李厳 正方


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李厳 正方

 

 

 

生没年:?~建興12年(234)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 B 劉璋軍では護軍を任され、蜀の派閥争い節では「益州陣営筆頭」と呼ばれる人。戦争は強かったようだが、部下と揉め事を起こした記述がある。
武力 数万の賊を五千の兵だけで討伐し、しかも城まで救う人。留守番役筆頭格で北伐における出番はほぼないが、武名もあったのだろう。
知力 卒のない仕事ぶりから知力はあった。最後にバレバレの言い訳をかましたが、むしろ陰謀だった可能性も捨てきれない。ただし陸遜と互角というのは嘘。
政治 県令時代に実績が飛び抜けたいたのもあるが、蜀科制定メンバーの一人。司法にも詳しかった事が伺える。また、やたら幕府を持ちたがったらしく、この辺からも自分の統治能力への自信がうかがえる。
人望 当然ながら最後のやらかしから、蜀軍中ではボロクソに言われまくったことが窺い知れる。野心はあるが、実行するには当人の器用さが足りなかったようだ。

 

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李厳(リゲン)、字を正方(セイホウ)。有能な官吏で民衆からも良く思われていましたが、政界における立ち居振る舞いは不穏そのもの。はっきり言って、政治力や民衆の声望がある分、政権や名士からすれば危険人物です。

 

まあ、傍から見てるとこういう人は面白いのですがね。自分の官吏人生に止めを刺した事件ばかりが取り佐多されていますが、それ以外にも危ない匂いがする逸話はあります。

 

 

さて、今回はそんな李厳について見ていきましょう。

 

 

 

 

 

能吏李厳

 

 

 

李厳は、はじめは地元・荊州(ケイシュウ)の役人としてスタートを切り、その有能さであっという間に有名人になりました。その後は、各地の県でトップとしての仕事を歴任。まさにエリート官僚と言ってもよいキャリアを積んだのです。

 

その後曹操(ソウソウ)によって荊州が戦乱の憂き目に立たされると、李厳はそのまま西へと出奔。今度は益州(エキシュウ)にて劉璋(リュウショウ)のお世話になる事になりました。

 

この時に任されたのは、本拠である成都(セイト)の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)。李厳はここでも高い業績を上げて、一躍能吏として有名になったのです。

 

 

 

その後、益州もついに戦禍に晒されるようになります。というのも、劉璋が客将として囲っていた劉備(リュウビ)が造反。各地を占領しながら成都へと迫ってきたのです。

 

李厳は建安18年(213)、護軍(ゴグン:軍の監督役)に任命されて劉備討伐へと出陣。劉璋からは綿竹(メンチク)を守って戦う事を期待されましたが、李厳は軍勢を率い劉備に降伏。裨将軍(ヒショウグン)として劉備軍に寝返ってしまったのです。

 

 

そして建安19年(214)、ついに旧主である劉璋が劉備に降伏。晴れて益州は劉備のものとなり、降将として活躍した李厳は興業将軍(コウギョウショウグン)に出世。成都の東に位置する犍為(ケンイ)郡の太守に任命されました。

 

 

 

建安23年(218)には、数万もの部下を抱える大規模盗賊団が、李厳の治める犍為郡に侵攻。軍中の資中(シチュウ)という県を訪れ、悪さをするようになりました。

 

この時、劉備は北の漢中(カンチュウ)にて曹操軍との抗争にかかりきり。徴兵を行わない限りは、李厳の手元にいる五千の兵以外を動員できない状態だったのです。

 

 

が、李厳はそんな危機的状況においても、あえて徴兵を行わず五千の軍勢だけで盗賊団を討伐。首謀者を斬って団員を皆元の戸籍に戻すことに成功したのでした。

 

 

さらに越巂(エツスイ)郡の蛮族が領内に侵攻して城を取り囲むという事件が発生したものの、この時も李厳は部隊を率いて戦場に急行。彼らを蹴散らして領地を救援したのです。

 

 

この功績から李厳は輔漢将軍(ホカンショウグン)となり、章武2年(222)には尚書令(ショウショレイ:宮中文書の元締め役)となり、翌年に劉備が危篤となると、その子劉禅(リュウゼン)を支える屋台骨である諸葛亮(ショカツリョウ)の補佐役として後を託されたのです。

 

 

 

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蜀の後方を守る者

 

 

 

諸葛亮が本格的に政治の中枢を握るようになると、李厳は劉備の遺命に沿って中都護(チュウトゴ:諸軍事を司る司令官)として、処罰権限のひとつ仮節(カセツ)を与えられ、さらに黄禄勲(コウロククン:宿営、近衛隊の総括)の仕事を付与されました。

 

また、建興4年(226)には前将軍(ゼンショウグン)に昇進し、諸葛亮の北伐準備と連動して、軍の駐屯地を東の前線から成都寄りの江州(コウシュウ)に移動。そこに城を構えて後方支援の体制を強化したのです。

 

 

また、旧知であり劉備時代には一緒に上庸(ジョウヨウ)を攻めた仲でもある魏の孟達(モウタツ)に、「助力してほしい」と寝返りを訴える書状を送付。その心に揺さぶりをかけたことが史書に記されています。

 

とまあ、この寝返りは魏に看破されたことで失敗に終わったのですが……とにかく、李厳は諸葛亮の北伐を後方でバックアップ。上手く行くように後押しする役割を担い、それに忠実に動いていたのです。たぶん。

 

 

そして北伐が始まってしばらくの建興8年、李厳は将軍職でもトップクラスの栄誉と言える驃騎将軍(ヒョウキショウグン)に昇進。諸葛亮の軍事行動を支える右腕として、ついに武官でも最高位に限りなく近い地位へと上り詰めたのです。

 

 

またこの時、魏の曹真(ソウシン)らが漢中への侵攻を開始。諸葛亮はこれを阻止すべく、李厳にも二万の兵を率いての救援を要請。後方支援は息子の李豊(リホウ)にひとまず引き継がれ、李厳は漢中に出立しました。

 

 

……が、偶然の大雨に助けられ山道も崩落したことにより、魏軍は戦うことなく撤退。蜀軍は損耗無しで危機を乗り越えることができましたが、諸葛亮は翌年には再び魏を攻めることを計画。李厳はそれに備え、漢中に留まって政務を行うことになりました。

 

 

 

『諸葛亮集』ではいつの話かは知らないものの、李厳が諸葛亮に対して「このまま王の位に就いてしまっては?」という旨の手紙を送っています。

 

王は帝の下で独自の国家を持つ存在。ちょうど漢では曹操が王に就いたことで、数年後に後を継いだ息子・曹丕(ソウヒ)によって魏に成り代わられており、この誘いを受ければ諸葛亮が蜀に代わる帝国を築き上げるのも不可能ではありませんでした。

 

 

そんな危険な話であるため、諸葛亮は「魏が滅びて漢に時代が戻れば、あなた方他の功臣の出世と共にその話をあり難く受けるのですが、今はちょっと……」と断りを入れています。

 

しかしこれがもし本当だとしたら、李厳は蜀の国家転覆すら目論んでいても不思議のない人物と言えるかもしれませんね。

 

 

 

 

改名、そして凋落

 

 

 

北伐に備えての政務を行っている間、李厳は李平(リヘイ)という名に改名。わざわざ「平たい」という名前を使うあたり、何かあったのでしょうか?

 

ともあれ、李平と名を改めた李厳(ややこしいのでこちらに統一)が漢中に来た翌年の建興9年(231)、諸葛亮による大規模な北伐軍が発足。李厳はこの時漢中に留まり、軍勢を支える軍需品の輸送を一手に背負うことになりました。

 

 

しかしこの北伐のさなか、季節による長雨に見舞われて兵糧輸送は困難を極めます。結局兵糧が上手く運べなくなったことから、李厳は部下を諸葛亮の元に派遣して現状を報告。これを聞き入れた諸葛亮は、一大事に見舞われる前に軍を撤退させました。

 

 

が、ここで李厳は、とんでもない大チョンボをやらかそうとします。

 

「はて、何故戻ってこられたのです? 兵糧は足りていたはず……」

 

なんと自分で兵糧不足を伝えておきながら、いざ諸葛亮がもどると完全にすっ呆けてみせたのです。

 

しかもそれに前後して、劉禅にも「今回の撤退には、やはり敵軍をおびき寄せる意図があってのもののはずです」と事情を知らないフリして上奏。何考えてんだこいつ

 

 

しかしそんな李厳の残した書状を諸葛亮はまだ保管しており、これを整理して朝廷に提出したため、李厳の大嘘はあっさりバレてしまいます。

 

結局李厳は返答に窮して謝罪。息子の李豊は連座を免れましたが李厳は庶民に落とされ、梓潼(シトウ)郡に流されてしまったのです。

 

 

その後も李厳は復職を期待して時期を待っていたようですが、諸葛亮が建興12年(234)に死亡すると、望みが断たれたとばかりに発病、すぐに亡くなったのでした。

 

 

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うん、この人ヤバいね!

 

 

 

さて、名実ともに優れた宰相の元には、どうしても転覆をそそのかす有能な野心家がいるものですが……おそらく李厳は、そんな危険な官僚の一人だったのでしょう。

 

蜀の文官である陳震(チンシン)は「あいつ腹の底にトゲがあるっスよ」と忠告したり『季漢輔臣賛』にも「協調も意見の申し立てもせず、道義に外れたことをしやがった結果、世間から追放されて全部失った」とまあボロクソに書かれています。

 

まあ季漢輔臣賛は蜀を称えるものだから、害をもたらした人をボロクソに言うのは当然として……それでも、やはり野心が隠し切れない人物だったというのは間違いないでしょうね。

 

 

ちなみに陳寿の評によると、以下の通り。

 

 

才幹により栄達し、この上なく重宝された。だが最後の災難は身から出た錆である。

 

 

 

ちなみに最後の諸葛亮へのすっ呆けは、史書に書かれていることを信じる限りは、ただ自分が悪いと思われたくないだけの責任転嫁。これ以外に意味はありません。

 

しかし諸葛亮の上奏には「自分の幕府を開こうとしていた」という証言があり、また、諸葛亮と劉禅に対しても言う事がまるで違う。そして、李厳が保身と物欲のためだけにこんなことをするしょーもない小物でもなさそうな辺り、どうにも匂います。

 

 

完全にただの推測になりますが……李厳が放った謎の言い訳の狙いは、諸葛亮と劉禅および蜀朝廷の内部分裂だったのではないかと思われます。

 

劉禅自身は諸葛亮を深く信頼していましたが、諸葛亮の死後に李邈(リバク)なる人物が「国家を牛耳る奸賊がいなくなり、これで国は安泰です」と口走った逸話もあり、もしかしたら朝廷内では反諸葛亮派も跋扈していた可能性は低くはありません。

 

彼らの暴走によって諸葛亮が罷免あるいは逆賊認定されれば、蜀の体制は大きく変わります。

 

 

とすれば、李厳はこの突拍子もない言い訳によって、

 

 

1.諸葛亮の失脚

 

2.諸葛亮の反逆および彼を中心とした新国家の樹立

 

 

のいずれかを目指していた可能性もないとは言い切れません。まあ所詮はタダの妄想ですが……実際が何にせよ、食えない人物だったのは事実。

 

ちなみに蜀の法律である『蜀科』の制定メンバーにも組み込まれており、やはり政治や司法にも高い能力を持っていたことも確かでしょう。

 

 

それにしても、彼はいったい何が狙いだったのか……諸葛亮が虚言の証明に失敗したifとかも、ちょっと見てみたい気がします。

 

 

 

 

 

 

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