【曹叡伝1】中央にいるのに軍事能力ヤバい人


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【曹叡伝1】中央にいるのに軍事能力ヤバい人

 

 

 

2代目魏皇帝

 

 

 

曹叡は生まれて以来、祖父である曹操に可愛がられて彼のそばで育ったと言われています。彼が十代半ばのころに曹操は亡くなっていますから……もしかしたら、こういう幼いころから曹操から軍事のノウハウを受け継いで、その分野での才能が開花したのかもしれませんね。

 

 

さて、そんな曹叡は延康元年(220)に父・曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと武徳侯(ブトクコウ)、その翌年には皇族として斉公(セイコウ)、さらに平原王(ヘイゲンオウ)と高い爵位を授けられ、曹丕の跡取りとして一目置かれる存在でした。

 

 

しかし、母の甄氏(シンシ)は父の曹丕と不仲であり、最終的に甄氏は曹丕によって誅殺されるという事件すら発生。曹丕にしてみればその子である曹叡にも思うところがあったらしく、しばらく皇太子としての地位を得られなかったと言われています。

 

 

 

しかし黄初7年(226)、曹丕が病を得て重体となると、ようやく曹叡は皇太子に任命され、曹丕が崩御するとそのまま帝位に即位、即位後に大々的な大赦を行いました。

 

この大赦では自らの生母でありながら冷遇の末亡くなった甄氏に向けて文昭皇后(ブントクコウゴウ)の諡号を与えると同時に、曹丕によって皇后とされた郭氏(カクシ)を皇太后と認め呼称。

 

異母弟の曹蕤(ソウズイ)に王位を与えたほか、家臣団にもしっかりと格差をつけて爵位を与えたのです。

 

 

 

『魏末伝』では、曹丕が曹叡を認めるまでのいきさつが書かれています。

 

一緒に狩りに出かけた時、曹丕は鹿の親子を発見。すかさず母親の鹿を射抜き、曹叡には子を射抜くよう言いますが、曹叡はこれを拒否。

 

「母親の命を奪われた小鹿の命を追い打ちで奪うなど、私にはできません」

 

そう言って泣き崩れる我が子を見て、曹丕は曹叡の器を評価。皇太子に立てることを決めたのだとか。

 

 

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優れた慧眼

 

 

 

さて、国のトップの突然の死、そして突如としての世代交代。これらの流れの中で、少なからず国内では混乱が起こります。

 

そんな混乱の隙を突こうと、鳴りを潜めていた東呉の孫権(ソンケン)による魏領侵攻が本格化。手始めに、文聘(ブンペイ)の守る江夏(コウカ)の地に攻めかかってきたのです。

 

 

早速朝廷では対応策の会議が開かれますが、曹叡は至って冷静。本来は水軍の戦闘力に定評のある孫権軍が陸地からの侵攻を行っていることを指摘し、「不意を突いて攻めてきたつもりなのだろう」と予想。

 

さらに文聘がすでに持久戦の形成にもっていっていることから、曹叡は早期に撤退することを予測しました。

 

そして国境地帯の慰撫を目的として援軍を送り込み、この予測通り本当に孫権を退けてしまったのです。

 

 

また、孫権軍の別動隊が他のルートを辿って複数個所を攻撃しましたが、これも曹休(ソウキュウ)と司馬懿を派遣して撃退。特に司馬懿が受け持った戦線では敵将を一人討ち取る大勝利に終わったとか。

 

 

 

その後も父の代に寝返ってきた孟達(モウタツ)の蜀への寝返り疑惑事件を司馬懿に一任し、結果として司馬懿が完璧に近い形で解決するなど、軍事慧眼はかなりのものであったと思われます。

 

 

また結果の良し悪しは見方次第ですが、先祖代々の霊廟を建てたりお供え用の作物を作る籍田(セキデン)を耕したり、他にも董卓(トウタク)によって握り潰されて以来の貨幣である五銖銭(ゴシュセン)を正式に発行を再開。

 

毛氏(モウシ)を皇后に立てて一族を列侯に置き、子のいない老人や寡婦、孤児など自立の難しい者に扶持米を下賜するなど、内政にもなかなかに力を入れている様子が記述からわかります。

 

 

また、後の太和3年(229)には曹操の祖父である曹騰(ソウトウ)の代まで遡り尊号を送ることに。そして以下父の曹丕までの位牌を霊廟のある鄴(ギョウ)まで迎えにやり、そのまま新規完成した洛陽の霊廟に移して安置して奉ることに。ここまででも先祖関係の政治活動や公務の記述がいくつかある点を見るに、かなり先祖への敬意を深く持っていたのかもしれませんね。

 

 

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北伐でのアレコレ

 

 

 

さて、先述した孟達の裏切り事件は蜀が手引きしていた事であり、その少し後から諸葛亮による北伐、それに呼応した孫権による魏領侵攻は本格化します。

 

まず、諸葛亮が西涼の民衆を扇動し、安定(アンテイ)、天水(テンスイ)、南安(ナンアン)の地を占拠。彼らによる魏侵攻の足掛かりを与えてしまいました。

 

 

この状況に対し、曹叡は大将軍の曹真(ソウシン)を起用。大部隊を統率させ、一斉に蜀軍撃退に進発したのです。

 

そして、その途上で要衝である街亭(ガイテイ)に陣取る敵軍を大破。この勝利が決め手になり、諸葛亮は敗走して失った3郡も奪還。第一次北伐を退けることに成功したのです。

 

 

 

しかし、一方の孫権との戦いでは、曹休が敵軍の周到な罠に引っかかった挙句大敗し、責任を感じてかまもなく死去した他、天災である干ばつにも見舞われる等、必ずしも思った通りに事が運んでいたわけではない様子が伺えます。

 

 

そんな中、曹叡は人材の充足に努め、儒教を根本とした官吏任用の他、「重臣らは各々優れた大将を一人ずつ推挙するように」と勅使を出すなどしています。

 

 

 

そんな中再び諸葛亮が陳倉(チンソウ)の地を攻撃してきましたが、こちらは曹真の読み通りであり、援軍を派遣してあっさり撃破。

 

 

また、この辺りから北方の国境沿いでも、遼東(リョウトウ)太守の公孫恭(コウソンキョウ)が弟の公孫淵(コウソンエン)に地位を奪われる等問題が発生。曹叡は公孫淵を新たに遼東太守に置くことで一応の問題終息を得ますが、後々またしても公孫淵に事業を邪魔されるように……。

 

 

 

 

太和4年(230)に曹真主導のもと蜀への反攻計画が実行されましたが、長雨によって道の崩落などが相次いで撤退を余儀なくされていました。

 

さらに追い打ちをかけるように、翌年の太和5年(231)には曹真が死去。これを機と見てか、ふたたび諸葛亮が魏領へと進行してきたのです。

 

 

曹叡は、曹真の後を継いで大将軍となった司馬懿に総大将の任務を授け、諸葛亮撃退の任務を言い渡しました。

 

この時、司馬懿は全軍統括に不慣れだったのか大いに苦戦しますが、辛くもこれを撃退。勝利はしましたが、局地戦では黒星が目立つほか名将の張郃(チョウコウ)を失うなど、かなりの痛手となったようです。

 

 

 

そして後の青龍2年(234)に行われた五丈原の戦いでは、司馬懿に対し「諸葛亮とは正面切って戦わず、持久戦を展開するように」と申し伝えることにしました。

 

司馬懿はこの通りに不動の防備体制で諸葛亮を迎え撃ち、ついに彼が過労死して蜀軍が撤退するまでさしたる犠牲も無く耐え抜いたとされています。

 

 

 

また、同時に攻めてきた呉の孫権に対しても、主将の満寵(マンチョウ)に「私自らが出向く。合肥(ガッピ)で防備を固めるように」と伝え、自ら出陣。実は「自分が着くころには孫権は撤退しているだろう」という予測を立てていましたが、まさにその通りになったとか。

 

 

なお、話は少し戻りますが……青龍元年(233)に北方で起きた異民族の反乱においても、現地の将からの上奏文を見ただけで「無理矢理誘われて反乱に参加した奴がいる」と見抜き、刺激せぬようにと戒めたところ、まさに懸念の通りになったという記述もあります。やはり曹操譲りの戦術眼。曹丕とはまるで違う。

 

 

 

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