劉巴


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劉巴 子初

 

 

生没年:?~章武2年(222)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州零陵郡烝陽県

 

 

 

 

劉巴(リュウハ)、字は子初(シショ)。何というか、劉備(リュウビ)からひたすら逃げ回って最後に捕捉され、仕方ないから弟の張飛(チョウヒ)に八つ当たりしたように見える人。実際は違うと思いますが。

 

非常に優れた名士であると同時に、妙に硬骨で良くも悪くも媚びない人物。その態度の向く先がよりによってみんな大好き玄徳さまだったわけで、三国志をある程度以上かじった人の間ではたまに物議を醸しています。

 

 

今回はそんな劉備から逃げて結局逃げきれなかった男・劉巴の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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結局劉備についてどう思う?

 

 

 

劉巴はいいところ出だったようで、若くから有名人。そのため荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)から招聘を受け、また茂才(モサイ:官吏登用試験)に推薦されたりもしましたが、すべて拒否。結局、劉表からの召し出しには応じませんでした。

 

 

しかし劉表が亡くなって曹操(ソウソウ)による南征が始まると、劉巴は他の名士らと共に曹操に出仕。劉巴はそのまま荊州南部の諸郡に曹操への帰順を呼び掛ける役割を受けて故郷へ転進、しばらくその場に居座ることになったのです。

 

 

が、曹操はその後、赤壁の戦いと呼ばれる戦いに敗北。南への影響力を大幅に弱め、それを好機と見た劉備はそのまま劉巴のいた荊州南部に侵攻を開始します。

 

結果、劉巴は押し出される形で交州に亡命。曹操の元へと戻れないまま故郷を追われていったのでした。なお、劉備にはこの時劉巴を仲間に迎え入れる準備がありましたが、非常に残念がったとか。

 

 

 

 

交州へと逃亡した劉巴は、そのまま今度は益州に移動。これによって一時期の安息を得ますが……やがてその益州は、またしても劉備の侵攻によって戦乱に巻き込まれ、そのまま精強な劉備軍を前にして陥落。

 

劉備から逃れてここまで来た劉巴も、ついに降伏。劉備は逃げられたことを密かに恨みに思ってまたそうですが、水に流して自身の属官に劉巴を加えたのでした。

 

 

それからの劉巴は、法律に詳しい人物らと協力して、蜀の国法になる蜀科を制定。

 

後に尚書(ショウショ:他部署への派遣官吏)、そして法正(ホウセイ)が亡くなるとその後釜として尚書令(ショウショレイ:宮中の文書を管理する長官)となりました。劉備が蜀の帝になった時の儀礼用の書類は、すべて劉巴が手掛けたものだとか何とか。

 

 

私生活においても、自身が劉備に嫌々仕えたという事実を考慮し、質素倹約に勤めたとされています。劉備のために働くのが本意か不本意かは本人にしかわかりませんが、清廉潔白でまともに業務をこなし、プライベートで仕事の話をする等の不用心はしなかったというのは確かです。

 

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零陵名士の偉業

 

 

 

劉巴の本文の記述はこれだけなのですが……彼について詳しく述べられている記載の大部分が『零陵先賢伝』という書物によるものです。

 

この書物によれば、まず彼の父は劉祥(リュウショウ)という名前で、孫堅(ソンケン)の挙兵に協力し、農民の一揆を鎮圧するときに戦死したとあります。この事件と劉祥への個人的な嫌悪から劉表は劉巴を殺そうとし、そのために劉祥の旧友を使って劉巴をおびき出し、暗殺しようとしたのです。

 

「劉表はあなたを殺そうとしています。私と逃げましょう」

 

劉巴は父の旧友にこんな言葉を何度もかけられますが、すべて拒否。劉表はこの旧友から報告を受けて、劉巴が危険なたくらみを持っていないことを理解。わだかまりをといて殺すのをあきらめたのです。

 

 

その後、18にして群役人として出仕。周不疑(シュウフギ)なる人物の教育係にならないかという誘いを受けましたが、これを拒否しています。

 

 

 

その後曹操に派遣され、孤立するまでは史書とほとんど同じ流れ。せいぜい、曹操の謀臣である桓階(カンカイ)が荊南へと派遣されそうになるものの劉巴に及ばないとして赴任を拒否。

 

あとは劉巴が劉備に攻撃された故郷の零陵を離れる時に「故郷を見捨てるのか」と言われ、「任務できてるんだから当然じゃん」と答えたり、その程度の記述が追記されているくらいです。

 

 

 

また、当書によるとその後は益州の劉璋(リュウショウ)に仕えたようで、劉備を招き入れる際に「英傑を指揮下に入れるとロクなことになりません」と再三言っては拒否されるという結末を迎えています。

 

 

さて、こうした所、結局劉備に仕えることになった劉巴ですが……その功績や記述についても、いくつか本文より追加されています。

 

まず、益州討伐の折に劉備が兵たちに「蔵の宝は取り放題だ!」と言ったばかりに、武器を投げ捨てて宝を漁る兵士が続出、軍需品が圧倒的に不足するという事態が起き、劉巴は劉備から相談を受け、以下のように答えています。

 

 

「寡兵を鋳造して物価を安定させ、あとは公共の市場で物品管理をさせれば簡単です」

 

 

このおかげで、数か月後には蔵はいっぱいになったとか。

 

 

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アンチ劉備伝説?

 

 

 

さて、この零陵先賢伝は、零陵出身の名士を称える書物だとか。つまりどういうことかというと、劉巴と劉備でいえば完全に劉巴側に立った書物。

 

この話において、劉備とその義弟の張飛がまるでアレな人のように書かれており、もしかしたら、劉巴は本気で劉備が嫌いだったのかも……などと邪推してしまう部分も少なくありません。

 

 

 

まず、一番注目されるのが張飛とのいざこざについて。

 

 

張飛は劉巴のみならず様々な名士と交わるのが好きで、評判のためか本人が意外とインテリだったためか、史書にも「名士とよく交わった」と書かれています。

 

当然、高名な名士である劉巴の元にも遊びに行くのですが……なんと劉巴は張飛を徹底的に礼遇し、その存在を完全無視。怒った張飛はそのまま誰かに愚痴ったようです。

 

結果、この話は諸葛亮(ショカツリョウ)の耳にも届き、「張飛はあなたを尊敬しており、我が主君が大業を成すために武人を重んじておられるのです。どうか少しは我慢してください」といった旨の文書で劉巴を咎めますが、劉巴納得せずこのように言い放っています。

 

 

「名士として生まれたからには、幅広く英雄らと交友を持つべきです。なぜ軍人ごときを歓待せねばならないのですか」

 

 

当時の名士はそれはもう高潔な人物としてあがめられており、庶民や半端な仕事の人間とは関わらないというプライドを持った人物でした。一方の軍人は、所詮は現場仕事。職業貴賤を推進する人の中に「土方の現場仕事は卑しい職業だ」と唱える人物がいますが……おおよそ世論はあんな感じの認識だったのです。

 

とはいえ、アウトロー出身の劉備にとってこんな言動はそれこそ論外。激怒して「我々を北に逃げるまでの踏み台にしか考えていないのか」と言い放ったとか。また、この話は呉の国でも孫権(ソンケン)と張昭(チョウショウ)の間で議論になったとか。

 

 

最後に、劉備が蜀の帝につくときの話。当書によると、この時の劉備は急すぎるという世論を無視して蜀漢建国を勧めていましたが、劉巴は雍茂という人物と共に蜀漢建立に反対。後に雍茂は別の案件にかこつけて処刑され、蜀よりはるか遠方の人々は劉備に失望したとか何とか。

 

 

何にせよ、蜀アンチというかなんというか……純粋な劉備ファンではない何かを、劉巴の行動から感じます。

 

 

 

人物評

 

 

さて、こんな劉巴を、三国志を編纂した陳寿はこのように述べています。

 

清廉高尚な生き方をした。

 

だいたい見渡してみると、確かに良くも悪くも名士といった感じです。プライドが高く高潔で清廉な業務を心掛ける。そんな印象ですね。

 

とはいえ、やはり古風で堅苦しい感じの名士は、もともとヤクザの親分のような身分だった劉備の元ではやりにくかった部分もあるでしょう。もしかしたら、それが劉巴の頑なな逃亡の理由かも……。

 

 

何にしても、劉備に肩入れする人物が多い任侠集団の中で、ひときわ異彩を放つ劉巴。彼の心は、劉備の望む世界にあったのか、それとも……

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