閻行 彦明
生没年:?~?
所属:魏(?)
生まれ:涼州金城
閻行(エンコウ)、字は彦明(ゲンメイ)。
しょーじき、三国志好きの中でも知らない人のほうが多いような、そんな超マイナーな武将です。
涼州の反逆王・韓遂(カンスイ)の配下の人で、大変武勇に優れ、この三国志の中でも指折りの猛者と言ってもいいかもしれないような人です。
若いころから主君である韓遂に従い、武勇に優れた若手の将校としてそれなりに名を広めていたそうです。
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馬超すら粉砕する化け物
さて、この閻行の主君である韓遂、けっこう問題児な人物でして、馬騰(バトウ)とは義兄弟の契りを結んでいながら、ある時から激しく対立するようになっていました。
そしてある時、この閻行がとんでもない事件を引き起こしてしまうのです。
さて、その事件の内容は以下の通り。
ある時、馬騰の息子である馬超(バチョウ)と一騎打ちをした。
この馬超とは、おそらく三国志好きの人ならすぐに思い浮かぶであろう、有名高いあの錦馬超その人である。
さて、両者満を持しての決闘。
結果はどうなったかというと。
閻行は馬超をボコった。
馬 超 を ボ コ っ た
なんということでしょう。おお馬超よ、負けてしまうとは情けない
しかもこの戦い、閻行の圧勝だったそうな。
というのも、正史における記述では、以下のように書かれています。
勇名高い馬超との戦いにも臆さず戦い、馬超を矛で突き刺した。
その時に矛が折れてしまったので、今度はその折れた矛で頭をぶん殴って締め上げ、
馬超を半殺しにした。
ボッコボコやないかい(´・ω・`)
なおこの時の馬超はまだ20歳前後で、完全に成熟していなかった可能性が高いです。
とはいえ、錦馬超相手に、武力比べでワンサイドゲームを繰り広げたのは事実。この人も、また当時指折りの武力を誇っていたことは間違いありません。
さて、その後は曹操からとりなしの使者が来た時に、韓遂と馬騰とは和解。その後はしばらく仲良くやっていたそうです。
後に馬騰は、漢の帝の直接の臣下(という建前の人質)として都へと赴き、息子の馬超がその勢力を引き継ぎました。
それに前後して、主君の韓遂も息子を曹操への人質に送り、閻行もまた、自らの父を曹操の元に預けることにしたのです。
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叛逆者の部下として……
さて、この少し後に、問題が発生します。
韓遂の元に、馬超自らがやってきて、こう言い放ったのです。
「おーい韓遂、反逆しようぜ(意訳)」
つまり、天下を股にかける曹操に、喧嘩を吹っ掛けようと持ち掛けたのです。
閻行は反対しましたが、当の韓遂は反逆魂に火が付いたのかこれを承諾。ついに曹操の元に人質を置いたまま、その曹操と戦うことになったのです。
この戦いの結果は、曹操を追いつめることはできたものの計略の前に敗北。馬超・韓遂連合軍は本拠地の涼州に逃げ延びます。
当然、人質にされていた馬超の親兄弟や、韓遂の息子らは皆殺しにされたのは言うまでもありません。
しかし、閻行の父親だけは何とか殺されずにいました。これは、閻行が自分から父親を人質に差し出したのが理由だといわれています。
とはいえ、やはり反逆者の一人であることには変わりがなく、「はやくこちらに味方しなければ殺す」と脅しをかけられていたようではありますが……
さて、そのことを後に知った韓遂。ひとつ、悪だくみが頭に浮かびます。「父親が殺されれば、さすがに閻行も曹操憎しの感情から従ってくれる打とろう」と。
さっそく韓遂は、娘を無理やり閻行の嫁に出します。これにより、曹操は閻行をさらに疑うようになったといわれています。
そんなこんなで、自分は曹操の元にいたかったのに、主君のむちゃくちゃに付き合わされた閻行。これまでは渋々ながらも主君に付き合っていましたが、とうとうここで堪忍袋の緒が切れたようです。
一軍の統治を韓遂から任された瞬間、主君に反逆。韓遂を殺して、曹操への手土産にしようともくろみます。
しかしこの時は失敗し、仕方なくそのまま曹操の元に向かい、歓迎されたといわれています。
その後は元・主君の韓遂から不意打ちで攻められそうになりますが、その直後に韓遂は病気で死亡。閻行も、韓遂の死を皮切りに史書から姿を消したのでした。
なまじ馬超を殺しかねないほどの力量を持ったからこそ、キーパーソンとして辺境のグダグダに巻き込まれた、ちょっとかわいそうな武将。
その後は曹操の下で幸せに暮らせたのでしょうか……?