【曹叡伝2】名君? 暗君?


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【曹叡伝2】名君? 暗君?

 

 

 

 

時代の移り変わり

 

 

 

諸葛亮の死により蜀の北伐が頓挫する少し前、漢帝国最後の皇帝であった劉協(リュウキョウ)が死去。曹叡はこの時、自ら白い喪服を着用して彼の死を悼み、喪に服したと伝えられています。

 

 

奇しくも、献帝と諸葛亮が死亡したことにより、時代はまた一歩進んだことを知らしめることとなりました。

 

その後蜀内の混乱によって北伐は一時取りやめられ、呉も単独で魏との戦いを続けるのは不可能と判断して領内に撤退。こうして、魏領内には一時の平穏が訪れ、以後曹叡は、軍事でなく内政手腕を主に見られるようになってきます。

 

 

 

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善政か悪政か

 

 

 

ここで、曹叡の内政において、彼の死までに行われた大まかな物を、箇条書きでまとめてみましょう。

 

 

 

・「鞭打ちは不真面目な官吏への戒めであって死刑宣告ではない」とし、無実の罪を着せられて鞭打ちで死ぬ者も出ていたのを憂いて政令を緩和(五丈原の戦い勃発時)

 

・家臣の諫言を聞かず、複数回宮殿を建造、改築

 

・崇文観(スウブンカン)なるものを設置し、文才に秀でた者を招集し任用

 

・周辺での獄死者の数が多かったため、死刑制度を緩和

 

・複数回大赦を行う

 

・領内の合併、名称変更

 

・卑弥呼から送られた使者に金印と銅銭を授ける

 

 

 

 

とまあ、ざっと流せばこんなところでしょうか。

 

ここで特に注目されているのは、太字にしている部分ですね。宮殿の増築や改築。

 

 

本伝には「このせいで魏の財政が傾いた。民も農業の時期を奪われた」と散々な言われようで、世の歴史家にも「暗君の証だ!」と槍玉に掲げられることが多い政策ですね。

 

 

しかし、これには「行き場をなくした民が職にあぶれることがないため」、そして「自身の権威を世に知らしめるため」という見方もあります。

 

また、注目すべきは、意外にも懲罰を緩めるなど善政ともいえる政策も多い点。他にも、曹叡伝その1にも書いた、「身寄りのない人物への扶持米大盤振る舞い」等、どちらかというと無実の罪人や社会的弱者に目を向けたものが多いという点。

 

 

実は当時の社会、民というとそこそこの力を持った名士や地主などを指す言葉で、その他大勢の人には人権がないと言っても良い時代でした。

 

曹叡は、言ってしまえばこの時代における“民”の声を無視し、民ともいえないゴミ同然の輩に仕事を与え、小作農以外の事をさせた……という見方もできます。

 

こう見ると、どことなく改革者としての側面が見えてきませんか?

 

 

 

ちなみに『魏略』では、宮殿増設の仔細と同時に、とんでもないことをやらかしたという記述が載っています。

 

それが、以下の政策。

 

 

・兵士の娘が無関係の職の者に嫁いだ場合は、無理やり召し上げて兵士と再婚させる

 

・美人は後宮に入れる

 

・兵士の娘の身代わりに奴隷の女でも可とする

 

 

このトンデモ政策のせいで人身売買が盛んにおこなわれたとか何とか。

 

 

また、近年では宮殿だけでなくインフラ設備も同時に行ったらしいという話もあり、実は本当に「農民の収入を考えた政策」だったとする声も……

 

まあ魏略は基本魏に対してはマイナスイメージで書かれていますので……

 

 

 

 

 

人事において:画餅はお嫌い?

 

 

 

さて、続けて人事の方も見ていきましょう。

 

実はこの人、「絵に描いた餅」の語源にもなったとも伝えられています。

 

 

というのも、当時人々にもてはやされていた四聡八達なるグループが互いを格付けし合い、勝手な批評で表面上の名声を総なめしていましたが、曹叡はこれを嫌悪。

 

こういったステマグループを指して「画餅」と呼び、「名声ばかりでその実役に立たない」と断じて罷免し、ここで排除された人物の多くは曹叡死後まで見向きもされなかったとか。

 

 

こんな感じで「実」を求めるスタイルを貫いた曹叡ですが、信頼した家臣に対しては比較的寛容だった模様。

 

言ってしまえば「常識外れ」な政策には多くの家臣が口を辛くして諫言しましたが、曹叡はこれを聞く耳持たずという様子だったとはいえ、結局罰することなく、たとえ諫言を自分が無視したとしても特にお咎めはしなかったそうな。

 

 

独裁志向の強い曹叡ですが、こういった広い度量は持ち合わせており、ここに関しては高い評価を得ています。

 

 

 

 

 

軍事方面は相変わらず

 

 

 

さて、周辺勢力が沈静化したとはいえ、まだまだ魏とは完全な敵対勢力なのは変わらず。曹叡は蜀の北伐を退けた後も呉の侵攻、そして北方民族の不穏な動きがありました。

 

これに対しても、曹叡はしっかりと対応できる将を派遣し撃退、あるいは遠征を成功に導いています。

 

 

 

また、景初2年(238)に怪しい動きを見せていた公孫淵が裏切って「燕」の国を興し独立すると、曹叡は周囲の反対を押し切って討伐を決定。

 

司馬懿を起用し、この戦いを一任。この抜擢は大成功であり、司馬懿は電光石火の勢いで公孫淵を駆逐し、燕と同盟していた呉からの援軍が到着してしまう前に決着をつけることに成功したのです。

 

これにより、魏は呉蜀との戦いにおける一応の後顧の憂いを断つことに成功しました。

 

 

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早すぎる死

 

 

 

曹叡の死は、公孫淵討伐や邪馬台国とのやり取りの翌日である景初3年(239)。享年36と言われており、あまりにも早すぎる死は魏という国を根本から揺るがしてしまったと言われています。

 

実際、彼の死後曹魏は一気に勢いを無くし、正始10年(249)の「正始の変」を皮切りに、司馬一族によって魏を乗っ取られていく形になります。

 

 

結果、独裁や革新のために財政を傾けるだけで打開策を打ち出す前に亡くなった曹叡は「贅沢のために民を苦しめた悪政者」として描かれるようになり、「寛容で自然の成り行きに任せた体制」を掲げた司馬一族の簒奪を正当化する材料になってしまったのです。

 

 

 

人物評

 

 

三国志を手掛けた陳寿は、彼をこう評しています。

 

沈着剛毅で決断力と見識を併せ持ち、心意気をもって行動し、君主として非常に優れた気概を持っていた。

 

しかし人々が疲弊している中で権力の象徴である宮殿を造営してしまった点は、将来への考慮を考えれば大きな失敗だった。

 

 

また、ほぼ同時代に歴史を記した孫盛も、彼に対して以下のような評を残しています。

 

 

天性容姿に優れ、立つと髪は地面に触れ、口数は少なく、剛毅で決断力があった。政治は自ら執り行うことが多かったが、大臣を厚遇して善意ある直言を聞き入れ、厳しい諫言を受けてもその者を殺すことはなかった。主君としては非常に立派な器量の持ち主であったのだ。

 

しかし反面、徳行によって人々を教化せず、皇族を厚遇して足元を固めることもせず、国家の大権を一部重臣に偏らせることで皇族の守りを崩してしまった。なんと悲しい事か。

 

 

 

いずれにせよ、君主としての器はあるが政治力にいささかの難あり、といった評価ですね。

 

本当、父親ともども早死にしたのがあまりに痛すぎる。独裁体制を目指して動いていながら、一番肝心な地固めをきちんと行う事が出来ず、最も危険な時に死んでしまったわけです。

 

 

曹丕も曹叡も完全に非凡な英雄といったポジションにいるような人ですが、そんな彼らが地固めもできてないうちに亡くなったせいで、せっかくの国が滅ぶ羽目になったのは、何とも皮肉なものです……。

 

 

 

 

結局誰の子?

 

 

 

さて、曹叡についてもう一つ疑問があるのですが……この人、結局誰の子?

 

 

実は彼の生母である甄氏は、元々は袁紹(エンショウ)の次男である袁煕(エンキ)の妻。それを曹丕がかっさらって略奪婚したわけで、ハッキリ言ってしまうと、この時に袁煕のこを授かっていても不思議はないわけです。

 

 

というわけで、まず曹丕が袁煕から甄氏を略奪した時を見てみますと、「曹操が冀州を平定した時」。つまり、建安10年……西暦でいえば205年になります。

 

そして曹叡が亡くなった年が西暦でいえば239年。享年は36歳。つまり数え年で言うと204年生まれ説……あれ?

 

 

 

本伝の記述を考えると曹丕が甄氏を娶る前に曹叡は生まれていたという事になり、どう考えてもおかしいです。

 

当時、曹操は袁家とは戦争状態。我が子が美女を連れてきて「娶りたい」と言っても、その連れ子には敵方の血が流れているわけです。普通は殺すか、それが忍びなくてもよそに養子にやるはず……

 

 

 

ちなみにですが、曹叡の出生を206年とし、曹丕の略奪婚を冀州平定の一年前である204年とする話もあります。そして204年と言えば、曹操が冀州の大都市である鄴を制圧した年であり、これまたなかなか説得力がある。

 

 

 

……とまあこんな感じで、この話はなかなか複雑な様子。できれば、他記事でもっと明確に書いていきたい複雑な話ですね。

 

 

 

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