晩年はどうだったか……
曹丕が亡くなり、その息子の曹叡(ソウエイ)が跡を継いでも、劉曄は変わらず重用され、爵位を東亭侯(トウテイコウ)に格上げ、領地は300戸になりました。
ある時、曹叡が「先祖を祭るために諡号を与えたい」という勅使を出しましたが、それに対して劉曄は、故事をネタに「君主の行動は逐一記録されるので、慎重に検討の上、追号は高皇・曹騰(ソウトウ:曹操の祖父)までにすべき」と提案。同席していた衛臻(エイシン)も同意見だったようで、そのまま劉曄の進言は採用されました。
また、北の遼東(リョウトウ)では太守の公孫恭(コウソンキョウ)が兄の公孫淵(コウソンエン)に下剋上を果たされ、そのまま公孫淵が遼東太守に勝手になり替わるという事件が発生。
劉曄はこの時も遼東の地理や状況を元に、以下のように推察しています。
「遼東は山々に守られている上に異民族が割拠する無法地帯。おまけに公孫氏は漢よりあの土地を任されてから代々その地位を世襲している。隔絶された辺境でもしも反乱を起こされれば、きっと一波乱起こるだろう。
もし今の世襲によるゴタゴタを突き、その上で恩賞をネタに降伏を迫れば、おそらく危険の芽は摘めるのだろうが……」
この劉曄の懸念が的中したのは、彼の死後。公孫淵は魏と呉の陣営を行ったり来たりして独立勢力を目指し、実際に魏に背いたのです。
太和6年(232)には病気のため第一線を降り、太中大夫(タイチュウタイフ:皇帝の顧問役だが、侍中より権限は下がる)に降格。
そこから大鴻臚(ダイコウロ:諸侯や味方する異民族の管理)にまでなりましたが、やはり2年ほどで太中大夫に位を戻し、そしてそう時間のたたないうちに逝去。
景侯の諡号が与えられ、子供も2人がそれなりに出世したのです。
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その人物像
劉曄は魏を支えた謀臣や朝廷工作員、参謀といった、自身の才覚ひとつで大身についた人物の一人として、その名を連ねています。
陳寿がいうには、
荀攸(ジュンユウ)のように高い徳性の持ち主かと言われればまた方向性の違う人物だが、優れた謀士という意味では同類だった。
才能、知略に優れた天下の奇士である。
とのこと。程昱(テイイク)や荀彧(カクカ)らと一緒くたに評されていますが……裏を返せばそれだけ優れた人物だったという事でしょう。
また、劉曄の人柄を表すものとして、正史本文に「人付き合いをほとんどしなかった」というものがあります。
その理由をある人から聞かれたとき、劉曄はこのように答えています。
「魏になり替わったことで漢の命脈が尽きたことを納得できない人は多いろう。そんな時勢の中で、漢王朝の血を引きながら魏の腹心をやっているのだ。
天下の大半がまだ魏王朝の成り立ちに納得していない以上、世論的に裏切り者に近い私に仲間が少ないのは、当然だろう」
……うーん、何とも、理屈はわかりますが物悲しい……
実際に人付き合いは得意な方ではないようで、劉曄は人とのトラブルが正史以外の史書で語られていたりもします。その1つが、「おべっか使い」という讒言ですね。
ちなみに『傅子』でも彼のことを「胆略があり、その説明は人々を大いに納得せるだけの具体的な物だった」と賞賛しています。
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腹芸とおべっか
劉曄は秘密主義者で基本黙っているような人物。それが時に人に流されて適当にゴマをすっているようにも見え、『傅子』では「良く変化に対応し、どう転んでも困らない処世を行った」と言われています。
実際、以下はその『傅子』の逸話なのですが……劉曄が陰でどう思われていたのかの考察にもなるかもしれませんので抜粋。
劉曄は曹叡からも大きな信頼を得ていて、しょっちゅう呼ばれて政治議論を行っていた。
しかしそれをよく思わない人が、曹叡に対して劉曄の讒言を行った。
「奴はおべっか使いで、ろくに忠節を尽くしていません。試しに、今度はご自身の意向とは真逆の意見を述べてみてください。それに同調するようなら、奴の不誠実は明白になるでしょう」
かくして曹叡は劉曄を試してみたが、讒言通りの対応を取った。
劉曄はこれ以降曹叡に疎まれるようになり、発狂して憂悶の内に死んだ。
裴松之もこの逸話の後に自らのコメントを書き記し、以下のようなコメントを残して残念がっています。
「巧みな誤魔化しはつたない誠実さに及ばぬ」という言葉通り。
劉曄は明晰な頭脳とその場に適応した策謀を持ち合わせていたが、才気に物を言わせ、信義道徳を重んじなかったために居場所を失ってしまったのだ。
……もっとも、傅子自体の信憑性はグレーですが、こんな逸話が流れるほどにコウモリ野郎として見られていた、その証左なのかもしれませんね。
ちなみに正史でも、飽勛(ホウクン)が議論の末の感情交じりとはいえ劉曄を「おべっか使いで不忠の輩」と糾弾しており、劉曄の性質はある意味傅子にある通りなのかもしれませんね。
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劉曄と魯粛
やはり英雄は英雄を知るというか、変人は変人を呼ぶというか……
劉曄は、あの呉の魯粛(ロシュク)と仲が良く、「親しい友人関係であった」と魯粛伝では語られています。
そして、劉曄が鄭宝の元に向かう際、実は魯粛に対して手紙を送っています。
内容は「そんな辺鄙なところより、君みたいな人の才能を大いに生かせる場所がある。鄭宝の元に来てくれ。彼の元で、一緒に力を尽くそうではないか。さあ、急ごう!」とまあ、要するに軍中への誘いですね。
魯粛はこれを聞いて喜んで北に向かおうとしています。結局親友の周瑜(シュウユ)に呼び止められてやめていますが……共に鄭宝に仕えていたら、いったいどうなっていたのか気になる所。
もっとも、本伝を見るに劉曄は鄭宝に脅されて嫌々向かっただけ。この後鄭宝をぶった斬っている辺り、脅されて魯粛に手紙を書いた可能性が高いですが……
ともあれ、もし魯粛が一緒に鄭宝の元に行けば、劉曄による暗殺もより派手なものになり、曹操軍に二人して向かった……のかもしれませんね。