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毌丘倹 仲恭

 

 

生没年:?~正元2年(255)

 

所属:魏

 

生まれ:司州河東郡聞喜県

 

 

 

 

毌丘倹(カンキュウケン)、字を仲恭(チュウキョウ)。魏に反乱を起こした人物の一人として出ており、近年では無双シリーズでも固有モブとして出ていますね。

 

その印象は、司馬一族にただ反旗を翻した人。晋の時代に書かれた三国志でもおおよそそんな扱いですが……実際の将としての実力は確かな物であったようです。

 

 

さて、今回はそんな反乱地獄に消えた一人、毌丘倹の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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父の代からの寵臣

 

 

 

毌丘倹は父親の代から魏の家臣で、父も反乱討伐などで列侯に加わるなど大きな活躍をしていました。

 

そんな偉大な父親の爵位を受け継ぐ形で毌丘倹は都に出仕。曹叡(ソウエイ)の代になると、尚書郎(ショウショロウ:宮中文書を司る部署の務め)、後に羽林監(ウリンカン:近衛隊の指揮官)、しばらくすると都から出て、洛陽の典農(テンノウ:典農校尉?)となりました。

 

 

また、曹叡が皇太子の時からお付きの一人として非常に仲良くしており、その事もあってとにかく優遇されていたと言われています。

 

毌丘倹もまた魏への忠誠は厚かったようで、曹叡が宮殿を濫造するようになると命を惜しまず「呉や蜀もまだ健在な中、衣食にも優先してこんなものを作ってどうするのです」と諫言。

 

皇帝のやる事に文句を言うのは、本来ならば首をはねられても仕方のない事だったのですが……曹叡は元々こういった諫言に思うところがあったようで、毌丘倹をはじめ多くの臣下の苦言を受け止め、毌丘倹に至ってはその後に荊州刺史(ケイシュウシシ:荊州の監査官)にまで出世させられました。

 

 

 

 

 

北方平定のスペシャリスト

 

 

 

こうして首都近郊から外に飛び出した毌丘倹ですが、年号が青龍となってしばらくすると、北方の軍事司令官に適任として幽州刺史(ユウシュウシシ)に転任。度遼将軍(ドリョウショウグン)、護烏丸校尉(ゴウガンコウイ:異民族侵攻からの防衛司令官)として北方の防衛にあたります。

 

 

こうして対異民族本部を任された毌丘倹は、幽州の兵を率いて異民族の領地に侵攻。数十年に渡って魏と敵対してきた異民族を降伏、帰順させることに成功します。

 

 

しかし、北方にはもう一つ、大きな問題がありました。遼東(リョウトウ)一帯を支配していた公孫淵(コウソンエン)です。

 

公孫淵は毌丘倹の幽州赴任より前からも怪しい動きを見せていましたが、毌丘倹の北方進出と前後して魏に反逆。敵対してきたのです。

 

 

毌丘倹はすぐに軍勢をまとめて公孫淵の軍と戦いましたが、形勢不利となり敗北。公孫淵は燕王を名乗り、魏の周辺領土を荒らしまわるようになってしまったのでした。

 

 

が、翌年には毌丘倹だけでは荷が重いとして、魏の軍事の重鎮・司馬懿(シバイ)が数万の兵と共に公孫淵討伐に出向。毌丘倹も、副将として軍に組み込まれることとなりました。

 

公孫淵は魏に反発的な異民族と自軍を混成した大部隊でこれを迎え撃ちましたが、司馬懿の軍略の前には成す術もなく敗死。これによって公孫淵の反乱は収まり……毌丘倹も、この戦の中で何かを目覚めさせたのです。

 

また、この戦いで目覚ましい活躍を示したのか、毌丘倹は安邑侯(アンユウコウ)に昇進。領土が三千九百戸と、武官のそれにしては破格の領土を賜ったのでした。

 

 

ちなみに、公孫淵討伐に呼応して、反公孫淵派の烏丸部族、そして朝鮮半島に国を築いていた高句麗(コウクリ)も公孫淵の領地に攻め込んだとか。

 

なお、単独で公孫淵征討にあたった毌丘倹の用兵は稚拙な物だったようで、魏の重臣である衛臻(エイシン)からは「異民族も領民も従えて戦闘力も万全の公孫淵に対して無謀すぎる」と批難し、実際にその予測通りになっています。

 

とはいえ、毌丘倹は司馬一族からすると裏切り者の怨敵。後の活躍からしても、誰から見ても論外な戦い方をするかと言われるとグレーだったりしますが……

 

 

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高句麗征伐

 

 

 

さて、数年後に共通の敵である公孫淵がいなくなったことで高句麗との関係が急激に冷え込むと……毌丘倹は突如として覚醒します。

 

 

まず毌丘倹は、侵略行為を続ける高句麗に対して幽州の諸軍一万を指揮して迎撃、これを撃破。

 

その後、先遣隊壊滅を聞いた高句麗の王・位宮(イキュウ)が二万の兵を率いて進出してきましたが、毌丘倹はこれを大会戦で一気に撃滅してしまいます。

 

 

この大会戦で勢いに乗った毌丘倹軍は、位宮を追撃して連戦連勝。険しい山々を超えてどんどん高句麗の奥深くに入り込み、なんと都まで攻め寄せました。

 

しかし、毌丘倹が都に攻め寄せた時には、位宮はすでに都からも逃走。結局、この時の高句麗征伐は圧勝しつつも失敗という形に終わっています。

 

 

後に、毌丘倹は正始6年(245)にも高句麗征討を実行。この時も高句からすれば鬼神のような強さで各所を蹂躙。文字通り千里のかなたまで攻め入って、戦勝記念に現地の城壁や山に文字を掘って勲功を誇りましたが、この時も高句麗の王自身は取り逃がしてしまったようです。

 

とはいえ、これだけの活躍。朝廷が見逃すはずもなく、この時列侯に加えられ遠征参加者は百余りにも上り、撃破数は八千にも上ったとされています。

 

 

また、トンネルを掘っての感慨整備も実行して民にも恩恵を与えており、密かに統治能力の高さもここで披露しています。

 

 

 

 

 

栄転、そして反逆

 

 

 

その後、毌丘倹は豫洲刺史(ヨシュウシシ)、左将軍(サショウグン)に昇進。また、鎮南将軍(チンナンショウグン)となって周辺の軍事を統括する役割も担いましたが、やがて呉に負けた諸葛誕(ショカツタン)と後退で揚州(ヨウシュウ)の軍事都督、鎮東将軍(チントウショウグン)になります。

 

後、諸葛誕に勝利した勢いで呉の諸葛恪(ショカツカク)が攻め寄せてくると、毌丘倹は後の相方となるクソ野郎文欽(ブンキン)と共に完全防御。やがて援軍の司馬孚(シバフ)による包囲突破と呉軍の疫病流行によって完全にこの苦境を防ぎ切り、難局を打破する一因となったのです。

 

 

 

しかし、毌丘倹の運気はここで急下落。突如として密かにまかれた火種が爆発し、魏での居場所がなくなってしまいます。

 

その要因となったのは、仲が良かった夏侯玄(カコウゲン)、李豊(リホウ)らのクーデター未遂及び処断。数年前に曹爽(ソウソウ)が排除された政変が起こりましたが、彼らはその残党だったのです。

 

 

友人のクーデターにより、毌丘倹の立場は一気に危ういものになります。

 

そこで、彼が目を付けたのが曹爽派生き残りの文欽。彼は文欽と懇意にし、お互い友好的な間柄を結成。文欽も文欽で戦功の水増し報告が認められずに不満が溜まっており、毌丘倹から懇意にされたことで、彼を味方と考えるようになりました。

 

 

さて、こうなるともう後戻りはできません。毌丘倹は「司馬一族の長を司馬師(シバシ)から弟の司馬昭(シバショウ)に変えてください」と朝廷に懇願して拒絶されると、その翌年である正元2年(256)、ついに挙兵。

 

吉兆が上がったと知った毌丘倹は、すぐさま周囲の役所を脅迫して民兵込みの軍勢を結成。五、六万にもなる軍勢を率い、対呉本拠地である寿春(ジュシュン)で司馬師に反乱を引き起こしたのです。

 

 

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毌丘倹の乱

 

 

 

さて、こうして突発的に始まった毌丘倹による反乱ですが、やはり事が事です。当然ながら、司馬師本人が自ら軍を率いて征伐にやってきました。

 

毌丘倹軍は、あくまで急造。あまり長期戦をとれる猶予は無かったため、文欽に遊撃を任せて前線の項城(コウジョウ)で迎撃する構えを見せます。魏と敵対する呉軍は、間違いなく毌丘倹軍の味方に付く。そのため、まずそれまで耐えようとしていたのかもしれませんね。

 

 

しかし、司馬師は安易に正攻法に応じない鬼才。毌丘倹が正面での戦線に備えている間にも、すでに裏で刻々と準備を進めていたのです。

 

司馬師は先鋒の王基(オウキ)を派遣すると、毌丘倹軍の前線基地である南頓(ナントン)を占拠し固守。さらに胡遵(コジュン)の軍が東の東側から毌丘倹の軍勢を挟撃し、形勢不利となってしまったのです。

 

さらには文欽も司馬師の本体によって撃破されて呉に逃亡したことで、大勢は決してしまいました。

 

 

毌丘倹は強迫によって味方につけた兵たちが次々と投降する中、夜闇に紛れて逃亡。何とか寿春の近くににたどり着きましたが、そこで待っていたのは、司馬師の配下である諸葛誕の軍勢。

 

 

もはやどうしようもないと毌丘倹は呉への亡命を図りましたが、草むらに隠れていたところを見つかり射殺。急造の毌丘倹軍は雪崩をうったように降伏していき、結局反乱はすぐに収まってしまったのです。

 

ちなみに彼に同行していた弟と孫は、なんとか呉に逃げ延びたとか。

 

 

 

 

人物評

 

 

 

どれほど切羽詰まっていたとはいえ、裏切り者の毌丘倹。後世の評価は、お世辞にも高いものとは言えません。

 

三国志を編纂した陳寿は、彼のことを以下のように評しています。

 

 

ずば抜けた才腕と見識を有していたが、野心を抱いて後先考えずに反乱を起こしたため、一族とともに殺された。

 

 

マイナス評価に至っては他の司馬一族に反旗を翻した将と同じですね。

 

 

実際、毌丘倹の反乱は突発的な物。公孫淵に負けた事と合わせて考えると、やはり彼に大局眼は備わっていなかったと考えるのが正解かもしれませんね。

 

とはいえ、兵を率いる将軍としては非常に優秀な人物だったのもまた明らか。高句麗への出兵に関しては、まさに将軍として文句なしの活躍でしょう。

 

 

戦争には非常に強かったものの、時勢や物事の流れが見える知将の側面は持ち合わせていなかった。おおよそ、毌丘倹の人物像はこんな感じかもしれませんね。

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