荊州謀略合戦
さて、魯粛の後任として彼の配下の兵士や役職を受け継いだ呂蒙でしたが、やはり目下最大の厄介事と言えば関羽。
孫権が北上して魏を打ち倒す足掛かりとしても肥沃で資源豊富な荊州は必要不可欠。これを奪うためには、何としても劉備との同盟を一時破棄し、関羽を追い散らす必要があったのです。
呂蒙はさっそく荊州攻略の準備に取り掛かり、まずは関羽の油断を誘うため、彼には下手に出て友好関係を固めます。そして「呂蒙は関羽よりも劣る」というイメージを本人に植え付けさせ、裏では着々と計略を練り上げ、機会を待つことにしました。
そして建安24年(219)、いよいよ関羽は北に目を向け、樊城(ハンジョウ)に籠る曹仁に攻撃を開始。絶好の機会が訪れたのですが……実はこの頃、すでに呂蒙の体は病にむしばまれており、先は長くなかったのです。
だからこそ、早期決着が望ましい。そう考えた呂蒙は、さらなる計略を関羽に仕掛けます。
なんと、自身の病をあえてカミングアウトし、関羽の更なる油断を誘発。1度本当に孫権の元に帰参することで「呂蒙が死にかけている」と関羽に錯覚させ、対孫権の守備軍をさらに前線に投入させて国境から引き剥がすことに成功したのです。
こうして着々と準備が進む中、兵糧不足に陥った関羽はなんと呉の領地で略奪を働き、孫権が介入する大義名分を自ら作り出してしまいました。
こうして満を持した孫権によってふたたび荊州に送り出され、呂蒙はついに最後の大勝負に臨むことになったのです。
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関羽絶対殺すマン
関羽討伐の軍を指揮することになった呂蒙はさらなる念を押して、民間人の商船になりすまして進軍。動きがバレる前に決着をつけるための強行軍で劉備領に侵入し、見張りの守備兵はすべて縛り上げて隠密に侵入していきました。
そして関羽に気付かれる事無く南郡まで潜入し、関羽に対して恨みを持っていた守将らを投降させて占拠。関羽に察知されてしまう前に荊州南部の必要な都市をまたたく間に抑えてしまったのです。
迅速に関羽の背後を奪い取った呂蒙は、その後領民の慰撫に尽力。飢えている民には衣服や食糧を無償提供し、病気の者には医者を派遣するなど、徹底して荊州における孫権の影響力を高めるように努め、人心を完全に靡かせてしまったのです。
この時兵による略奪も一切禁止させており、笠を一つ盗んできた兵士も涙を流しながら斬るほどに気を配った様が本伝には綴られています。
さて、こうして呂蒙に民心が流れてしまった関羽はいよいよ窮地に陥り、使者を送って抗議の声を上げましたが、これも呂蒙によってすっかり懐柔され、関羽の味方はまたたく間に減っていき軍は壊滅。
孫権自身も動いていると知った関羽は慌てて麦城(バクジョウ)に逃げ込んだものの、すっかり周囲は敵だらけとなっていました。
それでも一縷の望みをかけて逃亡を図った関羽でしたが、孫権軍によって逃げ道を封じられたためあえなく捉えられ、そのまま処断。呂蒙の策により、荊州南部の動乱は孫権の勝利に終わったのです。
この功績によって呂蒙は南郡太守(ナングンタイシュ)、孱陵侯(サンリョウコウ)に昇進し、銭1億と黄金500という莫大な褒賞を与えられました(というか断っても押し付けられた)が……もはや病魔によって呂蒙の身体は限界を迎えており、その最期も間近に迫っていました。
孫権も賞金を懸けて呂蒙の病を治そうとし、壁に穴をあけて呂蒙の容体を自らチェックするほどの(!?)懸命さを見せましたが、その甲斐空しく呂蒙は死去。享年42。
葬式は遺言通り簡素に済まされ、孫権からの褒賞はすべて返還。息子の呂覇(リョハ)がその後を継ぎました。
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人物評
呂蒙は基本的に関羽の仇として現代人からの人気はよろしくないですが……少なくとも歴史に名を残した人物としては、非常に大きな存在と言えるでしょう。
陳寿は、彼について以下の評を残しています。
勇敢であると同時に策略に秀で、軍略というものをしっかりと理解していた。
若いうちは思慮が浅く突発的な人殺しもしたが、後には自分をしっかりと抑えて行動できる国家レベルの大器となり、ただの武将に収まらなかった。
また、孫権も、後に陸遜と会話した際に呂蒙をこのように述べています。
後世の評価では、
1.関羽を殺した張本人
2.荊州奪還は夷陵の戦いと魏の介入リスクを考えると1種の博打だった
と、この2点から微妙な評価に落ち着きますが、1流の将帥の1人であることは疑いようもありません。
1は感情論だから歴史の議論では語るに値しないとして(!?)、呂蒙の客観的な評価が分かれてしまうのは2。
もともと荊州問題は複雑なところで、呉からすると奪えば蜀の報復と魏の侵攻の板挟みで危険、取らなきゃ長年にわたって国力的にも地勢的にも圧倒的な不利を強いられるという、「悪手を取るか最悪手を取るか」の難しい問題でした。
だからこそ議論が割れてしまうわけですが……まあ何にしても、呂蒙の戦術的能力に関してはとてもケチをつけられたものではない。少なくとも短期的なスパンでの物の見方は、もはや並の将では対抗できないほどに卓越していたのは間違いありません。
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ただ統合だけがすべてでない?
皖城攻略から少し遡った時の事。呂蒙の駐屯地の近くにいた軍の指揮官が3人も戦死するというアクシデントがありました。
しかもその3人はいずれも子供が未成年。
そこで孫権は、その3人の軍勢を呂蒙に統合しようとしましたが……なんと呂蒙は固辞。
「3人とも孫呉のために戦って果てたのです。その軍を無くすなどとんでもない」
呂蒙がこう訴えかけること実に3回。孫権はついに折れ、それぞれの軍を残すことを決定。
その決定を聞いた呂蒙はすぐに教育係を選定し、それぞれの指揮官の子供に派遣したのです。
若い頃はガツガツしていた呂蒙も、時が経てば「自分が-!!」という思いはすっかり鳴りを潜めたようですね。
蒙ちん根に持たない?
若い頃の呂蒙は浅学であまり周囲からいい印象を受けておらず、上奏文はいつも口頭で人にかかせているほどでした。
そんなわけであえて告げ口で評判を落とされることもあり、例えば蔡遺(サイイ)なる人物もその一人でした。
しかし、当の呂蒙はケロっとしており、根に持たず。逆に自分が出世すると蔡遺を推薦し、孫権は「故事にそんな話があったね」と笑いながら呂蒙の推薦をそのまま受諾したのです。
また、甘寧の素行不良や命令無視が孫権の癪に障り、「あの野郎罰してやる!」と怒りを買ってしまったときも、呂蒙は甘寧を弁護。
「あれは素行不良ですが、天下にあれほど勇猛な将はほとんどいません。天下平定のため、ここは堪忍してやってください」
孫権は呂蒙の言葉を信用し、甘寧を厚遇。これによって、甘寧は戦争にて縦横無尽の働きを見せることができたのです。
……もっともそんな呂蒙も甘寧には手を焼いており、一時は「あいつぶっ殺す!」とマジギレしたりもしたのですが。