同盟。危険と見た中央からは風が強く船が出せないのもあって、帰還するようにと命令が出ました。

 

 

田豫はこの時、敵が逆に攻撃を仕掛けるのを予測。風の強さから敵軍が漂流すると踏んで、一見すると何の意味もないような海岸沿いに伏兵を配置しました。

 

諸将はそんな田豫の策を「滅茶苦茶すぎる」と嘲笑しましたが……やがて、田豫の計算通り敵軍が風に流され海岸沿いに漂流。全員を捕虜とする大戦果を挙げたのでした。

 

 

これほどの大戦果を挙げた田豫でしたが……今度は田豫に軍勢を使われて不満を覚えた青州刺史(セイシュウシシ)・程喜(テイキ)の讒言によってこの功績はすべて無かったことにされてしまったのです。

 

 

 

後に呉軍が大軍を率いて合肥に攻め寄せた際にも、総大将の満寵(マンチョウ)に対して「城をあえて攻めさせ、疲れを待ちましょう」と進言。攻城戦によって疲れたところを攻撃されるのを恐れた呉軍は結局引き上げていき、合肥を守り抜くことに成功したのです。

 

その後も敵軍がたびたび攻撃を仕掛けてくるも、田豫はこれを撃退。夜襲のデマが飛び交って軍が混乱する事件が起きた時も、一人だけ落ち着いたまま「動けば斬る」とだけ伝えて指揮系統の麻痺を防いだのです。

 

 

その後、田豫は再び護匈奴中郎将(ゴキョウドチュウロウショウ:北方異民族から領土を守る人物)、振威将軍(シンイショウグン)となり、幷州牧(ヘイシュウボク)として北方に復帰。

 

後に中央へと再び戻り、衛尉(エイイ:宮中の巡察官)、そして司馬懿(シバイ)に願い出てようやく太中大夫(タイチュウタイフ:帝の応対役だが、非常勤)として実質的に隠居。82歳で天命を全うしたのでした。

 

 

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清廉潔白ながら敵もまた多し

 

 

 

北方の対異民族のエキスパートとして、常に国を支え続けてきた田豫。敵も多くてしばしば別の場所にも飛ばされたりはしましたが、おおよそ官位に見合わないレベルの大活躍をしたすさまじい人物ですね。

 

そんな田豫を、陳寿は以下のように評しています。

 

 

清廉潔白で、策略はよく練られていた。しかし、あんな小さな州の刺史で終わったのは、働きとは見合っていない。

 

 

史書によればその生活は清貧そのもの。恩賞はすべて部下にくれてやり、異民族からの贈り物も帳簿につけて公共に寄贈。おかげで家族の生活は苦しかったとされていますね。

 

その態度は人種を超えて評価され、異民族からも節義を立派であると評されたとか。

 

 

『魏略』によれば、かつて救援した鮮卑の族長と仲良くなって「こいつを生活の足しにしてくれ」とこっそり大金を田豫に渡したことがあるそうな。

 

この時に田豫は喜んでお金を受け取ったものの、後で朝廷に事情を説明して全部国庫に放り込んでしまったのです。

 

さらにそれを褒められて褒賞に絹を大量に受け取った時も、半分は受け取ったもののもう半分は今後の兵士への褒賞にとっておいたとされています。

 

 

とまあこんな人物でありながら、敵が非常に多いのも彼の特徴。最後に、清廉潔白な田豫に敵が多かった理由を私なりに推察して紹介を締めたいと思います。

 

 

 

 

田豫はなんで嫌われる?

 

 

本文を見るだけでも、王雄と程喜に讒言を受けた田豫ですが、後ろ暗そうな逸話は他にもあります。

 

例えば、護烏丸校尉として勤務中には、ちょっとした規則違反から冷狐愚(レイコグ)という人物に弾劾を受けています。また、『孫資別伝』では孫資(ソンシ)なる人物に嫉妬して嘘八百の讒言を並べ立てたという記述まで。

 

 

特に後者はどこまで本当かわかりませんが……田豫というのはこういう噂の立つ人物だった可能性は否めません。

 

 

さて、大方の理由として考えられるのは、

 

 

1.卑しい家柄

 

2.割と空気を読めない人物

 

 

と、こういったところでしょうか。

 

 

まず家柄についてですが……田豫は幽州の辺境出身。しかも家族がどういう役職だったとか、そういう話を聞きません。つまり、下手をすれば庶民の出だった可能性が高いと言えるわけですね。

 

当時は九品中正法なる官吏登用制度が採用されていて、田豫が北方で活躍したのはこの制度が採用されて間もない頃。

 

つまり、純粋な能力主義が進められていたのですが、何年としないうちに、この制度はいつしか豪族による血統主義の政策に模様替わりしていった可能性があるのです。

 

 

もし九品中正法が早期から貴族主義の制度として利用されるようになっていたら……家柄も卑しく後ろ盾を持たない田豫は、こういった弾劾によって簡単に潰されてしまうのは仕方ないと言えるかもしれません。

 

 

続けて2の空気の読めない性格ですが……晩年衛尉をやっていた時の話です。

 

この時、田豫はたびたび老齢を理由に隠居したがったのですが、司馬懿はそれに対して「まだ元気なんだから頑張ってくれよ」と一切許可しませんでした。

 

 

そんな司馬懿に対して田豫が送った熱烈な手紙の内容がこちら。

 

 

「70を過ぎたジジイがいつまでも官位にすがっているのは、言ってしまえば金が鳴ってとっくに夜になっているのに休もうともしないような、もう罪人みたいなものです」

 

 

田豫はこんな文章を送ってまで隠居しようとしたわけですが……よくよく考えれば、この時の司馬懿もすでに70が近い高齢。司馬懿本人からしてみれば、自分へのディスりともとれる文章なのです。

 

 

まあ田豫にそんなつもりはなかったのでしょうが……並外れた功績や手柄があっさり握りつぶされた理由の一つに、こういう悪意の全くない爆弾発言もあったのかもしれませんね。

 

 

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