鄧艾 士載


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鄧艾 士載

 

 

生没年:?~景元5年(264)

 

所属:魏

 

生まれ:荊州義陽郡棘陽県

 

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 S- 姜維の天敵(ガチ)。あれだけの名将がああも手が出ないのも珍しい。ただし側近の師纂すら彼を貶めようとする辺り、部下の統制能力は疑問符が付く
武力 A 指揮官なので個人武勇に対して評価はできない。ただまあ、蜀への奇襲攻撃は相当マッシブな進軍でしたね。あんなの誰が真似できるか。
知力 姜維の狙いを看破し、よくボコす。蜀にもトドメを刺しており、張郃、曹真、郭淮に続く蜀のトラウマだったのではないかと想像できる。処世はダメダメだけど。
政治 おおよそ貧民上りの武官は政治に疎いはずなのだが、何の突然変異か統治や民政にも非常に明るかった。
人望 C- 六千超えの食邑とか破格もいいところ。現在では名将として後期組の中でもトップクラスの人気を誇るが、当時の人たちからの信望は残念の一言に集約される。

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鄧艾(トウガイ)、字は士載(シサイ)。三国志後期の名将といえば、おそらく姜維(キョウイ)と2トップで名が上がる人物ですね。

 

演義では姜維に云って劣るものの見事な戦いを見せ、正史に至っては姜維相手に互角以上の戦いを見せる……まさしく蜀のファンからすると呂蒙(リョモウ)や司馬懿(シバイ)あたりと並んで天敵と言ってもいいくらいの人物です。

 

 

元々は貧しい家の出でありながら、今なお名将として人気の鄧艾。今回は、そんな彼の伝と、まことしやかにささやかれる「性格の悪さが災いした」という評に対する答えを記載していければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

鄧艾は司馬一族股肱の臣のひとりであり、蜀征討の大きな功労者。にもかかわらず最期は身に覚えのない反逆者の汚名を着せられてのものであり、積極的に擁護する者も出てこないという殊勲者にあるまじき結末でした。

 

鄧艾自身の生涯を見るに反乱を目論む動機らしい動機はなく、おまけに讒言の出所である鍾会は鄧艾の失脚後に蜀の地で反乱を引き起こしています。その辺り考えるに、やはり鄧艾の反乱は鍾会によるでっち上げの可能性が高いと言えるでしょう。

 

 

しかし、鄧艾も鄧艾でやはり嫌われてそのまま誰にも庇ってもらえなかったこと、そして讒言を受ける前には有頂天になりすぎて独断専行すらも目立つようになった点に関しては、やはり不当に貶められるのもある意味仕方のない事と言える気がします。

 

 

 

そんな鄧艾を、陳寿は巻末で以下のように称しています。

 

 

強い意志力をもって功績を打ち立てたが禍いを防ぐ配慮に乏しく、たちまちのうちに災厄が訪れることになった

 

 

また彼の擁護を行った元部下の段灼(ダンシャク)なる人物も、擁護文の前置きには「鄧艾は強情でせっかちな性格で、人の気持ちを軽々しく踏みにじり、そのために誰も彼を弁護してやろうとしなかった」と書かれてしまっています。

 

 

忠誠心と能力は紛れもない本物でしたが、やはり当人の態度がまずかったせいで政敵に付け入る隙を与えてしまった感は否めません。

 

権力は人を狂わすとは言いますが……鄧艾ほどの人物であっても、膨大な権力を握ったがための過大な自己評価や全能感には抗えなかったようですね。

 

 

しかし反逆者という不当な評価を覆してからは一転、性格については特に言及されることは無くなり、近年では後期随一の名将としてメディアにも引っ張りだこ、彼の廟も立てられて現在では一部が現存しているとか。

 

さらには唐の時代に「武廟六十四将」なる中国史上最も優れた武将64選のようなものが選出されましたが、その中の1人に鄧艾も加えられています。

 

 

怨敵鍾会をはじめ反逆者たちの伝の中に名前を放り込まれてしまうなど当時は不遇の目立つ鄧艾でしたが、その活躍から着目されるのも早かったのですね。

 

 

ちなみにどうでもいい話ですが、鄧艾は豚足が大好物だったようですね。河南省商水県には「毎日食べ飽きないバラエティ豊かな豚足料理」がありますが、鄧艾が豚足好きだったことから考案されたともされています。

 

 

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鄧艾と吃音

 

 

 

さて、鄧艾を表す特徴として、すでにかなりポピュラーな欠点がひとつあります。

 

それは、吃音症。要するにどもりですね。

 

 

鄧艾の吃音の種類や重さがどれほどだったのかはわかりませんが、基本的にこれらの障害は何かをしゃべるときに相当な悪印象を与えてしまう大きなハンデです。

 

今でさえ障害者差別はなかなか抑えられないのが現状ですが、当時は障害という概念が存在しなかった時代。当然ながら障害者はクズやカスみたいな輩と無条件で同一視されることも多かったでしょうし、障害を患っているだけで悪と認定される事すらあったでしょう。

 

そんな中で有能さに目を付けて出世の糸口を見いだせたのですから、鄧艾の能力や彼を評価した人たちの人物眼は並大抵ではありません。

 

 

とにかく、大きなハンデを克服して貧民から大身に代出世を遂げた鄧艾のおかげで、中国では吃音の人を励ますときに彼の名を出すのが鉄板になったとか。

 

もしかすると、鄧艾によって吃音だけはかなり早くから理解が広まった……のかもしれませんね。

 

 

 

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鄧艾は発達障害?

 

 

 

 

さて、ここからは個人的な考察というか、ちょっと引っかかる部分について自分なりに意見を述べてみたいと思います。

 

タイトルにもしましたが、鄧艾の性格の悪さを考えてみると、もしかすると発達障害なのでは……と思えてしまう部分が少なくないのです。

 

 

おおよそ、それっぽい要因として考えられるのは以下の性格的な部分。

 

 

  • 感謝はしても言葉に出さない(若年期)
  •  

  • やたらと問題視される独断専行の傾向(協調性とコミュニケーション能力の欠如)
  •  

  • 極端に空気や悪意を読めない言動(主に蜀平定後のアレ)
  •  

  • マッピングや基地想定への異常なこだわり(下級の文官時代にすらやっていたのは異常)
  •  

  • 運河形成や征蜀後の呉討伐論など、やたらと長期的な献策
  •  

  • 擁護論ですら言及されるせっかちで強情、人の気持ちを理解できない性格
  •  

  • よりによって自分が「凋落する」と予見した諸葛恪と同じ轍を踏む
  •  

  • 史書に書かれる豚足愛

 

 

 

とまあこんなところか。

 

名士たちへの意味不明な自慢や姜維を評しての自画自賛なんかから見られる傲慢さやうぬぼれなんかは、おそらく障害とは関係ない鄧艾自前の性格でしょう。

 

 

しかし、そんな傲慢すぎることを平気で口走る空気の読めなさ、やたら独断専行を好む歩調を合わせる気配ゼロの態度、傲慢でせっかちと言われてしまう譲歩や配慮をしない性格、そして意味のないマッピングの趣味や豚足好きとわざわざ書かれるレベルの狭い興味への強い執着……

 

とまあ上記に挙げたこれらは、アスペルガー、あるいはその他の自閉症スペクトラムの傾向がある人に見られがちな特徴とも合致する部分が多いです。

 

 

史書を読む限り、鄧艾に決定的に欠けていたのは、表面を取り繕って建前で本音を煙に撒こうとする努力。そしてちょうど、アスペルガーはこれらを苦手とする傾向が強いのです。

 

鄧艾伝から見える鄧艾の性格の悪さは、単純に性格の悪い人物のそれというより(そっちもあるけど)、むしろ発達障害的な配慮や柔軟性の不足からくるものが強いのではと思えてきますね。

 

 

 

仮に鄧艾が発達障害だとすれば、間違いなく出世の難易度は圧倒的。その中でロクに後ろ盾も持たないままのし上がった鄧艾は、桁外れの実力を誇る名将だったと言って過言ではないでしょう。

続きを読む≫ 2018/11/17 18:51:17

※タイトルの由来は三國志シリーズでドンタコスと言われていることから面白半分につけたもので、内容と無関係です。内容は正史三国志・鄧艾伝の後半の記述をなぞる物なのでご了承ください。

 

 

 

 

 

対北伐戦線・後編

 

 

 

安西将軍の代行役任じられた鄧艾は、その年のうちに再び北伐の抑えに転進。この年、姜維の北伐により将軍の王経(オウケイ)が大敗、狄道(テキドウ)で追い詰められて風前の灯となっていました。

 

鄧艾はこれを救出するために軍を進発。辛くも王経を追い詰めていた姜維を撃退します。

 

しかし、姜維は未だ近くの拠点に滞在。まだまだ攻勢に転じることも可能な位置に軍を駐屯させており、まだまだ予断を許さない状態でした。

 

 

正式に安西将軍に昇進、事実上の西方総大将となった鄧艾は、「もう姜維は来ない」と楽観する諸将に対して未だに周囲の警戒をするよう通達。あくまで姜維の攻撃に備える構えを見せました。

 

 

「王経の敗北で敵は勢いづいた上に兵糧も確保し、対してこちらは敗戦により精兵を多く失い、武器の手配もろくにできず、遠方より駆けつけ疲れ切った兵が大部分を占めるという有り様。おまけに相手が戦力を一点集中出来るのに対し、こちらは異民族への対応も含めると軍を四分割する必要がある」

 

 

かくして鄧艾は、「敵が攻めるなら穀物が豊富な土地」として、ちょうど麦が成熟した祁山(キザン)の防備を強化し、姜維の侵攻に備えることにします。

 

すると、姜維は鄧艾の予想通りに侵攻を開始。祁山ルートがふさがれているのを察した姜維はすぐにルートを変更しましたが、鄧艾はそれすらも先読みして完璧に対応します。

 

圧倒的な優位にいた姜維軍ですが、この鄧艾の読み勝ちと頼みの援軍が到着できなかったこともあって大敗。鄧艾の言葉通り危機的状況でしたが、その活躍によってなんとか危地を乗り越えることができたのです。

 

その翌年、鄧艾は鎮西将軍(チンセイショウグン)・鄧侯(トウコウ)に昇進し、更に西方の軍事を司る都督の職にも就いたのです。

 

 

またこの時より、蜀内部では姜維の度重なる北伐に対する反対意見が爆発。甘露2年(257)に再び攻め寄せてきたのを最後に、数年の間鳴りをひそめます。

 

一方の鄧艾は、北伐を再び防いだとしてさらに征西将軍(セイセイショウグン)に昇格。六千六百戸という、武官としては明らかに桁が違う広大な領地を与えられることとなりました。

 

 

北伐を何度も失敗させてしまった蜀内部の混乱に、姜維と朝廷の対立。鄧艾が西方ににらみを利かせている間、いよいよ蜀の終わりが近づきつつあったのです。

 

 

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蜀征伐・前哨戦

 

 

 

景元3年(262)に姜維は再び北伐軍を動かしましたが、ここでも鄧艾は姜維を破って撃退に成功。徐々に大きくなりつつあった蜀は、いよいよ目に見えて崩壊が始まりました。

 

翌年、ついに大将軍の司馬昭(シバショウ)は帝の勅命を通じ、蜀の征討を宣言。司馬昭自身の指揮のもと、ついに魏は蜀の平定に向けて進軍を開始したのです。

 

 

鄧艾は迎撃に出た姜維を引き付ける陽動の役割を負い、蜀の主力と対峙します。そして、鍾会(ショウカイ)の軍勢が主力不在の蜀領内へ侵攻していくの手助けして作戦を成功しました。

 

さらには慌てて後退する姜維に会戦を仕掛けて打ち破る所まで行ったのですが大きな打撃を与えることはできず、友軍が姜維の陽動に引っかかってしまったのもあって取り逃がしてしまいます。

 

 

かくして上手く逃れた姜維ら主力部隊は、撤退して要害の剣閣(ケンカク)に籠城。鍾会はそのまま剣閣を攻撃しますが、山間部の要害に籠城されたのでは手の出しようがなく、そのまま進軍が止まってしまいました。

 

 

完全に手が止まってしまった蜀への侵攻。もはや正攻法ではどうしても上手く行かないのを悟った鄧艾は、ついにとんでもない滅茶苦茶な作戦を提案することにしたのでした。

 

 

「山脈の横道を通り、一気に敵の中枢部へ奇襲を仕掛けましょう。これで奇襲部隊に釣られた敵は剣閣を放棄するか、それができなければ奇襲部隊が領内を一気に食い荒らすことができます」

 

 

蜀の位置する益州は2000メートル級の山脈に覆われた盆地。昔から攻めるのも難しい要害といわれており、おまけに回り道は一部崩落すらしています。つまり鄧艾は、危険な上に兵士最大の敵である多大な疲労と補給不足をともなう悪路を、自らが進軍しようと考えたわけですね。

 

誰がどう考えても無謀でしかない危険な奇襲策。しかし鄧艾はこの作戦指揮を自ら名乗り出て、意気揚々と首都・成都(セイト)近郊に向けて進軍を開始したのです。

 

 

 

蜀の滅亡

 

 

 

鄧艾が選んだのは、もはや道と言えるかも微妙な陰平道(インペイドウ)。あまりに険阻なため人が住める地域ですらなく、鄧艾軍は人っ子1人いない獣道をひたすら進軍していきました。

 

その行軍内容たるや、山にトンネルを掘ってそこを進み、崖には橋をかけてなんとか通過し、毛布にくるまって崖を転がり降りては木につかまってロッククライミングという無茶苦茶なものだったと史書には書かれています。

 

おまけにそんな深い山の中ならば、当然ながら兵糧のめども無し。輸送も何度となく滞り、とにかく作業は難航を極めたと言われています。

 

 

しかし、そんな無茶の甲斐もあって鄧艾はついに蜀内部の平野部に到着。姜維の後詰として涪(フ)にて首都防衛隊を率いていた諸葛瞻(ショカツセン)は、この報告を受けるとすぐに後退。涪を捨てて首都にほど近い綿竹(メンチク)で鄧艾の軍勢を迎撃する構えを見せました。

 

諸葛瞻を破れば、いよいよ蜀の中枢部は完全にがら空き。鄧艾はすぐに息子の鄧忠(トウチュウ)と部下の師纂(シサン)を攻撃に繰り出します。

 

 

が、鄧艾軍はすでに疲労困憊の上、山脈を越えてきた関係で軍備も圧倒的に不足という有り様。諸葛瞻に一度は敗れ、そのまま両名とも「無理」と結論付けて後退してきました。

 

鄧艾はこの時「何が無理だ!今こそ存亡の分かれ目ぞ!」と激怒してもう一度2人を繰り出しましたが、この時にはどちらも処刑してやろうかとすら考えていたそうな。

 

 

結局、鄧艾に殺されるか諸葛瞻相手に討死するかの2択を迫られた鄧忠と師纂は、死に物狂いで諸葛瞻の軍勢に再度突撃。諸葛瞻や張飛(チョウヒ)の孫・張遵(チョウジュン)らを討ち取り、蜀の首都近郊を丸裸にすることに成功しました。

 

 

鄧艾軍によって蜀内部の防衛部隊をほとんど壊滅させられた蜀は、いよいよ降伏を決意。帝の劉禅(リュウゼン)は鄧艾の元に出頭してきました。

 

 

これによって、蜀は完全に滅亡。鄧艾は蜀での略奪は行わず、降伏してきた蜀の臣は許し、蜀の兵で一度は晒し上げにしたもののすぐに戦死した魏の将兵らと共に埋葬するなど、善政に努めて民心の確保に専念。

 

同時に「しばらくは兵の疲れをいやすことが先決ですが、呉を滅ぼす際には長江を下って攻めていくのが良いと思われます。今は蜀の人民に寛大に接し、呉にもそれを見せつけましょう」と対呉の進言も行っています。

 

 

しかしながら、この手柄で鄧艾はすっかり天狗になってしまった模様。

 

蜀の名士たちに対して自慢げに「苛烈な征服者でなくわしに会えたおかげで無事にすんだ。よかたな!」などといいはじめ、挙句姜維を評して「英雄だったんだけどなー、相手がわしだからかわいそうにも負けちゃってー」などと、もういかにもアレな感じになった様子が史書に描かれています。

 

 

とまあ鄧艾自身は元々こういうタイプの人物であったために……蜀討伐の手柄を最後に、後は凋落の道を駆け降りるばかりとなってしまいました。

 

 

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凋落のドンタコス

 

 

 

鄧艾の不器用な上に敵を作りやすい性格は、長きにわたり多くの潜在敵性を作ってしまっていました。

 

おまけに職を滅ぼした後には、とうとう司馬昭にすら「今は指示を待って、独断専行は控えろ」と注意を受けては「国益を損なうような行動はしません」と返すなど、ちょっとギスギスした様相を呈していったのです。

 

 

とまあそんな言い合いが発生した結果、ついに鄧艾に対して敵対心を持つ者や、手柄に対し嫉妬心を向ける者に目を付けられてしまいます。

 

 

まず初めに動いたのは、事実上蜀征討の司令部として動いていた鍾会。彼は鄧艾が独断専行すら行おうとする姿勢を見て、「あれは反乱の兆しです」と司馬昭に讒言してしまいます。

 

おまけにこの讒言には、同僚の胡烈(コレツ)や衛瓘(エイカン)、1度自分に斬られそうになった師纂すらも乗っかかる始末。

 

早い話が、無意識下で敵を作りすぎたせいで、完全に孤立してしまったわけですね。これだけ多くの讒言が飛び出てしまえばさすがに司馬昭もかばいきれなかったようで、ついに鄧艾は反逆罪として逮捕。囚人として護送されるに至ってしまいます。

 

 

その後、鍾会が成都に入って反逆を目論んだものの失敗して死去。讒言の元である鍾会の反乱で濡れ衣と証明できる手がかりを得た鄧艾軍の本営たちは鄧艾を取り返そうとしましたが、特に恨みが深かったのか衛瓘は鄧艾殺害のために兵を派遣。結局鄧艾は息子ともども、反逆者のまま斬殺されてしまったのでした。

 

 

とはいえ、衛瓘が意地で鄧艾を殺そうとしたのは功名心からという説の方がはるかに有力。この時に田続(デンゾク)という人をそそのかして鄧艾を殺させたとされていますが、むしろ鄧艾に恨みがあったのは田続であったそうな。

 

しかしまあ、鄧艾も敵や恨みを作りやすいタイプだったのはまた事実。怨恨の可能性も個人的には捨てきれません。

 

 

ちなみに鄧艾の無実が晴れたのは、泰始3年(267)のこと。この時の上奏文にも内面はボロクソに書かれており、またそれまで誰1人として擁護しなかったようですね。その辺を考えると、やはりどれほどの実績も恨みには勝てないことが伺えますね。

 

 

続きを読む≫ 2018/11/14 22:20:14

 

 

 

 

貧しい家の変な奴

 

 

鄧艾は父親を早くに亡くし、曹操(ソウソウ)が荊州(ケイシュウ)を攻略した時には曹操の本貫近くの汝南(ジョナン)に移住。そのまま幼くして牛飼いの小作人になりました。

 

そんな鄧艾、12歳の時には「文は世の範たり、行ないは士の則たり」という碑文を呼んで思うところがあったのか、名前を範、字を士則と名乗りました。が、その後、一族に鄧範という名の子が生まれたため、再び鄧艾と名乗ることに。以後、その名が定着するようになります。

 

 

官吏としては県の都尉学士(トイガクシ:県トップの属官候補生)となるも、先天的に抱えていたどもりのせいで気味悪がられて拒否され、結局は稲田守叢草吏(トウデンシュソウソウリ:税金を取り扱う部署の下っ端役人)として、後の中央勤務とは程遠い身分からのスタートを切ったのでした。

 

しかもその生活は貧しかったようで、金持ちな同僚の父親が手回しして手厚い保護をしてくれ、それでようやく生活ができるほどだったとか。

 

 

しかし鄧艾も鄧艾で、本来感謝すべきところを、この援助対する礼は無し。その恩義よりも、趣味は半分でひたすらに地図を書いては「どこにどの施設を置くか」を地図上に記載する日々。

 

こんな変わり者の鄧艾を見て、周囲には「あいつはどうせ無能だよ」と冷笑する者が多かったとか。

 

 

しかしその仕事ぶりはかなり優秀だったようで、順調に出世を続けてついに上計吏(ジョウケイリ:地方の会稽報告者)となり、中央部の大物たちとも顔をそろえる機会が多くなります。

 

そして最後には司馬懿とたまたま出会い、鄧艾はその才覚を高く評価されます。そしてそのまま属官となり、最終的には尚書郎(ショウショロウ)、つまり宰相レベルの人物が長官を務める部署の中央官僚として抜擢されることになったのでした。

 

 

 

 

 

能吏鄧艾

 

 

 

こうして完全に高級官僚としての道が開けた鄧艾ですが、ある時「富国強兵」の政策実施のため、魏の南東部を広く視察して問題点を見出します。

 

 

「あの一帯は良い土地はあるが、治水が悪ければそれも意味がない。運河を築いて感慨整備を整えると同時に、水運も発展させよう」

 

そう考えた結果、自ら『済河論』なる論文を著書。自らの脳内に描いたイメージを形にしようとします。

 

 

「首都より東の地帯は、土地が低湿ながらも水田の質はいいです。そこで、質の悪い許昌(キョショウ)から水路を引き、東に屯田を移しましょう。そうすればより多くの成果が上がり、軍を動かすための兵糧も大量に確保できるでしょう」

 

 

この言葉に司馬懿は大いに頷き、鄧艾の草案はとうとう実現に向けて始動。そしてそれから何年も経った正始2(241)、ついに運河が完成します。

 

この運河によって、水運の質は大幅に上昇。兵の移動だけでなく物資の輸送、さらに灌漑による地質の大幅向上と大きな恵みを与え、食料の備蓄や水害といった事故に困ることは無くなったのです。

 

 

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対北伐戦線・前編

 

 

 

後に鄧艾は、南安(ナンアン)太守と西方の軍事参謀として対北伐戦線に参加。しばしば攻めてくる蜀に対抗する戦力のひとつとなります。

 

 

嘉平2年(249)、郭淮(カクワイ)の武将としてついに北伐してきた姜維と相対し、これを撃退することに成功しました。

 

しかし、この時の姜維の撤退はどうにも潔すぎるため、鄧艾は違和感を覚えたのです。姜維に呼応した異民族を蹴散らそうとしていた郭淮は、そんな鄧艾の進言を聞くと「ならば」と鄧艾に兵を与えてその場に留めることにしました。

 

 

予想通り反転した隙を伺っていた姜維はすぐに部将の廖化(リョウカ)を鄧艾への牽制に派遣しますが、敵が対峙するばかりで直接戦おうとしないのを見て、「これは陽動だな」と姜維の策を看破。次の一手を先読みします。

 

鄧艾は夜闇に紛れて廖化軍の捕捉県内を離脱すると、姜維の本命であろう城に急行。予測通りに姜維が城に攻めかかると全力で応戦し、そのまま撃退に成功したのです。

 

この功績は魏からすると大いに喜ぶべきものであり、鄧艾はすぐに討寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。さらに関内侯(カンダイコウ)の爵位をも与えられ、武官として強烈なデビューを果たしたのです。

 

 

 

また、付近の異民族への対応も献策していますが……どうやら鄧艾は異民族に対しては厳正に接するタイプだったようで、劉豹(リュウヒョウ)なる部族王が力を持つと、部族内の反乱に乗じて力を削ぐことを献策。

 

またこの時、「連中は力が強まれば敵対し、自分たちが弱くなれば服従しはじめる野獣のような奴らです」とも述べており、同時に「異民族の中で民衆と共に過ごす者を少しずつ街の外に追い出して教育を施しましょう」と差別政策ともとれる献策を述べていますね。

 

ただし、「昔の殊勲を掘り返してしっかり恩賞を与えましょう」とも述べており、どこかのイケメンイナゴ大将と違って根っからの敵対路線ではないことが見えてきます。

 

しかしやはり周辺の異民族は、古代中国から争い合っていた敵。司馬懿らは鄧艾の献策をそのまま採用し、異民族による危険を取り除く方向性に舵をとっています。

 

 

 

後、鄧艾は戦線を動いて、かつてお世話になった元同僚の父親がいた汝南の太守に転任。鄧艾は礼こそ一度も言わなかったもののこの時にいろいろ手厚く保護してくれたことを覚えており、汝南に赴任するとさっそくその人物を捜索。

 

が、鄧艾が汝南に赴任した時にはその人物はすでに亡くなっており、現在は元同僚とその母だけがいる状態でした。

 

そのため、鄧艾はすぐに役人に命じて亡くなっていた父親を祭り、母親に十分すぎるほどの贈り物を与え、元同僚を引き立てて出世させてやったのでした。

 

 

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司馬一族の重鎮

 

 

 

 

汝南で数十年来の借りを返す形になった鄧艾はその後も任地を転々としますが、その行く先々で業績を上げていきます。

 

 

後に鄧艾はそんな功績と呉の諸葛恪(ショカツカク)の自滅を言い当てたことからさらに位を上げ、兗州刺史(エンシュウシシ:刺史は監査官)、振威将軍(シンイショウグン)に昇進。

 

そんなある時、鄧艾はある献策を司馬師(シバシ)に行いました。

 

 

「国家の基本は農業と軍事です。治績評価は、人々の豊かさを中心に行うのがよいでしょう。そうすればグルになって不当評価を与え合う事もなくなり、治績の粉飾も減るはずです」

 

 

農業重視の政策を打ち出すとともに、この時魏の国内で急速に膨れ上がっていた貴族主義をどうにか押しとどめようとしたのですね。

 

鄧艾のこの思惑が果たしてどれほどの成果を生んだのかは鄧艾伝に書かれてはいませんが……後に曹髦(ソウボウ)が魏の皇帝となった時、鄧艾が方城亭侯(ホウジョウテイコウ)に格上げされたのが、ある意味答えといえるかもしれません。

 

 

 

正元2年(255)に毌丘倹(カンキュウケン)らが反乱を引き起こすと、鄧艾は毌丘倹からの使者を斬り、主力部隊のひとつとしてこの戦いに参戦。この時、通常の倍の速度で戦場に向けて急行し、先に到着して浮き橋を設置するなどの準備を行ったとされています。

 

後に到着した司馬師ら本隊は、この鄧艾が作った浮き橋を使って城に入り、そこを本拠に毌丘倹軍別動隊である文欽(ブンキン)の軍勢を迎撃、敗走させることに成功。結局文欽には逃げられましたが、鄧艾はこの時追撃を行って少なからず打撃を与えていたのです。

 

 

また、上司の諸葛誕(ショカツタン)に城の選挙を命じられたときは、「大した要害でもなければ敵と離れていて戦力にならない」と考え、独断で敵軍への攻撃を開始。そのまま毌丘倹軍の撃破に一役買ったのでした。

 

 

この功績によって、鄧艾はさらに爵位を上げて長水校尉(チョウスイコウイ:異民族部隊を率いる校尉のひとつで名誉職)となり、しばらく後に方城郷侯(ホウジョウキョウコウ)に格上げ、安西将軍(アンセイショウグン)の代行役を兼任する形になったのです。

 

 

建安13年(208)の段階ですでに生まれていたことを考えると、鄧艾の年齢はすでに50過ぎ。にもかかわらず、まだまだ衰えを知らない活躍具合でした。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/11/07 18:02:07
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