公孫瓚 伯珪


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公孫瓚 伯珪

 

 

 

生没年:?~建安4年(199)

 

所属:なし

 

生まれ:幽州遼西郡令支県

 

 

勝手に私的能力評

 

公孫瓚 群雄 畜生 劉虞 袁紹 イケメン イナゴ

統率 A どこまでも異民族や劉虞、袁紹に喧嘩し続け、敵だらけの中で獅子奮迅の戦いを見せた。
武力 S- 最終的に袁紹に滅ぼされたが、不利だろうが何だろうが互角に戦う様子は圧巻。
知力 C 頭は切れたが、やる事と言えば潰す殺すで芸がない。軍略は優れていたが、やはり大局眼はなかったか。
政治 E 巨大城砦の易京を考えると内政能力はもっと高いのだろうが、如何せん劉虞を殺して異民族を弾圧し、挙句名士を礼遇で敵を作りまくった点はちょっと擁護できない。。
人望 D 凡骨とされた関靖が命を張るくらいだからカリスマはあったのだろうが、如何せん敵を作りすぎた。イケメン無罪の時代でこれだけ歴史家に叩かれるのも珍しい。

 

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公孫瓚(コウソンサン)、字は伯珪(ハクケイ)。劉備の兄弟子という立ち位置もあって後世では正義の群雄としてそこそこ以上の待遇を受けることも多い人物ですね。

 

また、ごく一部の界隈では「イナゴ」などというあだ名があったりなかったり……

 

 

イケメン、白馬、明朗快活と、正義の騎士を彷彿とさせる特徴をこれでもかと取り込んだような様子は、まるで善玉の優れた群雄というイメージを我々に与えますが、実際は……?

 

 

 

 

 

 

 

名族……潰すしかあるまい

 

 

 

袁紹との衝突の始まりは、彼と対立していた袁術の元へ派遣した公孫越の戦死でした。公孫続は袁紹派の面々との戦いの中、矢を浴びて壮絶な最期を迎えたのです。

 

 

これに対し怒りをあらわにした公孫瓚は、袁紹領に向けて進軍を開始。対する袁紹は離間工作か適当な和睦政策か、公孫瓚と一族の公孫範(コウソンハン)太守に任命したりもしましたが、公孫範も任地の兵を引き連れて公孫瓚に味方するようになったのです。

 

 

 

初平2年(191)、公孫瓚は軍備増強のため大軍でたむろしていた黄巾賊を討伐。圧倒的な数の軍勢を蹴散らして捕虜と軍需物資を強奪し、その軍はさらに精強で数も増していきました。

 

 

そしてついに、袁紹軍を界橋(カイキョウ)の地で捕捉。公孫瓚軍が圧倒的有利という中で袁紹軍と激突しました。。

 

しかし、この戦いはまさかの敗北。袁紹軍には麹義(キクギ)という騎兵との戦いに優れた指揮官がおり、麹義にまんまとやられる形で、公孫瓚の精鋭騎馬隊は打ち破られてしまったのです。

 

 

袁紹に打ち破られた公孫瓚は、そのまま公孫範の任地となっていた渤海(ボッカイ)に撤退。

 

そのまま袁紹軍とは一進一退の膠着状態になってしまい、2年余りの間袁紹軍としのぎを削りましたが、最後には公孫瓚の敗北は決定的に。やむなく薊まで引き下がることになったのです。

 

 

公孫瓚が敗走した先の薊。近隣にはお互い潰し合う仲の劉虞が居を構えていましたが、公孫瓚にそんなことを気にする余裕はありません。偶然かあてこすりか、劉虞の居城のすぐ近くに小さな城を建造し、そこを対袁紹の当面の本陣としたのです。

 

本拠が隣接した両者は、再び争いの気風が過熱。両者の決着は間近へと迫っていたのです。

 

 

 

 

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劉虞を殺せば……

 

 

 

公孫瓚の熱烈な嫌がらせ唐突過ぎる本拠建造に、劉虞はいよいよ危機感を大いに募らせます。

 

 

「よもや、我々に攻撃を仕掛ける気か」

 

 

この考えが本音か攻撃の建前かはわかりませんが……かねてより公孫瓚を危険視していた劉虞は、いよいよ公孫瓚に耐え切れず配下の諫言を聞かずに近隣の諸都市や異民族を糾合。公孫瓚打倒の軍を設立。ついに両者は決裂し、公孫瓚の軍勢に向けて劉虞の軍が攻め寄せたのです。

 

 

物量の上では圧倒的に劣勢の公孫瓚。しかしその指揮能力や軍の精強さは段違いで、劉虞軍の指揮系統の脆さもあって公孫瓚は圧勝します。そしてついには劉虞軍の本拠地をも奪取し、因縁の宿敵・劉虞を生け捕りにすることに成功しました。

 

 

 

その時、折しも都では董卓が死亡し、混乱を機に諸将が独立するのを警戒した朝廷から使者が贈られ、公孫瓚は前将軍(ゼンショウグン)に昇進。易侯(エキコウ)として自身の本拠地周辺の領有権を認められたのです。

 

公孫瓚はこの使者の来訪を宿敵排除の好機と見て、劉虞が皇帝として漢王朝に弓引こうとしていると告訴。処刑するように使者に迫りました。

 

 

公孫瓚の強迫に屈した朝廷の使者は彼の言い分を認め、劉虞を斬首し反逆者に認定。それに組した者も多数処刑し、この因縁(というか一方的なやっかみ)に決着をつけたのでした。

 

 

『典略』では、劉虞を処刑した際の細かな逸話が書かれています。

 

 

劉虞を捕らえた公孫瓚でしたが、ただ殺すだけでは天下の人々が納得しません。劉虞はそれだけの名声を得ていたのです。

 

そこで、公孫瓚は劉虞に対して、こんな命令をしたのです。

 

「皇帝を名乗るような奴なら、天気もお前の意思に応えるはずだ。さあ、さっさと雨でも降らせてみろ!」

 

しかし、公孫瓚が劉虞を捕らえたのは、日照りの続く夏真っ盛り。当然雨など降るはずもなく、ついに劉虞の処刑は執り行われたのでした。

 

 

 

こうしてもっとも目障りな存在を消し去った公孫瓚でしたが、殺した劉虞を慕う者は多く……彼を処刑したことで多くの敵を作ってしまったのです。

 

劉虞配下の人物らの中には脱出に成功した将兵らも多くおり、彼らは公孫瓚への復讐を決意。異民族相手に独自に融和政策を取っていた閻柔(エンジュウ)という人物を中心に、漢民族や異民族を混合した反公孫瓚連合を結成しました。

 

この連合に加わる形で袁紹までもが公孫瓚討伐の軍勢を進発。公孫瓚包囲網に参加し、界橋での立役者である麹義や密かに軟禁していた劉虞の息子である劉和に軍勢を率いさせ、公孫瓚の軍勢を各地で撃破。

 

一人を殺したにしてもあまりに多すぎる敵軍に、公孫瓚は連戦連敗。敗戦を重ねていき、ついに最後の砦である易京(エキキョウ)に閉じ込められてしまったのです。

 

 

 

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易京に散る

 

 

 

さて、追いつめられたとはいえ、易京の守りはまさに金城鉄壁。何重もの塹壕に巨大な土塁と物見櫓。それらは攻めるものすべてを追い返す名城として易京が褒め称えられる所以でした。

 

また、公孫瓚が鎮座する中央の土山はひときわ高く積み上げられ、食料も豊富に備蓄されているため、公孫瓚の精神的にも最も心許せる場だったのです。

 

「兵法でタ御法度される百もの拠点の攻略。この易京はその百の比でない数の拠点を有しておる。この豊富な食料を食いつくす前に、天下の趨勢を知ることができるだろうよ」

 

 

公孫瓚の考え通り、袁紹軍はこの難攻不落の拠点を攻略できずに撤退。何年もの間易京に軍勢を派遣し続けましたが、城を落とせる様子がありませんでした。

 

 

『英雄記』によれば、自身のいる場所には側室たち以外の誰も入る事が出来ず、当然側近らも進入禁止。公文書は縄に吊るしてぶら下げる形で発表したとか。

 

余裕ぶってはいたものの、内面ではもはや余裕が無かったことの表れか……。

 

 

元々「名士や力のある奴はすぐ裏切りそうだからヤダ」なんて言っていた公孫瓚ですが、ここにきてとうとう周囲のすべてが敵に見えてしまったようです。

 

 

 

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本拠の易京で守りに徹し麹義らを撃退した公孫瓚でしたが、業を煮やした袁紹が自ら本隊を率いて易京攻略に着手。両軍の激突は最終局面を迎えました。

 

大将自らが打って出てきたことを知った公孫瓚は、袁紹と敵対する黒山賊(コクザンゾク)に救援を要請。自らもその援軍に合流して袁紹の背後を突くべく、騎兵の出撃準備を開始したのです。

 

しかし、ここで参謀である関靖(カンセイ)が「今主君が出れば城が危険です」と慎重策を述べたため、作戦は中断。

 

 

結局次善の策として、城の外にいた一族の公孫続(コウソンショク)に「援軍が来たらのろしを上げるように。それを合図にこちらも打って出る」という旨の書状をしたためて使者を出すことになりました。

 

しかし厳重な包囲を縫っての脱出は難しく、使者は公孫続の元にたどり着く前に捕縛されてしまいます。

 

 

 

こうして書状から敵軍の作戦を知った袁紹は、約束の期日になるとのろしを上げて勘違いした公孫瓚を誘い出すという誘引作戦を実行。

 

まんまとこれに引っかかた公孫瓚は敗北により痛手を負わされます。

 

 

再び公孫瓚は易京に籠るも、すでに意気消沈した公孫瓚軍では満足な抵抗はできず、袁紹に必勝の策を実行する機会を与えてしまったのです。

 

その作戦は、地下道を掘り進んで土塁の砦ごと壊していくモグラ作戦。この作戦によって易京も陥落寸前に追いやられ、公孫瓚はここで抵抗をあきらめて妻子とともに自害する道を選んだのでした。

 

 

 

『英雄記』では、わりと外道な公孫瓚とその行動のせいで敗北した旨が書かれています。

 

というのも、袁紹が反撃に移って易京の城砦を破壊して回っていた時。公孫瓚の下にも陥落寸前の城砦から救援要請が多く寄せられていましたが、なんと公孫瓚はこれを拒否。

 

「一人を救援したら、皆援軍を期待して怠けてしまうではないか。それでは勝てるものも勝てん!」

 

結局公孫瓚は援軍を送ろうともせず、そのせいもあって袁紹軍の快進撃を止められる者はいなかったのです。

 

 

何というか、もはや追いつめられて疑心暗鬼もここまで来たかといった感じですね。

続きを読む≫ 2018/10/02 21:10:02

 

 

人物評

 

 

 

公孫瓚は非常に軍事能力に優れ、とても強力な騎馬隊を有していた武闘派の群雄の代表格です。

 

実際にその騎馬隊は馬の扱いに長けた北方民族をも震え上がらせ、いくつもの危地をその精強さで乗り越えてきました。

 

 

 

しかし、その人物評は……率直に言って芳しい物とは言えません。

 

一応義に厚いようなエピソードは持ってはいますが……彼の人格を義侠の好漢として好意的に評価するのは、三国志演義を媒介としたメディアや演義を語るブログのみ。正史を媒介とした場での彼の評は、お世辞にも良い物とは言えません。

 

 

陳寿はその立場もあって、公孫瓚を悪役として以下のように評しました。

 

 

易京という恵まれた地を保守しながら全滅を待つばかりであった。

 

他群雄と一緒に「州や郡を有しながら、その資質は一平民にも劣る物だった」とも言われており、もはや全否定と言ってもよいくらいに扱き下ろされています。

 

 

また、裴松之の意見も概ねこれに同意といったところ。

 

「易京の中だけは、天下から身を隠すことができる」という旨の童謡があるが、これは公孫瓚が余計な野心を働かせないようにと作られたものだろう。しかし公孫瓚は調子に乗って野心を膨らませ、袁紹を滅ぼそうと画策した。敗北を呼んだのは当然の帰結だ。

 

 

おお、もう全否定……

 

 

とにかく公孫瓚のその人物面だけは、評価してくれる人が大幅に少ないと言ってもよいでしょうね。

 

当時有数の仁者として名を通していた劉虞を殺したのですから、ある意味この評価は当たり前。しかし、その家庭環境などを鑑みるとなんだか寂しい人物評と言えますね。

 

 

 

ちなみに公孫瓚が率いていた精鋭騎馬隊の中には選りすぐりのエリートによって構成された白馬の軍勢がおり、「白馬義従」という名前で恐れられていたのです。

 

公孫瓚自身も白馬に乗って武働きによって周囲を恐れさせており、異民族からは「白馬長吏」と呼ばれていたことが『英雄記』に書かれています

 

 

 

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極度の名士嫌い

 

 

 

なぜこのような横暴な性格になったのか……その理由の一環として、「公孫瓚は名士である父からよく思われておらず、その事がコンプレックスになったのでは?」という意見があります。

 

公孫瓚の家柄は決して悪くなく、父は北方でも有数の大富豪でした。

 

しかし、肝心な母親の身分は、当時の価値観ではカス同然。当然ながら公孫瓚の父からしても彼の母は側室のどうでもいい女であり、その息子である公孫瓚の扱いもそれ相応といったところだったようなのです。

 

 

証拠に、まあ家の恥とならないためにもしっかりとした役職には就かせてもらっていますが、家柄からするとはるかに格下の位であり、いかに公孫瓚が期待されていなかったかがうかがい知れる前半生だったのです。

 

 

そんな公孫瓚を助けたのは、名士でなく武官ともいえる役職の太守。一応は名士層でなければまず就けない役職ではありますが、お高く止まった人物よりも武断派の人物が多い役職です。

 

文官として胡坐をかいている名士たちから、公孫瓚はどんな目を向けられていたのでしょうか? 何となく、想像はできる気がします……

 

 

 

さて、そんなこんなで複雑な家庭事情で育った公孫瓚は、おそらく名士の事が殺したくなるほどに嫌いになったのでしょう。

 

なんと役人の家に優秀な子が生まれると、必ず目をつけて極貧生活に叩き落していったのです。

 

 

本人は「良いところの出の奴が俺に感謝などするものか。良い身分に取り立てても、きっと当然としか思わんだろうさ」などと語っていましたが、名士層へのやり場のない怒りが無差別に向けられていたようにも見えてきます。

 

 

劉虞を目の敵にしたのも、武官と文官の良くある反目というのもありますが、それ以前に公孫瓚からしたら「皇族なんぞゴミ同然じゃねえか」という思いがあり、劉虞のやることなすことネガティブに見えたのかもしれませんね。

 

 

 

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身分の低い奴、大好き!

 

 

 

さて、では公孫瓚は誰を重用していたのかというと……決まって身分の低い者、凡庸な者でした。

 

 

これには後世の歴史家たちも「名士を軽んじるとんでもない奴だ」と口をそろえていっていますが……まあ名士に恨みがあるのなら、ある意味わからなくもないといったところ。

 

 

もしかしたら同時期に袁紹が行っていた名士優遇政策も、公孫瓚の名士嫌いを加速させたのかもしれません。

 

というのも、名士も人の子。優遇してくれるのならば迷わずそちらに靡いてしまうものです。そのため公孫瓚に味方する名士という存在自体が稀有だったと言えるでしょう。

 

 

たしか常山(ジョウザン)の離反を心配していたことが趙雲(チョウウン)伝で軽く書かれていましたが、名士に対する疑念や不信感が、すでに爆発寸前だったのかもしれませんね。

 

 

 

とはいえ、自分が嫌いだった名士は、当時の人材発掘の柱ともいえる存在。教養、人脈、人望を兼ね備えていた彼らを利用するでもなく排除していったのは、その程度の器だったという事の証左でしょう。

 

 

実際、易京に籠ってからの公孫瓚は、見るに堪えないほど疑心暗鬼に取り付かれていたようです。

 

 

『英雄記』の記述によると、自分の女以外を自らの居城に入れなかったり、危地に陥った味方を「助けたらどいつもこいつも甘えはじめるだろ!」と言って見殺しにしたり……最期にはもはや誰も信用できなくなっていたようですね。

 

 

天下を狙える器でなかった……というのは間違いありませんが、だからこそ何とも言えない哀愁がありますね……

続きを読む≫ 2018/05/17 22:06:17

 

 

 

 

イケメン北方に立つ

 

 

 

 

公孫瓚の家は1郡を任される太守と同程度の高給取りの重役らしく、公孫瓚も若い頃に地元の遼西郡の役人として取り立てられました。

 

とはいえその立場は家柄から比べるといささか身分の低い書記官程度。母親は側室で身分が低いらしく、そのためにあまり大事にされていなかったのです。

 

 

しかし、その見た目は大変立派で美しく、声も大きいという人物であったため、侯(コウ)太守に「将来有望」と見なされ、一気にお近づきに。なんと太守の娘を娶り、その援助で学問を学ぶことになったのです。

 

この時公孫瓚が指示したのが、高名な学者であった盧植(ロショク)。この時に劉備と出会い、彼の兄弟子として共に盧植の下で学問を学んだのですね。

 

 

 

ともあれしばらく学業に精を出した公孫瓚は、一通り学を修めると再び郡の役人に復帰しました。

 

 

しかし、役人に復帰して間もなく、上司に当たる劉(リュウ)太守なる人物が、法に触れたとして連行されるという事件が発生しました。この時公孫瓚は、なんと自分の身分では立ち入りを禁止されていた場所に衣服を変えて入り込み、劉太守に随行。そのまま雑役を代わりに努めたのです。

 

さらには劉太守が日南郡(ニチナングン:ベトナム)に流刑が確定すると、公孫瓚もこれに随行するという意思を表明。洛陽に上洛し北虻山(ホクボウザン)なる山の中で酒と肉を持ち出して先祖を祭り、「上司と共に日南へ行くこととなりました。あの地では風土病も多く、もう帰ってこれないかもしれません」と報告。

 

そして拝礼の後感情を高ぶらせて立ち上がり、多くの者はそんな公孫瓚の姿に魅了されたのです。

 

 

公孫瓚の見事な決意を知った人の中ではすすり泣いてこの決意を称える者もおり、そんな思いが届いてか、話を聞いた朝廷は流刑を取り消し。劉太守は赦免され、公孫瓚が南の地へ向かう事はなくなったのでした。

 

 

 

 

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異民族殺すマン

 

 

 

後に公孫瓚は孝廉(コウレン:地元推挙制度)にて推薦を受け、遼東属国(リョウトウゾッコク:異民族が多い場所を属国としていた)の長吏(チョウリ:ここでは副官。つまり属国のナンバー2)として北方の平定、鎮圧の仕事を与えられました。

 

 

そんなある時、公孫瓚が数十の部下を連れて砦の見回りをしていた時、漢に敵対していた鮮卑(センピ)族の一段と遭遇しました。

 

公孫瓚はすぐに物見櫓の付近まで引き下がりましたが、辺りに撤退できる場所も無し。

 

 

そこで敵中突破を決め込み、部下たちに「ここを突破しなければ皆殺しにされてしまうぞ」と脅し付けると、自ら先陣を切って突撃。

 

部下の大半を失ってしまいましたが、数十人を殺傷しなんとか脱出に成功したのです。以後、鮮卑族は公孫瓚の武勇に一目置き、領土への侵入は控えるようになりました。

 

 

 

その後は、幽州でも重要拠点である涿県(タクケン)の県令に出世。

 

後に西の涼州で大規模な反乱が起きた時、幽州からも騎兵3000人の出動要請が出されました。公孫瓚は、その騎兵隊の指揮官を任され現地へ直行。

 

しかし薊(ケイ)まで軍勢が向かったとき、思わぬ事件が発生しました。なんと、漢王朝に不満を抱えていた張純(チョウジュン)が反乱を引き起こし、異民族や漢への不満を共にする民衆を巻き込んで敵対してしまったのです。

 

一説には十万を数えるとされるその軍勢は各地を荒らしまわり、近隣の土地を陥落させ、太守や重役を殺害して回りました。

 

 

公孫瓚はこれに対して自軍を率いて張純らを攻撃。なんと反乱軍の一軍を打ち破ることに成功してしまったのです。

 

この功績が認められ、公孫瓚は騎都尉(キトイ:近衛隊長)に昇進。しかし張純は討ちもらしてしまっており、その後も反乱勢力は勢いを増していき、公孫瓚はしばらく反乱軍との戦いに身をやつすことになります。

 

 

勝ちに乗って遼東付近にまで赴いて張純らを攻撃、ここでも敵軍を大いに打ち破った公孫瓚でしたが、この時追撃で深入りしすぎたため、逆に包囲を受けて一転危機に。そのまま補給が続かず200日にもわたる包囲を受け続け、結局双方撤退という痛み分けに終わったのです。

 

 

その後も公孫瓚は都から送られた援軍らとこの反乱の鎮圧に5年以上もの歳月をかけて戦い続けましたが、相手の勢いは強く一進一退の戦況に。

 

 

この状況を見かねた朝廷は、今度は攻撃の手段を変え、ある人物を北方へと派遣したのです。

 

 

 

 

 

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劉虞、嫌いです

 

 

 

揺れる幽州の反乱に止めを刺すべく送り込まれてきた人物の名は、劉虞(リュウグ)。彼は戦争こそ苦手ですが、徳と信義を持ち合わせた人格者。以前も幽州を力でなく慈愛で鎮撫した功績が認められて、幽州牧として赴任してきたのです。

 

 

劉虞は赴任するとさっそく反乱勢力に対し、「これ以上の抵抗は無意味。さあ、首謀者である張純の首を渡せ」と使者を出して呼びかけることにしました。

 

すると、以前劉虞に恩があった烏丸(ウガン)族らはすぐに帰順することを決め、喜んで劉虞に返事を送ったのです。その中には、反乱勢力の主力であった丘力居(キュウリキキョ)なる人物の姿もあったのです。

 

 

 

さて、こうなると面白くないのが、武で統制しようと考えていた公孫瓚たちです。

 

公孫瓚は、なんと劉虞の手柄を妨害するため、こっそりと人を遣って烏丸からの使者を殺害。連絡が取れないようにしてやることに。

 

しかし、烏丸らが異変に気付くと、今度は間道沿いにわかりにくいよう使者を派遣。結局使者は劉虞の元にたどり着き、彼の手柄は明らかになってしまったのです。

 

 

こうして反乱の必要がなくなった烏丸族はピタリと戦いを停止。都合が悪くなって慌てて逃げだした張純も鮮卑族へ亡命する最中に殺され、反乱はほぼ完全に収まってしまいました。

 

幽州ににらみを利かせている軍も公孫瓚率いる軍勢を除いてすべて帰ってしまい、いけ好かない劉虞はこの活躍で太尉(タイイ:軍事のトップ。国防長官)へとなってしまったのです。

 

 

 

 

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劉虞との本格衝突

 

 

 

しかし、公孫瓚にとって悪い事ばかりではありません。董卓(トウタク)が都に入り専横を極めてくれたおかげで、公孫瓚のような武官にも官位が与えられました。

 

公孫瓚は董卓によって、奮武将軍(フンブショウグン)、薊侯(ケイコウ)として武官の中でも大権を得ることができたのです。

 

 

とはいえ、劉虞との犬猿の仲ともいえる壊滅ぶりは相変わらず。

 

劉虞は袁紹(エンショウ)、韓馥(カンフク)といった河北に勢力を得ている面々と仲が良かったのですが、同時に董卓からも朝廷内に引き込もうと考えるほどの引っ張りだこで、要するに争いの中心で多くの諸侯が取り合うほどの大身でした。

 

 

そんな中で紆余曲折あって、袁術(エンジュツ)がその軍事力を奪おうと劉虞に軍勢の派遣を依頼。公孫瓚は袁術を危険として反対しましたが、劉虞は気にせずそのまま千の軍勢を袁術の元に贈ってしまったのです。

 

 

これに対して公孫瓚も、バツが悪くなったため袁術に軍勢を提供し、その指揮官として弟の公孫越(コウソンエツ)を派遣しました。

 

しかし、その裏ではやはり劉虞への陰謀を忘れないのが公孫瓚という人物。彼は袁術の元に引き留められていた劉虞の子を逮捕して劉虞郡強奪に加担する動きを見せたのです。

 

これにより両者の仲はいよいよ決裂し、後にとんでもない事態を招くことになってしまったのです。

 

 

ちなみに袁術の元に送った公孫越は、袁紹袁術による勢力争いの中で、袁術軍と共に戦い戦死。

 

袁紹に弟を殺された公孫瓚は、ここから袁紹とも物理的にぶつかるようになっていくのです。

 

『魏氏春秋』では、普段からの公孫瓚と劉虞のスタンスの違いによる対立が書かれています。

 

劉虞は異民族に対し温情による寛大な処置を行っていましたが、公孫瓚はそんな劉虞に真っ向から反対。

 

「奴らはつけあがりやすく、その統治は難しい。ならばこそ、力で無理矢理押さえつけるしかない」

 

つまり、公孫瓚は徳による異民族統治をその場しのぎの利害関係にしかならないと考えていたわけですね。

 

 

というわけで、公孫瓚は常に劉虞が異民族に与えた物を略奪に向かいその政治を妨害。訪ねてきた劉虞に対しても仮病で追い返して無視を決め込むようにしたのです。

続きを読む≫ 2018/05/14 17:10:14
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