華歆 子魚


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華歆 子魚

 

 

生没年:永寿3年(157)~太和5年(231)

 

所属:魏

 

生まれ:青州平原郡高唐県

 

 

勝手に私的能力評

 

華歆 清廉潔白 クズ 善人 悪人 演義 逆臣 忠臣 議論の的

統率 D そもそも宰相が戦に出るなんてことはない。派閥を作ったとかそう言う話も聞かない。
武力 E 魏帝国建立には割とノリノリだったようだが、武力も胆力も表す話は聞かない。孫策にはあっさり降伏した。
知力 A- 高名な名士とは学者でもあり、華歆は反乱分子殺すマンの孫策すら賓客としてもてなすほどの人物だった。
政治 A 学問奨励を行うあたり生粋の学者。隠居したくてもさせられなかったあたり、宰相としてはかなり有能だったのだろう。
人望 A 高名な学者で人格も兼ね備えていた。しかしいい話は孫の圧力による誇張の可能性があり、悪い話は後世のアンチによる捏造がほとんど。何を信じるかで評価はガラリと変わる。

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華歆(カキン)、字は子魚(シギョ)。三国志演義ではどうしようもない悪人として描かれていることからロクデナシのクソジジイを想像する人も少なくないでしょうが、正史では打って変わって清廉潔白な人格者として記載されている、落差の激しい人物ですね。

 

まあ詳細はさておき、漢帝国に止めを刺した人物の一人であることは事実。そのため演義に限らず彼を嫌い、物によっては小悪党として仕立て上げようとしている書物も多く……まあ、通の間では非常ににぎやかな議論がなされている人物ですね。

 

 

今回はそんな華歆について、いろいろとまとめてみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

華歆の人物評はキッパリと善悪で白黒別れてしまっており、その点を見てもなかなか面白いと言えます。

 

 

悪評に関しては後で述べるとして……まずは正史の華歆評を見てみましょう。

 

陳寿は、彼の事を以下のように評しています。

 

 

華歆は純潔で徳性を備えており、鍾繇、王朗と並んで一代の英傑であった。

 

 

金銭欲も薄く家には財宝がなかったともありますし、手放しに賞賛しても良い人物としてその名を連ねているわけですね。

 

実際に正史三国志には「賜った女奴隷をすべて解放し、嫁に出してやった」という話もあり、曹丕もその姿勢を絶賛しています。

 

 

 

その一方で現実主義者としての一面も兼ね備えており、「魏書」では以下のように性格を記されています。

 

緻密にして用意周到。人々が帝に上奏する際は、それとない諫言と道理に合致する発言を好んだ。

 

 

またある時では「人事ではその人の徳性を見るべきで、勉学は軽くしてやるべきだ」という意見に対して反対、「それを採用してしまえば、学問は廃れてしまう。法を敷くには学問は必須だ」と強固に述べていたりもします。

 

本人が学者でもあるので、これは単にその立場から言っただけにも思えるけど

 

 

とにもかくにも、華歆は能力、人格共に格式の高い人物。というのが、正史三国志での評ですね。

 

 

しかし、世の中には「華歆が人格者などとんでもない。こいつはロクでもない腐れ外道だ!」という声も大きく(むしろこっちが多数派?)、華歆の人物像に大きな影を落としています。

 

 

 

 

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華歆腐れ悪党説

 

 

 

そもそも、なぜ華歆が悪人だったのか。その答えは、魏の前身である漢王朝にあります。

 

 

というのも、魏の初代皇帝である曹丕は、漢王朝から禅譲を受けて帝の座を譲られたわけですが……この時、漢の朝廷は曹丕に帝の位を譲るように工作を受けており、そのありようは半ば簒奪に近いものだったと揶揄されています。

 

この時に帝位禅譲の簒奪劇に大きくかかわった群臣の一人が、この華歆。彼は禅譲の儀式の立会人として、その儀式の場を自身の手で設けたのです。

 

 

当時の中国からすれば、帝は神にも等しい存在であり、その帝が治める国は自分にとって絶対の忠誠を向けるべき存在。国号が変わるというのは、つまり絶対に侵してはいけない神秘の極みにある物を土足で踏み荒らすのと道義なのです。

 

それに悠々と止めを刺した人物が華歆であるかと、非常に強く憎まれているわけですね。

 

 

 

そしてもう一つ、恐らく一番大きな悪事と言えるものがあります。

 

というのも、華歆はあろうことか皇后の身柄を拘束し、その死の要因ともなったことがあるのです。

 

 

もともと漢王朝の重臣や血縁者はその立場ゆえにプライドも高く、曹操に保護されて以来漢王朝の力を利用しているような様子を見せる曹操に怒りを覚えていました。

 

その結果幾度か曹操暗殺の計画を立て、その都度曹操に見破られていたのです。

 

 

建安5年(200)には帝の妾の一族すらも暗殺計画に参加しており、その参加者は一族郎党、その妾も含め曹操に処刑されてしまいました。

 

「後漢書」によれば、この事で曹操を危険視した皇后は、密かに曹操の排除を計画していたのです。

 

 

この計画は結局立ち消えとなったのですが、後にこの一件が発覚。皇后は身柄を拘束されて曹操の元に引っ立てられ、曹操によって幽閉された……というもの。

 

 

この時、皇后の身柄を拘束したのが華歆その人だと、後漢書では記されているのです。

 

ちなみに史書によっては、必死に隠れた皇后を引っ張り出しただのその時に髪を引っ張っていっただのと色々書かれています。しかもこの話、後漢書が書かれる前からもいろいろと話のネタにされており、壁を力づくでぶち抜いたなどとなかなかアレな内容だったり……

 

 

冷静に考えると自分を殺そうという危険分子を放置しておく方がアレなのですが……まあ、とにかく当時の価値観では「神聖で絶対正義の朝廷にこんな事考え付かせる方が悪い」というのが常識だったわけですね。

 

 

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華歆の人物像

 

 

 

というわけで、なんか善行も悪行もオーバーなイメージがマシマシの華歆大先生ですが……

 

正直、どちらもオーバーなイメージがありますね。

 

 

というのも、歴史書というのは結構なクセモノで、好きな人物は功績を水増しや捏造し、嫌いな人物は悪行を捏造したり水増しするものです。

 

そのため、華歆のしでかした悪行……特に皇后拘束の件に関しては、特に怪しい所。というか史書によって記述がブレブレでよくわかりません。

 

 

対して、華歆がいい人として書かれているものも……これまた怪しい。華歆の子孫はかなりの名家であり、その孫が史書を書いています。陳寿も裴松之も華歆を絶賛していますが、少なからず彼の子孫の圧力があったものではなかろうかと「華歆悪人説」を力説する人たちは語っているのです。

 

というかほぼ確定事実として声高に叫んでいる

 

 

 

ともあれ、いわゆる内閣総理大臣を務めあげた大物である以上、好き嫌い双方の評価は常人のそれより極端になってきます。

 

 

 

で、個人的に想像する実像はというと……正史による謎の猛プッシュは、やはり華歆の子孫の圧力があったと疑う必要もあるでしょう。

 

しかし、かと言って多くの人が絡んでいる不敬事件の実行犯を安直に極悪非道と罵るのも、また単純すぎるように思えます。

 

 

史書に描かれていることがすべて事実とは思えませんが、やはり、あの諸葛亮すら絶望した人材大国である魏の大臣です。ある程度正史の絶賛された姿に近しくないと勤まるはずのない役職であるのは、まず間違いありません。

続きを読む≫ 2018/05/03 21:45:03

 

 

 

 

 

 

華歆、揚州に行く

 

 

華歆の生まれた高唐は格式高い都市で役人たちもその自負が強く、盛り場で遊び歩く者がいないくらいの謹厳な場所だったと言われています。

 

華歆もその都市の一員として役人になり、休日になると即行で帰って家の門を閉ざして休むという灰色儒教社会においては大変素晴らしい態度で仕事にあたっていました。

 

 

議論においても相手を傷つけないよう発言に注意しつつも公平に行うなど、優れた人物であったようです。

 

 

『魏略』ではこういった華歆の様子を当時の人々が評価した様子を記載されています。管寧(カンネイ)、邴原(ヘイゲン)という役人らと共に一匹の龍に例えられ、華歆はその龍の頭としてもてはやされるようになったそうな。

 

 

 

若かりし日は病気によって仕事を辞めたことなどもありましたが、後に病気のため仕方なく遠方への転属をやめて立ち寄った南陽(ナンヨウ)にて袁術(エンジュツ)によって引き留められることになりました。

 

この時都では董卓(トウタク)が暴政を働いていたので華歆はこれを止めるように進言しましたが、袁術はこれを却下。

 

 

結局見切りをつけた華歆は、たまたま朝廷から派遣されてきた馬日磾(バジツテイ)に見出されて属官となることで袁術の元を離れ、彼と共に東の徐州(ジョシュウ)へ。

 

そして徐州に着いた後に朝廷からの任命を受け、揚州の1郡である豫章(ヨショウ)の太守を任され、ここで華歆は長江を渡り、江東の地へと向かったのです。

 

 

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中央へ帰還

 

 

 

こうして揚州の豫章郡を統治することになった華歆ですが、その統治は簡潔そのもの。

 

儒教では儀礼を重視するとともに雑多な条例やまどろっこしい取り決めもマイナスになるとされていますが、華歆の政治はそんな儒教において理想と言えるものだったのです。そのため華歆は多くの住民や官吏に喜ばれたとされています。

 

 

さて、こうして平穏な統治を行っていたある時、江東を治めんと躍進する孫策(ソンサク)が各地を平定。揚州刺史の劉繇(リュウヨウ)を追いやり、ついに華歆の治める土地まで迫ってきました。

 

 

華歆はそんな孫策にかなうまいと予想し、彼への降伏を決定。隠者を意味する頭巾をかぶり、孫策に目通りしたのです。

 

一方の孫策も、華歆が高名な名士であることから上客として丁重に扱い、彼を敵将でなく名士として手厚く保護しました。

 

 

こうして江東の孫家でしばらく世話になった華歆でしたが、孫策が死ぬと彼の陣営に対する曹操の引き抜き工作が激化。華歆も曹操から戻ってくるように懇願されたのです。

 

 

孫策の後を継いだ孫権(ソンケン)は「曹操によって家臣団をこれ以上滅茶苦茶にされてたまるか」と華歆の引き留めを試みますが、「孫権様が曹操とより懇意になり、後顧の憂いを断つためです」という華歆の言葉を受け、説得をあきらめることに。

 

 

 

こうして中央に帰ることになった華歆には、地元民から大量の餞別が贈られてきました。

 

華歆は餞別の品をすべて二つ返事で受け取りましたが、密かに品の全てに付箋を貼っており、出発の時になってそれらを元の持ち主に返してしまったのです。

 

曰く、「せっかくの用意してくれた物だから受け取りたいが、如何せん荷が予想以上にかさんでしまった。多すぎる荷は逆に持ち運びに苦労するだろうから、気持ちだけ受け取って餞別の品は返すことにする」。

 

 

こうして曹操の元に出仕した華歆はそのまま曹操軍の臣となり、以後は彼の元で高官を歴任することになったのです。

 

 

 

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高官華歆

 

 

 

さて、こうして曹操の元にやってきた華歆は、高名な名士として重宝されたようです。

 

人材層の厚い曹操軍において議郎(ギロウ:皇帝の近侍官)、侍中(ジチュウ:皇帝の顧問応答)と要職を歴任。荀彧(ジュンイク)が亡くなるとその後任として尚書令(ショウショレイ:宮中文書の発行役)まで任される等、その能力に関しては相当なものだったことが伺えます。

 

 

後に曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと魏の相国(ショウコク:内閣総理大臣のような仕事)となり、魏が漢に代わって帝国となると今度は司徒(シト:民事の大臣。相国から改名)になりました。

 

この時国家の要職として、同格には鍾繇(ショウヨウ)、王朗(オウロウ)の2人がいましたが、曹丕は彼らを並べて「彼らこそが1代の偉人。後を継ぐのは難しいだろう」と語ったことが鍾繇伝にあり、ともかく華歆はそれほどの信任を得たという事になります。

 

 

黄初4年(223)には、ともに賞されながらも清貧を貫いて陽の目を見ていなかった管寧を召し出そうとしましたが、管寧はあくまで製品を良しとして高官につくのを嫌ったため、この話はお流れに。

 

 

 

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黄初7年(226)には曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が跡を継ぎ、太尉(タイイ:軍事最高責任者)に転任し、領土も大幅に加増。

 

しかし華歆は老齢なのに政治の最前線に出ていることを本気で悩み、隠居を申し出ようとしました。

 

 

しかし華歆を頼ることをあきらめなかった曹叡に「普通の聖人ならそうするのが正しい。が、君は彼らと違い力もある」と説得を受け、高官に居続けることを決めたとか。

 

 

太和4年(230)には西方の総大将である曹真(ソウシン)が蜀への一斉攻勢を開始。曹叡もこれを鼓舞するため行幸を考えましたが、華歆はそもそも戦争に消極的な姿勢を示しました。

 

 

「敵には要害があり、そこを超えるのは戦うのも補給も難しいと言えるでしょう。聞けば今年は兵役が多く、農業がおろそかになっているとか。国の繁栄は内政が主。付け込む隙など、無理に作らずとも待っておればよいのです」

 

 

これを聞いた曹叡も「爺さん、父さんが無理だったこと、俺に成し遂げられると確信できるはずもない。まだ天機が来ていないのなら、俺も攻めるのを慎みたい。君の言い分は謹んでしっかりと受け止めよう」と語ったとか。

 

そしてその後、遠征は突然の大雨により中断。魏は再び防戦に切替え、機を待つことにしたのです。

 

 

その翌年、華歆は病気のため、75歳で死去。敬侯と諡されました。

続きを読む≫ 2018/05/02 19:12:02
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