【曹丕伝2】在位7年は短すぎた
九品官人法制定
晴れて皇帝になった曹丕は、まずは自分たちの先代らにそれぞれ帝の諡号を奉ることを決定。父の曹操を武帝とし、さらには祖父であった曹嵩(ソウスウ)には太帝の称号を贈ることにしました。
さらには自らの母である卞氏(ベンシ)を皇太后とし、正式に自らが皇帝であるという示威を内外に行ったのです。
また、当時盛況であった儒教の祖である孔子や後漢の祖である光武帝を大々的に祭ったりと先人を敬う姿勢を見せて民心を掴んだり、周辺異民族の懐柔、さらには官職名やその権限、また各地の地名を変更したりと内部の安定、董卓(トウタク)によって廃止された五銖銭(ゴシュセン)の復活など、影響力増大に腐心している様子が伺えます。
五銖銭に関しては、後々物価が高騰したのを理由に取りやめています。
さらには能力主義を徹底させるため、幕僚である陳羣(チングン)の草案を可決し、九品官人法(キュウヒンカンジンホウ:官僚の中に評価担当者を置き、その評価を元に官位を九段階に分類する)を制定。
さらに地域推挙である孝廉の推挙枠上限を撤廃し、「特別有能な者は条件に限らず推挙するように」としたのです。そのしばらく後には老成してから大身となった偉人らを取り上げ、年齢制限すら撤廃しています。
また、曹操配下の重鎮である曹仁を大将軍、大司馬(ダイシバ:軍事最高職)に置くなどし、蜀の皇帝を名乗り始めた劉備、臣従はしているものの動きが怪しい孫権に備えます。
そして孫権と劉備の間で夷陵の戦いが行われた後、ひと段落をついて、とうとう孫権が敵対。曹丕はこれを討伐すべく、大規模な親征を行う事となったのです。
スポンサーリンク
その戦の手腕
さて、曹丕の呉征伐は計3回行われることになりますが……残念ながら、曹丕には父と同じような軍事的才能はなかったといってよいでしょう。
まず、夷陵の戦い直後に行われた大規模攻勢。これは揚州、荊州をまたぐ全面攻撃で、3方向に別れての進軍になりましたが、結果から言うと長期対陣の末疫病により撤退することとなっています。
その過程で陥落寸前の江陵(コウリョウ)を攻めたり、曹休などが敵の先遣隊を撃破したりとなかなかいい感じではあったのですが……ここは呉が強すぎたと言えるでしょう。
そして問題なのが、その1年後の黄初5年(224)。ここでは曹丕自らが前線に出ての直接対決となったのですが、敵軍が用意したハリボテの城砦にビビッて撤退。
さらにその翌年黄初6年(225)にも懲りずに攻め込みますが、今度は川の水が凍り付き、身動きが取れない間に奇襲を受けてあえなく撤退という散々な戦果でした。
重臣の賈詡(カク)からも、「今は攻めずに守りましょう」と言われたこともあり、やはり用兵に関しては難があったのかもしれません。
一方政治は絶好調
さて、年をまたいだ遠征の合間に、領内の慰撫と安定に努めていた曹丕ですが……戦争と打って変わり、こちらはまさしく順調そのものでした。
まず、自身の皇后に新しく郭氏(カクシ)を立てると、漢王朝の腐敗の原因を真っ先に取り除くため、「婦人による政治への口出しは無用」という国令を出し、自身の皇后の親族による政治の席捲、そして皇后との仲を利用した出世のルートを完全に遮断してしまったのです。
漢王朝の腐敗は皇后の血族と宦官の間の争いと政治の独占から起こったものであり、曹丕はこれに学んで危険を取り除いたわけですね。
また、後年には国家反逆罪以外の罪の密告を一切禁止し、それまでどの勢力でも横行していた讒言の出所を遮断するなど、政治体制の清浄化にも着手しています。
その一方で連れ合いのない男女や重病、貧困などで生活できない者の為に物資による生活保護制度を立てたり、そのまま埋葬されるのが普通だった当時の民の葬儀事情を一新するなど、民にとってプラスになるような政策も続け、そのおかげで領内には安定した治世をもたらしたのです。
その他にも仇討ちの禁止や、どう考えても道理に合わない儲けのための新興宗教取り締まりなどにも力を入れており、とにかく、「漢の腐敗から始まった乱世を収束させる」という1点に向けて様々な政策を打ち出している様子がわかります。
戦争はともかく、着実に政治で乱世を終わりに向かわせる。そんな曹丕の姿は、まさに戦乱を超えた次代を象徴すべきものだったのかもしれません。しかし、そんな曹丕による治世は、悲しいかな長くは続かなかったのです。
スポンサーリンク
あまりに早すぎる死
曹操が作った地盤を、着々と万全のものにし、乱世を終わらせる力にする。曹丕の役割は、もしかしたらそんなものだったのかもしれません。
しかしそれには固定概念や広まった悪習を断ち切るだけの力と時間が必要で、曹丕にはそのうちの「時間」という要素が著しく欠如していたのです。
在位して7年目の黄初7年(226)。曹丕は許昌(キョショウ)へと行幸のため向かいましたが、ちょうど門をくぐろうかというその時、何の理由も無く、許昌の門の壁が崩れ落ちたのだとか。
何とも不吉に思い、結局門をくぐらずその場をやり過ごすことにした曹丕でしたが……不幸にも、この予兆は何ヶ月と待たずに現実として襲い掛かってきたのです。
結局帰還して九華台(キュウカダイ)なる宮殿を立て、それからしばらくした5月のこと、これまで患っていた軽い病が重篤化し、危機に陥ります。そのため、曹丕は念のために息子の曹叡を皇太子に任命し、万一に備えることにしました。
が、それから1月と経たずして、曹丕の病はいよいよ重篤化。事ここに至って観念した曹丕は、重臣である曹真、曹休、陳羣、司馬懿を急ぎ召し寄せ、「息子の曹叡を支えるように」と遺言し、そのまま息を引き取ったのです。
享年40。皇帝となってわずか在位7年という驚きの短さでした。
その後を継いだ次代皇帝、明帝と称される曹叡も、彼とはまた違った有能さを持った人物で立派に帝の仕事を成し遂げましたが、なんと彼も早死にしてしまうのですから、運命という物は恐ろしいものです。
ともあれ、急速に内部を固めて乱世を文治によって終わらせようとした曹丕でしたが、そのあまりに早い死は曹魏に暗い影を落とし、滅亡を一気に早めることになってしまったと歴史家の中では言われています。
関連ページ
- 【曹丕伝1】魏帝爆誕
- 本当は曹丕の列伝は文帝紀……まあ、わかりやすさ重視という事で。
- 【曹丕伝3】曹丕の性格は本当に冷酷なのか?
- 幾多の精神攻撃や前妻である甄氏への応対など、冷酷さや陰険さを前面に出した逸話の多い曹丕。しかし、一概に冷酷非道な暴君としてしまうには、いくつか腑に落ちない点も……
- 【曹丕伝4】文学への飽くなき崇拝
- 曹丕と言えば、忘れてはならないのが文学。弟の曹植のほうが詩の巨匠としての知名度は上ですが、文章への崇拝と心の入れようは間違いなくこちらが上です。