趙儼 伯然
生没年:建寧4年(171)~正始6年(245)
所属:魏
生まれ:豫州潁川郡陽翟県
趙儼(チョウゲン)、字は伯然(ハクゼン)。メディアでは全くと言っていいほど目立たない人物ですが……それもそのはず。この人の本領は、まさに名将を引き立てる調整役にあると言っても過言ではありません。
当人の実力もかなりのものではありますが、それ以上に協調性のなくアクの強い名将、猛将をまとめる影の番人としての活躍に定評がある趙儼。
今回は、彼の伝を追ってみたいと思います。
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曹操にこそ希望が……
趙儼は若い頃、戦乱を避けて荊州の地に疎開して、杜襲(トシュウ)や繁欽(ハンキン)といった人たちと共にひとつ屋根の下で暮らし、三人で財産、生計を共にする仲でした。
が、そんな中、曹操が漢の帝を保護したことを知ると、趙儼は繁欽にむけて「俺は誰に仕えるべきか今わかった。曹操とかいう男こそ、乱世を治める人物に違いない!」と語り、一族を引き連れて疎開先から出立。
老人や年少者を助けながら長い旅路を進み、その翌年の建安2年(197)、ついに曹操の元まで到着。そのまま朗陵(ロウリョウ)の県長を任されることとなりました。
さて、この時の朗陵の治安は最悪で、多くの人がその権力や武力を笠に好き放題しているという有り様でした。
そんな任地を任された趙儼は、好き勝手暴れている連中の中でも特に行いのひどい面々を即時逮捕。罪状を調べ上げたところ死刑となったので、そのまま死刑囚として投獄してしまいました。
……が、このまま素行不良の面々を処刑して終了すれば、追い詰められたゴロツキが徒党を組んで逆襲に向かいかねません。そこで趙儼は郡の役所に上申して、特別恩赦という形で死刑囚を釈放してしまったのです。
これ以降趙儼の権威と恩愛が明らかになり、追い詰めすぎず放任しすぎずの塩梅がプラスに働いて統治も上手く行くようになったとか。
さて、趙儼と言えば、李通(リツウ)の記事にも少し名前を出した通り、彼とは友人の関係にありました。
曹操が袁紹(エンショウ)との決戦に臨むと、曹操の影響下である多くの郡が袁紹を恐れ、そのまま寝返る姿勢を見せていました。
そんな中、友人の李通が「俺は曹操につくぞ!」という意思表示のため、領内での徴税を執り行おうと動きました。
が、趙儼は逆に、「曹操様に旗印を明確に伝えるのは大事な事でしょう。しかし、そのために重税を敷いて周囲に恨まれては、逆に厄介事を巻き込むことになります」と説き、徴税の手を緩めるように主張。
さらには曹操軍のブレーンに当たる荀彧(ジュンイク)にも、李通ともども曹操軍に味方する旨と、民衆が苦しんでいるから租税を返してやってほしい旨を主張。これを聞き入れた荀彧により租税として集めた錦や絹は民衆に還元され、領内の動乱は落ち着いたとか。
ハイパー調整役
その後司空(シクウ:三公の一つで司法関連の大臣。この時点では曹操が赴任)の主簿(シュボ:秘書官、事務所長)の役割に就いた趙儼は、張遼(チョウリョウ)、楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)それぞれの作戦行動の支援役として戦地に赴くことになりました。
が、この三人、戦争に関しては最強クラスの大物なのですが、如何せん協調するという事をほとんどせず、それぞれが思い思いに動いている有り様でした。
趙儼はこれはいかんと思い立ち、三人の参謀役として事あるごとに諭して回り、苦心した結果、なんとか三人を打ち解けさせてお互いの連携を可能な段階まで持っていくことに成功。
こうして隠れた調整役としての鬼才を発揮した趙儼は、建安13年(208)に行われていた荊州征伐において章陵(ショウリョウ)太守、都督護軍(トトクゴグン:都督は軍事統括、護軍は近衛兵指揮官にして戦場の監督調整役。名前だけで監督役とわかる)に就任し、七軍という大軍の管理を任されることになったのです。
この七軍のそれぞれの大将というのが、于禁・張遼・張郃(チョウコウ)・朱霊(シュレイ)・李典(リテン)・路招(ロショウ)・馮楷(フウカイ)。路招と馮楷以外は曹操軍でも屈指と言える名将であり、独自の伝も立つほどの人物(朱霊は徐晃伝の付録)です。これほどの人々を監督することになる辺り、趙儼が調整役としてのトンデモな才能を期待されていたのがわかる気がします。
さて、そんな華やかな部隊の監督を務めた後、趙儼は一転して曹操の主簿に戻り、続けて扶風(フフウ)太守に任命されました。
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建安16年(211)に反乱を起こした馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)らを曹操が打ち破ると、趙儼は再び護軍として、反乱軍の元領土の護軍として起用され、馬超らから降伏してきた殷署(インショ)という人物を始め関中の軍勢のまとめ役を任されるようになります。
その後曹操が漢中(カンチュウ)を奪取すると、その守りのために殷署の軍も進発。この時、兵の様子から趙儼は殷署の兵が反乱を起こす危険を察知して、殷署に念を押していましたが……殷署はこれを聞き入れず平気な顔で進軍し、道中に予見通り兵の反乱を受けて行方不明になってしまったのです。
しかもこの時、趙儼が率いていた兵の中にも反乱軍の血縁者らが混じっており、反乱の一件を知ると動揺し完全に浮足立ってしまいます。
しかし趙儼は、制止する同僚らを振り切って、兵を連れて騒動の鎮圧に出立。途上で休息中に何度も兵たちをなだめて慰撫し、心をがっちりと掴んで忠誠を誓わせることに成功。
その後反乱した兵800人ほどを見つけると事情を聴取し、首謀者のみを処断して兵たちは許して解散させたり、偶発したトラブルを利用して完全に味方に靡く兵士を選別したりと、まさに手練手管を駆使してこの反乱を。乗り切り、最終的には二万余りの軍隊を当初の輸送目的であった漢中に送り届けることに成功したのです。
調整力は策謀にも……
建安24年(219)に関羽が樊城の曹仁を攻撃すると、関羽軍の精強さや洪水による救援隊の壊滅などもあり、魏領内は未曽有の混乱状態に陥ってしまいます。
そんな中、趙儼は議郎(ギロウ:宮中衛士を取り仕切る光禄勲の顧問対応)の資格を持ってこの関羽撃退の作戦に参加。徐晃と共に樊城に進軍しましたが、到着したころには関羽はすでに曹仁軍の包囲を終えた後。さらには他の援軍の到着も無く、まだまだ戦況は不利と言える状況でした。
戦況不利な中で無理やり攻撃しても負けが見えていますが、既に危険な状況の曹仁を見て、徐晃軍の諸将は関羽攻撃を催促しますが、趙儼は即時攻撃に反対。
・今の戦力では無駄に負けて兵が疲れるだけ
・間者を使って曹仁との連絡を密にすれば、援軍到着までは十分耐え抜いてくれる
という二点を主張し、地下道と矢文を使った曹仁軍との連絡を試行するにとどめ、徐晃軍は援軍到着まで状況を静観。
案の定援軍到着まで曹仁が耐え抜いてくれると、徐晃は援軍部隊も含めた軍勢を束ねて関羽との決戦に臨み、見事打ち果たして敗走させることに成功しました。
この時、逃げる関羽に止めを刺そうとする諸将に対しても、趙儼は「むしろ関羽を活かすことで、同盟国でありながら潜在敵国である孫権を脅かすことができる」と主張し、曹仁はその言葉を聞き入れて戦闘状態を解除、後に曹操からの趙儼と同様の内容で撤退中止を呼び掛ける文書が届いたそうな。
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曹操の死後曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、趙儼は侍中(ジチュウ:皇帝の側近、秘書役)に任命され、その後しばらくして駙馬都尉(フバトイ:皇帝の馬車と並走する影武者のような役回り。基本、後続が担当する)となり、さらには河東(カトウ)太守、典農中郎将(テンノウチュウロウショウ:屯田管理責任者)の代役を兼任。
黄初3年(222)には関内侯(カンダイコウ)の爵位を与えられ、また孫権が国境付近にまで軍を進めると、それを防ぎに出た曹休(ソウキュウ)の軍師として参陣しました。
孫権が逃げ帰ると、さらに爵位が上がって宜土亭侯(ギドテイコウ)に。さらに仕事も度支中郎将(タクシチュウロウショウ:軍需品の調達、輸送責任者)になり、その後尚書(ショウショ:民衆の意見を帝に上申する役割)に就任。
その後曹丕に従って広陵(コウリョウ)侵攻に従軍。遠征失敗により曹丕が撤退すると、趙儼はその場にとどまって征東軍師(セイトウグンシ)として東のにらみを担当することとなりました。
曹丕の息子・曹叡(ソウエイ)が跡を継ぐと、今度は都郷侯(トキョウコウ)に爵位を進め、違法者処罰権限の仮節を渡されて監州諸軍事(カンケイシュウショグンジ:荊州の軍事監督?)を任されましたが、この時は病によって赴任せず、再び尚書に。
が、今度は荊州だけでなく豫洲の軍事監督も兼任という形で再び外に送り出され、大司馬軍師(ダイシバグンシ)に転任し、後年再び大司農(ダイシノウ:農業関連の大臣)として中央に赴任しました。
その後曹芳(ソウホウ)に代替わりすると、今度は征蜀将軍(セイショクショウグン)となり、監雍涼州諸軍事(カンヨウリョウシュウショグンジ)となり、その後さらに征西将軍(セイセイショウグン)と共に、軍事権がさらに高い総指揮官の雍涼州の都督に任命されました。
が、正始4年(243)にはすでに年老いたのを理由に前線を退き、再び中央に帰還。驃騎将軍(ヒョウキショウグン:将軍でも大将軍のすぐ下の最高級職)、司空に任命されましたが、その2年後に死去。
諡は穆公とされ、後は息子の趙亭が継ぎました。
まさに影の番人にして最高の緩衝材
趙儼はまず目立つような人物ではなく、政戦共になかなか表舞台に立つことのなかったわけですが、それでも、多くの猛将名将を見事にまとめ上げた、まさしく調整の鬼才とも言うべき人物ですね。
自身の才幹も決して凡庸ではありませんでしたが、それ以上に引き立て役としての活躍は傑出していました。みんな前に出たがる上、こういう役回りはなかなか稀有な才能に依るところも多いですが……趙儼は見事に損な役回りを果たした、まさに影の名将というにふさわしいでしょう。
ちなみに本伝によると、辛毗(シンピ)、陳羣(チングン)、杜襲と共にひとまとめにして「辛陳杜趙」と称されており、その名声も諸将を結び付けるツールになったのかもしれませんね。繁欽? 知らない人ですね
ちなみに『魏略』では、雍州に行った際、たまたま忘れてきた常服薬について質問してみたところ、大量の薬を届けられて苦笑いを浮かべたという、なかなかコミカルホックリするような話題も持っています。
こんな感じの親しみやすい性格も、また調整役たる地位を確固たるものにした要因かもしれませんね。
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