賈詡 文和


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賈詡 文和

 

 

生没年:建和元年(147)~黄初4年(223)

 

所属:魏

 

生まれ:涼州武威郡姑臧県

 

 

個人的人物評

 

統率 B 軍事にも参与しており、兵を率い戦いもおそらく経験しているはず。
武力 D 武勇に関しては不明。なんとなく涼州出身者は高い数値にしたいが……
知力 S 処世、計略、軍略と抜かりが無く、知力における最強候補ではあの諸葛亮すら凌いで筆頭に名が挙げられることも多い。
政治 A- 文官職としても三公のひとつに上り詰めている辺り、政治力も高いはず。それっぽい逸話はないが、完璧な処世と戦略にも携わる辺りから、その能力の片鱗が伺える。
人望 C+ 忠に厚い知者として名高かったが、反面腹黒な噂もちょくちょくあって警戒もされたらしい。日食を原因に讒言を食らったこともある。

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賈詡(カク)、字は文和(ブンワ/ブンカ)。涼州と言えば騎馬民族の本拠と隣接していることもあって、数多の猛将を生み出した土地なのですが……この賈詡は何をどう間違えたか、武略ではなく知略、それも三国志における最優秀策謀家の筆頭格にも取り上げられる異端児です。

 

 

そんな知略と、生存を最優先としたサバイバル志向から、不義理の暗黒軍師なんて不当な呼び方が巷では是とされていますが……史書を見る限り、土壇場にもならない限り白い白い

 

謀略家という立場上黒い事にも手を染めることも多いですが……根は暗黒どころか真っ当な正義の人なんじゃないかと思えてくるくらいまともというのが、正史の本伝を読んだ印象でした。

 

 

さて、今回はそんな賈詡伝を追っていくことにしましょう。

 


 

 

 

 

 

曹操の頼れる謀将

 

 

 

さて、執金吾として曹操軍に身を置くことになった賈詡ですが、同時に都亭侯(トテイコウ)としての爵位も与えられており、さらにその後には冀州(キシュウ)を統括する州牧としての抜擢も受けています。

 

が、賈詡が冀州牧になったころ、まだ冀州は袁紹らの領土であり曹操の影響力はありませんでした。そのため、参司空軍事(サンシクウグンジ:司空の軍事参謀。当時、曹操は司空の地位だった)として曹操の元で勤めることになりました。

 

 

 

そして建安5年(200)には袁紹との間で、官渡の戦いが勃発。

 

 

曹操軍は初戦を制し戦局を優位に進めますが、袁紹軍の数は圧倒的で、曹操軍はたちまち袁紹に包囲されてしまったのです。

 

さらに物資面でも苦しめられた曹操軍は、数ヶ月の包囲の末兵糧が底を尽き、絶体絶命の危機に陥ってしまいました。

 

 

 

そんな状況下で曹操賈詡に「さて、どうしようか」と質問します。

 

すると賈詡は、

 

「殿は聡明さ、勇猛さ、人使い、決断力の四つで袁紹に勝っておられます。後は好機さえ訪れれば、すかさず勝ちを得られるでしょう」

 

と回答。

 

 

そこで曹操賈詡の助言を容れて、軍を一つにまとめて袁紹軍本隊から少し離れた部隊を攻撃。これを撃破したことで、袁紹軍を一気に壊滅状態に追いやり、まさかの逆転勝ちをして見せたのです。

 

 

補足
袁紹軍の参謀の一人である許攸(キョユウ)という人物が袁紹軍の兵糧庫の場所を曹操にバラし、賈詡は荀攸(ジュンユウ)と共に「すぐにその場所を襲撃しましょう」と進言したという記述が荀攸伝でなされています。

 

結果的にこの襲撃が大成功して奇跡の逆転勝利を収めた辺り、おそらく「袁紹本隊から離れた部隊を攻撃」の下りは、烏巣襲撃の一件を表していると思われます。

 

 

この戦いに勝った後、袁紹が病没したうえ息子らが跡取りを巡って争いを行ったこともあり、曹操は無事に袁紹軍の本拠地である冀州を平定。

 

この時冀州牧には曹操自身が付いたため、賈詡は冀州牧の任を解かれ、太中大夫(タイチュウタイフ:皇帝の顧問役)に転任しました。

 

 

その後、建安13年(208)年の赤壁の戦いではそもそも出征前から反対の立場を取り、「まずは荊州の領国を安定させ、軍備を整えましょう。そうすれば戦うまでもなくあちらが降伏します」と曹操を諭しますが、聞き入れられず曹操軍は大敗北を喫することになってしまいました。

 

この時曹操賈詡ら反対派の意見を容れていたらどうなったかは何とも言えませんが……孫権らからすると赤壁で一戦交えるよりも難しい局面になったことでしょう。

 

 

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離間の計

 

 

少し飛んで建安16年(211)、これまで同盟者であった馬超(バチョウ)、韓遂(カンスイ)ら西涼の諸侯が、曹操に危機感と不安感を募らせて連合し叛逆。そのまま潼関の戦いにもつれ込みます。

 

そして一進一退の攻防が続く中、馬超らは曹操に和睦の使者を送って曹操との和解の道を模索。しかし馬超らの提示する条件は、「曹操は領土を割譲し、人質をこちらに送ること」といった内容。

 

 

突きつけられた条約に対し、賈詡は「受け入れたフリをすればいいでしょう」と提案。さらに、曹操に対し計略を献策します。

 

 

この時、賈詡曹操に上奏した策が、世に名高き離間の計。元々独立色の強い馬超ら連合軍の結束を引き裂こうというものでした。

 

内容は、偽りの和議成立の機を見て、曹操は旧知の仲の韓遂と接触。さらには修正ばかりのいかにも意味深な書状を韓遂に送り付け、彼を「曹操の手先だ」と仕立て上げることで孤立させようというもの。

 

 

早速曹操賈詡の策を実行しましたが、見事に成功。馬超らは盟友・韓遂にあらぬ疑念を抱き、日を改めて行われた再戦では連合諸侯の連携が取れないこともあり、曹操は大勝を収めることができたのです。

 

 

 

 

 

曹丕の腹心

 

 

さて、話は少しばかり変わりますが……曹操は嫡子の曹丕(ソウヒ)を後継者として決めていましたが、その弟の曹植(ソウショク)も評判が高く、家臣の間では「曹丕を排して曹植を次の後継者にしよう」という動きも多くみられていました。

 

そんな中、賈詡曹丕派の一人として彼に接近。曹丕に意見を求められると、「ただただ謙虚に粛々と、子としての正しい道に従事してくださればよいのです」と助言を与えました。

 

 

また、後日曹操から後継者問題について意見を求められると、賈詡はひたすら無言を押し通します。

 

曹操が「俺が意見を求めているのに、なぜ黙る?」と訊くと、賈詡はようやくその口を開きました。この時に出た言葉が、

 

 

袁紹や劉表の事を考えていました」

 

 

袁紹、劉表。どちらも一大群雄でありながら、後継者争いで失敗した結果家を滅ぼすことになった英雄たち。

 

そんな面々の名前を賈詡の口から聞いた曹操は、手を叩いて大笑い。「とっくに答えは出ているではないか」と、そのまま曹丕を後継者として確定しました。

 

 

 

その後曹操が亡くなり、後を継いだ曹丕が皇帝に即位すると、賈詡は太尉(タイイ:国防長官のような役割。三公と呼ばれる最高級官僚の一つ)となり、さらに爵位も魏寿郷侯(ギジュキョウコウ)に格上げされ、領土も加増。

 

さらに子供たちもそれぞれ官位や領土を分け与えられるなど、かなりの厚遇を受けることとなったのです。

 

 

曹丕が新たな帝位に就き、国が一新したある時、曹丕は「そろそろ統一に向けて動きたい。呉蜀のどちらを併呑すればいい?」と賈詡に質問します。

 

しかし賈詡は、

 

「優れた才覚を持つ劉備、そして事の真偽を見極める力を持つ孫権。いずれも有能な参謀を抱いており、さらには要害を盾に堅固な守りを敷いています。まずは政治と領内の慰撫、そして万全の状況が整ってから攻めるのがよろしいかと存じます」

 

と、曹丕による出征を制止。しかし曹丕は聞き入れず、孫権の守る呉に総攻撃を開始。賈詡の進言通り攻め切ることができず、多数の死傷者を出して遠征は失敗に終わってしまいました。

 

 

その翌年である黄初4年(223)年、賈詡は病気により77歳で死去。諡は粛侯とされ、子の賈穆(カボク)が跡を継ぎました。

 

 

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評価、逸話

 

 

 

 

三国志の編纂者・陳寿は、賈詡についてこう評しています。

 

 

賈詡は荀攸とともに打つ手に失策がなく、事態の変化に通暁していた。

 

まさに、古の天才軍師である張良(チョウリョウ)、陳平(チンペイ)に次ぐ人物ではないか。

 

 

つまり、処世、策略双方に関して間違いのない人物というわけですね。

 

献策に関しては言っている内容は妥当と言う他なく、まさにハズレ無しの規格外と称して間違いないのは本伝からもわかる通り。

 

 

 

一方で処世の方もかなり徹底しており、

 

 

・休日は門を閉ざして引きこもり、余計な交友は持たなかった

 

・プライベートな交流もカット

 

・子供たちの結婚相手も、家格が高すぎる場所は避けていた

 

 

等々、まさに出世でなく保身、とにかく「出世ではなく、無事に乗り切る」ことに特化した考えを持っていたことが伺えます。

 

 

策謀の士というのは何を考えているのかわからず、あらぬ噂を立てられやすいもの。

 

ましてや反発者の多い董卓、さらにその子分らに仕えていた過去や差別的な目で見られる辺境の涼州出身と言うのもあり、とにかく生涯を安全に乗り切ることには神経をかなり使ったことでしょう。

 

 

 

 

しかし、それでも後世から見ると「何とも都合がいい奴」とみられることも多く、特に三国志に注釈を加えた裴松之からは蛇蝎の如く嫌われています。

 

 

まず、サバイバルのための策である「李傕らによる長安襲撃」に関してのコメントが、

 

 

やっと董卓が死んで、長安の平穏が訪れたところだった。

 

にもかかわらずつまらん戯言を述べて逃げ散ろうとする李傕らを呼び止めていらんことをしたせいで、その後余計に長安は有れることになった。

 

こいつは大罪人だ!

 

 

とまあこの時点でわかるたいそうな嫌いよう。

 

 

そんな裴松之の賈詡アンチオーラは留まるところを知らず、赤壁の戦い以前の賈詡の反対意見に対しても、

 

 

この当時は賈詡が言ってるみたいに悠長なことやってる余裕はない。

 

というか赤壁で負けた後曹仁も江陵で負けたじゃん! 防戦に回って勝てる余裕なんてないの!

 

というか領民の「慰撫」で敵国が「頭を下げて服従」とか馬鹿じゃねーの!?

 

 

曹操のやったことは正しい! あの敗北は天運がなかっただけだ!

 

よってここの賈詡の意見は間違い! 失策!

 

 

…………何だろうな、言ってる内容は一理あると思わないでもないのに、単に揚げ足取ってるだけのような気がするこの感情。

 

 

 

とまあ意地でも功績を認めるものかと言わんばかりの裴松之。最後の最後には、賈詡の評に関してはこう総括しています。

 

 

列伝は類似した特徴の人間をひとつにまとめるものだろう。

 

善良な張良と素行に問題ありの陳平も同列にまとめられているが、あれは前漢ただあの二人だけが有名な謀臣だったからそうなったんだよ。

 

そもそも荀攸と一緒くたにしているけど、荀攸と賈詡の人物像は夜光の珠とおがらの灯ほどの差があるからね。照らすという意味じゃ一緒でも、これじゃ性質がまるで違う。

 

こんな性悪、荀彧や程昱辺りと一緒にまとめとけばいいよ。

 

 

うーん、相変わらず所々で核心はつきながらも、「やっぱり単に嫌いなだけじゃねーか」と突っ込みたくなる言い分……

 

 

 

ともあれ、こういった軍師や謀臣は、時に黒い事にも手を染めたり、我が身を知略で守らなければならないのもまた事実。

 

頭脳に頼ったやり方が単に卑怯で根暗に見えてしまう点、そして李傕たちの配下という点でマイナス感情を歴史家に与えてしまう点は、避けようもない事実なのかもしれませんね。

 

当時でも、日食が起きたのは賈詡のせいだという滅茶苦茶理論で罷免を上奏されたりもしていますし……。

 

 

 

ちなみに孫子や呉子の兵法編纂にも手を付けていたようですが……これは『隋書』経籍志にある話。まったく時代の異なる読み物の記述なので、どうにも影が薄いです。

 

 

 

【賈詡伝2】魏軍の神算アドバイザー   【賈詡伝2】魏軍の神算アドバイザー   

 

 

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続きを読む≫ 2017/12/08 15:48:08

 

 

 

 

 

 

西涼のサバイバル策士

 

 

 

天才策士・賈詡の若かりし日は日の目を見ることもなく、誰も彼を評価することはありませんでした。しかしそんな中、閻忠(エンチュウ)と言う人だけは、賈詡を「古の天才軍師に匹敵する」と高い評価をくだしていました。

 

そんな彼もいつしかとうとう儒教の人格者のみが受けられる推薦枠・孝廉に選ばれて役人となったのですが、折悪くも病気にかかりそのまま引退。

 

 

結局まったく振るわないまま、賈詡は西方の故郷への帰路に就きますが……ここで大変なことが起こってしまいました。なんと漢に反乱を起こしていた氐族(テイゾク)の一派とたまたま遭遇。賈詡と行動を共にしていた同行者数十人と一緒にそのまま囚われてしまったのです。

 

 

この異民族の反乱組織に次々と殺されていく同行者たち。結局この同行者たちは皆殺しにされましたが、その中で賈詡だけは難を逃れたと言われています。

 

 

というのも、賈詡はこの異民族の面々に対し、当時異民族の間で畏怖されていた段熲(ダンケイ)と言う人の親族を自称。

 

当然、詐称のハッタリだったのですが……これが氐族の面々には効果覿面。賈詡の発言を信じた氐族は、彼を殺すのを取りやめ、逆に丁重に扱って賈詡だけを送り返したのです。

 

 

命の危機に瀕してこの冷静さ。これが賈詡が優れた策士である所以なのですね。

 

 

 

 

その後どこからか董卓(トウタク)に仕えたようで、彼が洛陽に入って実権を握ると太尉掾(タイイノエン:太尉の属官?)のまま平津都尉(ヘイシントイ)となり、さらに討虜校尉(トウリョコウイ)へと栄転しています。

 

校尉と言えば数千単位の兵を指揮する高級武官ですが……賈詡はどうにも、董卓からの心証はかなり良かったようですね。

 

 

 

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泥沼サバイバル

 

 

 

賈詡はそれからしばらく董卓の娘婿である牛輔(ギュウホ)の軍にいましたが、そんな中董卓が暗殺され、さらには牛輔までもが殺されてしまったのです。

 

 

さらには董卓死後の長安では董卓暗殺を企てた王允(オウイン)らを中心に「涼州の軍兵は蛮族!涼州人は皆殺しだ!」という気も高まっており、進むも退くもままならない始末。

 

 

そんな中、董卓軍残党の李傕(リカク)、郭汜(カクシ)、張済(チョウサイ)らは危険を感じて、軍を解散し故郷へ帰ろうとします。

 

 

が、賈詡はそんな彼らを呼び止めて、ある提案をします。

 

 

「このまま単独で逃げ帰っても、各個にひっ捕らえられ、処刑されるだけです。それならば、処刑活動におびえる兵士たちを先々で集め、長安を占拠しましょう。

 

上手くいけば天子様を奉戴し、天下に号令するのがよし。逃げるにしても、この策が失敗してからでも遅くはありますまい」

 

 

 

賈詡のこの言葉を聞き、李傕らは覚悟を決めて長安を攻撃。なんと、そのまま長安を攻め落とし天子を奉戴、さらには反涼州を掲げていた名士らの一網打尽に成功したのです。

 

長安攻略に成功した功績により、賈詡は左馮翊(サヒョウヨク:長安一帯の官吏の管轄)の地位に就任。李傕らは賈詡を命の恩人として、さらに爵位を与えて侯に封じようとしましたが、当の賈詡はこれを辞退。曰く、「生き延びるために計略であって、たたえられる類のものではありません」とのこと。

 

 

ならばと尚書僕射(ショウショボクヤ:官吏の考課、文書の開封や金銭・穀物の受納を取り仕切る事務官。尚書台の副長官)の地位を与えようとしますが、これも「私にその仕事を行えるだけの名声はありません。さすがに勤まらない職に就くのはちょっと……」とまたもや辞退。

 

 

 

 

結局は尚書(ショウショ)として官吏選抜という役どころに落ち着きましたが、どうにもこの辺りから李傕らとの仲もぎくしゃくし始めた様子で、本伝では「賈詡を信任しつつも内心恐れていた」とあります。

 

もっとも、『魏書』では涼州閥の面々が衝突しかけた時に仲裁をして、間を取り持ったとあり、本当にどこまで疑念を抱いていたかはわかりませんが……

 

 

ともあれ、こうして賈詡と涼州軍閥の面々の関係が冷えていったある時、賈詡の母親が病没。そのため賈詡は喪のために官職を辞し、光禄大夫(コウロクタイフ:顧問応対の仕事だが、ほとんど名誉職)を拝命し、李傕らの元を去ることになりました。

 

しかし後に、これまで賈詡のとりなしで仲間割れせずにすんでいた李傕と郭汜の仲がついに決裂。戦力を欲する李傕は賈詡に宣義将軍(センギショウグン)の地位を与え、復帰を請う始末。

 

 

後に李傕らはなんとか和解することになりましたが、そんなサバイバルな環境にいては大変だという事で、帝は長安からの脱出を決意、そのまま逃げてしまいました。

 

『献帝紀』によると、この時李傕が脱出する帝の軍を追撃。そのまま打ち破り、捕らえた大臣らを処刑しようとしたそうです。が、ここで賈詡が、「この者らは天子様の大事な家臣です」と諫めたことで李傕はようやく思いとどまり、大臣らの命が救われたとあります。

 

 

 

さて、こうして帝を助けた賈詡でしたが、これにより長安にいることもできなくなり、新たな君主を探すことにします。

 

 

この時、賈詡が目を付けたのが、同郷出身者の段煨(ダンワイ)。

 

しかし段煨は表向きは賈詡を丁重にもてなしながらも裏ではその力を怖がっており、「いつか俺の立場が奪われる」と思っていたとか何とかで。

 

 

このため賈詡の方も不安になり、また別の主君を探すことに。そこで賈詡が探り当てたのが、今後自身の魂の主君の一人となる張繍(チョウシュウ)だったのです。

 

 

 

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張繍の頼れる策士

 

 

 

さて、こうして張繍という新たな主を担ぐ決意をした賈詡は、とうとう段煨の元を離れることにしました。

 

そんな折、ある人物が「あんなに厚遇されてたのに、どうして?」と不思議そうに賈詡に質問しました。その問いに対する賈詡の答えが、以下の通り。

 

 

「確かに今は厚遇されていますが、同時に段煨は私を警戒しています。そんな状況下であれば主従関係は長く続きませんし、遠からず私は命を狙われるでしょう。

 

私がこのまま立ち去れば段煨としてもうれしい事でしょうし、私がいつか強力な支援者を後ろ盾にすることを予測して、置いて行った妻子をしっかりと厚遇してくれるはず。

 

対し、張繍は知者が足りておらず、私を必要としているはずです。私も温かく迎えられ、妻子の身も安泰というならば、こうしない手はないでしょう」

 

 

 

こうして賈詡が本当に張繍の元に鞍替えすると、張繍は賈詡を心から遇し、段煨も賈詡の残した妻子の世話をしっかりするようになりました。まさしく、賈詡の予言通りの結果となったのです。

 

 

さて、こうして張繍軍に身を寄せた賈詡は、まず付近の群雄である劉表(リュウヒョウ)との同盟を提案、無事にこれを締結。

 

 

『傅子』では賈詡自らが同盟のために劉表と会い、さらには「猜疑心が強く洞察力と決断力がない。平時なら大身になれただろうが、乱世では何もできないだろう」と予見したとか何とかとありますが、真相はいかほどか……。

 

 

さて、その後曹操(ソウソウ)によって張繍征伐の軍が展開され、後の魏の国主となる曹操と開戦することになりました。

 

 

 

さて、曹操と一戦を交えていたある時、対峙していた曹操軍は突如として撤退しました。

 

この動きに対して賈詡は「追撃してはなりません」と制止しますが、張繍はすぐさま曹操軍を追撃、手痛い敗北を喫してしまいました。

 

 

こうして大敗北を喫した張繍軍でしたが、賈詡は負けて戻ってきた張繍に驚きの献策をします。

 

 

 

「もう一度、今すぐ曹操軍を追撃しましょう」

 

 

 

「何故?」と眉をひそめる張繍でしたが、賈詡は「戦いは変幻自在です」と返答。そこで張繍がもう一度攻撃したところ、今度は一転して大勝利を得たのです。

 

 

後に改めて張繍が「どうしてか勝てたのか」を質問すると、賈詡から帰ってきた答えは以下の通りのものでした。

 

 

「将軍は戦上手でおられますが、曹操はその上を行きます。撤退の折、曹操は自ら指揮を執るそうな。そこで、将軍が最初に攻めた際は曹操自身の采配で撤退が行われていたに違いありません。

 

しかし将軍は一度敗北し、それによって曹操自身は撤退していきました。おそらく今回の陣払いも、国内で何かあってのことでしょう。

 

そこで私は、曹操がいなくなった敵軍の攻撃を、将軍に献策したのです」

 

 

 

つまるところ、曹操の撤退の真意を予見し、さらに張繍が敗北したことで曹操不在を見抜き、その上で勝てると踏んだというわけですね。自他の将器や敵の状況を看破した策、これが賈詡の鬼謀の所以なのでしょう。張繍もこれには驚き、賈詡の才覚に心底感服したとか。

 

 

 

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そして建安2年(197)には、張繍共々曹操に降伏。しかし張繍の叔父の妻を曹操が溺愛し、さらには張繍を暗殺しようという動きを見せたため、結局張繍は叛逆を決意しました。

 

ここでも賈詡は張繍のために計画を練って進言し、曹操の不意を突いて奇襲し、曹操の息子や甥、さらにはボディガードの典韋(テンイ)らを討ち取るなど窮地に追いやることに成功します。が、ここで曹操を逃がしてしまったことで、以後も対曹操の戦線が続くことになります。

 

 

 

さて、ここから曹操は勢いを盛り返して張繍軍を幾度も攻撃してきますが、張繍はその都度撃退に成功します。

 

 

が、そうこうしている間に、曹操は北の袁紹(エンショウ)との衝突が裂けられなくなり、両者の関係は緊迫状態に。そんな折に、袁紹は味方を増やすべく、張繍にも自身に味方するよう使者をおくってきました。

 

 

当然、ここまで反曹操の動きを示していた張繍は袁紹について行こうとしますが、なんと賈詡はこの使者を追い返し、袁紹との仲を決裂させてしまいます。

 

 

「じゃあ誰に頼ればいいのか」

 

 

頼れる軍師に生存の道を潰された張繍は途方にくれますが……ここで賈詡が導き出した張繍の同盟相手は、なんと怨敵ともいえる曹操だったのです。

 

 

 

曰く、「袁紹は強大で、正直味方にありがたみなんて持っていないから冷遇されるでしょう。しかし曹操袁紹と比べて勢力は小さく、非力です。だからこそ味方を必要としており、その傘下に加わるならば非常に喜ばれるでしょう」とのこと。

 

 

袁紹とは決裂し、後ろ盾の劉表も袁紹派。他にどうすることもできなくなった張繍は、賈詡の予言通り再び曹操に降伏。

 

すると曹操は、一転して大喜び。張繍と賈詡の手をそれぞれとって喜びを表し、賈詡を執金吾(シッキンゴ:都の警備の元締め)にし、張繍も将軍職が与えられたうえ娘を曹操の息子に嫁がせるなど一族に迎えられるなど、破格の待遇を得たのです。

 

 

 

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