夏侯尚 伯仁
生没年:?~黄初7年(226)
所属:魏
生まれ:豫州沛国譙県
夏侯尚(カコウショウ)、字は伯仁(ハクジン)。夏侯淵(カコウエン)の甥にしてして優秀な知将。同時にヤンデレでもあるというなかなか規格外の人。
かなりマイナーな部類に入る人物ですが、知ってしまうとなかなかのインパクトの濃さを発揮してくれる人物です。
っても、どうにも息子の夏侯玄(カコウゲン)のついでに伝が立てられた気はしてなりませんが……そこは呉の陳武(チンブ)あたりも同じこと。
早速、彼の記述を追ってみましょう。
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夏侯一族の良将
夏侯尚は曹操一門の夏侯一族の一人という事もあり、曹操(ソウソウ)からは一門衆として大事に扱われていたようです。
その過程で、曹操の息子である後の魏の文帝・曹丕(ソウヒ)とも知り合い、彼とはよき友人として死の際まで深く交流を重ねることになります。
袁紹(エンショウ)亡き後、彼の本拠地であった冀州(キシュウ)を平定した曹操は夏侯尚を軍司馬(グンシバ:部隊指揮官の位の一つ)として騎兵を率いさせます。こうして指揮官となった夏侯尚は、その後の征伐のお供をするようになりました。
こうして騎兵指揮官としてしばらく戦いに明け暮れていた夏侯尚ですが、後々には五官中郎将(ゴカンチュウロウショウ)として中央の衛兵を率いていた曹丕の属官に配属。
そして魏が国として成立すると、夏侯尚は魏国の黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の属官)に就任し、国属の官吏としての地位も得ました。
後に異民族である烏丸が北で反乱を起こすと、曹操の息子の曹彰(ソウショウ)がこれを討伐。この時、夏侯尚も曹彰の軍に参加し、功績を残したとされています。
建安25年(220)には、曹操が死去。この時、夏侯尚は曹操の棺を運び、洛陽(ラクヨウ)から、魏国の本拠地である鄴(ギョウ)まで曹操の遺体を運んで帰還しました。
その後前後の功績をたたえられ、散騎常侍(サンキジョウジ:中常侍とだいたい仕事は一緒。勅令の伝言役)に任ぜられ、平陵亭侯(ヘイリョウテイコウ)の爵位も与えられました。同時に、軍でも中領軍(チュウリョウグン:近衛隊指揮官。諸将の監督役)に昇進。魏の中でもかなりの大物に上り詰めたのです。
魏帝国の重鎮
曹丕が漢王朝を廃して魏帝国を建立すると、夏侯尚も平陵郷侯(ヘイリョウゴウコウ)、征南将軍(セイナンショウグン)へと栄転。荊州刺史(ケイシュウシシ)として一州を任せられ、南方諸軍事の都督(トトク)にまでなりました。
そしてこの年、夏侯尚は曹丕にある作戦を上奏します。
「荊州北西部を領有し、そこにに駐屯する劉備軍を駆逐しましょう」
曰く、「元々荊州西部は険しい道が続く上、劉備は孫権軍を見ているばかりでこちらを警戒していません」とのこと。
曹丕はこれを快諾すると、夏侯尚はさっそく奇襲部隊を編制。曹操の死などもあって油断していた蜀軍は夏侯尚の奇襲部隊を受けて一気に壊滅し、荊州での足掛かりを失うことになったのです。
こうして無事に荊州北部の地盤を固めた夏侯尚は、征南大将軍(セイナンダイショウグン)に昇進。事実上の荊州戦線総大将として君臨することになったのでした。
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対呉戦線
この時期孫権は、魏の臣下として忠誠を示し、彼が呉も魏の属国としての立場を明らかにしていました。
しかし夏侯尚は、そんな孫権の様子を警戒し、対呉の防備を固めて有事に備えていたのです。
黄初3年(222)には、ついに魏呉の主従関係は決壊。
曹丕は孫権討伐のため総力を挙げての親征を開始し、三方向から一斉に呉への総攻撃を開始したのです。
夏侯尚はこの時、西方の荊州戦線の大将として孫権領であり荊州の主要都市の江陵(コウリョウ)を包囲しました。
江陵では疫病が流行しており、守兵はわずかという状態。孫権はすかさず諸葛瑾(ショカツキン)を総大将とした救援部隊を編成し、夏侯尚らの元まで送り込んできたのです。
諸葛瑾は、長江の中州を中心に水軍と陸軍を双方を展開。水を盾に、容易には打ち破れない陣容を保っていました。
正面突破は困難。そう判断した夏侯尚は、夜襲による攻撃を計画。
一万の軍勢を率いてひそかに長江を渡河し、中州の陸戦部隊を攻撃。さらには水軍に対しても川を挟んだ反対側から火攻めをかけ、挟み撃ちにして諸葛瑾の軍勢を撃退。さらに中州を占拠したことで、江陵の包囲網はさらに盤石な物となりました。
しかし、奇襲はスピードが命。中州に軍を渡すのには浮き橋を一本立てているだけという有り様で、これが無くなれば敵中で孤立する形になってしまいます。
敵も歴戦の名将揃い。敵将・潘璋(ハンショウ)はすぐに魏軍の準備不足を看破し、夏侯尚らの渡ってきた浮き橋を燃やして破壊しようとさっそく準備にとりかかりました。
夏侯尚はそんな敵の動きを察知すると、中州の陣営を放棄して急ぎ撤退。何とか事なきを得ましたが、これによって江陵の包囲は完ぺきとは言えなくなってしまいました。
その後も疫病や内通のゴタゴタで守兵がわずかとなっていた江陵城攻撃は続けられますが、守将である朱然(シュゼン)の守りは固く、いまひとつ成果を得られず。
さらには流行り病が魏軍にまで伝染したことから、曹丕からの勅令を受けてやむなく撤退。この攻撃は失敗に終わりました。
が、援軍撃破の功績を挙げたのもまた事実。夏侯尚は功績が認められて荊州牧となり、事実上荊州全般の最高責任者へと格上げされたのです。
こうして孫権との国境を任された夏侯尚でしたが、当時の荊州は騒乱により大荒れ。異民族も複数入り込んできては荒らし回り、住民も孫権領側へと逃げ込んでいるという有り様でした。
夏侯尚はこれを憂慮し、前年蜀から奪った上庸から道を開通し、アピール活動も兼ねて軍隊を西へと行進させました。
結果、軍の威容に圧倒された山岳地の住民や異民族は次々と魏軍に従属。数年後には数千世帯も戸籍数を増加させることに成功したのです。
黄初5年(224)には、昌陵郷侯(ショウリョウキョウコウ)に移封され、領土も変更となりました。
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ヤンデレ気質の夏侯尚
さて、そんな夏侯尚には、お気に入りの愛妾がいました。夏侯尚は正妻よりもこの妾の方をはるかに愛しており、その態度は明白であったそうです。
ちなみに夏侯尚の正妻は、曹丕の同族の娘。それを大事にしないということは、つまりは皇族の威信にかかわる事だったのです。
というわけで、「これはいかん」と思った曹丕は、夏侯尚の妾を殺害。
これを見た夏侯尚は、いよいよ心を改めた……と思いきや、愛妻が殺された悲しみのあまり発狂。
突然妻以上に愛する者が失われた悲しみから精神を病んで頭もおかしくなる有様で、とても直前までの知将の様子がないほどに弱ってしまったのです。
狂った夏侯尚は愛妾の姿が忘れられず、埋葬を終えた後にも悲しみのあまり再び会いたくなり、あろうことか妾の墓を再び掘り出して彼女の顔を見ようとし、しかも実行するなどの奇行に走り、周囲を唖然とさせたとか。
これを聞いた曹丕は、「夏侯尚をよく言わなかった杜襲(トシュウ)が彼を軽蔑したのはこういう事だったか」と腹を立てましたが、結局は夏侯尚の重用をやめなかったのです。
しかし、妾の愛をなくしておかしくなった夏侯尚は長く生きられるはずもなく、黄初6年には心から来た病はさらに悪化。いよいよ仕事などできなくなった夏侯尚は、そのまま洛陽に帰還。
その後も曹丕自らが見舞いに訪れて彼の様態に涙しましたが、その甲斐空しく、そのまま亡くなってしまったのです。
彼の後は嫡子の夏侯玄(カコウゲン)が継ぎ、甥も爵位を与えられるほどの厚遇でしたが……その息子も立派な人物でありながら晩年に運気が急降下し、最期には一族郎党処刑という末路を迎えることとなってしまったのです。
何ともやりきれない……
智謀の士なれど大物には……
魏書には、「計略、智謀に優れていた」とあり、そのため曹丕から認められて身分以上の付き合いをしていたようです。この辺りは、史書からも何となくうかがい知れますね。
しかし、杜襲は夏侯尚を「人のためにならない人物。厚遇するには値しません」と述べられ、事実として妾の事件の顛末を物語っている気がしなくはありません。
とはいえ、当時の主流は政略結婚。結ばれる人と運命の人が別というのはよくあることです。
そう考えると、運命の人と結婚後に出会い、面子のために殺されるという有り様はある意味同情に値しますが……
愛然り友情然り、やはりそのあたりの割り切りができないと、大物というのは伝わらない。……のかもしれませんね。
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