鍾繇 元常


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鍾繇 元常

 

 

生没年:元嘉元年(151)~太和4年(230)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州潁川郡長社県

 

 

勝手に私的能力評

 

鍾繇 名宰相 蕭何 山椒 絶倫王? 西涼 魏 馬超

統率 B 関中のヤンチャ者たちをまとめて総大将として戦う人物が、戦下手とは思えない。
武力 D 個人武勇に関する逸話はない。が、どうにも剛毅というか、なんというか……。
知力 A 厄介な西方を守護、司隷校尉。畜生。こんな人が頭が良くないはずがない。
政治 S 西方の独立群雄をまとめ、不要になると反乱を誘発して始末するまでの流れはさすが。司法にも詳しいらしく、後に司空にまで上っている。
人望 A- 西方守護者、司隷校尉という立場だけあって多くの人に慕われたが、近年では畜生エピソードがアップをはじめ、その人物像に陰りが見え始めた。

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鍾繇(ショウヨウ)、字は元常(ゲンジョウ)。どうにも文官職は後世のインパクトが乏しく、そのせいで必要以上に弱くみられるのですが……鍾繇もそんな影の薄い人物の一人ですね。

 

しかし、見てみると、鍾繇体、曹操軍屈指の文官、西方の守護者、鍾会(ショウカイ)の親父、山椒などなど、けっこう濃い逸話を持っていたり存在感ある立ち位置にいる人物なのです。

 


 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

鍾繇は主に文官としてその力を発揮し、俊英として老齢まで政治の最前線に立ち続けました。

 

当然、彼を評価する際も、かならず触れられるのは政治の才覚。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼の事をこう評しています。

 

 

道理に通じ、司法の才があった。

 

 

 

この一文の示す通り、鍾繇の記述では司法関係の仕事についているものが多くあります。

 

また、魏で昨今間でも屈指の名声を誇っている荀彧(ジュンイク)、荀攸(ジュンユウ)との交友が示唆されているのも、おそらく道理に通じていたという評価の元になった部分でしょう。

 

 

また、目を向けられることこそ少ないものの、軍事的な才覚も備わっており、その辺りの才と人の才能を見抜く力を買われた結果、危険な関中諸連合との橋渡しなどを任されたのでしょう。

 

実際、鍾繇はそこでも剛柔織り交ぜた手段を使い、最終的に不穏分子を駆逐しています。

 

 

さて、そんな一見すると何とも普通に優秀なだけの文官といった感じの鍾繇ですが……人格面を表すエピソードの他に、その優秀さからは想像のつかない間抜け面白なエピソードがあります。

 

 

 

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鍾繇、私事を持ち込まない

 

 

 

『魏略』にある話。

 

 

郭援は袁紹の息子らの配下として曹操に敵対しましたが、彼は龐徳(ホウトク)によって討ち取られました。

 

龐徳は戦っている最中は自分の上げた首が郭援の者だと知らず、後になってその事が発覚。

 

 

郭援は実は鍾繇の甥であったため、罰の悪さと申し訳なさから、しばらく黙っていました。

 

しかし後に「郭援が討死したのに首がない」と見方が騒ぎ立てたため、仕方なく鍾繇に郭援を自分が討ち取ったことを報告。

 

 

郭援の首を見た鍾繇はひとしきりその首を見て泣くと、謝罪する龐徳に向き直り、「構わぬ」と一言。

 

 

「郭援はわしの甥だが、それ以前に国家の敵。最善の選択がこれだっただけで、おぬしが謝る事でもない」

 

 

昔から公私を分けて考えることは美徳とされてきましたが、鍾繇もそんな美徳を守れる人物だったのですね。

 

 

 

 

 

荀攸の秘策

 

 

 

荀攸は秘密主義者で誰にもその胸中を語りませんでしたが、鍾繇にだけはかなり心を開いていたようです。

 

二人は親友同士となり、鍾繇は先だった荀攸の家族の面倒をまとめて見る等、二人の仲は相当に親密だったことが伺えます。

 

 

さて、そんな鍾繇は荀攸の死を目の当たりにして、彼の立てた秘策が世に残らないのを憂いました。残念なことに、荀攸の胸中にある策謀の数々を本当の意味で知っているのはこの世で鍾繇ただ一人。

 

 

何としても彼の素晴らしい策をこの世に残さねばと、鍾繇は一念発起。自身だけが知る、荀攸の12の秘策を書にまとめることを心に決めます。

 

 

 

しかし、残念ながら、その半ばで鍾繇は死去。書きかけの荀攸12の秘策は当然ながら世に出回らず散逸。天才軍師の荀攸は、何をしたかもよくわからない謎の人として、その知名度をわずかながらに薄めてしまったのです。

 

 

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鍾繇、謎の肉刑推し

 

 

 

ある時、曹操が死刑の代わりになる刑罰として宮刑(キュウケイ:いわゆるパイプカット。宦官は一般的にこの刑を受けた者の総称)の復帰を提案しました。

 

そんな中、鍾繇は別の刑罰の復帰を提案。それが、鼻や耳といった体の一部を削ぎ落す肉刑という古代の処罰法でした。これならば命を奪うでも生殖能力を無くすでもなく、それでいて刑罰として成り立つ方法だったわけですね。

 

 

しかし、当時の学者たちは一様にこれに反対。「こんなもので民が喜ぶはずがない」と却下されてしまったのです。

 

 

 

鍾繇はあきらめていませんでした。時代が変わって曹丕が跡を継いだ後も、この話は再び議題に上がったのです。

 

この時も曹丕の口から「鍾繇は死刑に代わり、肉刑復帰を望んでいる」と群臣に投げかけ、議論をさせることに。しかし、ここでも議論を開く前に戦争があり、結局うやむやのままに沙汰止み。

 

 

 

それでもあきらめじと、鍾繇は今度は曹叡の時代にも肉刑復帰を上奏したのです。この執念はいったい

 

 

この時、ようやく議論が開始されたのですが……ここで思わぬ刺客が現れます。それが、自身の同僚にして共に「一代の俊英」と謳われた王朗でした。

 

王朗は鍾繇の肉刑復帰に真っ向から反対。

 

「肉刑の抑止力は死刑よりも軽く、これが呉蜀の民衆に伝わると悪影響になる。死刑を無くすのが目的ならば、別の手を講じたほうがよいだろう」

 

 

結局群衆は王朗の意見に賛成する者が多く、ちょうど戦争があったことで再び議論は沙汰止みに。鍾繇による肉刑復活は成らなかったのです。

 

 

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超絶参照爺

 

 

さて、お待たせしました。間抜けな話、鍾繇と山椒の逸話です。これは鍾会が自身の母について書いた話と、「魏氏春秋」にあるお話。

 

 

もはや老境に差し掛かっていた鍾繇ですがその色欲は収まる所を知らず、張氏(チョウシ)という女性を溺愛していました。

 

こうなると面白くないのが、他の側室。孫氏(ソンシ)という側室は、鍾繇と張氏の仲の良さが許せず、大変嫉妬してしまったのです。そして、鍾会の言う話によれば、なんと鍾会を妊娠した張氏の毒殺まで計画、実行したのです。

 

 

とにもかくにもそれほど仲をこじらした様子を見た鍾繇は、張氏毒殺未遂の話を聞くと、怒って孫氏と離縁。

 

 

この騒動はついには曹丕の母である卞太后(ベンタイコウ)まで動かすこととなったのです。

 

卞太后は孫氏との復縁を鍾繇に迫りましたが、鍾繇はこれを断固拒否。ついには激怒して、自殺を図るまでに至ったのです。

 

 

この時手元に毒薬がなかったため、代わりに取り出したのが山椒。鍾繇は大量の山椒を用意し、それをバカ食いすることで自殺しようとしたのです。

 

 

しかし齢70を過ぎた体でも頑丈だった鍾繇の身体は刺激物の過剰摂取にも耐え抜き、結局自殺は未遂に終わりました。

 

代わりに過剰摂取の副作用として喉に異常をきたして声が出なくなってしまい、それを見かねた帝が慌てて介入。復縁の命令を取りやめたのでした。

 

 

いい歳こいて何やってんだ

続きを読む≫ 2018/05/06 19:44:06

 

 

 

 

 

水難と出世の相

 

 

 

鍾繇はまだ子供の頃に伯父と共に洛陽へと向かいましたが、その道中、人相占いをしている占い師にこのように言われました。

 

「この事は出世する破格の相の持ち主。ですが、水難の相も共に出てしまっていますね。気を付けたほうがよいでしょう」

 

 

この話を話半分に聞いていた伯父だったのですが、そこから少し進んで橋を渡っている最中、突如として鍾繇の乗っていた馬が驚いていななき、振り落とされた鍾繇は河へ盛大にダイブしてしまったのです。

 

 

幸いすぐに助けられたためなんとか生きて助けられましたが、鍾繇が水で死にかけたことから、伯父は占い師の話を真実だろうと断定。

 

以後、鍾繇は伯父からの全面支援によって猛勉強。ついには孝廉にて推挙を受け、役人としての道を歩むことになったのです。

 

 

 

鍾繇は陽陵(ヨウリョウ)県令としてひとつの県の統治を任されましたが、間もなく病気により辞任。しかしその後、今度は政治の華形ともいえる三公の役所からお誘いがかかり、廷尉正(テイイセイ:帝の命令による特別裁判用の裁判官)、黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の給仕接待役)に抜擢されました。

 

 

 

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曹操の元へ

 

 

この時、朝廷は李傕(リカク)らによって牛耳られていました。そんな折、兗州(エンシュウ)の地を得た曹操から、朝廷に対して挨拶の使者が届きます。

 

 

李傕らは曹操を警戒し、使者の足止めと曹操の意図の妨害を画策しましたが、鍾繇は曹操の擁護を行いました。

 

「今や群雄らは勝手に動いているのに、曹操だけはこうして使者を出し、朝廷に忠誠を誓っています。それを無下にするなどとんでもない」

 

鍾繇のこの言葉によって李傕らは妨害行為を取りやめ、曹操の朝廷への挨拶を融通。以後、曹操は朝廷に使節を送ることができるようになったのです。

 

 

 

さて、朝廷と密接な関係を結べるようになった曹操は、自身の参謀の荀彧(ジュンイク)が常々賞賛していたこともあって、鍾繇の事を気に欠けるようになっていきました。

 

そんなある時、帝は李傕らの専横を逃れて都・長安から脱出。鍾繇もこれについて行って、そのまま朝廷の直臣ともども曹操によって保護されることとなりました。

 

 

こうして曹操の庇護下に収まることになった鍾繇は、御史中丞(ギョシチュウジョウ:官僚観察の副官)となり、その後も侍中(ジチュウ:皇帝の応対役)、尚書僕射(ショウショボクヤ:金銭を始めいろんな物品の受納や管理を行う責任者。人事考課もする)と出世。

 

さらにこれまでの活躍から爵位と領土も与えられ、東武亭侯(トウブテイコウ)に取り立てられたのです。

 

 

 

 

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西涼諸勢力との懸け橋

 

 

 

しばらく朝廷の直属として動いていた鍾繇でしたが、ある時、曹操から重大な任務を任されます。

 

 

――西方の諸勢力との外交。

 

 

関中から西の土地は馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)ら独立勢力でひしめき合っており、異民族の血の色も濃い事から、漢王朝とはまた違った気風を放っていました。

 

曹操はこれらの勢力が一致団結して敵対することを恐れ、そうなるくらいなら早い段階から味方に抱きこもうと考えたのです。

 

 

鍾繇は侍中の役職をそのまま、司隷校尉(シレイコウイ:首都近郊の警備隊長)を兼任。持節(ジセツ:独自判断での処罰権限)を与えられ、特使として西方に贈られました。

 

 

この時西方の二代巨頭である馬騰と韓遂はお互いに争っていましたが、鍾繇は二人の間に立ち文書を送り付け、争う事の危険性と、自分たちと手を組むことの利を明確に記して説得。

 

馬騰と韓遂は鍾繇の説得を受けて争うのをやめ、ついにはそれぞれの子供を人質として朝廷に派遣し、調停を擁する曹操と手を組んだのです。
鍾繇が味方につけた西方の諸勢力は、官渡の戦いにおいて物資不足に苦しむ曹操軍に軍馬を提供。曹操はこれに大いに感謝し、「前漢の名宰相である蕭何(ショウカ)に匹敵する」と活躍を喜んだのです。

 

 

 

その数年後に亡くなった袁紹の息子が郭援(カクエン)なる将を異民族の勢力送り込み、その勢力を反曹操勢力として取り込みました。

 

これにより勢いが盛んになった敵軍に対し危険と感じた曹操軍の将軍らは、一時撤退することを協議の場で訴えましたが、西涼の事情をよく知る鍾繇はこれに反対。

 

 

「西方の勢力の中には敵軍と内通している者がいるが、こちらの威名を気にかけて内通を戸惑っている者も多い。ここで撤退して弱みを見せたら、彼らまで敵に回ってしまう。幸い、郭援はこちらを軽く見ている。有利な地形に誘い込んで打ち破ろうではないか」

 

 

鍾繇はそう主張すると、西方軍閥の代表である馬騰に指揮下の張既(チョウキ)を派遣。説得し、なんとか味方につなぎとめることに成功しました。

 

曹操軍に助力すると決めた馬騰は、息子の馬超(バチョウ)を大将にした1万の軍勢を援軍に派遣し、まんまとおびき出された郭援らの軍勢を討ち破ったのです。

 

この戦いで郭援は討死し、異民族は降伏。袁一族の滅亡はほぼ決定したのでした。

 

 

その後、今度は曹操のお膝元の近くで反乱が起きましたが、こちらに対しても鍾繇は西方の精鋭部隊を借り受けて鎮圧。かつて漢帝国の都であった洛陽の近辺は、すっかり平穏を取り戻したのです。

 

鍾繇は平穏になった洛陽近辺に、西方の民たちを移住。反乱者や逃亡者も組み入れて、数年の間に荒れ果てた洛陽周辺の戸籍は一気に充実していきました。

 

 

 

 

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国家一代の英傑

 

 

 

こうして鍾繇が見事に西方を治めていましたが、建安16年(211)には、馬騰の息子である馬超らが中心となって離反。曹操に敵対しました。これは鍾繇が西涼の軍閥に対し強硬姿勢を貫くことを進言したためと言われています。

 

 

その後曹操が王に就任し、魏が国として認められると、鍾繇は大理(ダイリ:廷尉を解明した役職。最高裁判所長官)に就任。もともと司法が得意分野だったこともあって飛び抜けた活躍を示し、ついに魏の相国(ショウコク:内閣総理大臣)にまでなりました。

 

 

しかし建安24年(219)、自身がかつて推挙した魏諷(ギフウ)なる人物が、曹操軍の窮地にかこつけて大規模な反乱を画策。

 

未然に発覚したことで魏諷は誅殺されて事なきを得ましたが、この時魏諷を推薦した鍾繇も、その人物眼を疑われて辞任。一時期失脚してしまいました。

 

 

 

しかし、曹操死後に曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、再び大理として法務の仕事に従事。その後曹丕が帝位に上がりしばらくすると、鍾繇は今度は太尉(タイイ:軍事の総責任者)に昇進。さらに爵位も平陽郷侯(ヘイヨウキョウコウ)に格上げされました。

 

この時の鍾繇の名臣ぶりはもはや天下にも並ぶ者がほとんどいないほどだったようで、華歆(カキン)、王朗(オウロウ)ともども、曹丕から「一代の英傑である」と評されるほどでした。

 

 

後に曹丕が亡くなって曹叡(ソウエイ)が後を継ぐと、太傅(タイフ:帝の指導役。名誉職)に昇進。

 

しかしこの時になると鍾繇も華歆も王朗もかなりの高齢。鍾繇は膝の病気でろくに歩くことができず、華歆も病気がちになっており、介助が必要なレベルだったようです。

 

そのため彼らのために人力車を用意して、鍾繇らはそれに乗って出勤するようになったのです。以後、「三公にあたる重役が持病を抱えているときは車で出勤」という恒例が魏の中で出来上がったとか。

 

 

そんなこんなで高齢で不自由になってなお魏に仕え続けた鍾繇ですが、老齢には勝てず、太和4年(230)、80という高齢でついに死去。帝自ら喪服で弔問し、その息子たちは列侯に取り立てられて優遇されました。

 

諡は成侯。後に息子の一人である鍾会が魏に対する大逆を犯しましたが、彼とその息子の鍾毓(ショウイク)が立てた功績によって一族郎党の皆殺しは避けられています。

続きを読む≫ 2018/05/05 15:45:05
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