呂布 奉先


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呂布 奉先

 

 

 

生没年:?~建安3年(198)

 

所属:なし

 

生まれ:并州五原郡九原県

 

 

勝手に私的能力評

 

呂布 最強 群雄 裏切り者 どうしようもない クズ バカではない 面白人物 ヘタレ

統率 A- 事績不明の大規模決戦はともかく、小勢を率いての戦いはまさに当時最強クラス。ただし部下の統制や公平性はない。
武力 S 数十騎で一万と戦う、徒手空拳で曹操軍に挑むetc.。どう見ても人間じゃない。
知力 D 目先の利益は鼻が利いたが行動は行き当たりばったりで、計画性にも難があった。胡軫や董卓を嵌めたことから知力に妙な自身を持ったか。
政治 E 目先の利益と世辞に振り回された。計画性もさることながら、外交や謀略にも疎かった。内政にかんする話も聞かない。
人望 E 当時最強の武力から屈指の人気を誇る人物だが、人間性は小物臭さを面白がる声はあっても称賛の声はない。当時でも陳宮や親戚である魏続が裏切った記述もある。

 

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呂布(リョフ)、字は奉先(ホウセン)。三国志で最強の武人としてメディアで取り上げられ、昨今でも非常に高い人気を誇っている人物ですね。

 

実際に並外れた武勇で意味不明な伝説すら成し遂げ、どこか孤高の存在といった様子。絶大な武力を自分の野心のためだけに使い切り、そのくせ肝心なところでポカをやらかしてそのまま勢力滅亡を繰り返すドジさも兼ね備えており、人気なのも何となくうなずける気がします。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

呂布は正史本伝においても「飛将と呼ばれ、その桁外れの武力を恐れられていた」とあります。つまり、その武勇だけを見ればほぼ間違いなく三国志でも無双、あるいはそれに非常に近しい存在でしょう。

 

しかし……うーん、この何とも締まらない経歴の数々。ぶっちゃけますと、お調子者で微妙にヘタレっぽい。

 

 

神のごとき武勇とそれに噛み合わない人物像や欠点が、呂布という人物に趣を与え、後世でも非常に高い人気を博している原因なのかもしれません。

 

 

さて、そんな呂布を陳寿はこのように評しています。

 

 

吠え猛る虎のような武勇の持ち主。しかし英雄たり得る才略は無く、軽佻にして狡猾で裏切りを繰り返し、自分の利益しか眼中になかった。こんな奴が成功したためしがない。

 

 

 

つまるところ、武勇は文句なしだけど群雄としての資質や人格は色々終わっていたと……。

 

他の人たちの評価も、まあ表現は違えど似たり寄ったりで、群雄として歩んでいく野心と自身の器量が噛み合わずに半ば自滅していった人物として取り上げられていますね。

 

 

丁原、董卓劉備らを裏切ってその命や勢力を奪い、曹操を滅亡寸前に追いやったり袁紹とは反りが合わず殺されかけたり……実際に波乱のきっかけは自分の行動であることも多く、巡り巡って自分の首を絞めてしまう事に繋がったので、こういった酷評を受けるのもやむなしといったところ。

 

 

しかし英雄としての実力や人格の善悪はともかく……呂布の人物像はなかなか趣のある、例えば袁術辺りと似通った妙な魅力を放っているのもまた事実。

 

というわけで、呂布の性格がわかりそうなエピソードをいくつか拾ってみましょう。

 

 

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小策士・呂布

 

 

 

『英雄記』では、董卓軍大将の胡軫(コシン)と揉め事になったときの話が掲載されています。

 

胡軫は武勇に優れるものの短気で傲慢という割とどうしようもない性格をしており、部下との信頼関係も壊滅。当然呂布も、胡軫の事を嫌っているという有り様でした。

 

 

初平2年(191)、勇猛で知られる孫堅が近くに迫っているという報告を受け、胡軫軍は出撃。この時も、「要するにたかだか太守一人を黙らせればいいのだろう?」という孫堅の実力を度外視した発言により部下に顰蹙を買っており、ついにここで不仲が形になってしまったのです。

 

軍は日暮れまで進んで疲労状態、「いったん休んでから再び進軍するように」という董卓からの命令通りに野営の準備をしようかという時、呂布始め武将たちは邪念を抱きました。

 

 

――胡軫の作戦行動が失敗すればいいのに。

 

 

そう考えた結果、呂布らは作戦を完全に大コケさせることにしました。

 

 

孫堅軍はすでに逃走している、今追わなければ取り逃がしてしまうぞ」

 

 

当然、この情報は大嘘。胡軫はこの嘘の情報を信じて休息をとらず夜陰に紛れて進軍し、そのまま孫堅が拠っている陽人(ヨウジン)に到着。

 

しかし報告と違って敵軍はしっかりとした守備体制をとっており、不意打ちも効果がないのは見て明らかだったのです。

 

おまけに胡軫軍は疲労困憊で使い物にならない状態。そこで胡軫は兵の武装を解いて休ませてやることにしましたが、ここで再び呂布が動きます。

 

 

孫堅軍が攻めてきたぞ!」

 

 

結論から言うとこれは大嘘だったのですが、臨戦態勢の整っていない胡軫軍は大混乱でその場を離れ、1時撤退。敵が1人もいないのを確認した時には、すでに武器防具を置いて大きく後退した後でした。

 

 

結局その後武具を取りに戻って再び孫堅軍を攻めようとするも有効打に欠け、撤退後に孫堅軍から反攻を受けて華雄(カユウ)が戦死するなどの大打撃を受けたのです。

 

 

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意外とヘタレ?

 

 

 

圧倒的武勇の影響もあって剛毅な印象の強い呂布ですが……散見される記述を見ると、意外と胆力はそこまででもなかったのかもしれません。

 

 

まず、董卓を裏切った動機について。これについては呂布伝本伝において、2つ動機があります。

 

 

1.董卓の癇癪に付き合わされて鬱憤が溜まっていた

 

2.董卓の侍女と密かに不倫関係を築いており、発覚するのを恐れて内心ビビっていた

 

 

相手はあの董卓なので、まあビビッて内心ビクビクするのは仕方ない事です。

 

しかしそうであっても、あの天下の呂布が内心ビクついている姿は、想像するとなかなかにインパクトがありますね。

 

 

 

他にも野心家である陳宮の出撃策を却下して籠城を選択したり、曹操自身が間近に迫った時もさっそく曹操を「殿」と呼びどう見ても降る気満々だったり(『献帝春秋』での一幕)、意外とコメディリリーフとしての才覚も持っているのではないかなと個人的には思っていたりいなかったり。

 

 

 

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ただし身内には……

 

 

 

とまあこんな感じで割とどうしようもない人として書かれる呂布ですが、実は身内には(エコヒイキも激しいものの)結構甘い一面も持っています。

 

 

例えば、先ほどちらっとでてきた陳宮。彼は呂布の配下についたもののその器量には辟易しており、袁術と結んで配下の裏切りを扇動するなど、明らかにアンチ呂布な行動に出ています。

 

が、呂布はそんな陳宮の裏切りが明るみになっても「重臣だから」という理由でそれを不問にしています。

 

将軍としては落第点な行動でしょうが、別の武将が同じことをすればもしかしたら美談となっていたかもしれない1面ですね。

 

 

 

当然、家族に対する愛も本物だったようで、妻の厳氏(ゲンシ)に関しては、(裏目に出たものの)彼女の意見を取り入れて作戦行動を取った事も……。

 

 

 

そして、そんな呂布の身内への甘さを1番しっかり見て取れるのは、意外にも劉備との関係性なのです。

 

劉備を裏切って下邳を奪い取った呂布ですが、この行為は本人的には裏切りでなく、どうやら別の考えがあったようで……その後劉備袁術に責められた際には、部下の反対を押し切ってまで劉備の元へ駆けつけ、袁術軍との停戦までこぎつけています。

 

 

もっとも、そんな劉備の窮地を招いたのは他ならぬ呂布自身の裏切りなのですが……もしかしたら、劉備を「弟分」と認めていたからこその救援だったのかもしれません。

 

ちなみに裏切った際にも劉備の妻子はしっかりと保護しており、もしかしたら「兄より領地の多い弟とはけしからん」とか、そういうしょーもない理由もあって劉備襲撃を行ったのではとも考えられますね。

 

 

そう考えると、曹操呂布の処刑を勧めた劉備に対する「こいつが一番信用ならない」という発言も、どこか深い意味を帯びてくるような気がします……

続きを読む≫ 2018/04/10 22:29:10

 

 

 

 

呂布は1番が好き

 

 

 

曹操に敗れて再び流浪を余儀なくされた呂布でしたが、徐州を束ねていた劉備の元に逃走すると、彼は呂布をあっさりと受け入れ。

 

以前曹操が徐州を攻撃したのもあって、徐州でも反曹操の声が高まっていたのもあって、意外にも裏切り者として冷たく突き放されることはなかったのです。

 

 

 

ただし『英雄記』によると、呂布の一貫性のない行動と裏に秘めた野心は劉備にあっさりと見抜かれており、密かに警戒されたそうな。

 

呂布はそれに気づかず劉備の兄貴分気取りで、酒を酌み交わして妻に挨拶させるなど一応親愛の証は取っていたのですが……劉備ははなはだ不愉快に思っていたと記されています。

 

 

 

 

さて、そんなこんなで劉備の客分として徐州に身を置くことになった呂布ですが……この後もまもなく衝撃的な行動に移ります。

 

 

なんと、劉備が出撃して本拠の下邳(カヒ)が手薄になったのを見て、即座に襲撃。

 

この頃留守居の部隊内では揉め事が発生しており、それが原因かはたまた他の理由があるのか、呂布はここでもあっさりと反旗を翻してしまったのです。

 

 

こうして留守にしていた妻子らを人質に取られた劉備呂布に下手に出るしかなくなり、あっさり降伏。こうしてすんなり徐州を奪い取った呂布劉備を前線都市の小沛(ショウハイ)に移動させ、自身が徐州刺史を名乗って、完全に独自の勢力を盛り返してしまったのです。

 

 

 

『後漢書』によれば、この一連の流れは袁術の依頼による物とかなんとか。

 

 

 

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呂布式調停術

 

 

 

弱った劉備に止めを刺そうと、南で勢力を張っていた袁術劉備討伐の軍を派遣。劉備は絶体絶命の危機に陥ってしまいます。

 

 

ここで劉備に止めを刺せば、晴れて自軍は安泰に……。

 

配下の将軍たちはそんな思いを抱いて劉備討伐を打診しますが、この時呂布は「袁術が徐州に進出したら自分たちが孤立してしまう」という懸念の元に劉備救援に出向。

 

 

呂布が出向いたことで袁術軍は警戒して守勢に回り、それを好機と見て袁術軍に和睦を打診することにしました。

 

 

劉備は俺の弟分だ。だから助けに来たのだ。俺は平和主義で争いは好かんでな」

 

 

どの口がいうか

 

 

こうして袁術軍と和睦に臨んだ呂布が提示した条件は、「自分が戟の柄を弓で射たら即戦闘中止」というもの。やっぱり武闘派民族じゃねーか

 

こうして相手の損得勘定を無視した脅迫交渉の元、見事に戟を射倒して武威を披露。将兵らは皆驚嘆し、感心した袁術軍の武将は戦闘中止を約束し、撤退していきました。

 

 

 

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袁術と同盟など組まん!

 

 

 

さて、この呂布の武勇を聞いた袁術は、反呂布から一転。彼の武勇を使えると見て同盟の道を模索し始めます。

 

そこで袁術は使者を送り、呂布の娘を自分の息子と婚姻させることで強固な同盟関係を築くことにしました。

 

 

曹操を警戒していた呂布はこの話を承諾しますが……この時、反対意見が発生。徐州の名士である陳珪(チンケイ)が「それよりも曹操と組んだ方がいいでしょう」という提案を持ち出したのです。

 

 

この話を聞いた呂布は、以前袁術によって冷たくあしらわれた恨みを思い出して同盟を取り消すことを決意。袁術の使者を追い立てて約束を破棄し、曹操に送り付けたのです。

 

 

これを聞いた曹操は朝廷に働きかけ、呂布を左将軍(サショウグン)に任命。陳珪の願いで彼の息子である陳登(チントウ)を曹操の元に送り込み、より深い関係を築く道を探そうとしたのです。

 

もっとも、送り出したところで陳登は呂布のために曹操から官位を引き出すなどの貢献はせず帰ってきており、これが後の禍根となってしまうのですが……。

 

 

さて、一方で同盟の話をフられてしまった袁術は大激怒。将軍の張勲(チョウクン)を総大将に、周辺の独立勢力と連合を組んで呂布領に大挙して押し寄せ、小勢の呂布軍は劣勢に追い込まれてしまったのです。

 

呂布はこれに対抗するため陳珪に「お前のせいだ」と詰りながら対抗策を打診しました。

 

陳珪は敵が即席連合の烏合の衆であることに着目し、陳登と共に敵軍を内応させる策を提案。

 

 

この意見を容れた呂布はすぐに袁術と組んだ独立勢力にありったけの軍需物資を提供し、見事に仲間割れを誘発、敵軍を寝返らせて張勲の軍勢を大破することに成功したのです。

 

 

 

 

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虎狼の最期

 

 

 

さて、以前に呂布から派遣された陳登は、曹操に対してこのような申し出をしていました。

 

呂布は武勇こそあるものの行き当たりばったりで、人と組んだり離れたりを繰り返します。早めに討つべきでしょう」

 

つまり、父の陳珪ともども、陳登は曹操に内応する気で接触していたわけですね。

 

 

 

建安3年(198)、呂布はそうとは知らず曹操と手を切って敵対。先ほどまで戦っていた袁術と手を組んで、小沛の劉備曹操からの増援ともども粉砕し、完全に追い出して駆逐してしまいました。

 

 

これに対して曹操は自ら軍を率いて呂布討伐に出陣。呂布曹操から警告の手紙を受け取ると降伏しようとしますが「どのみち許されないだろう」と判断した陳宮らに阻止され、とうとう曹操との決戦に臨むことになったのでした。

 

 

呂布袁術への救援要請と共に迎撃部隊を何度も送りますが、その都度敗北した上、袁術軍も妨害を受けて徐州にやってくることはなく、最終的に下邳へと完全に追い詰められてしまったのです。

 

 

こうして下邳に籠城する呂布軍でしたが……ここで軍の弱点があらわになってしまいます。

 

 

もともと自分の好きなように動くのを好んでいた呂布に、配下の将兵の中にはどこかで疑念を抱いていた者もいたのです。

 

呂布が勝っているうちはまだよかったのですが、負け続けてしまえば、信頼関係のない上下関係ほど脆いものはありません。

 

 

 

堅城である下邳に拠って数ヶ月戦い抜いた呂布軍でしたが、曹操軍が堤防を決壊させて水攻めを仕掛けたことで、とうとう部下の心が離反。

 

魏続(ギゾク)、宋憲(ソウケン)、侯成(コウセイ)といった将軍らが陳宮を捕らえて曹操軍に降伏して呂布軍は崩壊し、とうとう呂布自身も降伏に追いやられてしまったのです。

 

 

 

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呂布曹操の前に引っ立てられると「縄がきつすぎる」と訴え出ましたが、「虎を縛るにはこれくらいがちょうどいい」と聞く耳持たず。

 

 

続けて呂布は、曹操にある取引を持ち掛けます。

 

「殿の悩みの種である私がこうして降伏したのです。もはや敵などおりますまい。私が騎兵を率いましょう。それで殿が歩兵を率いられたのならば、もはや天下に敵などおりません」

 

つまり、自身の売り込みを始めたわけですね。

 

 

人材ハンターの曹操はここで一瞬処刑を戸惑いますが、この時隣にいたのが、もともと呂布に疑念を抱き危険視していた劉備

 

 

「父を2度も裏切った男を信用なさるのですか」という劉備の一言にはっとした曹操は、結局呂布の処断を実行することにします。

 

 

「お前が一番信用できないのだ!」という叫びと共に、かつて裏切った弟分に命を握られてしまった呂布はそのまま処断。

 

降伏を拒んだ陳宮や高順(コウジュン)といった重臣ともども、許(キョ)にて晒し首にされたのでした。

続きを読む≫ 2018/04/08 22:05:08

 

 

 

 

 

早速裏切り

 

 

 

呂布は現在では内モンゴル自治区に位置する地域の出で、異民族の文化を色濃く受け継ぐ人物でした。

 

そのためか若くして武勇に優れており、その力を買われて地元・幷州(ヘイシュウ)の丁原(テイゲン)という人物に仕えることになったのです。

 

 

 

やがて丁原が騎都尉(キトイ:近衛隊長)として中央に帰ると呂布もこれに付き従い、丁原の主簿(シュボ:秘書官)となって丁原に溺愛されました。

 

 

こうしてしっかりとした居場所を得た呂布はしっかりと丁原のために尽くし……ませんでした。

 

 

霊帝の崩御から始まる一連の混乱の末に董卓(トウタク)が朝廷での権力を握るようになると、彼は宮中でも大きな兵力を持っている丁原をどうにか排除したいと考えるようになります。

 

この時董卓の謀略に乗っかかったのが、なんと丁原に近しかった呂布呂布は丁原の首を斬って、それを手土産に董卓に帰順。丁原の率いていた兵力を丸々董卓に献上してしまったのです。

 

 

その呂布の思いきりと武勇を見て感心した董卓は、呂布を丁原に代わって騎都尉に任命。大いに目をかけ、最終的に二人は義理の親子として契りを結ぶまでになったのでした。

 

 

 

その後、呂布董卓の元でその武勇を種に出世を重ね、中郎将(チュウロウショウ:禁軍指揮官)、都亭侯(トテイコウ)にまで昇進。

 

さらには敵の多い董卓のボディガードとして近侍するようになったのです。

 

 

 

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二度目の裏切り

 

 

 

 

さて、こうして董卓軍に見事に入り込めた呂布でしたが……ここも呂布の安住の地となり得なかったのです。

 

というのも、ここで問題になったのが董卓の気性。董卓はイケイケの体育会系であったらしく、些細なことですぐに腹を立てる短気で激しい気性の持ち主でもあったのです。

 

 

呂布もそんな董卓によって暴力を振るわれそうになったことがあり、それが内心では恨みとして渦巻いていたと記されています。

 

また、この時呂布董卓の侍女の一人と不倫関係にあったため、これが露見するのをひどく恐れていたという事も理由の一つとして上げられていますね。

 

 

 

そのため内心に溜まっていた不満は大きくなり、やがて呂布は、ある決心を迫られることになります。

 

 

 

――董卓の暗殺。

 

 

 

密かに董卓に反感を持っていた王允(オウイン)という文官が、ある時から急激に呂布に接近。

 

やがて呂布の心中を聞き出すと、満を持して董卓暗殺計画に加担するよう求めてきたのです。

 

 

始めは「親子だから」とヘタレ乗り気でなかった呂布ですが、王允によって「苗字も血筋も異なる親子がいますか」という言葉によって、この計画を承諾。

 

 

初平3年(192)、帝の病気快癒を祝うために宮中へやってきた董卓を迎え撃ち、呂布自らが董卓にとどめを刺して暗殺に成功したのでした。

 

 

 

呂布はこれによって、朝廷より直々に奮武将軍(フンビショウグン)、温侯(オンコウ)の地位を与えられ、また仮節(カセツ:軍令違反者の処罰権)も渡されることになりました。

 

 

しかし、董卓になり替わって都を抑えた王允らは、「董卓一派許すまじ」として、涼州人の皆殺しを表明。

 

これが仇となり董卓軍の残党は都・長安に押し寄せてきてしまい、王允や呂布らは一気に窮地に陥ってしまいました。

 

 

 

呂布はこれらを迎え撃とうとしますが、宮中に残った董卓一派の裏切りもあって敗北し、呂布は数百騎の麾下と共に長安を脱出。60日にも満たない短い天下でした。

 

 

 

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お尋ね者:呂布

 

 

 

長安を脱した呂布は、まず董卓と敵対していた諸将の中で地理的に近い袁術(エンジュツ)を頼り東進します。

 

これは、「自分は董卓を討ち取ったのだから反董卓の諸将には味方として受け入れてくれるだろう」という思惑があったと正史にはありますが、その心中はどうなっていたのか……

 

 

ともあれ、袁術呂布を恐れてすっかり戸を閉め追い出してしまいました。袁術呂布を拒絶した理由は「裏切り者を信頼できるか!」という言い分であり、さっそく董卓暗殺が裏目に出てしまったのです。

 

 

 

そこで今度は反転し、袁術の兄である袁紹(エンショウ)の元へと向かう事に。袁紹呂布たちを戦力として使えると見て、快く受け入れてくれました。

 

 

こうして袁紹に仕えることになった呂布は、袁紹と敵対する張燕(チョウエン)の軍勢と戦うことに。

 

張燕は歩兵1万以上に騎兵数千という大部隊、それも精鋭部隊を抱える難敵で、対する袁紹軍は兵数の上で圧倒的に劣勢だったのです。

 

しかし呂布は赤兎(セキト)という馬に跨り、自ら側近ら数十騎を率いて敵陣に突撃。日に何度も突撃を敢行し、数十日後、精兵で知られていた張燕らの軍勢をついに打ち破ったのです。

 

 

しかしこの戦いで気を大きくした呂布は、自らが信用されていないのを忘れたのか略奪を敢行し、さらに袁紹にも兵力の増強を要求。

 

袁紹はいよいよ呂布に猜疑の目線を向け始めたため呂布はそのまま下野することに決めましたが、袁紹軍を離れた後に袁紹自身から命を狙われるようになってしまい、元董卓配下であった張楊(チョウヨウ)に庇護を求めて逃げていくことになってしまったのです。

 

 

 

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曹操との因縁の始まり

 

 

 

さて、こうして張楊の庇護を受けることになった呂布ですが、実は張楊に会う前に一人の男に助けられていたのです。

 

その男は張邈(チョウバク)。曹操の親友としてその軍中に身を置いていましたが、当時の曹操軍は袁紹派閥の連合に属する勢力。呂布を助けることでその袁紹の不興を買う事になってしまった張邈は、次第に心理的に追い詰められつつありました。

 

 

そんな中、曹操が留守にしていた兗州(エンシュウ)で大規模な反乱が発生。張邈は弟がこの反乱の首謀格として参加していたのもあってか、反乱を主導していた陳宮(チンキュウ)の言葉に従い、曹操に反旗を翻したのです。

 

 

そんな時、張邈らから迎え入れられたのが呂布。彼は張邈に招き入れられて兗州の本拠点である濮陽(ボクヨウ)を奇襲。一気に陥落させ、曹操軍の影響力を消し飛ばしてしまったのです。

 

 

濮陽の陥落により兗州のほぼ全域が呂布たちに帰順し、曹操は滅亡寸前に。

 

急いで遠征から帰ってきた曹操軍と100日余りに及ぶ対陣の末、天災に助けられて曹操軍といったん和睦。呂布は兗州の支配をほぼ確実のものとしました。

 

……が、ここでも呂布による好調期は長く続きませんでした。

 

 

 

天災が収まり態勢が整うと、曹操軍は呂布軍への逆襲を開始。呂布は2年の内にほぼ全域を曹操により奪還され、それでも優位な状況で決戦に臨みましたが伏兵部隊によって敗北してしまったのです。

 

呂布は張邈らを半ば見捨てる形で脱出を余儀なくされ、東へと闘争。徐州を治めていた劉備(リュウビ)を頼って落ち延びていったのです。

続きを読む≫ 2018/04/06 22:02:06
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