徐晃


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徐晃 公明

 

 

生没年:?~太和元年(227)

 

所属:魏

 

生まれ:司州河東郡楊県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A+> 軍に一切の乱れ無し。兵を良く統率し、樊城では新兵だらけの軍で関羽を打ち破るという意味不明の活躍を見せた。
武力 機を待って、敵の勢いを削いでから突撃というのが徐晃の勝ちパターンで、当然敵将を斬った記述も多く、突破力も桁が違う。後は、演義などで大斧を振り回すイメージが強い。
知力 惨敗から圧勝まで想定できる限りの対策を立てて戦いに臨んだ。その結果、向かうところ負けなしで彼が想定した負けパターンはすべて無駄になったという。
政治 D+ 軍人で政治に関与しないが、軍規をしっかりしてそうで法家の資質はあったのだろう。
人望 名声に関する話は聞かないが、「不敗の徐晃」の二つ名が後世の人気を物語っている。

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徐晃(ジョコウ)、字は公明(コウメイ)。大斧を振り回す武勇に優れた「猛将」のイメージが定着し、おおよそメディアでの出演はそんな武闘派準拠。

 

無双シリーズでも武を極めようとする一種のキノコ求道者としてのキャラ付けが与えられています。

 

 

よって、後世に伝わる徐晃像は兵を率いる将軍というより、個人武勇で無双するタイプが主流なのではないでしょうか。

 

 

 

……が、正史の記述を追っていくと、武勇よりもすぐれた用兵家としての一面が見えてきます。

 

今回は、そんな徐晃の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

関羽撃退

 

 

 

建安24年(219)、荊州にて曹操軍の隙を伺っていた関羽がいよいよ北上し、襄陽(ジョウヨウ)、樊城(ハンジョウ)といった曹操軍の拠点を包囲しました。

 

指揮官である曹仁は兵数士気ともに劣勢に立たされ、救援に向かった于禁(ウキン)らも軍勢が水没したことで戦う前から敗北。魏の荊州戦線は、未曽有の危機に陥ったのです。

 

 

曹操はこの窮地に際し、各地から援軍を編制。徐晃も、その大規模救援軍の先駆けとして関羽撃退の任務に就きました。

 

徐晃はいち早く戦場に到着しましたが、この時連れていた兵は大半が新兵ばかりで練度が低く、迂闊に関羽にぶつかるのは危険な状態だったのです。

 

そこで徐晃は、陽陵陂(ヨウリョウハ)まで進むと一度軍を止め、味方を待つことに。

 

 

そして曹操からの援軍と合流すると、満を持して関羽との戦いに臨みます。

 

まず偃城(エンジョウ)を拠点にしている敵の先陣部隊を、背後に見せかけの陣を作って揺さぶりをかけて撤退させると城を確保。

 

 

偃城を中心に左右に陣を展開して徐々に関羽を肉薄し、更なる援軍が合流したところで、四冢(シチョウ)と囲頭(イトウ)にある関羽軍の陣営を利用して、関羽をおびき寄せることにしました。

 

 

 

徐晃はまず敵軍に伝わるように囲頭の陣営攻撃を通達。これによって敵軍の目が囲頭に向いたところで、ノーマークだった四冢の陣営に対して総攻撃を仕掛けたのです。

 

これを見過ごせなくなった関羽は、徐晃の狙い通り5千の軍勢を率いて四冢救援に出陣。

 

 

関羽が来たのを確認した徐晃は偽の退却で関羽軍を自陣深くまで誘導し、関羽軍を包囲して大破してしまったのです。

 

 

徐晃の関羽撃破によって、荊州攻撃を行っていた関羽軍は意気消沈。これによって荊州は無事に守られ、関羽も背後から迫った孫権軍によって討ち取られたのです。

 

 

この働きには、曹操もご満悦。「わしの経験上にも、ましてや歴史書の中でさえ、これほどの偉業を成し遂げた者はおらん! 孫子や司馬穰苴といった兵法家を超えた」と絶賛し、わざわざ自ら出向いて祝勝会を開いたのです。

 

またこの時も徐晃の軍だけはまとまりを乱さなかったことから、「周亜夫の風格あり」と徐晃の軍事統率力を賞賛したのです。

 

 

 

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静かなる晩年

 

 

 

曹操が亡くなって曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、徐晃は右将軍(ウショウグン)に昇進し、逯郷侯(タイキョウコウ)、魏帝国を打ち立てると楊侯(ヨウコウ)に爵位を上げて領地を加増。

 

上庸(ジョウヨウ)にて劉備軍を打ち破ると、今度は対劉備の前線である陽平(ヨウヘイ)を鎮護させ、陽平侯に転封しました。

 

 

 

その後曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が新たな帝になると、今度は孫権が世代交代の混乱を狙って侵攻。徐晃は諸葛瑾(ショカツキン)と一戦交え、これを撃退。その後領地を加増され、3100戸の大所帯を抱えることになりました。

 

 

が、徐晃はほどなくして病に侵され、太和元年(227)に死去。本人の遺言で普段着のまま葬られ、息子の徐蓋(ジョガイ)が跡を継ぎました。

 

 

諡は壮侯(ソウコウ)。壮という字は勇ましいとかそういう意味なのですが……もしかして案外イケイケな性格だったのでしょうか?

 

 

 

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人物評

 

 

三国志演義では大斧を振り回す猛将で、強いけどイマイチパッとしない存在。ですが、正史における徐晃は障害負けなし、猛将というよりは知性派の名将のようなイメージすらありますね。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼をこう評しています。

 

 

つつましやか、慎重な性格で、戦場では常に遠くまで斥候を出し、負けた時の敗走ルートまで頭に入れてから戦った。

 

一方で敗走する敵を追う時は迷いがなく迅速で、兵たちは食事の暇もないほどだった。

 

 

 

陳寿は同時に、「張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の5人が魏でもっともすぐれた将軍たちだった」と巻末で述べています。

 

 

 

張遼のようなわけのわからん最強伝説を立てるような人物ではなく、于禁のようにネタにされる失態のない、堅実を地で行くと。

 

それ故に具体的な伝説はないものの、それでも着実にできる所から戦果を上げていく人物だったのでしょうね。

 

 

 

また、曹操には非常に厚い忠誠心を向けていたようで、本人は心中をこう漏らしていたと言われています。

 

 

「過去の英雄や名将はいい主君に巡り合えなかったが、私はその点幸運だった。個人の名声など気にする必要は無い。全力を尽くし、殿のために功績を上げねばならぬ」

 

 

……何だこの絵に描いたような忠臣は。

 

 

とにかく、曹操に対する思いは並大抵ではなかったことが伺えますね。

 

徐晃はこの言葉通り私生活でも不要な交遊は広げず、派閥に属したりして後ろ盾を持つこともしなかったのです。

 

 

 

とにかくやる事成すこと無難で確実、やらせれば必ず小さくない功績を上げ、失敗することのない上に忠誠心も厚いという超人級のエリート軍人、徐晃。

 

決して華のある人物ではありませんが、仮に現代に存在していたら、日本人を魅了してやまない人物だったのではないかなと思います。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:36:16

 

 

 

 

 

河東の良将・曹操に帰服

 

 

 

徐晃ははじめ生まれである河東郡の役人として漢帝国に仕え、その後漢の車騎将軍(シャキショウグン)である楊奉(ヨウホウ)に仕官。賊徒討伐で軍功を挙げ、騎都尉(キトイ:近衛隊長)に任命されて武官としての第一歩を歩み出しました。

 

 

こうして主君を得た徐晃でしたが、この当時、都の長安は李傕(リカク)、郭汜(カクシ)らによって大いに荒らされ、漢王朝の権威は衰退の一途を辿っていました。

 

 

 

そんな状況を憂いた徐晃は、自身の主君である楊奉に、「帝と共に、元の都である洛陽に逃げ延びましょう」と進言します。

 

楊奉はこの意見に従ってさっそく帝を連れ、長安を脱出。黄河を渡った先の安邑(アンユウ)まで逃げ切り、なんとか無事に逃走劇を成功させます。

 

 

 

こうして無事に混乱から逃げ延びることに成功した帝の一派ですが、まだまだ混乱は続きます。

 

洛陽に帰還すると、今度は帝の近習らと楊奉らが対立。仲間であり逃走中に救援に来てくれた韓暹(カンセン)らが功績を鼻にかけて好きに暴れ始めたのが原因と言われていますが、とにかく洛陽は再び帝を中心として混迷し、最終的には軍事衝突を繰り返すようになりました。

 

結果、曹操の介入を招いてしまい、徐晃はやむなしと曹操への帰順を楊奉に進言。楊奉もこれに従う動きを見せましたが、すぐに心変わりして曹操軍と敵対し、惨敗を喫してしまいます。

 

 

敗北した楊奉は逃走し、居場所を無くした徐晃はもはやこれまでと曹操に降伏。

 

しかしこの苦い降伏こそが、徐晃の栄達の道の幕開けであったのです。

 

 

 

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曹操配下での台頭

 

 

 

さて、こうして曹操に降った徐晃は、手始めに周囲の賊徒討伐を成功させ、裨将軍(ヒショウグン:エリートコースの中継地点である下位将軍職)に任命され、すぐに頭角を現しました。

 

 

その後、呂布討伐、眭固(スイコ)討伐、そして反旗を翻した劉備の征討と主要な戦いで次々と軍功を立て、官渡の戦いでも顔良(ガンリョウ)、文醜(ブンシュウ)の撃破に主力部隊の一角として貢献し、偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。その後も曹洪(ソウコウ)と共に反旗を翻した賊軍を討伐。

 

その後官渡の戦いが膠着状態に陥ると、荀攸(ジュンユウ)の策で袁紹軍の輜重隊を攻撃し、多数の物資を焼き払うという大戦果を上げ、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられました。

 

 

 

建安9年(204)に韓範(カンハン)が降伏の意を唱えながら一悶着あって曹操と敵対すると、曹操は攻撃軍に徐晃を派遣。徐晃はこの時力攻めにせず、矢文で韓範に事の次第を釈明。これを受けた韓範は戦わずに降伏しました。

 

その後徐晃は韓範の降伏について、「他の城は我らの事をよく見ています。下手に攻撃すれば敵対されます」と韓範の降伏受諾を曹操に進言し、曹操はこれに同意。

 

 

その後別動隊を率いた際にも伏兵を用いて敵の陣営を落とすなど、まさに知勇兼備の働きを見せました。

 

 

こうして徐晃は、袁譚(エンタン)、そしてこの戦いに介入した蹋頓(トウトン)の撃破にも一役買い、曹操の華北統一に大きく貢献。その活躍を認められ、横野将軍(オウヤショウグン)に任命されました。

 

 

 

後に行われた荊州遠征にも徐晃は従軍し、賊軍討伐で戦功を挙げ、その後満寵(マンチョウ)や曹仁(ソウジン)といった名将たちと共に関羽(カンウ)の軍勢を撃破し、周瑜(シュウユ)との決戦にも臨みました。

 

 

しかし、赤壁の戦いでは曹操軍は大敗。これによって曹操の求心力は低下し、曹操の天下への道は大きく停滞することになってしまったのです。

 

 

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無敗の将軍

 

 

 

 

曹操軍が無敵であるという先入観が崩れ去ってしまった事から、その後各地で反乱が勃発。徐晃もしばらくは反乱軍との戦いに身を投じることになります。

 

 

建安15年(210)、北方の太原(タイゲン)で反乱がおこると、徐晃は夏侯淵(カコウエン)の指揮下として討伐に参加。本拠地を攻め落として首謀者を討ち取ることに成功します。

 

 

 

翌年、馬超(バチョウ)や韓遂(カンスイ)ら西涼の群雄が連合軍を起こして曹操軍と敵対。

 

曹操は徐晃の故郷である河東の反乱軍討伐を命じ、同時に徐晃の先祖を祭ることで彼の忠勤に答えました。

 

 

こうして反乱を抑えながら進んでいき、曹操軍はついに潼関(ドウカン)で馬超らの本隊と激突。

 

正面切っての対峙は危険なため、黄河を渡って北に陣を敷いて有利を取る作戦を採用しますが、曹操にとっては馬超の攻撃をかわしながら黄河を上手く渡れるかが不安でした。

 

 

そこで曹操は徐晃を呼んで共に作戦を練ることにしました。

 

徐晃は曹操に対し、「敵は精強ですが思慮は浅い。私が先行し、敵軍の退路に陣営を築きましょう」と提案。

 

 

曹操はこの意見を容れ、徐晃に歩騎合わせて4千の精鋭を与え、さっそく黄河を渡河させました。

 

この時、まだ陣営が出来上がっていないうちから敵将の梁興(リョウコウ)が5千の兵で夜襲を仕掛けてきましたが、徐晃はこれを難なく撃退。作戦通り陣営を作り上げ、曹操軍の渡河に際して敵軍の目を分散させることに成功。勝利に小さからぬ貢献をしたのです。

 

 

その後も徐晃は夏侯淵と共に別動隊を率い、西域の反乱軍を次々と一掃していき、梁興を討ち取って3千余りの家を降伏させました。

 

そして安定(アンテイ)で再び曹操軍と合流し、建安20年(215)の張魯(チョウロ)討伐にも従軍。さらにここでも別動隊として背後の氐(テイ)族討伐を執り行い、平寇将軍(ヘイコウショウグン)に昇進したのです。

 

 

その後曹操は帰還しますが、徐晃は西に残って、今度は対劉備の備えの1人として活躍を期待されました。

 

 

建安23年(218)には、いよいよ劉備軍が曹操軍と開戦。敵将の陳式(チンショク)によって断崖の間道が封鎖されますが、徐晃はこの解放のために別動隊を率いて進軍。

 

陳式を大いに打ち破り、その強さのあまり多くの敵兵が驚いて崖から転落したと言われるほどの大勝利を収めました。

 

 

曹操はこれを喜び、徐晃に仮節(カセツ:軍規違反者の処罰権限)を与えられ、更なる期待を寄せられることになったのです。

続きを読む≫ 2018/06/16 11:36:16
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