張昭 子布


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張昭 子布

 

 

生没年:永寿2年(156)~嘉禾5年(236)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州彭城国

 

 

勝手に私的能力評

 

張昭 呉 孫権 頑固者 親父 保守派 トムとジェリー 凄絶な君臣漫才

統率 D 軍事に携わる手腕は持っていたのかもしれないが、あくまで役職はご意見番。
武力 E 剛毅な人柄で孫権相手に子供じみた喧嘩もしたが、基本的に武勇伝はない。胆力評価で1ランク上がりそうな気もするが……
知力 A 高名な智嚢にして学者。公孫淵への対処では孫権とガキのような言い争いをしたが、結局張昭が正しかった。
政治 S 外部の徐州出身者なのに、なぜか土着名士陣の筆頭格にいるような人。赤壁の戦いでは降伏派の筆頭で散々孫権にいびられたが、まあ結果論みたいなもの妥当。
人望 S 剛直な性格で孫権とはしばしば争ったが、名士層からの信望はかなり厚かった。というか、孫権が壊れたのって張昭の死後……

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張昭(チョウショウ)、字は子布(シフ)。曹操とほぼ変わらない年齢ながら、孫権が呉を打ち立てて国を安定させるまでを見届けた長寿の政治家ですね。

 

名士層出身の政治家という立場上、戦争を主眼に置いた場合はどうにも影の薄い子布先生ですが……その記述を追えば、生真面目で高潔な人柄から、孫権のボケに対する壮絶なツッコミ役として派手に動き回っていたことが伺い知れます。

 

 

 

そんな彼の活躍を、記述通りの事績と、孫権との凄絶な喧嘩漫才の二本立てで見ていくことにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

さて、張昭の逸話のある種本題に入りましょうか。

 

 

彼の逸話で特に大きなものと言えば、孫権との滅茶苦茶な諍い……もとい親子喧嘩。これのせいで、張昭は他の一流文官とも一線を画した人気(またの名を悪目立ち)を博すことになります。

 

 

何だかんだ、孫権張昭は何かにつけて争っているイメージがありますが……今回はその中でも特に張昭伝に載っている大きな話を取り上げていきましょう。

 

 

 

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第1ラウンド:赤壁の戦い

 

 

 

曹操は赤壁の戦いよりも前、孫権に宣戦布告の手紙を送っています。

 

 

「江東の地で、孫将軍と虎狩りがしたい」

 

 

一見するとプライベートのお誘いみたいな一文ですが、江東は孫権の領地。さらに虎は孫権という意味も込められており、要は「お前を狩ってくれるわ」的な意味合い、一戦やろうぜという脅迫文だったわけですね。

 

 

これを知った孫権軍は震え上がり、名士はじめほとんどの者が、孫権に降伏を訴えかけました。

 

その降伏派の筆頭格が、張昭だったのです。

 

 

降伏するか戦うかの議論では曹操と戦おうとしたのは孫権魯粛のみ、しかも魯粛は序列が低く孫権も名士の前では下手な事が言えないと、完全に降伏派に意見が偏っていました。

 

 

結局、孫権周瑜を議論に呼んだことでようやく形勢は逆転。あとは多くの方が知る通りの展開となったわけですが……こうなると寝覚めが悪いのは降伏を大々的に唱えた名士層。

 

張昭への風当たりもきつくなり始めたようで、突拍子も無い事ばかりを言っている嫌いな魯粛孫権が重用し、張昭が「魯粛は危険です」と訴えかけても説得力が無くなってしまい、そのまま魯粛孫権軍の柱石として動くようになってしまいました。

 

 

 

『公表伝』ではこの後追い打ちを食らった張昭の姿が書かれていますね。

 

時代は飛んで孫権が呉帝に即位した時。孫権周瑜らを功臣として褒め称えた後、張昭に対しては「あんたの言う事をもし聞いてたら、今頃俺は乞食だ」と公衆の面前で言い放ち、張昭は大恥をかかされてしまったとあります。

 

哀れ……

 

 

 

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第二ラウンド:虎狩り

 

 

 

孫権は狩りが大好きで、しばしば野山に虎狩りに出かけていました。

 

そんなある日、孫権はいつもの通り虎に矢を射かけましたが、その時ばかりは虎も逆に襲い掛かってきて、孫権の馬の鞍にしがみつくというちょっとした事件になったのです。

 

 

これを見た張昭は顔を真っ赤にして孫権の前に進み出て、顔を真っ赤にしてお説教。

 

 

「君主というのは数多の英雄賢才を操る者であり、野山を駆けて獣と戦う者だとは聞いたことがありません。万一の事があったらどうなさるおつもりですか!」

 

 

 

孫権はこの正論に対して「面目ない」と謝罪。これでようやく狩りをやめるのかと思いきや……今度は狩猟に使うための装甲車を作り出し、それに乗って狩りを楽しむようになりましたとさ。

 

しかも装甲車は接近戦には不向きなようで、結局虎が襲い掛かってきた時にはみずから相手をするという有り様。

 

 

張昭はこれも強く諫めましたが、孫権は笑ってばかりで答えなかったそうな。

 

 

 

 

第3ラウンド:酒宴の席

 

 

 

今度は酒の席での出来事。

 

孫権は酒乱として知られており、酒が入ると妙なスイッチが入ってしまう人でした。

 

 

その時の宴会でも、酔いつぶれた部下にぶっかけて「楼から転げ落ちるまで飲むぞ! 途中離脱は許さん!」と酒乱モード全開のありさまだったのです。

 

さて、そんな孫権の様子を見て張昭は憮然とし、最後には何も言わずに途中で帰ろうとしました。

 

 

当然、孫権はそれを許さず、「みんなで楽しもうとしてるだけだ。何が気に入らないんだよ」と苛立った様子で張昭に問い詰めます。

 

これに対し、張昭は見事なカウンターを炸裂。

 

 

「殷王朝の紂王(チュウオウ:酒池肉林の語源になった人)もそんな感じでしたな。彼もみんなで楽しもうとああいう宴を開いたのであって、悪事をしようと思ってしたわけではありますまい」

 

 

この一言で一気に酒が抜け、正気に戻った孫権。歴代でも有名な暴君と先ほどまでの自分の姿を照らし合わせ、「似た者同士じゃねえか」と口をつぐんで反省。すぐに宴会をお開きにしたのでした。

 

 

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第4ラウンド:蜀からの使者

 

 

 

このように厳しい事ばかり言う張昭は、フリーダムな孫権とは凸凹コンビとも言うべき間柄で、ある時ついに孫権の琴線に触れ、とうとう謹慎処分を食らってしまいました。

 

 

そんな事件がった少し後、同盟国の蜀から使者が孫権の元に到着。蜀の使者は祖国のすばらしさを次々と述べ、お国自慢を展開。

 

水面下での外交戦を仕掛けてきたわけなのですが……なんと悲しいかな、孫権の群臣らは蜀の使者の言葉に対し、口をつぐんでだんまり。誰一人として使者に言い返すこともせず、蜀との外交合戦は完敗に終わってしまったのでした。

 

 

この体たらくを終始玉座で見ていた孫権は、大いに落胆。

 

 

「こんな時、張昭がいたら……」

 

 

結局孫権張昭との和解を決め、翌日には早速張昭に使者を出し、両者はすぐに体面。

 

張昭は席を立って頭を下げ、孫権はひざまずいて謝罪。結局両者の確執は痛み分けに終わったのですが……そんな折に張昭は一言。

 

 

「心新たに、また諫言をしていきます。ご機嫌取りなど致しませんので、なにとぞよしなに」

 

 

張昭の大事さを痛感した孫権は、この言葉に対して謝罪を返すしかありませんでした。

 

 

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ファイナルラウンド:公孫淵事件

 

 

 

呉からはるか離れた北端にある遼東は、公孫淵(コウソンエン)なる人物が支配していました。彼は元々魏に臣従していたのですが……ある時、孫権に帰順したいという旨を伝えてきたのです。

 

これに対し、孫権は公孫淵を手なずけるため使者を送り、燕王の位を授けようと考えました。

 

 

しかし、これに反対したのが張昭

 

 

「公孫淵は魏に背きたいだけで、こちらに味方したいわけではありません。心変わりでもしたら、使者は返ってくることはありますまい」

 

 

孫権はこれに対していろいろ反論しますが、対して張昭もますます強固に反対を主張するばかり。ついに頭に来た孫権は剣に手をかけ激怒。

 

 

「お前のその態度が国をダメにするんだよ!!」

 

 

孫権の一方的な感情論に張昭も目に涙を浮かべ、

 

「ジジイが余計なことを口にするのも、あなたの母君にすべて託されたからこそなのですぞ!」

 

 

と思いのたけを爆発させました。

 

この時、張昭の真心に触れた孫権は心を打たれたのか、刀を投げ出して玉座から駆け降り、張昭と向かい合って二人して涙。

 

 

この時孫権51歳。張昭に至っては77歳。いい歳こいたおっさんとじーさんはお互い向かい合って大泣きし、この事件は幕を閉じた……かに思われました。

 

 

 

 

今回の喧嘩はこれでは終わらぬ

 

 

 

 

後日、あれだけの事態になったにもかかわらず、孫権は結局公孫淵に使者を派遣。しかも心変わりした公孫淵によって使者は殺されて魏への手土産にされるという最悪の結末を迎えてしまったのです。

 

孫権が結局使者を送ったのを知った張昭は、とうとうブチギレて職務放棄。家に閉じこもって出なくなってしまいます。

 

 

 

いつもならすぐ謝罪する孫権も、今回は簡単には引き下がらず。

 

 

「ああそうかい。それなら一生閉じこもっとけボケ老人!」

 

 

と、そういわんばかりに、張昭の家の前に土塁を築いて完全に閉じ込めてしまったのです。

 

 

これを見た張昭も、対抗して家の内側にも土を盛って門を封鎖ガキかお前ら

 

 

 

結局、公孫淵調略の結果は先述の通り。孫権の元にも、使者が公孫淵によって殺されたのを知り、自らの誤りを思い知らされたのでした。

 

 

孫権はさっそく、使者を送って張昭に詫びを入れます。が……

 

 

「知るかいボケ」

 

 

 

何度使者を送っても張昭は姿を見せず。自ら面会を求めても、「病気でお会いできません」と完全拒絶される有様。

 

 

 

これによってふたたび怒りが限界に達した孫権は、なんとも恐ろしい最終手段を行使。

 

なんと、張昭の家に放火したのです。

 

 

 

さすがに火事になれば張昭も出てくるだろうと思った孫権ですが、張昭は自分の家の門が燃えてもますます固く戸を閉じるばかり

 

 

無駄だと悟った孫権は慌てて火を消させ、それからは門前に居座って持久戦を展開。

 

 

ここまでされてはと、ようやく張昭は息子らに連れられて姿を現し、孫権が深く自責の念に駆られているのを見て、ようやく朝会に復帰するようになったのでした。

続きを読む≫ 2018/03/11 15:46:11

 

 

 

 

 

徐州の傑物

 

 

 

張昭の若かりし日は典型的な「好まれる官僚タイプ」だったようで、勤勉な学問好きで博学。儒教社会において理想の人物像として、徐州でもかなり高い名声を誇っていました。

 

 

当然、理想の逸材とあっては社会が放っておくはずもありません。20歳前後の時には孝廉(コウレン:地元推挙枠)に推挙され栄達の道が開かれます。……が、張昭はこれに応じず、結局中央官僚になろうとはしなかったのです。

 

というのも、当時の都は混迷の極み。下手に中央に出ても展望どころか我が身すらも危ういと踏んだのかもしれませんね。

 

 

 

なお、当時徐州で幅を利かせていた大物として、張昭と一緒に王朗(オウロウ)、趙昱(チョウイク)なる人物の名も挙がっていますが……このうち王朗と2人で「旧君の諱を避ける」という議題で盛大に議論をかわし、『風俗通』なる書物に内容が残るほどの素晴らしい討論を交わしたとか。

 

 

そんなこんなで地元の有名人としてしばらく居続けた張昭でしたが、徐州に割拠していた群雄・陶謙(トウケン)に目をつけられると、その立場にも暗雲が立ち込めます。

 

 

陶謙は張昭の噂を聞いて「こいつは使える」と判断し、張昭に対して中央宦官へのレールを用意してやりますが……すでに朝廷にお仕えする気がなかった張昭はこれを拒否。

 

これによって陶謙の不信を買った張昭は、なんと投獄されてしまいます。

 

 

結局、自分と名声を同じくする趙昱によって助けられますが……すでに張昭の居場所は徐州にはほとんどなかったのかもしれません。

 

 

 

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孫策の元へ

 

 

 

そんな折、徐州でも戦禍が激しくなっていき、戦いを嫌った名士たちもどんどん徐州を離れ、疎開していくという様相を呈してきました。張昭も、そんな人たちと共に徐州から脱出。

 

 

孫策(ソンサク)なる人物が新たに軍を興すと、参謀役として請われる形で出仕。長史(チョウリ)・撫軍中郎将(ブグンチュウロウショウ)として孫策軍に召し抱えられ、彼とはまるで旧友にも等しいような厚遇を受けることとなったのです。

 

 

この時、張昭は北方に残った名士らとまだ文通をしていました。しかも、向こうから送られる内容は張昭に対する賛辞ばかり。

 

「黙っていれば叛逆を怪しまれる。かといって見せびらかしても自慢にしかならない」

 

そう悩んでいたところ、どこからか孫策の小耳に情報が行き届き、それを聞いた孫策張昭を伝説級の宰相・管仲になぞらえ、「これだけの大物がうちにいるんだから、俺は天下も取れる」と言い放ったとか。

 

 

 

こうして自身の主を得た張昭孫策軍参謀として、自身と並び称された張紘(チョウコウ)らと共に参謀兼内政官として力を尽くしますが……その時は長く続かず、建安5年(200)、孫策は刺客に襲われて死去。

 

臨終の際に「駄目そうなら、最悪あなたが軍を引き継いでも構わない」と張昭に述べたうえで、弟・孫権(ソンケン)を後継者に指名。張昭孫権の後見人として、以後あらゆる意味で活躍を残すようになるのです。

 

 

 

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孫権との折り合いは……

 

 

 

さて、こうして孫権の後見人として働くこととなった張昭は、まず孫策の就いていた会稽(カイケイ)太守の役職を孫権に引き継がせる手続きを完了。そして、周囲に「跡取りは孫権」と大々的に触れ回り、反逆の芽を可能な限り摘み取ります。

 

その後、兄の死にショックを隠し切れない孫権の尻を叩きを叱咤激励し、馬に乗せて兵を整え、出陣させたのです。これにより、いよいよ周囲の家臣は孫権を次の当主と認識したのでした。

 

 

それからは孫策の時と変わりない業務についていた張昭ですが、孫権が車騎将軍(シャキショウグン)に任命されると、張昭も軍師に就任。常に孫権の補佐役的な立ち位置にいた張昭ですが……実は孫権との折り合いはよろしいものではなかったようです。

 

 

というのも、張昭は言ってしまえば清廉潔白で厳格な堅物。対して孫権は自由奔放で滅茶苦茶なところがあり、両者は何かと言い争いになることが多かったのです。

 

 

 

それでも張昭の忠誠は変わらず、黄初2年(221)に魏から「孫権を呉王に任ずる」という使者が来た時に、その使者の尊大な態度を咎めるなど要所要所で政治家としてのファインプレーを見せるのですが……結局孫権との溝は埋まらず。

 

 

周囲から「丞相(ジョウショウ)にはこの人を!」と強く勧められることが何度かありましたが、いずれも孫権が首を縦に振らず、結局は最大級の重臣でありながら丞相という大役を受けることはありませんでした。

 

 

 

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半分隠居の身なれど

 

 

 

孫権からの待遇には張昭自身もどこか思うところがあったのか、それとも老いか……孫権が帝に即位すると受けていた役職を全て返上。病気がちであることを理由に隠居を願い出ます。

 

しかし、孫権はそれを許さず、輔国将軍(ホコクショウグン)という張昭のための特別の席次を用意。朝廷に顔を出すこと自体は稀という半分隠居のような立ち位置になりましたが、それでもかなり高い序列に配されたのです。

 

 

 

また、張昭自身も完璧主義な性格は相変わらず。厳畯(ゲンシュン)なる人物が孫権に言われて幼い頃に読んだ書物の暗誦を行っている途中に割って入り、「物の道理がわかっとらんな」と自ら出しゃばり必要と思える部分だけを抽出して暗誦を開始。周囲を感嘆させたとか。

 

 

いっぽう、半隠居状態で暇な時間もできたため、家に閉じこもって著作に励むなど、プライベートでも充実した時間を過ごしていたようです。

 

 

 

そんな折、公孫淵(コウソンエン)の独立支援をどうするかで孫権とド派手に揉めたり(後述)と命懸けの漫才を行ったりもしていますが、老後は比較的平穏な生活をしていたのではないでしょうか。

 

 

 

そんな呉の長老である張昭も、嘉禾5年(236)には病没。御年81歳の長寿でした。簡素にするようにとの遺言通りに葬式は行われ、これには孫権も参加したと言われています。

 

諡は文侯とされ、後は子の張承(チョウショウ)が継ぐことになりました。

 

 

 

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人物像

 

 

 

陳寿の評には、以下のようにあります。

 

 

張昭の容貌は謹厳で堂々としており、孫権もつねづね「彼と話すときはいい加減なことは言えない」と言っていた。国中が彼を畏怖していたのである。

 

 

おおよそ、呉のお父さん的存在として君臨していたことが伺えますね。

 

まあ、そのお父さん的な性格が、孫権との命を張ったコントや漫才に繋がってしまうわけですが……。

 

 

 

何だかんだ、結局孫権とはいいコンビだったのかもしれませんね。たまにアクセルをフルスロットルしてしまう孫権に対し、まさに急ブレーキをかける役割を担った張昭

 

名士層とのパワーバランスか本人の希望か孫権自身の器の狭さか、結局丞相になることはありませんでしたが……それでも両者の間には一種の信頼関係があったのではないかと思われます。

 

 

 

出会うたびに子供もびっくりの壮絶な親子喧嘩を行う頑固親父と反抗息子。意外と、孫権との関係はそんなところで、折り合いはばっちりとれていたのかもしれません。

続きを読む≫ 2018/03/10 14:23:10
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