呂蒙 子明


このエントリーをはてなブックマークに追加

呂蒙 子明

 

 

生没年:熹平7年(178)~建安24年(219)

 

所属:呉

 

生まれ:豫州汝南郡富陂県

 

 

 

勝手に私的能力評

 

呂蒙 猛将 荒くれ 知勇兼備 晩成 樊城の戦い 関羽 晩成

統率 S 若い頃から兵をまとめる力はあったようだが、教養人となってからは手が付けられないほどの戦上手になった。
武力 A 逃げる敵将を船で追って自分で討ち取る程度の能力。
知力 A+ ただの無教養の馬鹿が、気付けば儒学者顔負けの教養人に……関羽を討ち取る際の背面奇襲は見事の一言に尽きる。
政治 C こちらも無才の状態から、やはりある程度以上の力を手にしたのは間違いない。劉備の思惑を読み切るのは、馬鹿にはできない芸当だろう。
人望 A 他者へのアピール方法を知っていたあたり、効率的に名声を得ていた事だろう。関羽を斬ったことは現代では逆風だが、呂蒙らの事情を考慮せずに叩くのは酷である。

スポンサーリンク

 

 

 

呂蒙(リョモウ)、字は子明(シメイ)。孫権(ソンケン)にとっては派閥と無関係の稀有な存在であり、イノシシ武者だったのにいつしか知恵を得て国士と呼ばれる名将に。そしてついには関羽(カンウ)を斬って呉にとっても大きな礎を築いた大人物……なのですが、昨今の注目度は功績と見比べても明らかに見劣りします。

 

 

やはり三国志でも神格化されまくっている関羽を斬ったというのがネックになっているのか……

 

 

演義から入った人にはクソだ逆MVPだと散々ボロカスに言われ、とにかく関羽が嫌いな人には神の如く持ち上げられてるかと思えば「呂蒙ごときに殺されるとかww」みたいな評価に落ち着くという何とも残念な有様。

 

 

 

世間の評価が絶対でないことをまさに体現している名将、呂蒙。ここでは、彼の記述を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

荊州謀略合戦

 

 

 

さて、魯粛の後任として彼の配下の兵士や役職を受け継いだ呂蒙でしたが、やはり目下最大の厄介事と言えば関羽

 

孫権が北上して魏を打ち倒す足掛かりとしても肥沃で資源豊富な荊州は必要不可欠。これを奪うためには、何としても劉備との同盟を一時破棄し、関羽を追い散らす必要があったのです。

 

 

 

呂蒙はさっそく荊州攻略の準備に取り掛かり、まずは関羽の油断を誘うため、彼には下手に出て友好関係を固めます。そして「呂蒙関羽よりも劣る」というイメージを本人に植え付けさせ、裏では着々と計略を練り上げ、機会を待つことにしました。

 

 

 

そして建安24年(219)、いよいよ関羽は北に目を向け、樊城(ハンジョウ)に籠る曹仁に攻撃を開始。絶好の機会が訪れたのですが……実はこの頃、すでに呂蒙の体は病にむしばまれており、先は長くなかったのです。

 

 

だからこそ、早期決着が望ましい。そう考えた呂蒙は、さらなる計略を関羽に仕掛けます。

 

 

なんと、自身の病をあえてカミングアウトし、関羽の更なる油断を誘発。1度本当に孫権の元に帰参することで「呂蒙が死にかけている」と関羽に錯覚させ、対孫権の守備軍をさらに前線に投入させて国境から引き剥がすことに成功したのです。

 

 

 

こうして着々と準備が進む中、兵糧不足に陥った関羽はなんと呉の領地で略奪を働き、孫権が介入する大義名分を自ら作り出してしまいました。

 

 

こうして満を持した孫権によってふたたび荊州に送り出され、呂蒙はついに最後の大勝負に臨むことになったのです。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

関羽絶対殺すマン

 

 

 

 

関羽討伐の軍を指揮することになった呂蒙はさらなる念を押して、民間人の商船になりすまして進軍。動きがバレる前に決着をつけるための強行軍で劉備領に侵入し、見張りの守備兵はすべて縛り上げて隠密に侵入していきました。

 

 

そして関羽に気付かれる事無く南郡まで潜入し、関羽に対して恨みを持っていた守将らを投降させて占拠。関羽に察知されてしまう前に荊州南部の必要な都市をまたたく間に抑えてしまったのです。

 

迅速に関羽の背後を奪い取った呂蒙は、その後領民の慰撫に尽力。飢えている民には衣服や食糧を無償提供し、病気の者には医者を派遣するなど、徹底して荊州における孫権の影響力を高めるように努め、人心を完全に靡かせてしまったのです。

 

 

この時兵による略奪も一切禁止させており、笠を一つ盗んできた兵士も涙を流しながら斬るほどに気を配った様が本伝には綴られています。

 

 

 

さて、こうして呂蒙に民心が流れてしまった関羽はいよいよ窮地に陥り、使者を送って抗議の声を上げましたが、これも呂蒙によってすっかり懐柔され、関羽の味方はまたたく間に減っていき軍は壊滅。

 

孫権自身も動いていると知った関羽は慌てて麦城(バクジョウ)に逃げ込んだものの、すっかり周囲は敵だらけとなっていました。

 

 

それでも一縷の望みをかけて逃亡を図った関羽でしたが、孫権軍によって逃げ道を封じられたためあえなく捉えられ、そのまま処断。呂蒙の策により、荊州南部の動乱は孫権の勝利に終わったのです。

 

 

 

この功績によって呂蒙は南郡太守(ナングンタイシュ)、孱陵侯(サンリョウコウ)に昇進し、銭1億と黄金500という莫大な褒賞を与えられました(というか断っても押し付けられた)が……もはや病魔によって呂蒙の身体は限界を迎えており、その最期も間近に迫っていました。

 

 

関羽討伐からほどなくして呂蒙は病に倒れ、容体は悪化。

 

孫権も賞金を懸けて呂蒙の病を治そうとし、壁に穴をあけて呂蒙の容体を自らチェックするほどの(!?)懸命さを見せましたが、その甲斐空しく呂蒙は死去。享年42。

 

葬式は遺言通り簡素に済まされ、孫権からの褒賞はすべて返還。息子の呂覇(リョハ)がその後を継ぎました。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

人物評

 

 

 

呂蒙は基本的に関羽の仇として現代人からの人気はよろしくないですが……少なくとも歴史に名を残した人物としては、非常に大きな存在と言えるでしょう。

 

陳寿は、彼について以下の評を残しています。

 

 

勇敢であると同時に策略に秀で、軍略というものをしっかりと理解していた。

 

若いうちは思慮が浅く突発的な人殺しもしたが、後には自分をしっかりと抑えて行動できる国家レベルの大器となり、ただの武将に収まらなかった。

 

 

また、孫権も、後に陸遜と会話した際に呂蒙をこのように述べています。

 

若い頃は勇敢なだけの人間だと思っていたが、成長するにつれて学問も身に着けてとんでもない策士になった。言論の才覚は周瑜に次ぎ、特に関羽を捕らえたという点では魯粛に勝る。

 

 

 

 

後世の評価では、

 

 

1.関羽を殺した張本人

 

2.荊州奪還は夷陵の戦いと魏の介入リスクを考えると1種の博打だった

 

 

と、この2点から微妙な評価に落ち着きますが、1流の将帥の1人であることは疑いようもありません。

 

 

1は感情論だから歴史の議論では語るに値しないとして(!?)、呂蒙の客観的な評価が分かれてしまうのは2。

 

もともと荊州問題は複雑なところで、呉からすると奪えば蜀の報復と魏の侵攻の板挟みで危険、取らなきゃ長年にわたって国力的にも地勢的にも圧倒的な不利を強いられるという、「悪手を取るか最悪手を取るか」の難しい問題でした。

 

 

だからこそ議論が割れてしまうわけですが……まあ何にしても、呂蒙の戦術的能力に関してはとてもケチをつけられたものではない。少なくとも短期的なスパンでの物の見方は、もはや並の将では対抗できないほどに卓越していたのは間違いありません。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

ただ統合だけがすべてでない?

 

 

 

皖城攻略から少し遡った時の事。呂蒙の駐屯地の近くにいた軍の指揮官が3人も戦死するというアクシデントがありました。

 

しかもその3人はいずれも子供が未成年。

 

 

そこで孫権は、その3人の軍勢を呂蒙に統合しようとしましたが……なんと呂蒙は固辞。

 

 

「3人とも孫呉のために戦って果てたのです。その軍を無くすなどとんでもない」

 

 

呂蒙がこう訴えかけること実に3回。孫権はついに折れ、それぞれの軍を残すことを決定。

 

その決定を聞いた呂蒙はすぐに教育係を選定し、それぞれの指揮官の子供に派遣したのです。

 

 

 

若い頃はガツガツしていた呂蒙も、時が経てば「自分が-!!」という思いはすっかり鳴りを潜めたようですね。

 

 

 

 

蒙ちん根に持たない?

 

 

 

若い頃の呂蒙は浅学であまり周囲からいい印象を受けておらず、上奏文はいつも口頭で人にかかせているほどでした。

 

 

そんなわけであえて告げ口で評判を落とされることもあり、例えば蔡遺(サイイ)なる人物もその一人でした。

 

 

 

しかし、当の呂蒙はケロっとしており、根に持たず。逆に自分が出世すると蔡遺を推薦し、孫権は「故事にそんな話があったね」と笑いながら呂蒙の推薦をそのまま受諾したのです。

 

 

 

また、甘寧の素行不良や命令無視が孫権の癪に障り、「あの野郎罰してやる!」と怒りを買ってしまったときも、呂蒙は甘寧を弁護。

 

 

「あれは素行不良ですが、天下にあれほど勇猛な将はほとんどいません。天下平定のため、ここは堪忍してやってください」

 

 

孫権呂蒙の言葉を信用し、甘寧を厚遇。これによって、甘寧は戦争にて縦横無尽の働きを見せることができたのです。

 

 

 

……もっともそんな呂蒙も甘寧には手を焼いており、一時は「あいつぶっ殺す!」とマジギレしたりもしたのですが。

続きを読む≫ 2018/03/28 13:31:28

 

 

 

呉下の阿蒙に非ず

 

 

 

血の気が多くガツガツしたところのある呂蒙は、どうにも特に知識層の面々からはあまり受けが良くなかったようです。

 

例えば呉の功臣である魯粛(ロシュク)などは、史書にも明確に「浅学の呂蒙を内心軽蔑していた」とあり、呂蒙が周囲にどう思われていたのかが推察できます。

 

 

 

周瑜が病死した後、その後継となったのは、そんな呂蒙を内心見下していた魯粛

 

彼は周瑜の後任として陸口(リクコウ)へ向かう途中、ある者から「呂蒙は以前の彼とは別人です。こちらから挨拶されては?」と言われ、半信半疑で呂蒙に挨拶に向かう事にしました。

 

 

そしてそのままお互い軽く話ながら飲み交わし、宴もたけなわとなったころ、呂蒙の方から話を切り出したのです。

 

 

 

魯粛殿は、勇名高い関羽と国境を接する任地を引き継がれました。どんな考えで望まれるおつもりですか?」

 

 

 

これに対して魯粛は特に深く考えず、軽い気持ちで「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するさ」と適当にはぐらかします。

 

「どうせロクな考えも無く訊いているのだろう」と考えたためにこんなテキトーな返答をした魯粛でしたが、次に呂蒙の口から出たのは驚くべき言葉でした。

 

 

劉備とはいつまでも仲良くはいられないかと思われます。ましてや国境を跨いだ先にいるのは、あの関羽。前もって策を立てておかなければ……」

 

 

そして、自らの作戦を5つ献策みせたのでした。これを見た魯粛は、呂蒙の背中をトントンと叩きながら素直に感嘆の言葉を呂蒙に送り、呂蒙の母にも挨拶。1人前の将と認め、以後交遊を深めることにしたのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

『江表伝』では、呂蒙と蒋欽(ショウキン)の二人が学問を身に着けるに至る過程が書かれています。

 

 

ある時孫権は2人を呼び出し、学問を身に着けることを勧めました。それに対して2人は、「忙しいから無理です」と即答。

 

それでも孫権は2人に反論し、

 

 

「別に学士になれって言ってるわけじゃない。ただ、物事をよく知っといてほしいだけだ。だいたい、多忙というけど君たち君主である俺に比べてどうなの?

 

そんな俺なんかもいろんな本読んで勉強してるし、実際身になってる。

 

孔子だって「必死でない頭をこね回すより学問をしなさい」って言ってるし、お隣の曹操さんだって老境になってもまだ本を手放してない。

 

 

まあいいからやれって。や・れ・よ ! ! 」

 

 

 

孫権のそんな熱い説得によって学問を始めた呂蒙と蒋欽ですが……もともと性に合っていたのでしょうか。アレコレと書物を読み漁るうちに次々とのめり込み、いつしか読んだ本は数知れず。

 

呂蒙に至っては学者を論破するレベルの知識まで身に着けてしまったのです。

 

 

 

こうして呂蒙は上記の魯粛との邂逅の日を迎えますが、この時魯粛の質問に対して言いよどむことなく完璧に答えてみせ、互角の論戦を繰り広げたのです。

 

 

これを見た魯粛は「呉下の阿蒙に非ず」と感嘆し、対する呂蒙は「士別れて三日」と自信満々に受け答え、二人はすっかり仲良くなったのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

対魏戦線の立役者

 

 

 

 

さて、この当時魏との国境線は長江でほぼ区切られており、揚州でも重要拠点である盧江郡は曹操の領地となっていました。

 

曹操は盧江にて軍営の屯田を開いて食料の安定を図っていましたが、その屯田で働く兵たちがしばしば孫権領で略奪を働いて問題になっていたのです。

 

 

これを見かねた呂蒙は、屯田兵のトップである謝奇(シャキ)に帰順を促しましたが、謝奇は拒絶。そのため、強硬手段として屯田兵を奇襲して打撃を与え、謝奇の略奪に報いたのです。

 

すると、謝奇はすっかり警戒して略奪を中断。後に謝奇の配下の武将が呉に寝返るという結果に収まり、呂蒙は略奪行為を完全に抑止したのです。

 

 

 

こうなると曹操も黙っていません。今度は朱光(シュコウ)なる人物が盧江の大都市である皖(カン)を訪れ、盧江太守として大々的に屯田を開始。さらには異民族にも内通を呼びかけ、肥沃な皖を拠点として孫権軍の切り崩しにかかったのです。

 

この情勢を危惧した呂蒙は、すぐに孫権に皖城攻略を上奏。孫権自ら軍を動かし、全力で皖を奪うことになったのです。

 

 

その軍議の場では、呂蒙が作戦を立案。甘寧を先鋒の突撃隊長とし、自身はその後に続いて一気に攻め立て、曹操が本格的に動くく前に決着をつけるという作戦を立てました。

 

そして作戦実行の当日、呂蒙は自ら太鼓をたたいて兵を鼓舞。甘寧らを先頭にした精鋭部隊の猛攻によって、皖を速攻で落とすことに成功し、敵の増援到着前に勝利を飾ることに成功したのです。

 

 

 

こうして曹操との本格戦争の初戦を制した孫権軍ですが、それから1年とたたないうちに、曹操の扇動により異民族が反乱。孫権呂蒙に討伐を命じることにしました。

 

呂蒙はこの時も電光石火の勢いで反乱軍の首謀者を誅殺。殺すのは首謀者のみにとどめて残りの反乱兵たちは平民に戻してやり、武働きだけの武将でないことを証明したのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

大荒れの三つ巴

 

 

 

さて、この頃から三国の間での情勢は大荒れの様相を見せ始めます。

 

孫権からの譲渡という名目で荊州を得ていた劉備が、隣の益州を占拠。ここで孫権側から荊州返還の要請を出すことにしましたが、劉備はこれを拒否。ならばと勝手に荊州に送り込んだ太守たちも、関羽によって追い返されてしまったのです。

 

 

孫権はすぐに強硬手段に転じ、軍を編制。魯粛呂蒙らに軍を率いさせ、荊州の武力制圧に踏み切ったのです。

 

呂蒙は荊州南の長沙、零陵、桂陽、の制圧を担当し、即座に長沙と桂陽を奪取。

 

 

そして抵抗の意を示す零陵を攻撃しようかという矢先に劉備が本隊を率いて荊州に入り、両者は一触即発の緊張状態になったのです。

 

呂蒙は零陵を計略によって奪い取ると、劉備軍を足止めしている魯粛に合流。いよいよ両者は対決間近かと思われたその時、偶然か計算通りか、曹操軍が劉備軍に隣接する漢中に進軍。

 

魯粛がこれをネタにして関羽との交渉に成功したことによって、とりあえずその場は難を逃れることができたのでした。

 

 

 

荊州問題が決着すると、孫権は再び曹操軍との戦いに注力。建安20年(215)には圧倒的大軍を率いて合肥に侵攻しましたが、敵将の張遼(チョウリョウ)による奇襲により敗北。

 

この時孫権自身も危機に陥りましたが、呂蒙や凌統らの奮戦もあって何とか撤退に成功。

 

 

 

しかしこの戦いによって勢いが逆転し、今度は曹操軍が圧倒的大軍を率いて攻めてきてしまったのです。

 

一説には赤壁以上の危機と言われたこの戦いに、呂蒙は都督に選ばれて望むことになりました。

 

 

呂蒙は前もって防壁を設けて曹操軍を足止めし、その隙に弩による一斉射撃で敵を追い散らすという作戦を考案。1万もの弩による連続射撃によって曹操軍は攻めあぐねて手出しができませんでした。

 

ならばと今度は自らも防壁を作って持久戦に持ち込み孫権軍の瓦解を狙いましたが、呂蒙曹操軍の防壁が完成する前に強襲してこれを追い散らし、見事に軍勢を追い払ってしまったのです。

 

 

その後は両者に厭戦ムードが広がるまで戦線を膠着状態に持ち込ませ、和睦が成立したことによって曹操軍は撤退し、呂蒙周瑜以来の奇跡を成し遂げることに成功したのでした。

 

 

この戦いによって呂蒙は左護軍(サゴグン)、虎威将軍(コイショウグン)に就任。魯粛の死後は厳畯(ゲンシュン)が固辞したのもあって後任に選ばれ、呂蒙は再び荊州の戦線に身を投じることになったのです。

続きを読む≫ 2018/03/26 15:35:26

 

 

 

 

 

ほとばしる功名心

 

 

 

呂蒙は中原の出の人ですが、当時中央部は荒れに荒れており、そのあおりを受けて辺境に疎開する民衆が多くいました。

 

呂蒙の一族もそんな民衆のひとつで、幼少期に江南に移住。そこで貧しい生活を送っており、これが呂蒙の功名心に火をつけたようです。

 

 

 

呂蒙の並外れた功名心が表に現れたのは、彼が15歳前後の時。

 

当時呂蒙は、姉婿の鄧当(トウトウ)なる人物の元に身を寄せていましたが、鄧当が孫策(ソンサク)の部将として戦争に駆り出されると、なんと呂蒙もこっそり従軍。

 

 

鄧当はさすがに呂蒙を叱りつけましたが、叱られた呂蒙は一向に帰ろうとせず、結局最後まで付き従ったそうです。

 

 

その後家に帰った時に母親にもこっぴどく怒られたようですが、呂蒙は以下のように反論。

 

 

「こんなひもじい生活を脱却するためです。もし手柄を立てれば大富豪にもなり得るのだから、危険を承知でいくべきだと判断しました」

 

 

呂蒙の反論を聞いた母親は、それ以上何も言わず、呂蒙の心を憐れんだのでした。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

そんな並外れた功名心は、時として問題も引き起こします。

 

というのも、鄧当の下にいた役人の一人は呂蒙の事が大嫌いで、「こわっぱの無駄飯食らいに何ができる!」と散々悪態をついていたのです。

 

 

ある日、その役人がまたしても面と向かって呂蒙を侮蔑すると、この時ばかりは何かが切れたらしく、なんと呂蒙は役人を殺害。そのまま同郷の出身者の元に逃亡してしまいました。

 

が、しばらくして「このままでは駄目だ」と思ったのか、校尉の袁雄(エンユウ)なる人物に仲介を頼んで殺人の罪を自首。孫策の元に連行されてしまいました。

 

 

……しかし、この自首こそが呂蒙の出世街道の始まりに。

 

 

実は呂蒙の事を弁明してくれる人物がおり、その人物の言葉と直接の面会を経て、孫策呂蒙の非凡さを看破。

 

そのまま側近として仕えることになり、鄧当の死後はその後を継いで別部司馬(ベツブシバ:非主力隊隊長)に任命されたのでした。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

ド派手な閲兵式

 

 

 

こうして1軍の長になった呂蒙でしたが、建安5年(200)に呂蒙を見出してくれた孫策が死去。後を弟の孫権が継ぐことになりました。

 

孫権は勢力の長になると、まずは軍団の再編成に着手。雑多な少数部隊を統合して、軍団編成をシンプルにしようと考えていました。

 

 

 

これを知った呂蒙は、密かに真っ赤な軍服を購入し、指揮下の兵たちに支給。孫権の目を引くためガン目立ちする服装で閲兵式に臨み、ひときわ異質な集団として周囲の注目を独り占め。

 

しかも訓練も見事にされてぐんぜいがしっかり統制されていたことから、孫権は大喜びで呂蒙軍の兵士を増員。呂蒙は軍団統合の波に消される事無く、逆に乗りこなして見せたのでした。

 

 

 

 

 

 

阿蒙奮闘記

 

 

 

自軍の増強を果たした呂蒙は、その後丹陽(タンヨウ)の異民族討伐に参加。至る所で功績を上げ、軍才と率いる軍団がハリボテではないことを遺憾なく見せつけます。

 

こうして自らの名を歴史に刻みつけた呂蒙は、平北都尉(ヘイホクトイ)、広徳(コウトク)県長に就任。待ち望んだ軍役人としての地位を得て、とうとう若き日の「手柄を立てて裕福層になる」という夢を完全にかなえてしまったのです。

 

 

 

その後、荊州の黄祖(コウソ)討伐に従軍。孫権軍の先鋒部隊として、黄祖軍の陳就(チンシュウ)なる武将と対峙しますが、なんと呂蒙は陳就を撃破し、討ち取ってしまったのです。

 

この大勝利により、黄祖軍の守りは壊滅。黄祖は慌てて城から逃げ出しましたが、そのまま孫権軍によって捕縛。孫権はついに念願の黄祖討伐を成し遂げたのでした。

 

 

この功績は孫権にも喜ばれ、「お前が陳就を討ち取ったのが勝因だ」と賞金として銭1千万を授与。さらに横野中郎将(オウヤチュウロウショウ)に任命され、さらに重用されることとなったのです。

 

 

 

またこの年には赤壁の戦いが勃発しましたが、呂蒙もこの戦いに参加。曹操軍を打ち破る際にも部将の一人としてその様を間近で見ていたのです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

呂蒙覚醒

 

 

 

さて、赤壁の戦いに勝利した後には都督である周瑜(シュウユ)に引き連れられて南郡(ナングン)攻略に乗り出しましたが……ここまで武勇一辺倒の活躍であった呂蒙が、突如覚醒したように頭脳での働きを見せるようになります。

 

 

南郡は名将の曹仁(ソウジン)が守っていましたが、周瑜らが甘寧(カンネイ)を別動隊として夷陵(イリョウ)攻略に向かわせると、曹仁もそれに合わせて騎兵歩兵の混合部隊を夷陵に派遣し、甘寧を逆に包囲してしまいました。

 

 

 

絶体絶命の甘寧からは救援要請が送られてきましたが、周瑜の本体も曹仁軍を攻撃中で、下手に軍を避けない状態。

 

軍中では「こっちも危険が多く、救援に兵を割けない」という声が圧倒的多数でしたが、呂蒙はそんな中、一人だけ別の案を出します。

 

 

「凌統(リョウトウ)にいったん留守を預け、全軍で甘寧を救出しましょう。包囲を破って友軍を救出するのにあまり時間はかかりませんし、その短時間であれば、凌統ならば十分に耐えきれるはずです」

 

 

呂蒙の説得によって納得した周瑜らは、この意見を採用。同時に呂蒙は「険阻な道の要所に障害物を置けば、騎兵から馬を収奪できるはずです」と献策し、これも300の別動隊を編成し実行することにしました。

 

 

結果は呂蒙の言う通り。夷陵に着いて即日から戦いを仕掛け、意表をついて敵軍の半数以上を討ち取り、甘寧を救出する事に成功しました。

 

また、夜陰に紛れて撤退する騎兵隊も障害物によって撤退を邪魔され、結局馬を捨てる事を決断。ここでも相手の軍馬を300ほど入手し、こちらも呂蒙の献策通りになったのです。

 

 

 

計略通りに事が進んだことにより、孫権軍は勢いづいて南郡攻略にも精が出ます。強敵の曹仁相手というのもあって結局は1年もの年月を費やすことになりましたが、最終的に曹仁は南郡を捨てて撤退。

 

この重要拠点を得たという結果には、呂蒙による計略も少なからず影響していたのです。

 

 

 

武一辺倒の猪武者としてこれまで活躍してきた呂蒙ですが……この頃からすでに変化が生じつつあったのです。

 

 

 

軍馬を得るくだりの話はなんともしょっぱい感じもしますが……実は南船北馬という言葉もある通り、呉では壊滅的なまでの軍馬不足に悩まされていました。

 

これまでは水軍メインで長江流域での戦いでしたが、南郡の所在は長江の北岸。つまりそれ以降は陸軍での戦いも想定される情勢に変化しつつありましたし、何より陸戦を得意とする曹操軍と相対するには、同じ陸戦能力も強化する必要性があったのです。

 

 

その辺を考えると、このみみっちい泥棒劇も、呉にとっては大きな戦果と言えるのではないでしょうか。

続きを読む≫ 2018/03/25 13:55:25
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ