麋竺 子仲


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麋竺 子仲

 

 

 

生没年:?~章武元年(221)?

 

所属:蜀

 

生まれ:徐州東海郡朐県

 

 

人物伝・蜀書

 

 

麋竺(ビジク)、字は子仲(シチュウ)。平穏安泰な生活を捨ててまで劉備について行き、最終的にはその内政分野でトップに立った人ですね。

 

弟麋芳(ビホウ)が後世の評判最悪、本人も軍の統率は下手などいろいろな要素が重なって、現代では名前こそ知られてもまるで見向きもされない人物、追い打ちをかけるように本伝の記述も少ないとマイナー要素を詰め込んだような人物ですが……

 

 

数少ない事績を追っていく中でも、その優秀さはキラリと光る部分があります。

 

 

というわけで、今回は麋竺伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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富豪でありながら劉備に仕える

 

 

 

麋竺の家は先祖代々からの資産家で、その資産額は計り知れず、召使は1万を超す大富豪でした。

 

 

そんな生涯が保障された身分にあった麋竺はある時、麋竺の住む徐州の州牧(シュウボク:ひとつの州の長官)である陶謙(トウケン)によって招聘され、別賀従事(ベツガジュウジ:州牧の副官の一つ)として取り立てられました。

 

 

 

それからさらに数年後、いよいよ麋竺にとって衝撃ともいえる、この安寧を破壊し彼を情動へと駆り立てる転機が訪れます。

 

それまで徐州の主であった陶謙が病死し、彼の遺命により、後の蜀の主である劉備が徐州牧の任を引き継ぐことになったのです。

 

 

この時、劉備に何かの希望を見出したのでしょうか。

 

なし崩し的に劉備に仕えることになった麋竺は、以後安定の生活を捨ててまで、劉備の臣下として死ぬまでついて行くことになるのでした。

 

 

 

 

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劉備配下の重鎮

 

 

 

建安元年(196)、劉備が匿っていたはずの呂布(リョフ)が、劉備の出陣中の隙を突いて突如叛逆。徐州の本拠地ともいえる下邳(カヒ)を乗っ取り、劉備の妻子まで捕縛する事件が発生します。

 

 

本拠を失った劉備は、軍を広陵郡の海西という場所へ移動させ混乱を収束しようとしましたが、呂布に徐州の中枢を握られてしまっては、もはや勢力は地に落ちたも同然。

 

突然の凋落に困窮する劉備軍のため、麋竺は貯めこんでいた金銀財貨と下僕2千人を提供。さらに自身の妹を劉備に娶らせて新たな夫人にとして差し出したのです。

 

 

この辺りの行動から、すでに麋竺は劉備の臣下として生きる決意を固めていたようですね。

 

 

かくして勢いを取り戻した劉備軍ですが、その後も勢力を盛り返しては敗走を繰り返すのですが……麋竺も家を捨ててこれに随行。

 

 

 

曹操(ソウソウ)から高い評価を得て、麋竺を弟の麋芳共々地方高官の地位を与え得られたりもしましたが、いずれも劉備について行く形で辞職するなど、どこまでも劉備一筋の生き方を貫いたのです。

 

 

 

その後荊州の劉表(リュウヒョウ)にお世話になることになったときには、自身に先んじて劉表へのあいさつに赴くなど、劉備軍の顔役の一人として立ち回っている姿が散見されます。

 

 

劉備もそんな顔役の立場にふさわしいように、左将軍従事中郎(サショウグンジュウジチュウロウ:左将軍の幕僚。当時劉備は左将軍の地位にあった)、そして劉備が益州を占拠してからは安漢将軍(アンカンショウグン)の立場に就任。

 

この安漢将軍の具体的な立場はよくわかりませんが……その地位は諸葛亮(ショカツリョウ)よりも上、内政官としても劉備に初期から付き従った孫乾(ソンケン)や簡雍(カンヨウ)よりも常位の立場だったとか。

 

 

しかし、麋竺はそんな劉備の安泰、そして後年の孫権(ソンケン)らとの諍いによる関羽(カンウ)の敗死などを見届けた後、章武元年(221)に死去。

 

これよりも1年前に死去したという話もありますが、劉備が帝位に上って蜀漢帝国を建国した時の上奏文に彼の署名があったという資料もあり、ハッキリしません。

 

 

 

その人となり

 

 

本伝には、麋竺の人物像は「穏やかで誠実だが、人の統率が苦手であった」とあります。

 

そのため、将軍職などを与えられても軍を率いることは一度もありませんでしたが、常に扱いは上客としてのもので、劉備からの恩賞も寵愛も並ぶ者がなかったとされています。

 

 

また、曹操の逸話関連をまとめた『曹公集』には、以下のような話も残っています。

 

 

曹操は麋竺を嬴郡(エイグン)の太守に任命したが、この時の朝廷への上奏には、「あの一帯では気性の荒い者たちが多く住んでいて統治は難しく、長官はしっかりと厳選する必要があります。誠実で文武に長けた麋竺などに、その地域の一郡を任せるのが適任でしょう」とあった。

 

 

また、麋竺から孫の麋昭(ビショウ)に至るまで、皆弓馬が巧みであった。

 

 

また、その死の様子も曹公集には明確に記されており、

 

 

弟の麋芳は関羽と折り合いが悪くお互い憎み合っていたが、その状況に耐えられず、関羽を裏切って呉に鞍替えした。この行動が、関羽の死につながったのである。

 

麋竺はそんな弟の不始末を恥じて、自ら両手を後ろ手に縛りあげて劉備の元へと出頭。兄として処罰を求めたが、劉備はこれを諭し、待遇を変えることはしなかった。

 

 

しかし麋竺はこの不始末を自分で許すことができず、発病して一年余りで死亡した。

 

 

というものも。まあこれが本当はどうなのかは定かではありませんが……弟の糜芳も、劉備を慕って曹操からの好待遇を蹴った人物。

 

自分と志を同じくすると思った弟の突然の裏切りは、やはり堪えるものがあったのかもしれませんね。

 

 

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こんなエピソードも……

 

 

 

これは『捜神記』なる怪奇小説にある話ですが……麋竺の誠実な人となりが記された面白い話があるのでご紹介。

 

 

 

麋竺はかつて洛陽から帰る途中、家の手前数十里のところに一人の婦人を見かけた。彼女は「馬車に乗せてほしい」と麋竺に頼み込んだので、麋竺はその婦人を馬車に乗せてやることにしたのだった。

 

 

そうして婦人を乗せて馬車を進めること数里、その婦人は礼を言い、馬車から立ち去ろうとした。

 

その間際、彼女は恐ろしいことを口にしたのだ。

 

 

「私は実は、天の使いの者。これからあなたの家を焼きに行くところなのですが、こうして馬車に乗せていただいたご恩があります。

 

天命ゆえ、あなたの家を焼かないわけには行きませんが……せめてものご恩です。あなたのお屋敷には、せめて真昼辺りに向かうことに致しますゆえ、それまでの間に、必要な物を運び出してくださいませ」

 

 

いきなり仰天の打ち明けを聞いた麋竺は、婦人の警告通り急いで帰宅。結局真昼ごろに家が出火し消失してしまったが、それまでの間に財産をすべて運び出し、それらを守ることに成功したのだった。

 

 

小説という立場上まず間違いなく架空のお話ですが……こういった逸話が出来上がるほどに、麋竺の人徳は優れていたのかもしれませんね。

 

 

 

 

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