曹爽 昭伯


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曹爽 昭伯

 

 

生没年:?~正始10年(249)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州沛国譙県

 

人物伝・魏書

 

曹爽(ソウソウ)、字は昭伯(ショウハク)。あの名将・曹真(ソウシン)を父に持つ人物で、本人もさぞ優秀……なはずなのですが、活躍、終わり方共にパッとしないのはどういうことか。

 

曹魏の未来を託されたホープなのですが、よりによってあの司馬懿(シバイ)に喧嘩を吹っ掛け、そのまま逆襲を受けて滅亡というあっけない終わり方をしています。

 

 

おまけに、魏を代表する名将の子でありながら豚呼ばわりされる羽目に……。普通に有能なはずなんですがね。

 

 

さて、今回はそんな曹爽の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

 

果ての凋落

 

 

さて、威信を失い再び陰りを見せ始めた曹爽政権でしたが……正始10年(249)、ついに政敵・司馬懿によってトドメを差される瞬間が来ます。

 

この年、皇帝の曹芳が先帝の墓参りのため高平陵(コウヘイリョウ)に出立。曹爽も自らの弟と共にこれに付き従いました。

 

 

……が、この事が眠れる獅子・司馬懿を覚醒させるトリガーになってしまったのです。

 

 

司馬懿は曹爽不在を知るや否や、即座に兵を挙げて手薄になった洛陽(ラクヨウ)の武器庫を占拠。さらには場外に出て曹爽らの帰りを堂々と待ち、帰還を見届けるとすぐに曹爽の罪状を並べ上げた上奏文を曹芳に送り付けたのです。

 

「大将軍・曹爽は自らの派閥で要職を固め、他の者を追い払って自分の都合で政治を推し進めています。互いに結託し日々勝手な行動は増していき、今や天下の人々が恐れるほどとなっているのです。群臣はみな曹爽に兵を預けるべきでないと評し、皇太后もこれに同意なさっています。すでに曹爽らの兵権を係官らに命じて召し上げ、万一に備えてこうして兵を集めている次第です」

 

 

さすがにこんなものを帝の手に渡されてはかなわぬと、曹爽らは上奏文を握りつぶして必死に権益を守ろうとしましたが、もはや成す術も知らずといった様子。

 

 

参謀の桓範(カンハン)が「このまま許昌(キョショウ)に向かい帝を擁して抗戦するしか道はありません」と体制の建て直しを進言するも、混乱状態の曹爽はこの策を渋り、弟の曹羲も判断をためらったため、結局は大した抵抗もなく戦意を喪失。

 

「罪に服したほうがいい」と進言する部下の言葉のままに司馬懿に降伏し、そのまま罷免されてしまったのです。

 

 

 

とはいえ一時は命を長らえた曹爽でしたが……やはり罪状が明らかになった汚職政治家に明るい未来はありません。

 

軟禁生活に押し込まれてから4日後、嘘か誠か、曹爽がクーデターを企てているという事を部下の一人が司馬懿に漏らしてしまったのです。

 

 

これを聞いた司馬懿は、周囲の制止も振り切り即座に曹爽一派処刑を断行。かくして曹爽は部下や家族もろとも処刑され、曹真の家は族孫の曹煕(ソウキ)という人物に家督が回されることになったのでした。

 

 

 

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その人物評

 

 

歴史は、このような人物を高く評価しません。必要以上に悪者にされている可能性も否めませんが……それでも曹爽が自分の能力や器以上の地位を手に入れて自滅した点は、もはや擁護のしようがないでしょう。

 

そしてやはりというかなんというか……それをやらかしたのが、諸葛亮(ショカツリョウ)とすらまともに対峙できる名将・曹真の息子というのがまた……

 

 

 

そんな曹爽の事を、陳寿はこのように評しています。

 

 

徳がないのに高位に就き、理性を失い驕り高ぶった。

 

これはまことに『易』が明示し、道家が忌み嫌うところである。

 

 

 

最初の一文が、とても分かりやすく評価を表していますね。

 

もっとも、陳寿が三国志を編纂したのは晋という司馬一族の国の手前。司馬懿に敵対した曹爽がいいように書かれるいわれはありませんが……ともあれ、史書にある限りはろくな人物でないのは確かです。

 

 

一応出世という意味では、親の七光りもあるでしょうが、ほとんど自分で皇帝に気に入られて高位に上り詰めた存在。それなりにポテンシャルはある人なのでしょうが……

 

 

 

当然、残された逸話でも擁護の余地がない人物のようにボロクソに言われていますね。一応、讒言甘言の多い部下のせいというスタンスでもあるようですが……

 

 

 

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知者・桓範の持ち腐れ

 

 

 

曹爽の派閥の中にはまともな人も当然おり、その仲の一人に桓範(カンハン)というズバ抜けた知者がいました。

 

当然、桓範は司馬懿らにも一目置かれた存在ですが……やはりそこは曹爽。完全に司馬懿らにはナメられてます。

 

 

というのも、司馬懿のクーデターが発生して窮地に陥った時のこと。桓範は曹爽に対し、「我々には帝がいます。許昌(キョショウ)に逃げて態勢を立て直せば、まだ巻き返せます」と力説するも、曹爽は失敗が怖くて身動き取れず。

 

ならばと弟の曹羲に対して桓範は「ここで動かなければ明日はありませんぞ!」と置かれた状況について熱く語るも、やはり怖いからと進退を決めかねていたのです。

 

 

挙句の果て、曹爽は自分の派閥というわけでもない陳泰(チンタイ)らの勧めに乗って、「命くらいは助けてくれる」という希望を胸に司馬懿に降伏してしまう始末。

 

 

おまけに『魏氏春秋』では、その後の顛末とばかりに更なる醜態を晒している様子が描かれています。

 

なんと、司馬懿によって軟禁状態に押し込められた曹爽は「権益は失ったが、俺はまだ金持ちとしていられるんだ!」と安堵の表情を浮かべ、自分たちに今後言い渡される処罰をわかっていない様子を見せたのです。

 

事ここに至っては桓範も慟哭し、「父親の曹真殿は素晴らしい人だったというのに……お前ら兄弟はもはや豚か子牛だ! 俺はこんな奴らと連座して処刑されるのか!」と発狂して曹爽兄弟を罵倒したとか。

 

……いたたまれない

 

 

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能天気な豚将軍

 

 

 

これは『魏末伝』の話。

 

罷免され軟禁状態に押し込まれた曹爽にプライバシーなどあるはずもなく、司馬懿は住民から徴発した警察隊に館を厳重に包囲してその動向を常に監視していました。

 

そんな生活のためすぐにやつれてどうしようもなく、弓を持って後庭に出てみても、警察隊は大声でその動向を唱える始末。

 

 

罪を犯した重臣の軟禁とはこんなものなのかと兄弟に相談してみても、結局それが適性なのかどうかもわからなかったのです。

 

 

 

そこで曹爽は、自分を追いやった司馬懿に対して、ある手紙を書きました。

 

「悪行によって災禍を呼んだのですから、私めは処刑されて当然。それはそうと、使いの者に食料を取りに行かせたのですが、まだ戻ってこないのです。どうか数日の命を繋ぐため、融通していただけませんか?」

 

 

すると司馬懿からすぐに「これは申し訳ありません。すぐに食料を届けさせましょう」との返事が届き、本当に食料が贈られてきたのです。

 

これを見た曹爽兄弟は大喜び。「自分たちは殺されない!」と思い込んだとか。

 

 

 

まあ実際かどうかはさておき、好き勝手の末に足元を掬われた政治家らしい逸話と言えばそうですね。

 

これを草葉の陰から見ていた曹真は、いったい何を思ったのか……

続きを読む≫ 2018/06/05 21:57:05

 

 

 

 

さわやかさん台頭

 

 

 

曹爽は若い頃は謹厳実直で重厚という雰囲気から有能感があふれ出ており、明帝・曹叡(ソウエイ)からも、彼が帝位に就く前から寵愛を受けていました。

 

 

当然、曹叡の即位と共に曹爽にも相応の地位が与えられます。まずは散騎侍郎(サンキジロウ:尚書の上奏代行役)から入り、それから見る間に出世していき、最終的には武衛将軍(ブエイショウグン)にまでなりました。

 

この寵愛ぶりは他の家臣と溝を開けるほどの大きな物であり、この時の曹爽はとにかく大きな期待を背負っていたと言ってもよいでしょう。

 

 

そして、曹叡が病床に伏して命数が尽きようかという時、曹爽は期待の証として、なんと大将軍(ダイショウグン)に昇進。さらには多大な軍権を託され、司馬懿と共に魏の国を支えるようにと言い渡されたのです。

 

 

 

こうして曹叡が崩御すると、次の帝である曹芳(ソウホウ)の代には侍中(ジチュウ:皇帝に近侍する顧問役)の位と武安侯(ブアンコウ)の爵位、食邑1万2千戸という破格の待遇で時代を任されました。

 

さらには決まりの厳しかった皇室内で剣を持って靴を履いたまま、小走りでなくともよく、なおかつ参内時に実名を伏せたまま通されるという大きな特権もつけられました。

 

とにかく、曹爽はこれによって魏という国の第一人者になり、無くてはならない存在にまで上り詰めたのです。

 

 

 

しかしその陰では、曹叡が生前「名声ばかりで中身がない」と遠ざけていた人材を自分の膝元に呼び戻すなど、暗躍を図っていた形跡も……

 

 

 

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さわやかさんは司馬懿が怖い

 

 

 

さて、こうして魏でも皇帝を除けば第一という大権を手にした曹爽でしたが、そんな曹爽にも怖いと思える人物が一人いました。

 

曹操の代から仕える功臣・司馬懿です。

 

 

司馬懿は公績、名声共に曹爽よりも遥かに大きな存在で、曹爽も彼には頭が上がらず、父に対するように彼に仕えていました。

 

 

しかし、曹爽の権力が絶頂に上り詰めるとそれも一変。何晏(カアン)ら登用した群臣はみな曹爽をヨイショし、「他派閥に権限を与えるのはまずいですぞ」と進言。

 

これを真に受けて曹爽は政権を自らの派閥で独占し、もっとも厄介な司馬懿を名誉職に追いやることでその力を削ぎ落すようになっていきました。

 

こうして自分の元に政治的案件が来なくなった司馬懿は、危険を感じて政権の中央から撤退。病気と称して引きこもるようになります。

 

 

 

こうして最大の敵である司馬懿を貶めることに成功した曹爽一派は、その後も何晏らが中心となって政敵に次々と罪を消せて排除。そのやり口は、彼らの部下の失態を拾い上げ、印綬を没収して上奏手段を奪ったうえで罪に落とすものだったとされています。

 

 

また、曹爽自身もまるで皇帝であるかのような振る舞いを見せ、家には珍品や大勢の妻や愛人を置いたとされています。

 

 

これには弟の曹羲(ソウギ)もまずいとおもったのか「いずれ破滅を招きます」と警告したものの、曹爽自身は不快がるだけで聞く耳を持たなかった……という話も正史に載せられています。

 

 

『魏末伝』には、ここでボケ老人を演じる司馬懿の姿が書かれています。

 

というのも、曹爽派で荊州に赴任することになった李勝(リショウ)という人が、曹爽の命令で偵察を兼ねた挨拶に向かったときの事。

 

 

司馬懿は李勝に挨拶をすると、小間使いに持ってこさせた服を取り落とし、その後運ばれてきた粥を食べられずにすべて胸の辺りのこぼしてしまったのです。

 

 

そして李勝が荊州へ向かう旨を説明すると、司馬懿は間延びしたような声で「幷州ですか。あの地は異民族に接する危険な土地ゆえ、上手くやりなされ」と、あえて聞き違ったふりをしました。

 

すかさず李勝が訂正しても、司馬懿はあくまで幷州と聞き間違ったふりをしたまま。

 

さらにダメ押しとばかりに、「私の命はもう長くない。これが今生の別れとなるでしょう。どうか息子をよろしく頼みます」と付け加えたのです。

 

 

司馬懿の演技を完全に信じ込んだ李勝は、いたたまれなさから涙を流しながら曹爽に報告。こうして司馬懿は再起不能であると皆が思い込み、油断してしまったというわけですね。

 

 

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軍事的才能も父とはまるで似つかず……

 

 

 

さて、そんな政治独占をしている傍らで、曹爽には常に気がかりとなる部分がありました。

 

それが、派閥に属する人材の、実績の無さです。

 

 

特に魏は有能な人間が多く、司馬懿を始め大きな功績を上げている人物も大勢います。そんな中で、そろそろ周りを黙らせるほどの実績が欲しいと思っていたわけですね。

 

曹爽はこの問題を解決するため、諸葛亮(ショカツリョウ)亡き後その勢いを落としていた蜀に目をつけたのです。

 

 

そして正始5年(244)、蜀軍本隊が前線基地の漢中(カンチュウ)を離れ一時撤退。これを好機と見た曹爽は、政敵・司馬懿からの制止も聞かず、自らの実績を得るために大軍を率いて総攻撃を開始したのです。

 

 

しかし結果は、峻嶮な土地を利用した蜀軍の迎撃に完全に阻まれ、さらに補給路も土地の険しさのせいでまともに機能せずといったところ。

 

結局もたついているうちに、蜀軍本隊が到着。万全な体制を敷いた敵軍と対峙する羽目になってしまったのです。

 

 

郭淮(カクワイ)や司馬昭(シバショウ)らの活躍によって被害の拡大はなんとか防げましたが、結果は惨敗といったところ。

 

曹爽ははじめ実績欲しさに撤退の進言を退けてはいましたが、最終的にはどうにもならなくなり撤退。結局痛手を負っただけに終わり、このせいで曹爽の威信は大きく削がれてしまう結果となったのでした。

続きを読む≫ 2018/06/04 13:39:04
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