【馬超伝2】人の下にいる時弱い人


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【馬超伝2】人の下にいる時弱い人

 

 

 

 

蜀下の馬超

 

 

 

さて、馬超が基準を申し込むと、劉備は快く彼を迎え入れる準備をしてくれました。

 

馬超はそのまま劉備に迎えられ、軍を率いて成都に直行。劉備軍の包囲陣に加わることになったのです。

 

 

西涼での影響力こそ失ったものの曹操を苦しめた馬超のネームバリューは抜群で、彼が劉備軍に加わったと知ると成都に籠って防戦していた劉璋(リュウショウ)は即座に降伏。

 

劉備の蜀攻めの最後の1手は、猛将と名高い馬超の帰順となったのです。

 

 

もともと群雄であったという立場もあって、馬超は劉備によって征西将軍、そして以前と同じ都亭侯に任命。臨沮(リンソ)の地の統治を任されることになったのです。

 

 

 

そして建安22年(217)には、張飛(チョウヒ)らと共に漢中攻略の前哨戦となる下弁(カベン)の戦いに参加。しかしこの戦いは大敗北に終わったのもあって、馬超は目立った功績を立てることができませんでした。

 

 

後の建安24年(219)に劉備が漢中を占拠した際には、劉備の漢中王即位に際し、馬超は左将軍(サショウグン)に任命され、仮節(カセツ:軍規違反者の処罰権)が与えられました。

 

 

章武元年(221)、馬超は将軍職でもトップクラスの驃騎将軍(ヒョウキショウグン)に任命され、涼州に影響力を持っていたことが買われて涼州刺史に就任。

 

更なる期待を活躍されましたが、翌年には47歳で逝去。

 

臨終の直前に馬超は「一門は従兄の馬岱(バタイ)を除き、皆が曹操に殺されてしまいました。馬一族の長の座を馬岱に継がせてくださるなら、思い残すことはございません」と劉備に遺言しています。

 

 

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人物評

 

 

 

三国志メディアの多くでは、正義や善の資質を持ちながら曹操によって一族を滅ぼされた悲劇の武将という立ち位置で出ることも多い馬超。
しかしその実像はここに描いた通りで、創作のキャラ付けと実像のギャップからとことん悪く言われることの多い人物です。

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼についてはこう述べています。

 

 

自身の武勇に物を言わせた結果、一族を破滅に導いたのは残念な事である。

 

しかし自身は窮地を脱して安泰を得たという結末を考えれば、まだマシなのではないだろうか。

 

 

 

一応旧主である劉備についたのもあって評価は幾分甘めではありますが、それでも一族を滅亡に追いやった自身の行動に関してはしっかりと言及されています。

 

 

また、当時を生きた人々からの評価も軒並み親族殺しの罪が述べられており、馬超に反旗を翻した楊阜からは「親族を見捨てて主君を裏切り、西涼関中の将兵を虐殺した」と酷評されています。

 

張魯が馬超に娘を娶らせようとしたときにも「身内も愛せない奴に他者を愛せるものですか」と部下に反発されたり、どうしようもない奴としての逸話を後世捏造されたりと、とにかく馬超に対する風当たりの強さが当時の評からうかがい知れます。

 

 

どうしようもない奴として馬超が書かれている逸話は、「山陽公載記」にあります。

 

同書によると、馬超は厚遇されたのをいいことに劉備を下に見て、「玄徳」と字で呼び捨てたとかなんとか。

 

これに対して怒りを覚えた関羽張飛は、会議の際に重臣である自分たちがあえて劉備の護衛として側に侍立することで劉備の尊厳をアピールし、反省した馬超はそれ以降劉備に敬意をもって仕えたとか。

 

 

上記の話は「荊州にいる関羽がここに登場するのもおかしいし、二人が侍立しただけで馬超が状況を理解して反省するのもあまりにニュータイプ過ぎておかしい」として、裴松之によって創作として断定されていますが……

 

ともあれ、こんな作り話が広まってしまうくらい、当時の馬超は親殺しとして白い目で見られていたのでしょう。

 

 

 

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馬超の武勇

 

 

 

さて、叩いてホコリを巻き上げるだけというのもアレなので、いったん馬超の武勇に関する逸話でも見てみましょう。

 

若い頃こそ閻行にボコボコにされたり負傷したりとなかなか振るいませんでしたが、独立勢力として動く際の馬超の武勇には目を瞠るものがあります。

 

 

絶妙なタイミングで曹操軍に強襲を仕掛けて曹操自身も戦死を覚悟するほどだったとあるように、上記の戦績だけで弱いと決めつけることはできません。たぶん閻行が頭おかしいくらい強かったんや

 

 

そして安定まで攻め込んだ曹操が別の反乱に備えて帰る際に、楊阜は曹操への忠言として馬超の危険性を以下のように訴えています。

 

 

「馬超は前漢の勇将である韓信や黥布のような極端な強さを持ち得ています。さらに羌族への影響力も強いため、警戒を緩めれば西域は再び馬超に取られてしまうでしょう」

 

 

その行動を非難する楊阜も、馬超の武勇に関しては非常に高く買っていたのです。

 

 

 

また、荊州にいた関羽も馬超の武名には非常に強い嫉妬心興味を抱いており、諸葛亮に対して「馬超の強さはどれくらいだ?」と聞くなど、その影響力やネームバリューは並大抵の武将のものとは比較にならないほど高い物でした。

 

 

だからこそ劉備軍にも暖かく迎え入れられ、その知名度を買われて涼州刺史となり、ゆくゆく北へ目を向ける時にスムーズに統治が行きわたるための役割を期待されたのでしょう。

 

 

 

親殺しという儒教上の禁忌を犯しながらも圧倒的武名もあって生き永らえて重宝され、最期にはそんな自分への責め苦とも後悔ともとれる言葉を残した馬超。

 

その胸中はいかほどのものだったのでしょうか?

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