入門者にもわかりやすく!これがけっこう難しい……


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天才軍師・諸葛亮は魏に勝つ可能性はあったの?

 

 

 

 

反三国志という書物では、蜀は魏呉を圧倒し、ついには天下を統一するというオリジナルストーリーが展開されます。

 

そしておなじみ・三国志演義でも、蜀は勝てないまでも、天才軍師・諸葛亮の活躍により魏を圧倒し、あと一歩まで追い詰めるに至ります。

 

正史三国志でも、諸葛亮主導の元手堅い勝利を重ね、完勝には遠く及ばないまでも、ある程度の有利に戦いを推し進めました。

 

 

で、こういう話をして思うのが、

 

「蜀って、魏に勝てる可能性があったのだろうか?」という疑問。

 

 

今回は、焦げまんじゅう的に「蜀の勝ち目」について考えていきたいと思います。

 

 

 

 

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結論:無理

 

 

 

考えていこうといった矢先にこれである。

 

 

まあ演義やそれに準ずる、蜀がハイパーチートと化すようなご都合主義夢のような展開があるならまだしも、

 

タイトルにある通り「諸葛亮が」というくくり、すなわち北伐を行っている時代として考えると、とてもではないですが不可能です。

 

 

まあ曹真、張郃、司馬懿、郭淮といった対蜀戦線の面々が軒並み急死し、しかも魏の各地で大規模な反乱が頻発、これを機に呉や異民族が一斉に魏の領地に侵攻するくらいの奇跡が起きれば、案外どうにかできるかもしれません。が、はっきり言ってそんな虫のいい奇跡、起こるはずがないわけでして……。

 

 

 

当時の蜀は、三国の中でも最弱と言ってもよく、人口、生産力、兵力のすべてが圧倒的に不足していました。

 

蜀末期の推計によると、魏:呉:蜀の戸籍人口の対比は、4:2:1とも言われており、呉蜀の総力を結集してもなお、魏には届かない有り様。とてもではないですが、まじめにやって勝てる道理はありません。正直、何をやってもジリ貧でしょうね。

 

現に蜀は諸葛亮が亡くなった後、30年ともたずに滅亡しています。

 

 

時代がさかのぼり、関羽が荊州から北上軍を出している頃ならば、あるいはと思われますが、これも呉が領有権を主張している荊州を所持する条件がある以上、呉との同盟関係も危ういので厳しい。

 

そもそも、呉が領有権を持ったまま蜀に荊州を「貸与」という形で譲っている以上、ひと悶着は絶対に避けられないと言えるでしょう(蜀も蜀で、荊州が地元の名士を大勢抱えている)。

 

 

以上のことから、蜀の打倒・魏帝国は限りなく不可能に近く、とてもではありませんが今回の命題が「達成可能」という形で果たされることは、まずもって無いと思われます。

 

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魏延の長安奇襲策の勝率

 

 

 

 

それでも、どーしても勝ちたいという場合に持ち出されるのが、この長安奇襲策。

 

魏延という猛将が編み出した策で、結果的に諸葛亮は「危険」として棄却した策なのですが……「もう死んでもいいから勝ちたい」という場合には、私としてはこれしかないのかなと思います。

 

 

作戦の内容は、まず本隊とは別に奇襲部隊を編制。そしてその奇襲部隊が、谷間の狭い道を通って、魏の西側の大都市・長安を強襲、一気に制圧し、防備を整えて、広い街道沿いを制圧しながら進む本隊の長安到着まで待つというもの。

 

 

結論から言って、長安の奇襲は不可能とは言い切れないでしょう。

 

というのも、もうその時代よりも30年以上前のことでかつ長安が混乱のさなかにあったという前提条件こそありますが、実際に李傕(リカク)らが電光石火で長安を攻め、見事に陥落させることに成功させています。

 

しかも第一次北伐の時はまだ魏も侵攻を警戒しておらず、長安は手薄。ましてや軍事的才覚に乏しい夏侯楙(カコウボウ)が長安を守っており、直前まで気付かれずに奇襲を成功させれば、あるいは陥落させる可能性はあったのです。

 

 

 

ただし、問題は「奪った長安を本隊到着まで守り抜く」という点。

 

 

長安は魏蜀の戦争における要衝。つまり、魏にとっても大事な土地というわけです。そこが奪われたとなると、魏軍は大兵力を引き連れて、長安奪還のための大攻勢をかけることが予想されます。

 

対して迎え撃つのは、蜀軍の別動隊。ただでさえ劣っている戦力をさらに分けて、圧倒的劣勢の中で戦うのです。しかも奇襲で奪った以上、退路も補給路もまともに確保できない状態。いかに戦争にめっぽう強い魏延と言えども、守り抜くのはかなりの困難を極めます。

 

 

ただし、もし圧倒的に不利なこの掛けに勝てば、魏は西方の領地を一気に失陥。本拠地をいつでも狙える位置に、一番厄介な敵を抱え込むことになります。

 

当然、勝ち同然の戦を落とした魏国内では少なからず反乱が起こるでしょう。そして、呉もそれほどの好機を見逃すとも思えません。もしかすれば、東西から一気に弱った魏の戦線を押し上げることも可能だったのかもしれないのです。

 

 

上手くいっても勝てる見込みは薄く、失敗すれば滅亡一直線。どう考えても普通ならば選択肢にも上がらない大博打ですが……蜀が「勝つ」という点にこだわるならば、もはや馬鹿になるしかなかったんでしょうね。

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