郭淮


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郭淮 伯済

 

 

生没年:?~正元2年(255)

 

所属:魏

 

生まれ:并州太原郡陽曲県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 S- 姜維の天敵の一人。さすがに諸葛亮は相手が悪かったが、彼の死後、北伐は郭淮が前線を退くまでロクな戦局を迎えなかった。
武力 B 異民族も姜維も全部叩き潰す。魏軍でも特に逆境で輝く人物だった。
知力 A+ 諸葛亮によって鍛えられたか、元々良かったのが五丈原の戦い辺りでさらに覚醒。彼が敵の狙いを看破し、叩き潰すのが北伐のお約束となった。
政治 B 辺境統治に関しても功績充分。主に異民族に対する慰撫政策は素晴らしいものだった。
人望 辺境の名領主であり、その名を慕って帰順する異民族もいた。というか武官で食邑三千戸近いとか破格もいいところ。近年ではどうにも地味。

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郭淮(カクワイ)、字は伯済(ハクセイ/ハクサイ)。蜀による北伐の際に主に活躍した名将で、蜀軍相手に局地戦で敗北することはあっても大事な局面では絶対に価値を譲らなかった、魏の守護神の一人です。

 

無双ではなぜか病弱キャラという特性が加えられていますが……正史の郭淮も大事な局面で二度も病床に伏せて一回休みを食らっており、あのキャラにも元ネタはしっかりあります。

 

 

とはいえ本当に病気がちだったのかといえばそうではなく、むしろ数十年もの間蜀軍との戦線で活躍し続けた人物。今回はそんな郭淮の伝、今回は折っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

西方の総大将

 

 

 

これだけ撃退しても蜀軍は懲りることなく、正始8年(248)には再び北伐。今度も、魏に反感を持つ異民族を複数部族抱きこんで戦争を仕掛けてきます。

 

この時は、郭淮は先に異民族を先に討伐する事に決定。「川の上流から攻める」という偽情報を流し、その後ろの下流から部隊を派遣するという声東撃西の策を以って彼らを撃破し、さらに別方面で城攻めに失敗して撤退中の敵軍も追撃。

 

その帰りにも要衝を抑える異民族部隊をついでに撃破してみせたのです。何これ無双?

 

 

こうして背後を盤石にしたのち、敗走した異民族を受け入れている蜀軍の砦を即座に攻撃。西方に跋扈する反魏勢力と連絡を取っている姜維を引きずり出し、両者の連携を断って北伐を失敗に終わらせました。

 

 

そんな活躍を見せた郭淮は、すぐさま都郷侯(トキョウコウ)の爵位を拝領し、翌年には征西将軍・雍涼州都督諸軍事(ヨウリョウシュウトトクショグンジ:西方戦線の軍事司令官)に昇進。さらにこの年には敵将の句安(コウアン)らを降伏に追い込みます。

 

 

こうして30年余りにわたり蜀と戦い続けた郭淮は、嘉平2年(250)、詔勅によってその功績を大いに認められ、車騎将軍(シャキショウグン)に任命され、陽曲侯(ヨウキョクコウ)に爵位も昇進。正真正銘、対西方戦線の最高司令官として認められたのです。

 

 

その後に郭淮は前線指揮ではなく後方に移動。史書にも記述がなく、おそらく陳泰(チンタイ)をはじめ次代の将軍らに後を託したのでしょう。

 

 

正元2年(255)、郭淮は病没。貞侯と諡され、大将軍の地位を追号されました。

 

 

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驚異的な難局打開者

 

 

 

蜀の北伐への対応は、常に反乱や異民族の侵攻も同時に対処する必要がある多方面作戦を強いられていました。

 

一方の相手をするだけでも、相手はあの諸葛亮姜維。凡将ではとても太刀打ちできず、時折敗退を喫しながらも一歩も退かずに彼らと渡り合った郭淮は、まさに西方における守護神と言っても偽りない人物なのではないでしょうか。

 

 

陳寿の評によれば、彼の評価は以下の通り。

 

 

方略に精通しており、泰州・雍州において名声を流した。

 

 

特に戦場における読みや策略は凄まじく、それを賞賛しての言葉ですね。

 

精強な異民族との戦いや姜維との戦術合戦でも常に郭淮はリードしており、彼に危く後れを取りかけたのも、鄧艾(トウガイ)伝で偽退却にだまされたのか西方の羌族に目を向けようとしたときくらいのもの。

 

 

郭淮の戦績がバッタリ途絶えてからは、姜維は徐質(ジョシツ)を討ち取ったり王経(オウケイ)をボコボコに敗走させたりと快進撃が続くのですが……逆を言えば、それだけの将軍が郭淮の前には手も足も出なかった証左でもあります。

 

 

 

しかし、そんな郭淮も人間関係でポカをやらかしてしまった事があり、夏侯覇(カコウハ)の亡命の一要因が彼との不仲にあったとか。後に夏侯覇は蜀の主力武将として姜維と共に北伐に出たのを考えると、隙の無い知将・郭淮の数少ない失敗のひとつに入るかもしれませんね。

 

 

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郭淮の妻

 

 

 

嘉平3年(251)、魏の将である王凌(オウリョウ)が司馬懿に対して謀反を目論み、それがバレて服毒自殺するという事件が発生しました。

 

司馬懿はこれに対し、王凌の一族を処刑するように周囲に伝達。当然ながら、彼の一族は断絶してしまいました。

 

 

さて、『世語』によれば、郭淮の妻はこの王凌の妹。血筋でいえば彼女も処刑の対象であり、王凌に連座して逮捕、そのまま護送されていってしまったのです。

 

 

郭淮は妻の逮捕に対して、はじめはあきらめて周囲の「止めなければ」という意見を退けていましたが、息子や周囲の部下たちがみんな頭を下げて郭淮に妻を取り返すよう促しているのを見てようやく決意。側近に命じて数千騎で妻を追い、数日で取り返すことに成功しました。

 

 

その後、郭淮は司馬懿に対して、敵対行動でないことをアピールするため書状を送り届けます。

 

「我が息子5人が母の命乞いをしており、命を賭ける心づもりでおります。彼女を見捨てるという事は、則ち我が子5人すべてを見捨てると同義。それゆえに、今回は妻を連れ戻した次第です。もし法律に抵触するならば、私は罰を受ける所存です」

 

 

西方の軍事を司る郭淮がこれで投獄でもされては、それこそ大問題。司馬懿は結局郭淮を許し、妻の連座や郭淮の行動は無かったことにされたのでした。

続きを読む≫ 2018/09/29 19:36:29

 

 

 

 

病気に愛された知将

 

 

 

郭淮は曹操(ソウソウ)の時代に取り立てられ、はじめは冀州(キシュウ)平原(ヘイゲン)の丞(ジョウ)、つまり地方官僚という文官スタートでした。

 

しかし曹丕(ソウヒ)に気に入られて彼の護衛官となり、後に曹操にも才覚を認められて直属の軍務官に転任。そのまま西方の漢中(カンチュウ)討伐に赴き、無事平定されると、夏侯淵(カコウエン)を主将とする漢中防衛軍に組み込まれることになりました。

 

 

建安23年(218)、ついに劉備(リュウビ)による漢中攻撃が本格化。夏侯淵をはじめ守将らは皆、大事な要衝を守るために奮戦します。

 

そしてこの時の郭淮は……なんと運悪くも重病にうなされ、安全地帯で一回休み。病のせいで動くこともままならず、劉備らの策に夏侯淵が嵌って討死する様を、みすみす蚊帳の外から眺めている事しかできませんでした。

 

 

郭淮が病に臥せっている間に大将の夏侯淵が討たれたことで、軍内部は指揮系統が大混乱。誰の指示を受けるべきかわからず、兵卒たちは恐慌状態に陥ってしまいました。

 

この時に病が快癒したかまだまだ引きずっていたかは知りませんが……この緊急事態に他の諸将と共に招聘を受け、郭淮は以下のように進言します。

 

 

「張郃(チョウコウ)将軍は、劉備をも恐れる名将。彼ならば、きっと軍をうまくまとめてくれるでしょう」

 

 

同席していた杜襲(トシュウ)もこれと同意見を発し、結果、張郃は大将代理として兵をうまく引き締め、半壊の軍は勢いを取り戻しました。

 

また、郭淮は「勢いに乗る劉備をあえて誘い込むように陣を敷けば、もし攻められても撃退は可能です」と防御陣形に関する進言も行って、結果として曹操軍本隊が到着するまで耐え抜くことができたのです。

 

 

 

 

 

ま た 病 気 か

 

 

 

曹操が亡くなって曹丕が王位を継ぐと、郭淮は関内侯(カンダイコウ)に取り立てられ、後に世を騒がす山賊を討伐。治安維持に貢献します。

 

 

そしてその数か月後に、曹丕は帝に即位。郭淮はそれを聞いて祝辞を述べに行こうと都に旅立ちましたが……またしても道中に病を得てバタンキュー。天丼?

 

都までの距離を算出して休めるだけ休んでから出発しましたが、郭淮が到着した時には既に祝賀の大宴会が始まっており、郭淮が遅刻したことを曹丕は大変不愉快に思ったのです。

 

「おい郭淮、随分遅かったじゃないか。昔の王朝では諸侯を集めた時、遅れた者を死刑にしたという話があったが……この天下を上げての慶賀にそれ以上に遅れてくるとはどういうつもりだ?」

 

さて、病のせいでとうとう一歩間違えば死という状況に追い込まれた郭淮。しかし、彼は涼しい顔で曹丕の詰問に返答をしました。

 

「私が聞きますに、その話は天下の風紀風俗が乱れた時に、引き締めるために行った事とか。今の魏はそれ以前、道徳と教化によって導く黎明期。よって、罪を免れ得るものと私は思っておりました」

 

 

つまり、遅れれば死刑という厳しい刑罰を立てる必要がないほど、魏の政治はしっかりしていると褒め称えたわけですね。

 

下手な言い訳よりもよほど気持のよいおだてに曹丕は気を良くし、郭淮を重用。雍州(ヨウシュウ)刺史の代行として取り立て、爵位も射陽亭侯(シャヨウテイコウ)となります。さらにその五年後には、郭淮は雍州刺史の本職に格上げされることになったのです。

 

 

辺境を守る役割を負った郭淮は、まず羌族による反乱を鎮圧。その後、帰順してきた部族は親戚関係や男女比、年齢まで調べ上げ、その心情をしっかりと汲み取った質問をして周囲を驚かせたとか。

 

ちなみに肝心な時に病気にかかる不運はこの間に克服したらしく、その後は病に邪魔されるという記述はありません。

 

 

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北伐戦線・対臥龍

 

 

 

太和2年(228)、それまで軍備と反乱鎮圧に徹していた蜀は、ついに諸葛亮(ショカツリョウ)を中心として北伐を開始。雍州の西隣である涼州(リョウシュウ)の一部を寝返らせて周辺の異民族も動かし迫ったため、魏の西方戦線は戦慄しました。

 

諸葛亮はこの時、愛弟子の馬謖(バショク)を魏軍足止めの先陣に起用。その後ろには高祥(コウショウ:高翔の間違い?)が布陣。魏から派遣された援軍の張郃らを万全な態勢で迎撃を目論んだのです。

 

 

郭淮はこの時、足止め部隊の馬謖は張郃に任せ、自分は後方にいた高詳を攻撃。双方ともこれを撃破し、諸葛亮を撤退に追い込むことに成功します。また、その後は隴西(ロウセイ)で蜀軍についた羌族の名家を討ち、建威将軍(ケンイショウグン)に上り詰めました。

 

 

その後、太和3年(229)や太和4年(230)の北伐では、辺境に侵攻した陳式(チンショク/チンシキ)や魏延(ギエン)と対峙。いずれも敗北を喫して領地を奪われていますが……魏にとっては大した痛手でもなかったようで、魏書では特に触れられていません。

 

 

そして太和5年(231)、今度は再び諸葛亮が自ら出陣。郭淮らは先遣隊として諸葛亮と激突するも敗退。後に司馬懿(シバイ)が本隊を率いてやってくるものの、この時は不作のせいか周辺地域では兵糧の備蓄がなく、諸将は「大規模輸送をさせよう」と議論になるほどでした。

 

しかし郭淮は、周辺の異民族を手なずけて彼らから兵糧を調達。輸送や提供をすべて公平かつ効率的に行ったことで、不足気味の兵糧を大量に確保。おかげで諸葛亮との不要な正面対決を避けて粘り勝ちすることができ、郭淮は揚武将軍(ヨウブショウグン)に転じました。

 

 

 

そして青龍2年(234)に諸葛亮が再び大軍を率いて攻めてくると、総大将の司馬懿と共に郭淮も出陣。この時司馬懿らは諸葛亮に穀倉地帯を奪われないために強行渡河。川を挟んだ南側の豊かな土地に陣を敷き、諸葛亮による食料収奪を防ぎました。

 

しかし、これによって北岸は手薄になり、司馬懿らは川の北側を諸葛亮に奪われる恐れがあり、それによって本拠へと直接攻撃を仕掛けられる可能性がありました。

 

郭淮はそれを危険視すると、周囲に対し北岸の再制圧を提案。諸将は難色を示すも司馬懿がこれに同意したことで、郭淮は部隊を率いて北岸へと陣地を構えることにしたのです。

 

 

かくして郭淮が北岸へと向かって数日後、それを察知したかもともと奇襲を行うつもりだったのか、蜀軍の大軍が、まだ準備の整っていない郭淮の軍を強襲しましたが、これを迎撃し撃退。

 

後に諸葛亮が大軍を率いて別方面に進軍する構えを見せましたが、郭淮はその陽動に乗らず北岸の陽遂(ヨウスイ)を堅守。かくして蜀軍は数日後に攻撃したものの、郭淮軍の備えの前に攻めきれず後退。

 

 

後に司馬懿の思惑通り持久戦に持ち込み、後に諸葛亮が死亡したことで蜀軍は撤退し、魏軍は再び蜀の北伐を防ぐことができたのです。

 

 

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北伐戦線・対麒麟

 

 

 

諸葛亮の死後、司馬懿は中央に召喚。以後、郭淮は自らが西方の総大将として働くことになります。

 

 

正始元年(240)、蜀の北伐派主力武将である姜維(キョウイ)が、隴西に進軍。郭淮はこれを阻止するために出陣、撃退に成功します。また、返す刀で魏に反逆した異民族の兵らもすべて討伐。

 

自分たちに従ってくれた氐(テイ)族の部族を移住させ、彼らを鎮撫。また、涼州の異民族らがこぞって帰順した際も、安定(アンテイ)に住む場所を与えて彼らに西方防衛の任務を与えました。

 

 

このように姜維だけでなく異民族らにもよく対応したため、郭淮は後に前将軍(ゼンショウグン)に昇進。しかし、引き続き西方の慰撫防衛を任されることになったのです。

 

 

 

正始4年(244)には、功を焦った曹爽(ソウソウ)が腹心の夏侯玄(カコウゲン)らと共に蜀の討伐を画策。郭淮もこの作戦に組み込まれて夏侯玄軍の戦法を任されましたが、どうにも勝ち目が薄い。

 

郭淮は形成の不利を感じ取って即座に行動。軍を手早く撤退に導いたため、魏軍は大敗を免れたのです。そんな郭淮に対して、魏は軍事の処罰権を示す節(セツ)を与え、より重んじてやったのでした。

 

 

正始7年(247)には、再び蜀が北伐を開始。これに先んじて周辺の異民族が一斉に魏に攻めかけ、各城が包囲される事態になりました。

 

また、夏侯淵の次子である夏侯覇(カコウハ)もこの時に出陣していましたが、姜維は領内の混乱の隙に夏侯覇の軍勢を強襲しようと目論んでいたのです。

 

郭淮はそんな姜維の目論見を看破。「先に異民族をどうにかすべき」という意見を押し切って夏侯覇を救援。かくして奇襲に失敗した姜維は撤退し、魏は異民族討伐に専念することができたのです。

 

 

 

 

とはいえ、白星ばかりともいかなかったようで……明帝紀(曹叡伝)に引く『魏書』には、郭淮敗北の記述もあります。

 

景初2年(238)、郭淮は反乱を起こした郡に対し二方向から攻めかかる挟撃策を実行。これを聞いた曹叡は「危険だから作戦を取りやめよ」と勅使を出したものの、勅使が着く前に敗北してしまいました。

 

この時は郭淮側の指揮官も一人戦死しており、なかなかに痛手だったことが見て取れます。

続きを読む≫ 2018/09/29 12:19:29
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