田疇 子泰


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田疇 子泰

 

 

生没年:建寧2年(169)~建安19年(214)

 

所属:魏?

 

生まれ:幽州右北平郡無終県

 

 

田疇 魏 名士 青州 独立勢力 忠義 忠義?

 

 

田疇(デンチュウ)。字を子泰(シタイ)、あるいは子春(シシュン:『後漢書』より)。魏に仕えた人物のひとり……で間違いないのですが、その心は魏に非ず。

 

どちらかというと、最初の主君の劉虞(リュウグ)、そして自分の理想や信念に心が向いていた人のような気がします。というか、独立勢力?

 

 

今回は、そんなちょっと変わった趣を持つ田疇について、見ていこうと思います。

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

結果として曹魏の配下に収まった田疇ですが、本当に心から心服したかと言われると、間違いなくNO。最後まで曹操の配下ではなくただの協力者という立場を崩さなかった、ある意味高潔で無欲な姿勢を貫いた人。

 

実際、名士である以上に個人的に慕う人も多くおり、何より隠遁していた山奥が気付けば小中規模の1勢力都市として栄えたあたり、当時でも相当の名声の持ち主だったのでしょう。

 

 

そんな田疇を、三国志を編纂した陳寿は以下のように評しています。

 

 

田疇の節義は、乱れた世を矯正するには十分な物だった。

 

 

最初の主である劉虞以外には正式に臣従することなく、公孫瓚に殺されるかどうかという場面でも劉虞への忠義を優先。

 

後に主君の仇討ちをできない自分を呪って隠遁し、その上で自分を慕う民衆がごった返し、山奥なのに、ほとんど一人の名声パワーで大きな街に発展させる。

 

まさしく、中国の儒教者が好むタイプのトンデモな人物と言えるでしょう。

 

 

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しかし、一方で後年様々な逸話と自身の注釈を入れた裴松之は、彼のことを以下のように言っています。

 

 

袁尚が死んだのは、田疇自身が烏丸討伐の献策をしたからで、これが無ければ曹操は河北を統一、つまり袁尚を殺すのは難しかった。

 

こんなわけで、自分の一番手柄で袁尚を葬っているのに、自分が殺したような相手に対しての哭礼は正直意味が分からない。

 

 

これは、袁尚の首が曹操の元に届けられた際、曹操の命令を無視して袁尚の亡骸を弔ったことへの言及ですね。

 

袁尚は曹操に負けた後、烏丸の一部族を頼って落ち延び、再起を図って曹操と対立しています。その軍勢を徹底的に打ち破ったのは田疇の献策あってこそなのだから、そのせいで死んだ袁尚をわざわざ悼むのはおかしいという理屈ですね。

 

 

なるほど、確かに。

 

こういう冷静な批判を見せられると、田疇という人がどんな人物なのかわからなくなりそうです。

 

 

 

 

極端な忠節は批難の元?

 

 

 

さて、実は当時の風評にも、田疇のあまりに頑なな節義から非難の声が挙げられているという話も少なくありません。

 

まず、曹操に請われて烏丸討伐に協力した際、使者の任務を受けた張本人が田疇の二つ返事に耳を疑って、「袁紹らと曹操様ではいったい何が違うんでしょう?」と質問を投げかけています。

 

これに対して田疇は「君にはよくわからん話だろうよ」と疑問を一笑に付しており……もしかしたら田疇自身秘密主義者なところがあり、それも世の中の田疇批判の声につながったのかもしれませんね。

 

 

そして烏丸討伐を無事に終えた後、曹操からの好待遇を固辞して返ってしまったときも、やはり世間からは「ん?」と思われた部分もあるとか。

 

その上で条例を無視して袁尚の死を悼み、以後も曹操からの贈り物や爵位の話には一切乗らず……と、結構つれない対応をしているのですね。

 

一応、曹操の息子の曹丕(ソウヒ)、荀彧(ジュンイク)や鍾繇(ショウヨウ)ら曹操軍でも傑出した名士らは彼の胸中を理解して放っておくよう願い出たようですが……「あんな不届き者には処罰が必要です」などという声も上がるほどだったのだから、田疇の姿は、当時の人の目にはよほど奇怪な物に移ったのかもしれませんね。

 

 

 

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主君は劉虞ただ一人?

 

 

 

さて、田疇は誰に忠節を尽くしたのかと言えば……やはり最初の主君にして、後続の血筋と仁義を併せ持った劉虞でしょう。

 

というか、曹操への従属を臣従にカウントしなければ、劉虞以降の誰にも出会わず、恨みのある烏丸討伐以外で積極的に世に出た形跡もありません。

 

 

挙句、自身と仲が良くなった夏侯惇が「君主からの恩義を無駄にしてやらないでくれ」と説得した時は、泣きながら彼にこんな心中をぶちまけています。

 

 

「私は仇討ちもせず、道義に背きコソコソ逃げて生きてきました。そんな奴が生きていけるだけで幸運なのに、それ以上を受け取れますか。ましてや、山奥に築いた集落を売るような形で爵位を受けるなどできようはずもない!どうしても高官をとおっしゃるなら、私の命を対価といたしましょう」

 

 

この言葉は夏侯惇だけでなく、彼から報告を受けた曹操までも嘆息させ、ここに至って曹操は田疇を手元に置けないことを悟り、低い官位に留めることにしたとか。

 

 

山中に引きこもっていた田疇の胸中には自分の理想があったのか亡き主君があったのかはわかりませんが、どうあっても人に仕える気がなかったのは間違いないでしょう。

 

その思いの丈は主君に殉じられなかった後悔か、はたまた自分なりの理想か……

 

何にしても、夢破れた男が何を見て、何を願った結果、ここまで頑なに人の配下という道を拒絶できたのか。マイナーですが、面白い人物だと思います。

続きを読む≫ 2018/06/17 15:27:17

 

 

 

 

 

劉虞配下の忠臣

 

 

 

田疇は剣術が得意で本が大好きという文武両道の若者でした。

 

 

初平元年(190)、田疇の住む一帯を治めていた劉虞が、荒れに荒れた朝廷に「自分が味方である」という意思表示のため従属の使者を送ろうとした時の事。

 

「使者にふさわしい逸材はいないか」と悩んでいた劉虞に対し、彼の臣下は一同して田疇を推薦。かくして22歳で田疇は劉虞配下に加わり、彼に気に入られて特別待遇をうけました。

 

 

そして、お供として若者を20人ほど引き連れてそのまま都へと出立。途中で道路も断絶していましたが。道なき道を進んで都・長安(チョウアン)に到着。使者としての使命を無事に果たしました。

 

この時朝廷からは騎都尉(キトイ:近衛隊長)の地位を与えられましたが、田疇は「王朝がここまで苦労している中ぬくぬくと栄誉だけを預かるわけにはいかない」と拒否したとか。

 

また、そのうわさを聞きつけた役所もこぞって田疇を手元に置こうとしましたが、これも当人はすべて固辞。帝からの返書だけを受け取り、そのまま帰途に就いたのです。

 

 

しかし帰還途中、とんでもない凶報が田疇の元に届いたのです。

 

――劉虞、公孫瓚(コウソンサン)の手にかかり死亡。

 

既に田疇は主君を失っていたのです。

 

 

これを知った田疇は、帰り道で劉虞の墓に立ち寄り、涙ながらに返書を読み上げて哭礼を行い帰還。が、その事を知った公孫瓚は激怒して田疇に懸賞金をかけて捜索。ついには捕縛され、公孫瓚の面前に立たされてしまいました。

 

 

劉虞の事をとことん嫌っていた公孫瓚は、激怒し、「何故あんな奴の墓参りをした! 朝廷からの返書を勝者である俺に何故持ってこない!」と田疇を詰ります。

 

しかし、田疇は毅然とした様子で公孫瓚に返答。

 

「返書は旧主・劉虞に宛てたもので、あなたのものではありません。自分宛てのものでもないのに気持ちよく読むことはできますまい。

 

それに、大事を為されようというこの時に罪なき旧主を滅ぼし、その上で臣下の儀礼を守った私までも手にかけるというのでしたら、それこそ誰も付いてこなくなるでしょうな」

 

 

田疇のしっかりとした反論に公孫瓚は感心し、処刑を取りやめて田疇を軟禁に留めることに。しかしそれも公孫瓚臣下から「義士を幽閉していれば、信望を失う恐れがあります」という声が上がったため、結局公孫瓚は田疇を開放。

 

こうして、田疇は自由の身となったのです。

 

 

 

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北方の独立者

 

 

 

さて、こうして官吏の肩書も罪人の汚名も無くなった田疇は、一族郎党と自身を慕う者数百人を連れて山奥に隠遁。広々とした盆地を見つけ、そこに住居を立てて農耕で生計を立てることにしました。

 

……が、ここまで義士と名高い田疇を慕う者は実に多く、数年後にはちっぽけな隠遁生活のつもりが5千軒を超える世帯が立ち並ぶ、小さな独立勢力にまでなったのです。

 

 

まとまりがつかなくなってきたため、「トップがいたほうがいいよね」という事で合議が行われ、田疇は全員の推挙でその勢力の長に就任。

 

こうして勢力の長となった田疇は、まずは法律を制定。最高を死刑とし、20余りの罪を取り決め、そこから婚姻、学校教育の事業といった具合に、ルールや仕組みをしっかりと作って勢力内を統制したのです。

 

 

その在り方や、田疇の影響下では落ちている物を拾う者はおらず、近隣からも従属や取引、果ては北方異民族からも交易品や貢物が届くほどになったのでした。

 

田疇は、これらを受納し、相互不可侵の条約を取りまとめ、その勢力下は辺境とは思えないほどに平穏になりました。

 

 

その名声はどんどん広まっていき、袁紹(エンショウ)からも将軍の地位を条件に参加に加わるようにともたびたび声をかけられましたが、田疇はこれを拒否。その死後に彼の息子の袁尚(エンショウ)からもやはり誘われましたが、結局田疇は彼の配下に加わることはありませんでした。

 

 

 

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烏丸は許さん

 

 

 

さて、田疇にとって烏丸の異民族の一団は、高官を多く殺された仇ともいえる存在。そのため彼らに何らかの報復がしたいと考えていました。

 

そんな折、曹操(ソウソウ)が烏丸討伐の軍を発足。田疇にも協力を仰いできたのです。

 

 

田疇は曹操への協力を表明し、彼の元に属官として参入。しかし田疇と直接会った曹操は、「こいつは小役人なんぞで収まる器ではない」として、即時属官の役職を撤回。

 

県令(ケンレイ:大きな県の長官)の仕事を与えるものの田疇の側が任地に赴くのを拒否し、結局役職がないまま曹操について行くことにしたのです。

 

 

 

その途上で、曹操軍は水没地帯に到着。夏場の雨季であったためとても通れるものでなく、曹操はどうしたものかと田疇に相談。すると田疇は、「急な山道ならば、敵の裏をつけます。向こうも、この状態でまさか向かってくるとは思わないでしょう」と受け答え、曹操を感心させました。

 

結果、曹操軍は撤退したと思わせて田疇の先導で険阻な山を越え、烏丸の大将を討ち取る大勝を上げたのでした。

 

 

曹操はこの功績を大いに喜び、田疇に爵位を与えることに。しかし、田疇はこれすらもあくまで固辞し、自らの郷里に帰っていったのです。

 

 

 

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心は魏臣に非ず

 

 

 

その後、曹操に滅ぼされた袁尚は亡命した先で殺され、その首が曹操の元に届けられることになったのです。

 

曹操は袁尚の追悼を行った者は処刑すると通達しましたが、田疇はこれに構わず、過去自陣に誘ってくれた恩を理由に堂々とその死を悼んだのです。

 

この話はすぐに曹操の耳に入ってきましたが、曹操は特に問題にはしませんでした。

 

 

後年、田疇は一家を引き連れて、曹操のお膝元である鄴(ギョウ)に移住。

 

その後田疇に爵位を与えなかったことを後悔していた曹操は、意地でも田疇に何らかの官位や爵位を与えようと再三にわたり呼び寄せましたが、田疇はすべてを固辞してしまいました。

 

さらには、周囲からは「ご恩を受け取らないのは不敬である」と処罰を与えるよう求める声と、逆に田疇の心を理解して意思を尊重してやるようにとの声が双方入り乱れるようになってしまったほどです。

 

 

事ここに至って、曹操は人の力を借りることに。自身の腹心であり田疇とも仲が良かった夏侯惇(カコウトン)に相談し、自身の名前を伏せて官位を受け取ってもらうよう依頼。

 

腹心の夏侯惇(カコウトン)までも説得に駆り出して高い位に就かせようとしましたが、あくまで田疇は頑なに拒絶。

 

とうとう田疇を重用するのをあきらめて、低い官位だけを与えるに留めたのです。

 

 

その後、田疇は46歳で死去。息子も早世してしまったため、族孫の田続(デンゾク)がこの後を継ぐことになったのでした。

続きを読む≫ 2018/06/16 10:54:16
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