董卓 仲穎


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董卓 仲穎

 

 

生没年:?~初平3年(192)

 

所属:他

 

生まれ:涼州隴西郡臨洮県

 

 

勝手に私的能力評

 

董卓 暴君 羌族 危険人物 梟雄 英傑 暴虐 ジャイアン 破壊

統率 S- 自分の利益に関わらない戦いでは負けが多いが、本気で戦うと明らかに強い。荒くれの雍・涼州人をまとめ上げるカリスマの持ち主で、反乱王・韓遂も彼の政権下では反乱を自重した。
武力 A+ 両手で騎射とか何事。他にも暗殺者に素手で応戦し、腹を刺されながらもくびり殺してしまったという信じられない逸話もある。
知力 A- 演義での軍師・李儒は、正史ではただの毒殺犯にすぎない。つまり、董卓軍の作戦はだいたい董卓の意向によるものと考えられる。
政治 E 外交では諸侯を敵に回し、内政では悪銭を流行らせてインフレスパイラルを引き起こし……まあ、政治力は無かった。
人望 D 涼州出身者や異民族、一部の親董卓派の名士からの受けはよかったが、それ以外は後世の評も含めてほぼ壊滅。カリスマ性はあったが、やる事が過激すぎた。

 

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董卓(トウタク)、字は仲穎(チュウエイ)。三国志でも随一と言われる暴君として知られる人物ですね。

 

その横暴たるや天意を意のままに捻じ曲げ、名士らを退け、無辜の民を苦しめた挙句正義の軍団に敗北し、反乱で死んだ人物……そんな評が、彼に対する一般論かと思われます。

 

当然、これらは火のないところに立った煙という訳ではなく実際に正史にも書かれている内容なのですが……本伝を読んでいくとそんな薄っぺらな悪党ではなく、もっと厚みと独特の魅力のある人物であるように思えます。

 

 

……まあ、それでも暴君であることに変わりはないのですがね。

 

 

 

 

 

 

董卓の人物評

 

 

・野心を隠す気も無い

 

・儒教などクソ食らえ

 

 

 

とまあこんな価値観の持ち主だったのは本伝を見ても明らかなようで、どこまでが史実かは不明なものの、董卓の破壊と専横は留まるところを知りませんでした。

 

当時の漢帝国は、儒教を最重要視し、上下関係と礼儀、そして清廉さが特に求められる時代。董卓のようなギラついた野心の持ち主とはとことん相容れず、そのため必要以上に悪く書かれてしまうのも道理のように思えます。

 

極めつけは、正史にも以下の評をあてがわれています。

 

 

 

捻くれ者で残忍横暴な、歴史上でも類を見ない非道な人物だった。

 

 

 

 

しかし、一方で彼の人格を表すこんな記述もあります。

 

 

若かりし日、董卓は戦功として絹を大量に賜ったが、それらをすべて部下に分け与えてしまった。

 

一説には、この時「手柄を立てたのはわしだが、実際に動いたのは兵どもよ。ならば恩賞は兵どもの物であると言ってもよかろう」等と言い放ったともあり、一概に強欲で「自分だけが良ければそれでいい」という人物ではなかったことが伺えますね。

 

 

 

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董卓の武勇

 

 

 

 

董卓はでっぷりとした肥満体だったようで、とても運動ができるようには見えませんが……やはり辺境の涼州出身。武芸はかなり達者だったようです。

 

 

類まれな腕力を有しており、弓袋を二つひっさげ、馬を疾走させて左右から矢を射ることができた。

 

 

つまり、騎馬民族との隣接地らしく、弓馬の扱いにはかなり長けていた模様。いわゆる動けるデブ?

 

 

 

また、戦争が弱いから雑魚という評価もしばしばありますが……この辺は気まぐれな董卓のやる気次第といった部分が大きいように思えます。

 

自分の利害や直属の配下が絡まない戦いでは極端に弱いものの、ひとたび利害に直接影響を及ぼす状況になれば、途端にとんでもない爆発力を発揮する……みたいな。

 

 

まあやる気によってかなりのムラがあるのはアレかもしれませんが……やはり戦争における能力は名将と呼べる条件を十分に満たしているのではないでしょうか?

 

 

 

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何故暴虐に至ったのか……

 

 

 

当然、元々その気配と野心があったのは事実です。……が、董卓ははじめからいきなり強権を握って一気に政治を独占しようとしたわけではないのでは、と個人的には思う部分があります。

 

 

というのも、最初のうちは家格の高い名士らを高官に当てて、漢室の政治体制を整えようとしていた節が見えるのです。

 

 

他にも、自分の元から逃げ去った袁紹(エンショウ)をそのまま渤海(ボッカイ)の太守に任命する、名士層の言う事を聞いて、その推薦通りに人事を行うなど、少なくとも最初のうちは言う事を聞いておこうという様子が見えますね。

 

 

……が、そんな「従順なしもべ」になり切っていた董卓には、いくつか誤算がありました。

 

 

それが、自分が「蛮族」と蔑まれている異民族との混血で辺境田舎の涼州の出身、「こんな奴が天下を握るとかありえない」と考える名士層が多数だったこと。そして、これまで見せてきた野心の片鱗を、既に嗅ぎつけてしまった者も複数いたことです。

 

 

慣れないことをしているうちは、どうしても不満を抱きやすいのが人間です。

 

「ちゃんとしていたのにこの仕打ちかよ!」

 

と、そう思った董卓は、信任していた名士を斬殺。そして、ここからは「裏切り者しかいない」とばかりに殻に閉じこもっていったのかもしれません。

 

 

野心を否定する「儒教精神」と家柄や出身地を重視する「漢民族至上主義」は、董卓の予想をはるかに超えて浸透しており、それが董卓による野心を阻んだ……と、そういう見方もできそうです。

 

また、董卓も「扱いはゴミ同然の涼州出身」という自分の立場にコンプレックスを抱いており、それがモロに足かせになったことで何かが爆発した可能性も否めません。

 

 

結果、董卓はそこから逆らう者に容赦がなくなっていき、さらには焦土作戦による都からの撤退や本拠近くの長安への遷都、さらには自身の本拠地での巨大城郭の建造や極端な数の食糧、宝物の備蓄につながったのかもしれませんね。

 

 

 

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董卓の限界

 

 

 

 

武勇、そして直属配下をまとめ上げる統率力、さらには周囲を欺く狡猾さ。董卓の能力は、政治などを除くほぼすべてにおいて標準以上と見てよいでしょう。

 

 

まさに乱世にこそ輝く群雄。彼のような人間によって、既存事実の破壊と見直しがなされ、常識が覆されて時代が革新に一歩向かうと言っても過言ではありません。

 

 

 

……が、やはり、私の個人的な考えでは、董卓の限界は一介の群雄に過ぎなかったのではと思っています。

 

 

というのも、ダダ洩れの欲望と野心は、やはり忠誠と礼儀の儒教世界では受けが悪いですし、董卓はそのあたりを見落としていたと見て取れる部分が大きいです。

 

その上、家柄が最優先される時代において、異民族の血が入っているかもしれない辺境の豪族に生まれたのも董卓にとっては逆風です。

 

 

辺境と同じくゴミ扱いが当然とされる宦官の出でありながら天下に雄飛した曹操辺りと比べると、やはり董卓の地盤は弱く、そして隠しきれない野心からボロが出たあたり劣って見えてしまうのが実情。

 

 

 

董卓はどちらかというと一地方の英雄にして狡猾精強な群雄といったイメージに収まってしまい、天下を股に掛けた世界的英雄という人間ではないのかもしれません。

 

 

董卓が重視したのは、あくまで野心と自身の地元。英雄としてやっていく能力は十二分にあれど、その巨大すぎる力量と大望に、他ならぬ自分のスケールがついて行かなかったイメージがあります。

 

 

だからこそ、家柄を馬鹿にされたことがバネとして機能せず、最後は人望を掴み切れず疑心暗鬼に陥り、器を超えた能力と天下への渇望によって自滅の道を進む結果になってしまったのではないかと思ってしまうのです。

 

 

まあ、所詮は主観の戯言ですが……董卓の限界は、雍涼2州を股に掛けた、巨大勢力の英雄ぐらいが妥当だったのではないかと。

 

どちらにせよ、天下など素知らぬ顔で、群雄の争いを傍観しつつ勢力拡大を狙うのが、董卓個人の末路を考えると正解だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/01/15 13:07:15

 

 

 

 

董卓の専横

 

 

さて、実質的に天下人のような形になった董卓は、さっそく自らの望む朝廷を打ち立てるべく、名士たちを招集。意外にも初めから好き勝手をしようと動いていたわけではなく、この時は当時のしきたりや暗黙の了解に従って、家格の高い人材を多く高級官僚のポストにすげて政治体制を整えようとしていました。

 

 

が、その一方でやはりとんでもないことをやらかしています。

 

 

まず、司空(シクウ:法務の最高長官)を「長い間日照りが続いたのはこいつの不徳のせいだ」として首に追い込み、自らがそのポストに着任。

 

その後時を置かずして太尉(タイイ:軍事最高長官)になり、多くの軍事権限と一部近衛兵の動員権限を得ます。

 

 

さらには当時皇帝の座にいた少帝を廃位に追い込み、そのまま新皇帝として献帝を勝手に擁立。さらに、王位に降格した少帝をその母である何皇后ともども殺害してしまったのです。

 

その後、自らは相国(ショウコク:宰相)になり、郿侯(ビコウ)に爵位も上がり、終生の本拠地もゲット。また、朝廷内でも多くの特権を得る等、専横の姿勢を明らかにし始めたのです。

 

 

本伝にはこれの他に、民たちが祭りで集まっているのを襲撃して財貨と女をさらっただとか、宮廷の女官を暴行して回ったなどと悪逆非道の様が記述されていますが……この辺りは後世「外道の暴君」としてキャラ付けされた人物のレッテル貼りのテンプレであり、信憑性は微妙なところ。

 

とはいえ、当時の皇帝は神にも等しい存在にして、絶対的な崇拝の対象。それを挿げ替えただけでも、当時の価値観では大罪と言えるでしょう。仮に上記の逸話が嘘だったとしても、書かれてしまうのはある意味納得……

 

 

 

こういったこともあり、一気に周囲の反感を買った董卓。彼は名士層の推薦もあって多くの人材を地方の長官に任命しましたが、そのほぼすべてが自身に反逆。

 

その少し前に発足していた反董卓連合軍に彼らも加わったことにより、世評は一気に反董卓へと染まってしまったのです。

 

 

ちなみに董卓は、裏切った面々を推挙した名士らをその場で斬殺、それから反逆者の血族や、皇族の王までもを手にかける等粛清を繰り返すようになりました。疑心暗鬼に陥っていたとの記述もあり、この頃から精神的に追い詰められつつあったのかもしれません。

 

 

 

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こうなってしまっては、洛陽などいらん!

 

 

 

 

董卓連合軍は実のところやる気が薄く、諸侯は董卓討伐後に誰が覇権を握るかで水面下の争いを繰り広げていたといわれています。

 

そのため、やる気があると見られたのは、孫堅の軍勢と曹操を中心とした一派のみ。他の軍はあくまで陣にとどまり、董卓との戦いを押し付け合うような動きを見せていました。

 

 

 

が、董卓はあくまで漢から見れば辺境の田舎武者。ただでさえ支持者も直属兵も少ない上、これまでの暴政で周囲の恨みを買っている有り様で、実のところ勝利は何度かえられたもののかなりの劣勢に立たされていました。

 

 

そんなある時、董卓は一大決心をします。

 

 

「都・洛陽を放棄する」

 

 

この前代未聞の「首都放棄」を決定した董卓は、さっそく都周辺の墓陵を暴いて金品を強奪。さらには宮殿に火をかけ、民を連れて自身の本拠地である郿(ビ)が近い長安へと逃げ去ってしまったのです。

 

 

物資も人もいなくなり焼け焦げた洛陽を見た反董卓連合軍は、目標である董卓の離脱という結末に面喰い、目標を失ってそのまま瓦解していったのです。

 

 

 

焦土作戦としては大成功を収めた董卓ですが、権力の証である都を焼くという事は後世に残る更なる悪行の追加、さらには自身の天下人からの失墜を意味し、ここで董卓は天下人からリタイアし、一群雄に成り下がったと言えるでしょう。

 

 

 

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本拠地こそ最強!

 

 

 

群雄に成り下がったとはいえ、まだまだ漢王朝の中心機能は董卓の掌中。自らは太師(タイシ:帝の師)を自称し、弟の董旻(トウビン)をはじめ一族で高官で固める等、専横の気をさらに高めていきました。

 

 

さらには郿に城郭を建築。大都市にして現首都の長安と同等の高さの城壁と30年分という大量の穀物貯蔵を擁する、難攻不落の大城郭に仕上がったとされています。

 

 

ちなみに本伝では、投降者数百人を並べ、舌を切ったり手足や目玉をもいだり大鍋で煮たりといつも通りのえげつないパフォーマンスを行っています。

 

疑心暗鬼に駆られて暴走したとすれば、もしかしたら可能性もあったんじゃ……?

 

 

 

『山陽公載記』では格の差を見せつけられた皇甫嵩との確執も書かれており、皇甫嵩に対して散々粘着し続け、最後には権力で屈服させて和解したという逸話もあります。

 

 

さらには疑心暗鬼からか個人的な恨みからか、以前上司であった張温(チョウオン)を「敵である袁術と内通した」として処刑するなど、過酷な政治と多くの密告を招いた政権の様子が史書には綴られています。

 

とはいえ民政にはなかなかに力を入れていたらしく、財政立て直しのために五銖銭(ゴシュセン)を廃止して粗悪な少銭(ショウセン)を流通させたりもしましたが……まあ、元々董卓に政治センスはなかったのでしょう。結果としてインフレスパイラルを引き起こし、財政と民の生活はさらに困窮したそうな。

 

 

 

そんなこんなで強引な手法により天下人となり専横を極めた董卓に対し、いよいよ内部でも暗殺が計画されるようになります。

 

 

そして数々立てられた董卓暗殺計画のひとつには、自身が信用していた王允(オウイン)や士孫瑞(シソンズイ)、また、以前手なずけて寝返らせた呂布が共謀して行ったものもあったのでした。

 

 

 

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暴政の果て

 

 

 

ある時、帝は病を得ていましたが、無事に快癒したとのことで群臣が祝いに集合。

 

董卓もこれに参加すべく帝の元へと向かいましたが、なんと到着しても門が開かないではありませんか。

 

 

入門を阻まれ、事の次第を察した董卓。さっそく、頼りになる用心棒の呂布を探しますが、呂布もすっかり暗殺者側の味方。帝からの勅使を持った呂布にその場で董卓は殺され、父母、妻子、兄弟姉妹に至るまで三族皆殺しにされてしまったのです。

 

さらにはこの場で董卓に慌てて駆け寄った配下を含め、董卓派の面々は皆殺し。民衆は祝賀し、後に董卓を暗殺した王允らによって「涼州の人間は皆殺し」などと滅茶苦茶な布告まで出されたとか何とか。

 

 

董卓の一派として亡くなった者の中には、超一流ともいえる名士の蔡邕(サイヨウ)等もおり、この事から董卓には完全に敵対者しかいなかったわけではないようですが……やはり次代の中で負けていった暴君の最期は寂しいものがあります。

 

 

 

『英雄記』では、この後90歳にもなる董卓の母まで殺されたとか何とか。
また、董卓は肥満体型で、その死体のへそにろうそくを立てて火をつけたところ、何日も燃え続けたといわれています。

 

さらには後々董卓の旧臣が遺灰を集めて葬ったのですが、その後貯蔵庫を見ると山のような宝が積まれていたとも。

続きを読む≫ 2018/01/14 20:12:14

 

 

 

 

 

西域の顔役

 

 

 

青年期の董卓は、男伊達気取りの遊侠の徒だったそうで、この時に西方の異民族である羌(キョウ)族の拠点をあちこち放浪して回り、彼らの族長と対談。この頃から、周囲とのコネを積極的に得ようとしていたことが伺えます。

 

董卓の生まれは辺境の西域で漢王朝の影響力が弱く、特に異民族が幅を利かせていた場所でもあったのです。

 

そのため、董卓は中央でなく、あえて国外の部族の助けを得ようと動いていたわけですね。

 

 

 

また一部の族長たちが董卓の元へとあいさつに訪れると、董卓は牧畜用の牛をその場で殺し、その肉をふるまって宴会したという話まで列伝に載っており、いかに董卓が羌族とのつながりを大事にしていたかがわかります。

 

ちなみに、そんな董卓の対応に感動した羌族の族長たちは、部族の元へ帰った後に家畜をそれぞれの部族で合計1000ほど取り揃えて董卓に送り届けたそうな。

 

 

 

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さて、こうして心強いコネを手に入れた董卓は、いよいよ禁軍の一人として召し出され、野心成就のための第一歩を踏み出します。

 

 

董卓は元々武勇に優れていたことから、あっという間に軍司馬(グンシバ:司馬は軍事長官から派生し、隊長の意味を持つ)に任命され、張渙(チョウカン)という人物の賊徒討伐軍に参加し、ここでも戦功を立てて郎中(ロウチュウ:皇帝の護衛官の一つ)にまでなったのです。

 

 

その後も県令や都尉を歴任し転任のたびに昇進しますが、突然免職。何をやらかした

 

 

その後召し出されて幷州(ヘイシュウ)の長官職である州刺史、河東(カトウ)太守となり、讒言で罷免された前任の盧植(ロショク)に代わって中郎将(チュウロウショウ:禁軍指揮官)として黄巾軍討伐の総大将になりますが、敗北して罪に問われ、またしても罷免。

 

 

この時の董卓は振るわなかったのかあるいは地元以外に興味がないのか……ともあれ、この浮き沈みの連続はなんだか不気味な感じがしますね。

 

 

 

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董卓の機転

 

 

 

さて、これだけを見ると戦争にも負けていますし、なんだか董卓が無能な人間に思えてきますよね。しかし、本当は機転の利く人物で、もしかしたらここまでの失態はあからさまに手を抜いていたのが原因なのではなかろうかと思える部分も複数存在します。

 

 

 

それが、地元近くで韓遂(カンスイ)らが反乱を起こした時です。

 

この時、どういうわけか中郎将に返り咲いた董卓は諸軍と連携して反乱討伐に当たったのですが、韓遂もまた羌族とは親しい間柄。なんと董卓軍は、反乱に参加した羌族の大軍に包囲され、さらには包囲が続く中で食料が欠乏し始める事態に陥ったのです。

 

 

この窮地の中、董卓軍は魚を捕るフリをして決死の脱出作戦を実行。魚を捕りに行く傍らで川に堰を作り上げ、流れをせき止めて水を一ヶ所にためていき、完全に水がせき止められたある時、董卓はなんとせき止められて干上がった川の中を渡ってまんまと包囲を脱することに成功したのです。

 

しかも帰り際には堰を切って川の水を元通りにし、気付いて追ってくる敵軍の追撃を遮断する等、逃げた後の敵の動きも考慮に入れた鮮やかな撤退劇でした。

 

 

結局この反乱鎮圧は失敗に終わり、討伐軍は多大な打撃を受けることになったのですが、なんと董卓軍だけは撤退戦の鮮やかさもあってほぼ無傷。そのまま対韓遂の前線基地である扶風(フフウ)に駐屯し、前将軍(ゼンショウグン)に昇進。

 

さらには幷州牧として長官職にも復職し、斄郷侯(タイキョウコウ)として諸侯にも封ぜられたのです。

 

 

 

 

話は前後しますが、三国志の「呉書」では、中央に召し寄せられる前、涼州にいた時に地方役人として董卓が活躍した記述があります。

 

役人となった董卓は、盗賊の取り締まりを担当していましたが、ある時異民族が一斉になだれ込んで略奪を働いたことがありました。それを聞いた長官は董卓に騎兵を率いさせて戦わせたところ、なんと董卓は大勝し、四桁というすさまじい数の敵を討ち取ったそうな。

 

これによって中央に目をつけられ、并州刺史の段熲(ダンケイ)からの推挙を得て、さらには三公のひとつである司徒を務めていた袁隗(エンカイ)に属官として召し寄せられたのです。

 

 

なお、「英雄記」にも「羌族と戦って勝つこと百回以上」ともあり、地元が絡んだ時の董卓の強さが伺えます。

 

 

 

しかし自分と無関係のところではやっぱり弱くなってしまうのが董卓

 

『後漢書』では、中平5年(188)に発生した反乱討伐に、皇甫嵩(コウホスウ)と共に挑んでいますが、董卓は皇甫嵩と真逆の意見ばかりを提案。結局皇甫嵩の言うとおりに動いたところ彼の読みは見事的中し、「董卓は言う事が的を射ていない」とまで言われて信用がガタ落ちしています。

 

 

また、『霊帝紀』ではその後再三にわたり、「皇甫嵩に兵を預けて戻ってこい」と朝廷に言われますが、これを拒否して独自勢力の形成に腐心するようになります。

 

『後漢書』の側にも董卓伝が設けられていますが、そちらでは河東で勢力を蓄えていたとか何とか

 

 

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天下への怒涛の邁進

 

 

 

さて、この頃から大将軍の何進(カシン)と実権を握っていた宦官・十常侍(ジュウジョウジ)らによる政治的対立は完全に表面化し始め、今やお互い殺すか殺されるかという話にまでなっていました。

 

そんな折、何進は十常侍殲滅のため董卓を中央へ呼び寄せることを決意。

 

 

「ここで名を挙げれば、いよいよ天下が近くなる」

 

 

そう考えた董卓は、満を持して何進の援軍として中央へ進発します。

 

が、その途上、何進が逆に暗殺されたという知らせを受け、董卓は彼による作戦が失敗したことを知ります。さらには、何進側の重要人物である袁紹(エンショウ)、袁術(エンジュツ)らがその報復に宮中の宦官を殺して回っており、宮廷は大混乱に陥っているようではありませんか。

 

 

 

「しめた」と思った……かどうかは定かではありませんが、こういったときの董卓は実に素早い。皇帝を連れて逃走中の十常侍らを攻撃して追い払い、董卓軍で帝を保護し、堂々と入洛。

 

帝を保護したという大義名分を以って一気に宮中での影響力を高め、辺境の田舎領主から一転して天下に通じるほどの勇名を馳せます。

 

 

また、なぜか兵士に何進の弟が暗殺されたため董卓はその軍を吸収し、さらには執金吾(シッキンゴ:中央付近の警察署長)の丁原(テイゲン)を、その配下の呂布(リョフ)をそそのかせて殺害させ、彼の軍をも支配下に加えたのです。

 

 

こうして膨れ上がった董卓軍は、気付けば都の軍事権を独占。もはや中央の軍事力では董卓に逆らえる者はおらず、あっという間に天下を手中に収めてしまったのです。

 

 

『九州春秋』には、この時の董卓軍はかなり数が少なかったと記されています。

 

その数、わずか三千。

 

 

これでは諸将にナメられて天下をとれないと考えた董卓は、なんと軍勢の水増しを実行。

 

 

4,5日おきに夜中になったら兵士を一度都の外に出し、白昼に再び入城させるという方法で、あたかも「董卓軍の増援が到着した」と周囲に錯覚させたとか。

 

このため董卓軍の数は計り知れないと、周囲は噂し畏怖したといわれています。

 

 

続きを読む≫ 2018/01/13 21:12:13
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