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王粲 仲宣

 

 

生没年:喜平6年(177)~建安22年(217)

 

 

所属:魏

 

生まれ:兗州山陽郡高平県

 

 

 

 

王粲(オウサン)、字は仲宣(チュウセン)。三国志における文学の代表者で、「建安七子」などという異名を持つ人物の一人なのですが……なんだろう、容姿で損をしているというか、なんというか。

 

この時代、見たくれと家柄は才覚以上に評価ポイントが高かった時代なのですが、王粲は史書で堂々と「ヒョロヒョロのブサメンだった」と書かれており、名家の出であるにもかかわらず妙な哀愁を漂わせています。

 

 

しかし、その文才は本物だったようで、ひとたび筆を執れば、推敲の時間を一切設けることができないほど速筆だったと言われています。

 

今回は、そんな王粲の伝を見てみましょう。

 

 

 

 

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見る人は見てる

 

 

 

 

王粲は元々、曾祖父、祖父と二代で宰相に就いていた名門中の名門の出です。しかし、いわゆる党錮の禁という政治戦争によって祖父は干され、王粲が生まれた頃には一族の栄達に陰りが見えつつあったようです。

 

 

王粲の父は何進の属官となりましたが……家柄コンプレックスを抱え周囲からも庶民上がりと馬鹿にされる何進は名門と結ばれたいと考え、王粲の父と婚姻関係を持とうと双方の子の見合いを画策しました。

 

 

しかし、王粲の父は「肉屋ごときと婚姻などまっぴらごめんだ!」とばかりにこれを拒否し、その後病を得て免職され、そのまま家で亡くなってしまったのです。

 

 

王粲の祖父が干されたのは『漢紀』からの引用で明かされています。

 

何でも、水害の責任を取らされ懲戒免職。そのまま名士層で構成された清流派の主要人物として祭り上げられ、宦官政治に対する批判では「彼をトップと交換すべき」等と言われて宦官に恨まれたようですね。

 

後に宦官VS外戚という構図に戦いは変わりましたが……いかに家柄主義の社会では家格を大いに汚すものであれ、外戚側のトップである何進を敵に回すとはなかなかに絶望的。まあ、そこまでしてでも家格が大事になる時代だったとも言えますがね。

 

 

さて、では伝の主役である王粲ですが……董卓(トウタク)の政変の後、都が長安(チョウアン)に移ると彼もまた長安に向かい、後に蔡邕(サイヨウ)という超大型名士の元を訪れました。

 

蔡邕という人物は董卓派名士の中でも筆頭格といってもよいくらいの人物で、家柄、才覚、学術とあらゆる点で超一流でした。そのため、多くの人から慕われて朝廷でも信用されていました。

 

 

さて、そんな蔡邕邸に到着した王粲でしたが、彼はこの時まだ年若く容姿も貧弱で、蔡邕の元に居ついている面々からは「何しに来たお前!?」と思われてしまうほどだったそうな。

 

が、蔡邕自身は履物の左右も確認しないまま慌てて王粲を出迎え、彼の才を以下のように称したのです。

 

 

「この人はあの三公を輩出した王一族のお孫さんじゃ。わしでは遠く及ばんほどの特別な才覚を持っておられる」

 

 

そう言い切った蔡邕は、自分の家の書物をすべて王粲に寄贈。家柄と才覚の関連性は個人的によくわからないところではありますが……ともあれ、この蔡邕の書物寄贈が、後に王粲の才覚を目覚めさせることになったのです。

 

 

 

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王粲、南へ

 

 

 

王粲は後に17歳で司徒(シト:民政大臣)に招聘されて、さらに勅命で黄門侍郎(コウモンジロウ:中内外の連絡役で、朝廷の側近)に任命される事になりました。

 

しかし、この当時は董卓は死亡し、その後大きく都周辺が荒れているという動乱の時期。王粲はそんな血生臭い環境を好かなかったようで、結局はどちらも辞退。そのまま荊州(ケイシュウ)へと南下し、劉表(リュウヒョウ)の元でお世話になる道を選びました。

 

 

が、この劉表もやはり、当時の価値観を大事にする群雄。王粲の見た目の貧相さと細かいところを気にかけない性格を嫌い、重宝することはしなかったようです。

 

こうして劉表の元でしばらく埋没していた王粲ですが、建安13年(208)に劉表が亡くなると、再び歴史の表舞台に姿を現します。

 

 

劉表の子である劉琮(リュウソウ)がその後を継いだ直後、最大勢力にまで膨れ上がった曹操(ソウソウ)が荊州に南下をはじめ、家中では降伏か抗戦かで意見が分かれました。

 

王粲は、この時劉琮に降伏を進言。この意見は容れられ、劉琮は降伏。王粲はそのまま曹操の属官に取り立てられ、関内侯(カンダイコウ)として列侯に加えられることになったのです。

 

 

また、漢水のほとりで曹操が宴会を催したときにも、王粲は盃をささげて祝辞を述べています。

 

 

「河北の英雄・袁紹(エンショウ)はその物資と戦力をたのみとして天下を併呑しようとしましたが、優れた人物を上手く扱うことができず、賢人は彼の元を去りました。

 

劉表はこの豊かな荊州で悠然としていれば偉大な賢人と同格になれると思い込んでいました。実際に優れた人物が次々と疎開して身を寄せてきましたが、任用すべき人物の見分けがつかずに補佐がおりませんでした。

 

しかし殿は、賢人をよく招き、袁紹劉表どちらの遺臣も重く任用なさいました。そして登用された英才は、みな力を尽くしております。これよりは、さらに遠方の見知らぬ英才をも任用され、統治していただきたいと祈願いたしました。これこそ、まさに歴史上国を作り上げた始祖の有り様です」

 

 

 

 

 

魏の賢才

 

 

 

後に王粲は軍謀祭酒(グンボウサイシュ:軍師格?似たような役職が多く、正式には不明)に上り、後に魏が建国されると侍中(ジチュウ:国主の側仕えで、顧問応対を担当する)に昇進。

 

その博学多識ぶりはまさに圧巻だったようで、受けた質問には必ず何らかの答えを用意し、回答ができないという事はなかったほどだそうな。

 

また、新しく何かの儀式や形式を制定するときは、王粲はその知識を買われて常に主導するほどだったとか。

 

 

その他にも、記憶力、算術、執筆と多くの場所で才覚を発揮しています。

 

そのうちの記憶力のほどはというと……道端の石碑を一度読んでは即座に一字一句間違えず暗誦し、碁の対局で盤面がしっちゃかめっちゃかになるとそれ以前の通りに直し、「納得いかん!」と並べ直しを要求されると先ほどとまったく同じ並びを再現すると、このような様子だったと本文に書かれています。

 

 

 

王粲は建安21年(216)に曹操が呉の征伐を行うとこれに従軍しましたが、その翌年には41歳で病没。息子は2人いましたが、魏諷(ギフウ)による大規模反乱未遂に加担した結果処刑され、その本筋は絶たれてしまったと言われています。

 

 

『世説新語』によれば、王粲は驢馬の鳴き声が好きという謎の嗜好を持っていたと言われています。

 

葬儀の時にそれを思い出した魏の皇太子・曹丕(ソウヒ)は、王粲へのはなむけに驢馬の鳴きまねをみんなですることを提案。一人ずつ棺に向かって驢馬の鳴きまねをし、それを見送ったとか。

 

王子、半分面白がってませんかね?

 

 

ちなみに驢馬の鳴きまねは、うん。なんというか……ヴォオォォォルロロロォォみたいなユニークな物でして……

 

 

 

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驚異的速筆マン

 

 

 

と、このように博学多識の知恵袋として知られる王粲。曹操も文学には力を入れており、また王粲は詩を手掛けることもできたのも、もしかしたら重く用いられる要因になったのかもしれませんね。

 

実際、曹操の侍中の中でも敬意のほどはともかく側に呼ばれる回数はトップだったという王粲。彼に対して陳寿は以下のように評しています。

 

 

曹丕や曹植は文学を広く愛好したため、同好の士が集まって文学者も多数出現した。

 

王粲に至っては名声だけでなく側近の地位まで手にし、一大制度を作り上げた。が、同じ建安七子の徐幹(ジョカン)の徳性と純粋さには及ばない。

 

 

実際に宴会時に送った曹操への祝賀も、どこか媚びてる風に見えなくありません。何より旧主である劉表を悪く言っている点は、当時の名士としてはかなり減点対象なのかもしれませんね。

 

 

とはいえ、まあ人格面はともかく、才覚は本物。筆を執れば即時に文章を書き上げる超速筆の人で、人々は「どうせ前々から用意してたぶんじゃないの?」と疑いの目で見るほどの速さで、詩や論文等、生涯で遺したものは60篇近いとされています。

 

建安七子の中では唯一詩の才覚を持ち合わせていたようで(『魏略』より、曹丕談)、当時の文人としてはトップクラスの人物だったというのも納得です。

 

 

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