劉曄 子揚


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劉曄 子揚

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:揚州淮南郡成徳県

 

 

劉曄 魏 皇族 人斬り おべっか 沈黙 策士

 

 

劉曄(リュウヨウ)、字は子揚(シヨウ)。この人はけっこう血筋がグレーな劉備(リュウビ)と違い、本当に漢室皇帝の血筋を持った本物の皇族です。

 

にもかかわらず、悪党のような人物をためらいなく殺すなど非常にアグレッシブ。おまけに知略にも大いに優れており、曹操軍の有能な幕僚や謀臣の一人としてその名を馳せています。

 

一方で社交的な会話は苦手で、発狂して死んだとかおべっか使いだとかいう声もありますが……まあ、そこも含めて面白い人だという事で。

 

 

今回は、そんな劉曄の伝を追って行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

晩年はどうだったか……

 

 

曹丕が亡くなり、その息子の曹叡(ソウエイ)が跡を継いでも、劉曄は変わらず重用され、爵位を東亭侯(トウテイコウ)に格上げ、領地は300戸になりました。

 

ある時、曹叡が「先祖を祭るために諡号を与えたい」という勅使を出しましたが、それに対して劉曄は、故事をネタに「君主の行動は逐一記録されるので、慎重に検討の上、追号は高皇・曹騰(ソウトウ:曹操の祖父)までにすべき」と提案。同席していた衛臻(エイシン)も同意見だったようで、そのまま劉曄の進言は採用されました。

 

 

また、北の遼東(リョウトウ)では太守の公孫恭(コウソンキョウ)が兄の公孫淵(コウソンエン)に下剋上を果たされ、そのまま公孫淵が遼東太守に勝手になり替わるという事件が発生。

 

劉曄はこの時も遼東の地理や状況を元に、以下のように推察しています。

 

「遼東は山々に守られている上に異民族が割拠する無法地帯。おまけに公孫氏は漢よりあの土地を任されてから代々その地位を世襲している。隔絶された辺境でもしも反乱を起こされれば、きっと一波乱起こるだろう。

 

もし今の世襲によるゴタゴタを突き、その上で恩賞をネタに降伏を迫れば、おそらく危険の芽は摘めるのだろうが……」

 

 

この劉曄の懸念が的中したのは、彼の死後。公孫淵は魏と呉の陣営を行ったり来たりして独立勢力を目指し、実際に魏に背いたのです。

 

 

太和6年(232)には病気のため第一線を降り、太中大夫(タイチュウタイフ:皇帝の顧問役だが、侍中より権限は下がる)に降格。

 

そこから大鴻臚(ダイコウロ:諸侯や味方する異民族の管理)にまでなりましたが、やはり2年ほどで太中大夫に位を戻し、そしてそう時間のたたないうちに逝去。

 

景侯の諡号が与えられ、子供も2人がそれなりに出世したのです。

 

 

 

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その人物像

 

 

 

劉曄は魏を支えた謀臣や朝廷工作員、参謀といった、自身の才覚ひとつで大身についた人物の一人として、その名を連ねています。

 

陳寿がいうには、

 

荀攸(ジュンユウ)のように高い徳性の持ち主かと言われればまた方向性の違う人物だが、優れた謀士という意味では同類だった。

 

才能、知略に優れた天下の奇士である。

 

とのこと。程昱(テイイク)や荀彧(カクカ)らと一緒くたに評されていますが……裏を返せばそれだけ優れた人物だったという事でしょう。

 

 

 

また、劉曄の人柄を表すものとして、正史本文に「人付き合いをほとんどしなかった」というものがあります。

 

その理由をある人から聞かれたとき、劉曄はこのように答えています。

 

 

「魏になり替わったことで漢の命脈が尽きたことを納得できない人は多いろう。そんな時勢の中で、漢王朝の血を引きながら魏の腹心をやっているのだ。

 

天下の大半がまだ魏王朝の成り立ちに納得していない以上、世論的に裏切り者に近い私に仲間が少ないのは、当然だろう」

 

 

 

……うーん、何とも、理屈はわかりますが物悲しい……

 

 

実際に人付き合いは得意な方ではないようで、劉曄は人とのトラブルが正史以外の史書で語られていたりもします。その1つが、「おべっか使い」という讒言ですね。

 

 

ちなみに『傅子』でも彼のことを「胆略があり、その説明は人々を大いに納得せるだけの具体的な物だった」と賞賛しています。

 

 

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腹芸とおべっか

 

 

 

劉曄は秘密主義者で基本黙っているような人物。それが時に人に流されて適当にゴマをすっているようにも見え、『傅子』では「良く変化に対応し、どう転んでも困らない処世を行った」と言われています。

 

実際、以下はその『傅子』の逸話なのですが……劉曄が陰でどう思われていたのかの考察にもなるかもしれませんので抜粋。

 

 

 

劉曄は曹叡からも大きな信頼を得ていて、しょっちゅう呼ばれて政治議論を行っていた。

 

 

しかしそれをよく思わない人が、曹叡に対して劉曄の讒言を行った。

 

「奴はおべっか使いで、ろくに忠節を尽くしていません。試しに、今度はご自身の意向とは真逆の意見を述べてみてください。それに同調するようなら、奴の不誠実は明白になるでしょう」

 

かくして曹叡は劉曄を試してみたが、讒言通りの対応を取った。

 

 

劉曄はこれ以降曹叡に疎まれるようになり、発狂して憂悶の内に死んだ。

 

 

裴松之もこの逸話の後に自らのコメントを書き記し、以下のようなコメントを残して残念がっています。

 

「巧みな誤魔化しはつたない誠実さに及ばぬ」という言葉通り。

 

劉曄は明晰な頭脳とその場に適応した策謀を持ち合わせていたが、才気に物を言わせ、信義道徳を重んじなかったために居場所を失ってしまったのだ。

 

 

 

……もっとも、傅子自体の信憑性はグレーですが、こんな逸話が流れるほどにコウモリ野郎として見られていた、その証左なのかもしれませんね。

 

 

ちなみに正史でも、飽勛(ホウクン)が議論の末の感情交じりとはいえ劉曄を「おべっか使いで不忠の輩」と糾弾しており、劉曄の性質はある意味傅子にある通りなのかもしれませんね。

 

 

 

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劉曄と魯粛

 

 

 

やはり英雄は英雄を知るというか、変人は変人を呼ぶというか……

 

劉曄は、あの呉の魯粛(ロシュク)と仲が良く、「親しい友人関係であった」と魯粛伝では語られています。

 

 

そして、劉曄が鄭宝の元に向かう際、実は魯粛に対して手紙を送っています。

 

 

内容は「そんな辺鄙なところより、君みたいな人の才能を大いに生かせる場所がある。鄭宝の元に来てくれ。彼の元で、一緒に力を尽くそうではないか。さあ、急ごう!」とまあ、要するに軍中への誘いですね。

 

魯粛はこれを聞いて喜んで北に向かおうとしています。結局親友の周瑜(シュウユ)に呼び止められてやめていますが……共に鄭宝に仕えていたら、いったいどうなっていたのか気になる所。

 

 

もっとも、本伝を見るに劉曄は鄭宝に脅されて嫌々向かっただけ。この後鄭宝をぶった斬っている辺り、脅されて魯粛に手紙を書いた可能性が高いですが……

 

ともあれ、もし魯粛が一緒に鄭宝の元に行けば、劉曄による暗殺もより派手なものになり、曹操軍に二人して向かった……のかもしれませんね。

 

 

もっとも、時系列的によく理解できない話ではありますが……。

 

この手紙を送った後、劉曄は鄭宝を殺し、劉勲の元に移動。そして、その劉勲は孫策の攻撃によって滅ぼされています。が、魯粛が劉曄の元に行こうとして周瑜に止められたのは、孫策が死んだあと。

 

まあ当時は何ヶ月単位のタイムラグは普通に発生するのでしょうが……この手紙、どのタイミングで魯粛が受け取ったのでしょうか?

続きを読む≫ 2018/06/03 11:52:03

 

 

 

 

 

 

皇族が斬る!

 

 

 

劉曄の家は、後漢王朝を設立した光武帝の分流の血筋で、漢王朝に連なる真正の皇族でした。そのため家には召使や私兵のような集団も大勢仕えており、多くの人の出入りがあったのです。

 

当然、その中には腹黒い思想を抱えた者もおり、劉曄の母はそんな人物の台頭を懸念していました。

 

 

そんな中、劉曄が7歳になった時、母は重い病のため死去。臨終の際に父の側近の一人を名指しし、「人に取り入って家を荒らすあの者を討ち取るのです」と言い残していたのです。

 

劉曄はその言葉よく胸に刻んでおき、13歳になった時、母の遺言通りに奸臣を討ち取ろうと思い立ちました。

 

兄に「遺言を果たしましょう」と共に行動するよう求めたのですが、兄は「できるものか!」と及び腰で、一向に動こうとしません。

 

 

そのため、劉曄は自分一人で遺言を実行すべく単身奥の部屋に立ち入り、その側近をバッサリ。慌てふためく家中をよそに母の墓に報告を入れ、その遺言を見事果たしたのです。

 

怒った父は慌てて劉曄を手のものに探させますが、帰ってきた劉曄が素直に頭を下げて遺言の旨を伝えると、父は逆に感心。結局お咎めなしで許されたのでした。

 

 

そんな剛毅な少年であった劉曄でしたが、疎開してきた人物評論家の許劭(キョショウ)は「国を補佐する才有り」と褒め称えたことで、その名声は大きくなっていったのです。

 

 

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続・皇族が斬る!

 

 

 

さて、揚州は肥沃な土地と異民族の侵攻による不安定な治安を併せ持っており、その豊かさを求めて疎開に来た名士やら罪人やらが多く身を寄せる場所でした。

 

そして当地の強気な性格もあり、荒くれたちがひしめく群雄割拠の様相を呈していたのです。

 

 

 

そんな揚州の群雄の中で、ひときわ才覚と力を持っていたのが、鄭宝(テイホウ)という人物。

 

鄭宝は軍を起こして住民を南へと強制移住させ、力を蓄えようとしていましたが、そんな中で目をつけたのが劉曄の家。彼はまだ20そこそこだった劉曄を脅しつけて強制的に連れ出すと、自分の軍の首謀者として使い倒そうと目論んでいたのです。

 

盛んな鄭宝の勢いには劉曄もどうしようもなく、やむなく彼の軍に加えられ、御輿として担がれてしまいました。

 

 

しかしその数日後、曹操(ソウソウ)が揚州の視察のために派遣した使者が鄭宝の軍を訪問。

 

劉曄はこれ好機とばかりに数日間粘りに粘って使者との同行を要請しますが、そんな折、鄭宝がご機嫌伺いのために使者の元まで来てしまったのです。

 

 

――こうなっては、鄭宝を殺すしかない。

 

 

劉曄は使者について行く前に、まず鄭宝の始末を計画。暗殺者を一人招き入れ、酒盛りの最中に暗殺者に襲撃させて彼を殺す腹積もりでした。

 

しかし、実は鄭宝は下戸で、自分はまったく酒を飲まないタイプ。結果として暗殺者は機会を得られず、暗殺者は出る機会を失って尻込みしてしまったのです。

 

それを見た劉曄は、ここでも自ら動くことを決意。刀を持って自ら鄭宝の前に向かい、彼を一刀で殺害。その軍勢を説得し、自らがその軍を手中に収めてしまったのでした。

 

 

しかし、自ら軍を持つのはいかがなものかと思い立った劉曄は、盧江(ロコウ)太守の劉勲(リュウクン)に丸々その軍を預け、その配下に加わることになりました。

 

とはいえ、劉勲は猪突猛進な性格だったらしく、当時快進撃を続けていた孫策(ソンサク)の対処について助言するものの聞き入れられず、その軍は敗北し崩壊。

 

劉曄は劉勲ともども逃亡し、揚州の賢才を募っていた曹操に仕えることにしたのでした。

 

 

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軍師の慧眼

 

 

 

こうして曹操軍に加わった劉曄は、すぐに陳策(チンサク)なる山賊を討伐する軍議の席に出席。多くの幕僚が「陳策の割拠する地はうまみも無く、そのくせ攻めづらいので利益がありません」と反対する中、堂々と「攻めなくてもあの程度の輩には勝てます」と宣言し、大軍を武器に降伏を呼び掛ける策を提唱。

 

曹操は「ごもっとも」とその通りに行動し、陳策を降伏に追いやったのでした。こうして力を見せつけた劉曄は、後日曹操に呼び出されて司空倉曹縁(シクウソウソウエン:曹操の属官。穀倉官吏者)としてのポストが与えられたのです。

 

 

『傅子』では、この時蒋済(ショウサイ)、胡質(コシツ)といった面々も同時期に採用され、ともに曹操の軍議に呼ばれていたとされています。

 

それによると、軍議では争うように意見を出したものの、劉曄は何も言わず黙っていたそうな。

 

そんなことが2度あって、他の出席者に内心見下されながら開かれた3度目。曹操からの質問がなくなった時に劉曄はついに口を開き、その深遠な智謀を見せつけたのです。

 

 

その言葉は曹操をはっとさせるものばかりで、そんなことがあった3度目。曹操は劉曄の「深慮遠謀は言葉でなく心に宿り、それは気軽な座談でなく一人一人と会話して知るべきものだ」という意思に気付き、劉曄を腹心として置くことにしたのです。

 

 

 

そして時は飛び、曹操が漢中(カンチュウ)攻略に乗り出したとき。険しい山にあり兵糧も欠乏して、曹操はついつい弱音を吐いてしまったのです。

 

 

「ここは化け物の国か! 食料も少ないし、ロクな手が思い浮かばん! もうやだ、おうち帰る!」

 

 

そうして劉曄に後続の指揮監督を任せて撤退しようとしたのです。……が、劉曄は逆に、「攻撃しましょう!」と強気に進言。

 

兵を集めて弩による遠距離戦を展開し、なんと曹操が弱音を吐いて逃げようとした敵軍を倒し、漢中を平定してしまったのです。

 

 

 

その後劉曄は曹操に対し、「この勢いで蜀を取った劉備(リュウビ)を攻めましょう」と進言しましたが、さすがにここで精魂尽き果てたのか、曹操は首を縦には振らなかったのでした。

 

 

この時劉曄は「劉備が守りを固めていないうちに攻めれば厄介! 鈍重な劉備めが体制を整える前に一気に攻めかかりましょう」などと言っていますが……意外なことに、この意見は案外的を射ているかもしれません。

 

というのも、まったく接点のない話ですが、蜀の廖立(リョウリツ)なる人物が、後年「劉備様は蜀を取ったが、あのタイミングで曹操が来たら終わっていた」と言及しており、もしかしたらの可能性もあったのです。

 

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劉曄の人物眼

 

 

 

曹操が亡くなって曹丕(ソウヒ)が跡を継いだ時、蜀に属していた孟達(モウタツ)なる人物が降伏してきた時の事。

 

曹丕は才気あふれる孟達の事が気に入り、官職を与えて厚遇していました。

 

 

それに対して劉曄は、「彼は才気任せで利害を考え動きます。国や主君への忠誠心など持ち合わせてはいないため、国境沿いを守らせると危険です」と曹丕に進言。

 

結局この案は受け入れられず孟達は辺境の太守として呉蜀ににらみを利かせていましたが、後年劉曄の懸念通り蜀の諸葛亮(ショカツリョウ)と内通。司馬懿(シバイ)の対応で芽は未然に防がれましたが、あわや大参事という状況を招いてしまったのです。

 

 

 

黄初元年(220)には、侍中(ジチュウ:皇帝に近侍し質疑応答を行う顧問役)となり、関内侯(カンダイコウ)の爵位を与えられました。

 

 

そして先年呉に関羽(カンウ)が討ち取られた蜀がどう動くかを議論した際に、伊かのような意見を述べ、見事に的中させています。

 

劉備関羽は形の上では君臣ですが、ある意味親子に近い温情関係。権威によって国を強めたいと考える劉備にとって、我が子同然の関羽の仇討ちをしないのは、関羽との恩愛を貫徹しないことにつながるでしょう。掲げる建前からして、きっと呉を攻めます」

 

 

 

また、劉備に攻められた呉が臣従の姿勢を見せた時にも、「切羽詰まってとりあえず臣従してきただけで、信用はできません。むしろ、今のうちに攻撃してしまうべきです」と進言。

 

 

曹丕は動きませんでしたが、呉は案の定、蜀を撃退したら敵対の姿勢を見せ始めたのです。

 

それに怒って呉への侵攻を企てた曹丕に対して劉曄は「作戦が成功して士気が上がった相手に攻め込むのは危険」として反対しましたがここでも聞き入れられず、曹丕は呉軍に対し大軍を送り込み、そして外征を失敗させてしまったのでした。

続きを読む≫ 2018/06/02 21:36:02
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