裴松之先生の賈詡評について考えてみる
裴松之(ハイショウシ)、字を世期(セイキ)。元々三国志は起きた事実のみを淡々と語る、良くも悪くも無駄のない史書でしたが、それを細かく肉付けし、昨今まで続く三国志熱の発端ともいえる物へと仕立て上げた人物です。
彼は元々簡素だった三国志の記述に対して、時に所感を述べ、時にあまりにアレな資料には毒舌セルフツッコミを入れながらも大小様々な異説や逸話を取り入れ、その世界を膨らませた第一人者です。
言うなれば、三国志編纂において陳寿に次ぐ、第二の作者とでもいうべき存在でしょう。
…………が、そんな彼の三国志注も、一部黙っていられない部分が含まれています。
それが、特定人物に対する暴走ともいえる嫌悪、憎悪です。
例えば、二宮の変で孫覇(ソンハ)側に属した全琮(ゼンソウ)や呂岱(リョタイ)らは「語る価値すらない極悪人」と述べてみたり、呉の功臣の一人である陸遜(リクソン)らに対しても事あるごとにその行動を批判し、「狡猾で残虐な冷血策士」という印象を与えます(冷徹なのは間違いないか……)。
さて、そんな中で、今回スポットを当てる賈詡(カク)も……まあ、「お前のそれただの感情論じゃん」と冷ややかにツッコミ入れたくなる事書いてたりしますね。
陸遜評に関してはおいおい語るとして……今回は賈詡に対するヘイトに対して、サイト名らしく暴走気味に所感を述べていきましょう。
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長安奇襲についての意見
賈詡は董卓(トウタク)死後にその側近である李傕(リカク)たちと共におり、董卓を暗殺した面々から「一人残らず皆殺し」という宣告を受けていました。
連中はその時長安にて帝を奉戴していたため、必然的に「董卓がいた涼州は悪党の巣窟だから一掃しようぜ」という意見の元、賈詡たちは悪者と断定されたわけですね。
で、その結果李傕らは「軍を解散して逃げよう」という流れになりますが、ここで賈詡は「バラバラに逃げても各個に撃破されて殺されるだけです」と反対し、その代わりに出した案が長安奇襲作戦。
いっそこのまま殺されるのを待つくらいなら、いっそのこと手持ちの軍でイチバチの賭けに出て、自分らの命の危険を根絶しようぜ、と。
ようは賈詡の言っている内容をまとめるとこうなるわけですね。で、その結果は成功。李傕らは無事に長安を陥落させて、反涼州の面々は散り散りになり、偶発的に李傕らが帝を奉戴し天下に号令をする立場になりあがりました。
で、そんな賈詡らの行動に対する裴松之のコメントがこちら。
うん、まあ結果論としてその通りなんだけどね。
実際に、賈詡自身はともかくとして……一緒にいた李傕らの董卓子飼いの面々は、政治力皆無の上暴君としての素質を持ち合わせていました。
しかもこの二つの汚点は董卓以上に強烈で、李傕らの政治の中で人々は飢えに苦しみ、死体も野ざらしにされる有様だったとか。しかも賈詡が離脱した後は内ゲバも起こしてより荒廃するというありさま。
確かに、この後の地獄を見ていると、裴松之の言う通り賈詡の一言のせいで天下は大荒れしたと言えるでしょう。
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……が、ここでよく考えるべき点は、見知らぬ人々のために、すすんで自分から命を捨てられる人間が何人いるかということ。
賈詡がこの献策をした当時、先述の通り反董卓派の面々が天下を取って暴走。涼州人の粛清を唱え、「皆殺し」を提唱していました。
つまり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。董卓への余りある反感が、彼が死んだことでその出身地の人間にまで向けられていたわけですね。
実際にこの時行動を起こした李傕軍は、当初はほんのわずかな手勢でしかなかったにもかかわらず、長安に着くころには10万にまで達していたというのですから……涼州の人間はどれだけ気が気でなかったかがわかるような気がします。
それに、少なくとも賈詡は赤の他人のために自己犠牲で死ねるタイプではなかったようですが、この後李傕らからの褒賞や官位といった「命を助けられたお礼」をすべて固辞した辺り、個人的に思うところはあったのかもしれません。
あるいは、賈詡の行動を見るに、「自分の身を漢室のそばに置いて、帝を自分でも手の届く範囲で保護しよう」とすら考えていた可能性もあるとかないとか……。
何にせよ、こうして李傕らのグルとして長安を落とした後、賈詡は一貫して態度を一新し、李傕でなく漢王朝に仕える態度を一貫している辺り、本人の言う通り単に「死にたくないから策を練った」だけなのかもしれませんね。
裴松之の言う事も結果論としてごもっともですが……これに同調するならあえて問いたい。
「お前は、今後見知らぬ人の迷惑になるかもしれないからといって、じゃあ今この場で死ねるのか」と。
赤壁の戦いについて
さて、赤壁の戦いと言えば、もう有名なアレですね。華北を統一し、ある意味緩衝地帯のようになっていた荊州も降伏、曹操は圧倒的な勢力を手にしました。
しかし、孫権軍の都督、周瑜が劉備軍と協力して強大な曹操軍を大敗北に追いやったという戦いです。
で、肝心な賈詡はこの戦いでどうしていたかと言うと……戦前に反対意見を唱えていました。
その主張は、「すでに我が軍の名声も軍事力も、並ぶ者はおりません。ここはまずは荊州の豊かさを活かして軍備、領民の慰撫に徹しましょう。そうして隙をなくせば、江南は頭を下げて帰順してきます」
というもの。
これに対しても裴松之は突っかかって批判しており、「この献策は間違いだ」と述べています。その主張がこちら。
時節を見るに、この発言は大間違いだ。
まず西の馬超や韓遂らは虎視眈々と曹操の隙を狙っていて、曹操が荊州にとどまっていれば、奴らが向かってくるのは明白だ。
それに荊州は元々、劉備と孫権の影響力が高く、本来は彼らの騒乱の地になるはずだった。赤壁の戦いの後に曹仁が江陵で敗北したのがその証拠だ。
そんな連中を「慰撫」できるとか、その結果江南が「頭を下げる」とか草生えるわ。
むしろこの時の曹操の判断は正しいに決まってる。敵が曹操軍に対して震え上がっている、あの瞬間こそが好機だったのだ。
だからあの負けは曹操の判断ミスではなく、運がなかっただけ。
そういえばこの後、劉備の蜀を攻めるかどうかで、劉曄(リュウヨウ)が曹操に攻撃を進言してたよね。あの策は曹操が採用しなかったとはいえ、世間の人々が「劉曄は正しい」と発言している。
ほれ見ろ。似たような状況で、「攻撃が正しい」って結論が出てる。だから賈詡のこの意見は間違いなんだよ。
…………坊主憎けりゃってやつか←
まず事実として、赤壁に負けた後の曹操は荊州の南部を失陥。その後、馬超らに攻め込まれて西涼軍閥との大激闘にもつれ込んでいます。
こういう結果論を見れば、確かに言ってる内容は筋が通っている……と思えてきますね。
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ただまあ、個人的な意見を述べると……さすがにここまで来るとこじつけにしか思えません。
というのも、いつ裏切るかわからないとはいえ、当時馬超ら西涼軍閥とは同盟関係。しかも馬超の父である馬騰らの一族は曹操庇護下の漢室に直接奉仕している身で、裏切ると彼らの身が無事ではありません。
当然、韓遂からも息子らを人質に取っており、これもまたまともに動けるかと言うと微妙。
馬超と韓遂は軍閥の二代巨頭と言ってもよく、その二つをしっかり押さえている以上、裏切りが行われるかどうかは怪しいところ。
彼らは最終的には裏切りましたが、あれはあくまで曹操が軍を西に向けたため、馬超らが危機感を覚えたというのが主な理由です。
まあこの叛逆理由が建前であれ本音であれ、軍を動かす大義名分がない以上、裏切りは非常に難しかったのではと私は思うのです。
次に荊州の影響力について。
荊州は元々、孫権の父である孫堅が武力占拠した土地であり、まあ孫家の影響力が少ないとは思えません。
一方の劉備も、曹操の追撃を逃れるにあたって荊州名士を多く抱え込んでおり、間違いなく荊州においては非常に高い声望を得ていたと言えるでしょう。
……が、荊州名士を召し抱えているのは曹操も同じこと。というのも、荊州が降伏を宣言した時、その名士層も多くが流れ込んでいたのです。
中でも、荊州の元主・劉表(リュウヒョウ)の一番の功臣である蔡瑁(サイボウ)や懐刀であった蒯越(カイエツ)など、影響力の強い人物も多いのです。
とはいえ、どうにも荊州南部の影響力は劉備が圧倒的なようなので、やはりその地は彼に取られてしまう可能性はありますが……それでも三国鼎立には、幾分有利な形で持ち越せたかもしれません。
一方の孫権は……これはあくまで予想ですが、父・孫堅が死んだときにあっさり荊州全土が劉表に靡いた辺り、もしかして孫一門は荊州であんまり人気がなかったのかなと邪推してしまいます。
どちらにしても赤壁の戦いでは曹操の影響力が低下したのは間違いなく、その結果苦戦する羽目になった正史を見ても、一概に間違いとは言えないというのが私の意見ですね。
まあ孫権陣営も当時は懐刀の張昭(チョウショウ)が降伏論唱えてみんなそれを黙って聞いていたくらいですし、曹操軍が強くなりすぎて手が付けられなくなると、降伏の可能性もあったかもしれませんね。
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誰がおがらの光じゃ
トドメとばかりに、裴松之は最後に賈詡をこう切り捨てています。
こんな奴を荀彧や荀攸と同格にするのは論外。
なんか陳寿は荀攸と一緒に彼を賞賛していたが、人格面での格が違い過ぎる。
荀攸は夜の帳を照らす宝石の輝きだが、賈詡のはいうなればおがらの光だ。
これだけ格の差があるにもかかわらず同列に並べるのは、やっぱりおかしい。
こ こ ば っ か り は 絶 対 お か し い
ここに関しては感情論と断じてよいでしょう。まあ「賈詡は荀彧らより郭嘉や程昱と並べるべき」という意見には大方同意しますが、ここまで口汚く罵るのは、プロの歴史家としてナンセンスでしょう。
……いや、裴松之自身に対しては素直に尊敬していますよ? ここまで三国志を広めた第一人者で、こういう毒舌は時に小気味よくも写ります。
でも気に入らないから全否定はさすがにダメです。いくら素晴らしい人だからと言ってもこれはダメダメです。
というわけで、今回は私の言いたいことを、裴松之と同じ感情論半分、暴走半分に語らせていただきました。
私正式な学者じゃないから別にいいもん←屁理屈
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