王淩 彦雲
生没年:建寧5年(172)~嘉平3年(251)
所属:魏
生まれ:幷州太原郡祁県
王凌(オウリョウ)、字は彦雲(ゲンウン)。揚州戦線の隠れたエキスパートで、政治も戦争も人並み以上にこなせるという非常に優れた人物でした。
しかし、後に三国志の勝者という立ち位置に収まる司馬懿(シバイ)に喧嘩を吹っ掛けて敗北したという事実から、それ以上に「司馬一族に逆らった愚かな反逆者」という立ち位置に置かれている人でもあります。
都合上史書には「悪人」のような立ち位置で出ていますが……司馬懿に対する世評は、まさに王凌が反逆に踏み切った理由そのもの。
今回は、そんな司馬一族に対する数々の叛逆のトップバッターである王凌の伝を追ってみましょう。
スポンサーリンク
長安動乱
王凌の叔父は王允(オウイン)といって、董卓(トウタク)を暗殺した首謀者の一人でした。
王允が司徒(シト:民政大臣)に昇進し、董卓派に属する官僚やその兵士らを軒並み粛清、あるいは追放。完全に近い形でクーデターを成功させ、政権の中枢を掌握することに成功。
しかし、董卓とて当時の英雄の一人です。遠征軍を率いて東に出ていた董卓子飼いの将軍らが、これを良しとするはずもありませんでした。
なんと、董卓配下の将軍らは王允らの拠る都・長安(チョウアン)を急襲。主の仇討ちとして王允の一派を皆殺しにし、その一族の命もすべて刈り取ろうと目論んだのです。
王凌らも董卓軍の残党に命を命を狙われていましたが……なんと、兄と共に城壁を乗り越えて脱出。この大胆な逃避行は無事に成功し、王凌らはなんとか故郷に生きて帰ることが出来ました。
その後、成長した王凌は孝廉(コウレン:地方推挙)に推されて小さな県を治めるよう言われます。しかし、その才覚で徐々に頭角を現し、最後には中山(チュウザン)太守にまで昇進。
どこに行っても立派な業績を上げていた王凌の噂は当時丞相(ジョウショウ:総理大臣)であった曹操(ソウソウ)の耳にまで届き、彼に召し出されてその属官に任命。以後、王凌は曹操軍の一因として動くことになったのです。
ちなみに『魏略』では、曹操に召し出される瞬間のエピソードが書かれています。
王凌は事件に巻き込まれて罪を問われ髠刑(コンケイ:髪を剃る罪。当時髪は親からの授かりものとして、切るのは御法度とされていた)に処され、5年間道路の清掃を言い渡されていました。
そんなある日、曹操はたまたま王凌と鉢合わせし、「誰だあいつ?」と興味津々で属官に訊いたのです。
そこで王凌の話を聞いた曹操は「王允の甥が罪とな。まあ、おおよそ公事に巻き込まれたといったところだろう」と解釈し、そのまま王凌を召し抱えたのでした。
スポンサーリンク
文武両道の士
王凌が本格的にその力を発揮し始めたのは、奇しくも曹操が亡くなり、曹丕(ソウヒ)がその後を継いだ時でした。
魏帝国が建立されると、王凌は散騎常侍(サンキジョウジ:皇帝の側近)となり、同時に兗州(エンシュウ)の牧……つまり長官として朝廷の外を任地にしたのです。そして同時に、孫権(ソンケン)の攻撃に対する備えの一角としてもその活躍を期待され……軍事的な才覚もこの時から派手に開花していきます。
黄初3年(222)、王凌は張遼(チョウリョウ)らと共に孫権討伐に参加。
奇しくもこの時、夜中に大嵐が発生し、敵将呂範(リョハン)能力船が魏軍の陣地近くまで流れ着いてしまいました。王凌はこれをチャンスと、諸将と連携して総攻撃。呂範軍を壊滅に追いやる大手柄を挙げたのです。
結局はこの遠征は失敗に終わりましたが……王凌はこの時の手柄が認められて建武将軍(ケンブショウグン)に昇格し、宜城亭侯(ギジョウテイコウ)の爵位も拝領して魏の軍中枢にも入り込むほどの大権を得たのでした。
また、次には動乱の影響で荒れ果てた土地も多い青州(セイシュウ)に転任。王凌はまだ魏の政治が行き届いていない海岸沿いの辺境にまで手を出し、法令やインフラの整備を開始。
信賞必罰の姿勢で未開の土地の規律を正し、多くの民衆の人気を得たのです。
その後、今度は曹休(ソウキュウ)に従って対呉戦線に復帰。いわゆる石亭の戦いと呼ばれる負け戦によって曹休軍は大損害を被りましたが、王陵はこの時も敗勢の中奮戦する諸将の一人として活躍します。
王凌はじめ多くの将兵の奮戦の結果、死地に入って窮地に陥った曹休はなんとか戦線を脱出し、事なきを得たのです。
この戦いが終わって守勢に入ると、今度は王凌も揚州(ヨウシュウ)、豫洲(ヨシュウ)、そして兗州と州の内政に着手しましたが、やはりそこでも見事な統治と民心掌握を行ったとされています。
スポンサーリンク
揚州の大ボス
正始元年(240)、王凌は満寵(マンチョウ)の後を継ぐ形で揚州方面の諸郡を取りまとめる都督となり、位も征東将軍(セイトウショウグン)へと格上げされました。
その翌年には呉軍が魏に総攻撃を開始し。揚州方面にも敵軍の名将・全琮(ゼンソウ)が数万の軍勢を率い、魏の防衛拠点であった合肥(ガッピ)を無視し、後方の芍陂(シャクヒ)に攻撃を仕掛けてきたのです。
しかもこの時、合肥以外への攻撃を予期せず高をくくっていた魏軍は折悪く兵士に休養を与えている最中という、狙ったかのような最悪のタイミングでの後方奇襲。全琮はこの時、堤防を決壊させたり圧倒的少数の守備部隊をもみくちゃにしたりとやりたい放題の有様でした。
王凌はすぐに休暇中の兵を呼び戻して軍を編成し、圧倒的寡兵で芍陂を死守している孫礼(ソンレイ)という将軍を救援。堤防をめぐって何日も奮戦し、無理を通して押し進んできた呉軍を圧倒。結果的に全琮の軍を撃退し、この窮地を凌ぎきりました。
その後王凌は大きく位を上げ、元帥レベルの将軍である車騎将軍(シャキショウグン)に昇格し、そして南郷侯(ナンキョウコウ)の爵位と膨大な領地、さらには政治において大臣クラスのポストを用意されるという大変な待遇を受けることになったのです。
この時、甥の令狐愚(レイコグ)なる人物も兗州刺史としてその一帯を治めており、呉との境界線である魏南東部の権力はほぼ王凌らが掌握するという大変な権力を誇る1大勢力、そして魏呉戦争の主戦力の一角として王凌は期待されていたのです。
その期待もあってか、王凌はその後も司空(シクウ:法務大臣)、さらには曹爽(ソウソウ)の失脚に合わせて太尉(タイイ:防衛大臣)に昇進。非常に思い軍権を意味する節鉞(セツエツ)を授かるまでに至っていました。
しかし、曹爽の死によって魏の内部は司馬一族が掌握。これを危惧していた王凌は……80という高齢にもかかわらず、最後の大勝負にでることにしたのです。
反乱、そして死
王凌は司馬一族の権力の大きさを得て、あるとんでもない考えを胸中で抱いていました。
「今の帝はまだ若すぎる。これでは司馬一族に乗っ取られてしまうのも時間の問題だろう」
そのため、実のところ、令狐愚と共に魏へのクーデターを計画。年長で才気ある曹彪(ソウヒョウ)を新たに帝に据えようと、令狐愚と共に曹彪に接触。令狐愚はその途上で病に倒れてしまいますが……呉軍が怪しげな動きを見せた瞬間、ついにその牙を司馬懿に剥いたのです。
王凌は非常事態宣言を諸将にすると、敵軍討伐を朝廷に上奏。しかし司馬一門の牛耳る朝廷は王凌を警戒し動きを見せず……王凌は仕方なく、次善の策として共謀者を得ようと、味方になってくれそうな人物に声をかけることに。
しかし、その行動はすでに司馬懿には筒抜けだったのです。司馬懿はこの時王凌から声をかけられた黄華(コウカ)という人物の密告を聞くと、すぐに王凌討伐の軍を進発。さらには司馬懿の側についた息子・王広(オウコウ)からの勧告を受け、結局反乱は失敗。何もできないまま降伏するという屈辱の結果に終わりました。
王凌は司馬懿に「反逆の罪を赦す」と言われ、一応は洛陽に送還されることになりましたが……その途上で無念を抱えて服毒自殺。
司馬懿の側もやはり許すつもりはなかったのか、王凌亡き後、反逆に加担した者やその一族を処刑。皇族である曹彪までも殺されてしまい、より司馬一族の隆盛は強まることになったのです。
スポンサーリンク
人物評
三国志を編纂した陳寿からは、王凌は以下のように評されています。
高い風格と志節を有していたが、向こう見ずな事変によって一族の名を汚してしまった。
やはり司馬一族の血を引く晋に仕えるからこそ彼を悪人として書いたという側面もあるのか、「判断力が狂っていたのではないだろうか」とまで扱き下ろされています。
しかし当時の司馬一族は、司馬懿本人がどう思おうがすでに専横と乗っ取りの路線を行っており、おおよそ当時の周辺の意見にも反司馬懿の見識は少なくなかったのかもしれません。
注釈で載せられた『通語』という呉の資料では、蜀の費禕(ヒイ)が司馬懿のクーデターに関して以下のように述べています。
「曹爽がひどいのはわかるしその通りだが、司馬懿のやり口も度が過ぎている」
すでに司馬懿が暴挙とも言える手段に出て簒奪者としての道を進んでいるのを、見抜いているともとれますね。
とはいえ、王凌自身に野心がなかったとも言い切れません。実際に皇帝のすげ替えという叔父が殺した董卓と同じようなことをやろうとしていますし、まあ甘く見積もっても完全に無私の心で反逆したとは言い切れないでしょう。
司馬懿の兄である司馬朗(シバロウ)やその一族に尽くした賈充(カジュウ)の父である賈逵(カキ)とは大変仲が良かったと史書に描かれていますが……彼の運命の歯車はいったいどこで狂ったのでしょうか?
関連ページ
- 曹操
- 三国志の主人公と言えば、一般的には劉備が思い浮かばれるかもしれませんが、正史基準に考えてマジで答えを出すなら、この人こそ主人公にふさわしいと言えるでしょう。
- 曹丕
- 魏の初代皇帝は実はこの人。悪ふざけが過ぎたりする辺りやはり曹操の子ですが、こちらはおふざけの質が心理攻撃に偏っているためドS王子と呼ばれることに……
- 曹叡
- 別名・土木の鬼。宮殿を大量に増設して国の財政を傾けた暗君みたいに言われることもありますが、それは貧民層に仕事を与えて救うための政策という説も……
- 卞氏(武宣皇后)
- 貴賤でいえば「賤」に属する身分の人でしたが……曹操は才女を見つけるとそんなものお構いなしにかっさらうのです。実際、よくできた人だったんだなと。
- 曹彰
- 本当はもっと下の方に伝が記載されている人物……。曹操の息子の中で、武勇ひとつのみを、それもかなり色濃く継いだ人物です。
- 曹昂
- 死んで孝行息子となった長子。その実力は史書からは計れず未知数……
- 夏侯惇
- 魏の重臣筆頭格。曹操軍のメインヒロインです。
- 韓浩
- 屯田制で有名な人。他にも何人も携わっていますが、彼ばかりが有名に……
- 史渙
- 曹操軍初期の勇将……なんだがどうにも影が薄い……
- 夏侯淵
- 別名・白地将軍。これは蔑称だから敬意を表してこう呼んじゃあかんよ。
- 曹仁
- ( ゚∀゚)o彡゜てっぺき!てっぺき!!
- 曹純
- 曹仁の弟で、曹仁伝のついでに記述あり。 文句なしの名将……のはずなんですが、活躍期間がネック……
- 曹洪
- ドケチでがめつい人。ですが、忠義に厚くここ一番で魅せてくれる頼れる人物です。
- 曹休
- とうとう無双最新作にも出演が決まりましたね。無能脱却なるか?
- 曹真
- ハイパーチートデブ。人知勇すべてを持ち合わせる贅沢ぶりは、まさに将の中の将。 息子が残念なことでも有名です。
- 曹爽
- 豚になったさわやかさん
- 鄧颺
- 曹爽の取り巻きその1
- 丁謐
- 親父はそこそこ面白い人なんだけど、この人は……いや、司馬懿に喧嘩吹っ掛けたんだから大したものか。
- 畢軌
- みんな大好き曹爽軍団の一員だよー
- 何晏
- ヤク中にして仲間を見殺しにしようとする外道、そのくせ文学の才能は随一と言えるほどに突出……なかなか面白な人物です。
- 李勝
- 名前通りにはいかなかったよ
- 桓範
- 曹爽の取り巻きで唯一まとも・・・と思ったらDVの逸話があったでござる。
- 夏侯尚
- ヤンデレ感漂う曹丕のマブダチ。
- 夏侯玄
- 優秀な外戚の人材なんですが……下手に人望があり過ぎても自滅するんだなって……
- 荀彧
- 穏やかで頭が良く、漢室への忠誠心の高い宰相…………と思っていたのか。
- 荀攸
- 打つ手に失策無し。賈詡と共にそう評されたガチ軍師。この人は戦場で策を練っている方が強く、むしろそういう仕事が専門だったのでしょう。脳筋絶対殺すマン。
- 賈詡
- 三国志の最優良軍師の一人。暗黒……?
- 袁渙
- 袁紹らと同族、つまり名族!
- 張範
- なんつーかニート。すっげえニート。立派な人ですがニート。
- 涼茂
- 暴君相手に啖呵切って諫めた人。でもこの話の信憑性は微妙な物で……
- 国淵
- 史書の記述に大穴を開ける正論屋。俺この人好きやww
- 王脩(王修)
- 田疇はしばしば胡散臭いと言われますが……この人の忠義が胡散臭いとケチをつける声はまず聞きません。すげぇよ……仕えたのは袁譚なんだぜ。
- 田疇
- ぶっちゃけ独立勢力でしょ、この人。
- 鮑信
- 曹操は後漢末の乱世において天下を統一寸前まで平定した英傑。その前半生で彼を評価した人物は数少ないですが、やはり見る人は見ているのです。
- 鍾繇
- 鍾会の親父さん……ですが、それ以上のアピールポイントが山ほどあるのに目立たないのが不思議だなと思いました。山椒。
- 華歆
- 正史では持ち上げられすぎなくらいの聖人君子、演義ではどうしようもないクズ。落差が激しすぎやしませんかね←
- 王朗
- ただの国賊扱いとか遺憾でござる
- 程昱
- けっこう有名どころですが、やはり知名度はまだ二流。 ガチムチの、気骨あふれるおじいさん。
- 郭嘉
- 天才軍師。そこに何らかの間違いがあるわけではありませんが……傅子の誇張表現どうした←
- 董昭
- 演義ではベジタリアン。本当この人って暗黒よね。なんだかんだいい人っぽい感じもするけど。
- 劉曄
- こっちはガチな皇族。にもかかわらず人を殺したりアグレッシブ!
- 蒋済
- キレッキレ酔いどれ軍師。この手の策士や謀臣はどうにも情に薄いとか心無いとかそういう印象を受けますが……この人を見ればその先入観も薄れるはず。
- 劉馥
- 短歌行で反発して斬られた人物として有名ですが、それは演義のお話。正史だと、「トンデモな能力を持った名政治家」の一人として、ひっそりと歴史に名を馳せてます。
- 温恢
- 合肥の緩衝材にしておそらく軍事の専門家。
- 賈逵
- かきふらい
- 李孚
- 袁紹軍の文官で、後曹操軍に。こんなマニアックな人物、誰が知ろうってんだよ……
- 任峻
- 屯田政策試用の実行者。扱いは武官でいいのかな?
- 杜畿
- 激流に身を任せどうかしてしまった結果亡くなった人。つまり死因:溺死。報われねぇ……
- 倉慈
- ネットで検索すると、大抵「掃除」に関するあれこれが出てくるような人。政治家としては、「恐れられながらも敬愛される」という最高の資質を持った辺境伯です。
- 張遼
- 魏の中でも最強クラスのレジェンド。
- 楽進
- ちっちゃい突撃大将。最近無双シリーズにも顔を出しましたが、それまではどうにも地味。しかし、魏でも五本指に入る大将とも言われた武将で、その実力は折り紙付きです。なお資料の少なさ……
- 于禁
- スミマセン、擁護のためとはいえ、記述と比べてもいろいろ書きすぎました……
- 張郃
- 無双だとなぜか美しい人。武官で食邑4300戸ってすごくね?
- 徐晃
- 用意周到な無敗の将軍。この人のやってること、再現しようとすると気が遠くなりそうです。
- 朱霊
- 不遇の歴戦武将。徐晃伝に彼の伝が付伝されていますが、載っている事績は失態だけ。活躍はまったく別の人物伝ばかりという。なにこれ、いじめ?
- 李典
- 無双では勘の人、三國志シリーズではハイバランスながら凹凸のないフラットな能力。武官だけど学者志向。そんな人。
- 李通
- 魏が誇るTHE・勇将の一人。なんか魏って猛将タイプの影薄いよね。
- 臧覇
- どっかで「めっぱ」とか間違って読まれてた人。 まあ、マイナーだから仕方ないね!
- 孫観
- 臧覇の部下代表。
- 文聘
- ブンペイペーイ(゚Д゚)
- 呂虔
- これまたマイナーどころ。名太守です。
- 許褚
- ゲームではだいたいほんわか癒し系。
- 典韋
- どのゲームでも人情派の荒くれとして出るゲームですが、実際の出自もそんな感じだったとか……。なおスキンヘッドだったかどうかは不明。
- 龐徳
- ヘッポコ于禁との対比として祭り上げられる勇将。
- 王粲
- 三国志の文学者代表格。前半生がブサメンの悲哀を物語っている……
- 桓階
- 正義のためなら伝統も破る。不義理のイメージをとことんぶち壊す帝王擁立論者です。
- 陳羣
- 謹厳実直なエリート官僚ですが、九品中正法や曹操への物騒な提案などから、腹黒な食わせ物の可能性が……
- 楊俊
- やる気のないニート・司馬懿の実力を見抜いた眼力の持ち主。
- 趙儼
- まったくと言っていいほど目立たないものの、曹操軍の影の柱石と言ってもいい大人物。
- 孫礼
- 猛獣狩りと孤軍奮闘に定評のある人物。というか孤立無援の中戦うとか虎を徒歩で追い払おうとするとか、本当何なんこの人。
- 満寵
- 誰かがこの名前をオンラインゲームで名乗っていた時、三国志ファンを名乗る腐女子から「卑猥な名前をつけるな」と怒られたことがあるらしい。なぜだ。
- 田豫(田予)
- 北方にて異民族と戦い続けた定住型傑物。陳寿も 「あの程度で終わる人間じゃないだろ」と述べていますが……
- 牽招
- 田豫に次ぐ北方エキスパート。この人も地味に劉備と関係持ちなのね……。というか、この人も大概モーヲタなのが面白いです。
- 郭淮
- 魏軍きってのピンチヒッター。しかし病気には弱いようで、大事な局面で二度も……
- 徐邈
- 酒、聖人、酒ェ!!
- 毌丘倹
- 連鎖反応に巻き込まれての反逆、処刑。おまけに名前が覚えにくいから覚えても貰えない。何とも不遇な……
- 鄧艾
- 吃音で有名ですが、たぶんアスペルガーも併発してたんじゃないかな?
- 薛悌
- 誰この人と思って調べたら普通に傑物だったでござる
- 閻行
- 人物伝第一号がまさかの超マイナー武将。 「こいつ誰だよ」って人も多いでしょうが、実はとある有名武将を一方的に叩きのめしたことも……
- 殷署
- 微妙に強そうな人……だし実際に大物くさいが、記述は……うん。
- 棗祗
- 屯田は大反対の嵐で曹操自身も難色を示したのですが、一部部下が強固に主張したので結局実行、思いがけない成果を上げました。棗祗は、特に強固に主張した人物ですね。
- 高祚・解𢢼
- 正直、ただの一発屋。人物伝の主役に取り上げるのも同化という人物ですが、面白いのでやります。
- 師纂
- 彼が悪なのか鄧艾が悪なのか……