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杜畿 伯侯

 

 

生没年:?~?

 

所属:魏

 

生まれ:司隷京兆尹杜陵県

 

 

 

 

杜畿(トキ)、字は伯侯(ハクコウ)。魏を裏から支える名太守にして、激流に身を任せ同化しきれなかった人。そして注釈では「大雑把」だの「うっかり死亡フラグを立てる」だの、飛び抜けた有能さの割に抜けたところが多そうな人物でもあります。

 

政治と知性ばかりが目立つ人物ですが、『傅子』では荀彧(ジュンイク)に知勇兼備の逸材と言われているため、おそらく政治も戦争も両方行けたクチでしょう。

 

 

戦場以外で溺死というむなしい最期を迎えたことからそこばかりネタにされる人物ですが……それだけでないところもたどりつつ、彼の伝を追っていこうと思います。

 

 

 

 

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DV家庭出身の名政治家

 

 

 

杜畿の家は早くに父を亡くし、唯一残った母親も実母でなく継母だったそうです。しかも継母は、杜畿の事が大嫌い。事あるごとに杜畿に突っかかっていじめるという、言わばDV家庭に育ったとされています。

 

しかし、杜畿はそんな逆境においても儒教の精神を大事にし、そんな継母に対してもきちんと母として応対。継母が杜畿を認めることはついにありませんでしたが、世間からは「素晴らしい孝行話」として取り上げられ、これが杜畿の出世に繋がっていきます。

 

 

彼は20歳の時に郡から召し出されて功曹(コウソウ:人事を担当する役人)として召し出され、同時に鄭(テイ)県の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)を代行。数百人の未判決者が集まっている未判決の裁判沙汰に自ら出席して、すべての刑罰を判決しました。

 

この時の刑罰は全部妥当というほどでなかったものの要点はきっちりまとめきっており、周囲は「まだ若いのに」と太鼓判を押したとか。

 

 

後に孝廉(コウレン:地元推挙)に推されて漢中(カンチュウ)の丞(ジョウ:県令などと同じような意味合い)になったものの、世の乱れ(たぶん張魯劉焉あたりのせい)で杜畿は官を捨てて荊州に遁走。地元に帰ったのは建安の年号の間(196年以降)でした。

 

杜畿は帰郷後に荀彧(ジュンイク)からのスカウトを受け、曹操(ソウソウ)の直臣として陣営に迎えられ、後に護羌校尉(ゴキョウコウイ:西の異民族・羌からの侵攻を防ぐ武官)として、仮節(カセツ:処罰権のひとつ。軍令違反者を処罰する)を手渡されて西平(セイヘイ)郡へと向かったのです。

 

 

 

『魏略』では若くから大志を持ち、亡くなった継母の遺体を運ぶときに賊に襲われても、一歩も引かず遺体の安全を懇願し許されるほどだったとか。

 

ちなみに功曹への抜擢は、旧友の張時(チョウジ)によるもの。杜畿はこの時、「大雑把で仕事に向いていない」と酷評されたことがありましたが、逆に「功曹より太守の方が俺向き」と言ったとのことですが……これが負け惜しみでなく事実であると知っていた人物は、当時いったい何人いたでしょうか?

 

実際、張時は後に河東太守になった杜畿にあった時、「まさかあいつがなあ」と嘆息したとか。

 

 

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反逆の萌芽

 

 

 

曹操は宿敵・袁紹(エンショウ)の死後、その旧領を次々と占拠。一時期隆盛を極めていた袁氏の勢いは、急速に衰えつつありました。しかしそんな折、袁紹の甥である高幹(コウカン)が野心を胸に、幷州(ヘイシュウ)で挙兵。曹操軍中からも内通者が出ていました。

 

杜畿が太守として転任した河東(カトウ)の地でも、まさに衛固(エイコ)、范先(ハンセン)の二人が高幹に内通。杜畿が河東に転任したのも、こういった危険人物によって要衝が奪われるのを曹操らが危惧したためでした。

 

当然、衛固らからすると、杜畿の赴任は面白くありません。彼らは数千の兵を率いて渡しを切り、道を寸断。杜畿の赴任を不可能な状態にしようと目論んだのです。

 

 

これを聞いた曹操は彼らを討伐しようと腹心の夏侯惇(カコウトン)を派遣しますが、杜畿はその到着を待たずに移動を再開します。

 

 

「反乱は郡中の全員が望んだことではなく、一枚岩ではない。彼らは一応とはいえ朝廷の命令に背いているわけではなく、排除を目論むだろうが思い切った行動はできまい。ならばいっそ、正式な太守である私はこのまま郡の役所に赴き、奴らを牽制してやろう。このまま援軍と共に攻め入って河東が一丸となって背いたのならば、それがもっとも始末が悪い」

 

 

かくして杜畿は一台の車だけを引き連れて間道を通って河東郡内に入り、衛固、范先らの元に顔を出しました。

 

范先は下役人数十名を殺して杜畿を威嚇、そのまま驚いた杜畿を殺すことで人々を無理矢理従わせようとしましたが、当の杜畿はそんな脅しに一切応じず、平然とした顔でやり過ごします。

 

杜畿の動揺しないさまを見た衛固は「殺すと悪評が立つから、いっそ手中に置いて人質にしてしまおう」と范先に提案し、結局二人は杜畿を殺すのを取りやめました。

 

こうしてうまく河東に入り込んだ杜畿は衛固らを表向き重用しつつも、あの手この手を使って妨害。兵力の大動員を「民衆が動揺する」としてゆっくりとした募兵に変更させ、集まった兵たちも「時折休暇を与えてやろう」と言ってまとまりと戦力を削ぎ、その裏で密かに話の通じる豪族たちと結託していきました。

 

 

その後、高幹は周辺の諸勢力と共に、ついに河東周辺の各地に侵攻。高官たちが軒並み殺されるという事件が起こり、ついに高幹の魔手は河東にも至る事になったのです。

 

しかし、杜畿の顔に患いは無し。すでに味方する豪族も多く、杜畿が数十騎だけを率いて防衛に向かったときにも、最終的に数千の軍勢に膨れ上がるほどの味方を得たのです。

 

 

結果、杜畿は高幹らの攻撃を援軍到着まで十分に耐え抜くことができ、最終的に衛固や高幹らは処刑。残党も平民に戻り、領内の混乱は無事に収束したのでした。

 

 

『魏略』によれば衛固は杜畿とは知り合いと言える間柄だったものの、衛固は杜畿を馬鹿だと思い込んで散々コケにしていたそうな。

 

 

 

良政は小鮮を烹るが如し

 

 

 

後に河東は戦乱の荒れ放題の状態から復帰。国中が荒れ果てている中で河東の復帰がもっとも早かったとされていますが……杜畿がとった政策は、民事への過度な干渉を避けること。

 

住民のうちにお互いを告発し合う事件があった時も、他人目線だからこそ見える根本的な部分の道理を説いてそのまま解散。「後で納得いかないところがあるならまた来い」とだけ告げて、不必要な訴訟はシャットアウト。

 

 

ただし教科と法令に関しては別で、その仕組みづくりには相当力を入れていたようです。というのも、規則はそれこそ家畜にまで及び、住民への分配システムを規則に則って適用させていきました。

 

また、各県に布告して儒教的な人格者たり得る人物を推挙させ、彼らの労役を免除。

 

 

こうして規則や民衆生活の質が上がっていくと、「今度は教育だ」と学校を開き、ある時は自分で教鞭をとることすらあったとか。

 

かくして河東の地はどんどん豊かになり、いつしか杜畿は名太守として人民の心を掴んでいき、建安16年(211)に馬超(バチョウ)らが反乱を起こしたときも、杜畿の治める河東だけは同調者も逃亡者も出なかったとされています。

 

それどころか、曹操が馬超らと本格的に争ったときには、曹操軍の兵糧をすべて河東郡だけで担当。輸送を途絶えさせることもなく、数万~十万以上という莫大な兵力をたった一郡だけで最後まで支えきったのでした。

 

 

このように、杜畿は河東の英雄的太守として16年に渡り君臨。曹操は魏王国が建国された時、杜畿に以下のように辞令を出しました。

 

「その功績は蕭何(ショウカ:前漢黎明期のバケモノ宰相)に匹敵する。本当は尚書(ショウショ:宮中文書を取り仕切る役所の役人だが、他部署にダイレクトな影響力を持つ重役)にでも任じようと思ったが、よく考えたら河東は大事な土地。面倒をかけるが、俺の安心のためにそこをずっと守っていてほしい」

 

 

 

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中央召喚からの……

 

 

 

 

後に曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと、ついに杜畿は尚書として中央に招聘。関内侯(カンダイコウ)となり、魏帝国が建立されると豊楽亭侯(ホウラクテイコウ)に爵位が上がりました。

 

そして、曹丕の外征の時には尚書僕射(ショウショボクヤ:尚書台の副長官。文書開封や物資の受領、官吏選考などを司る)として、留守中の政務を委任されるほどの人物へと出世したのです。

 

 

こうしてすっかり大身になった杜畿は、勅命を受けて帝専用の楼船を建造。そして完成した船の試運転に乗り出しますが、突然の強風にあおられて船は転覆。杜畿らは黄河の水中に投げ出され、そのまま溺死してしまったのです。

 

 

曹丕はこれを聞くと涙を流し、杜畿に戴侯の諡を授け、息子の杜恕(トジョ)を取り立てることにしました。

 

杜恕は杜畿に太守としては及ばぬものの傑物で、杜畿伝に付伝してその活躍が書かれています。

 

 

『魏氏春秋』には、神の使いである子供が、杜畿をあの世へ呼びに来たことがあるという奇天烈な話が残っています。

 

当時42歳である杜畿は必死に延命を願い出て、「誰にも言わないこと」を条件に見逃されましたが……そのちょうど20年後の62歳の時、ついに思わず人にしゃべってしまいます。

 

試運転中に杜畿が溺死したのは、その日のうちのことだったとか。

 

 

 

まさに名太守

 

 

 

さて、そんな杜畿の活躍ですが……まさに名太守。余計な干渉をしないながらも仕組みはしっかりと作り上げました。干渉と細かい配慮が必要な役職には不向きでしたが、まさに上に立って土地を立派にするために生を受けた人物と言ってもよいでしょう。

 

 

そんな杜畿を、陳寿は以下のように評しています。

 

 

寛大と威厳がうまく調和した、魏における名太守であった。

 

 

ちなみに『魏略』では、兵の嫁に出すためか未亡人の名前を記録して都に提出する作業にまつわる逸話があります。

 

趙儼(チョウゲン)が杜畿の後任として郡に入ったところ、この未亡人の名前は杜畿の時代と比べて明らかに多くなっており、曹丕がこれを疑問に思って杜畿に問い質したことがあります。

 

この時に杜畿が答えるには、

 

 

「私は確かに、未亡人だけを記録しました。しかし趙儼殿は、夫のいる女性をも未亡人として取り上げているようですな」

 

 

とのこと。

 

実際にこの時河東では路頭に彷徨ったり泣いたりする子供も多かったそうで、あっという間に曹丕らの顔が青ざめた……と。

 

 

事の真偽は不明ですが、杜畿はこういうところでも公正で寛大であったと、そう周囲にもみられていた証左でしょうね。

 

 

 

 

 

 

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