笮融
生没年:?~ 建安2年(197)
所属:なし
生まれ:揚州丹陽郡
笮融(サクユウ)。彼は劉繇(リュウヨウ)伝におまけとして記述されている人物ですね。正直、三国志よりも仏教史の方が有名な人なのであれですが……
彼は言ってしまえば功績は多大で民衆の人望もなかなか、しかし魅力と器には大きく欠ける。そんな人物です。
というのも……正史の記述を見る限り、仏教を我欲のために悪用して民衆に付け込んだ、いわゆる悪徳宗教の教祖にしか見えない!
今回はそんな彼の事績を見てみましょう。
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そうだ、仏教広めよう
仏教の中国伝来は諸説ありますが、だいたい後漢の初めごろが始めだと言われており、それくらいの時期から仏像が持ち込まれた形跡が遺されています。
しかし、当時の宗教と言えば、孔子の残したとされる儒教がメイン。仏教などの他宗教は、当時はあくまでマイナーにすぎない三流宗教に過ぎませんでした。
しかし、これまで儒教を中心に行われていた国家体制が揺らぎ、政治腐敗により民政にも多大な悪影響をもたらすようになりました。
生活も行き詰まり餓死者も多発するようになった民衆は、救いを求めて右往左往するようになり、多くの民は黄巾の乱の元凶となった太平道を始めとする宗教にすがるようになります。
そんな民衆を見て、太平道のような道教とは別に、仏教という宗教に目を付けた男がいました。
笮融です。
彼ははじめ、数百人を率いて徐州の陶謙(トウケン)に庇護を求めます。
すると陶謙は笮融を任用し、徐州内のいくつかの郡での物流を監視する仕事につけました。
こうして後ろ盾を得た笮融は、まじめに仕事を……しませんでした。
彼は人を殺して輸送物資を奪い、貢物をすべて陶謙に送らず自分のものとして着服するようになったのです。
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寺を立てて大繁盛!
こうして仏教で禁止されているような殺人、窃盗を繰り返して得たお金を使い、笮融は大規模な寺院を設立。
その寺院は豪勢な物だったようで、銅で作った仏像に金箔を塗って錦の着物を着せ、さらに九層に重ねた銅の盤(承露盤?)を掲げると、その下には何層もの楼閣と渡り廊下を設置。最終的に収容人数は三千人にも上る、超巨大寺院となったのです。
さらには周辺の人々に仏経を読むことを義務化、近隣で仏道に目覚めた者は出家させ、賦役などを免除。
こういった特典もあり、笮融の仏教組織は巨大化し、笮融の寺院を求めてきた世帯は五千にも上ったとされています。
さらに灌仏会(カンブツエ:お釈迦様の誕生日)には盛大な浴仏の儀式を行うとともに、寺にござを敷いて大量の酒と食事を民衆に振舞ったため、その日に来る人は1万人近くにも及び、費用も多額に上ったそうです。
こうして見ると、あくまで汚い謀略を使ったのは仏経のためといった感じですね。
略奪や殺人こそ犯しましたが、この笮融の大々的な仏教の教化は大成功。まさに中国仏教史を本格的に回す基盤を作った、大功労者と言っても過言ではありません。そう、この瞬間までは……
何故かとんでもない狼藉者に……
ここまでは裏こそあれど仏教の立役者として非常に大きな存在となった笮融ですが、曹操が陶謙を攻撃して付近が不穏になると、笮融はなんと逃走。
まあこれは仏教徒1万と馬3千頭を連れての逃亡となったので、「争いを嫌って新天地に向かったのだ―」などなどと、まだ擁護の余地があります。が、ここからがいかんかった……!
南端にある広陵(コウリョウ)に逃げ込んだ笮融は、当時太守であった趙昱(チョウイク)という人物を頼ります。
趙昱は仏教勢力の長である笮融を賓客としてもてなし、彼を歓迎して宴会を開いてくれたのですが……笮融は広陵が大変栄えていたのに目をつけ、宴会中に趙昱を殺害。
さらに自身の兵を放って広陵の街で大々的に略奪を働き、奪った物資を荷車に詰め込んで広陵を後にしたのです。
その後笮融は南に下り、今度は揚州に赴任していた劉繇(リュウヨウ)の庇護を求め、彼の勢力下に加わります。
ここでまた力を蓄えよう。そう思っていた笮融でしたが、事態はあらぬ方向に。
当時劉繇と争っていた袁術(エンジュツ)の配下だった孫策(ソンサク)が、揚州に向けて進撃。劉繇軍の武将らは一気に蹴散らされ、ついには笮融までも駆り出されることになってしまうのです。
孫策相手とまた裏切り!?
さて、こうして孫策と戦うことになった笮融ですが、孫策軍は強く、野戦を挑みましたがあっさり敗北、砦に敗走してしまいます。
しかし、今度は砦に攻めかかってきた孫策との第二ラウンドに突入すると、奇跡が起こります。
なんと、笮融の兵が放った矢が孫策に命中してしまったのです。
さらにその後、孫策軍から投降兵が出始め、その兵士は「孫策は亡くなりました」というではありませんか。
これを聞いて勝利を確信した笮融は、砦から出て孫策の軍を再度攻撃。ついにこれを撃退………………できませんでした。
なんと、この投降者の発言は嘘。孫策は当たり前のように生きており、笮融はまんまと誘い出された挙句、散々に打ち破られてしまったのです。
ここに来て戦線を維持できなくなった笮融は、主君の劉繇の元に逃亡。
さらにこの後劉繇まで敗れて本拠地を失ったため、劉繇に付き従ってさらに逃げることになったのです。
その後、再び劉繇を裏切り、道中で陶謙に追われて揚州に逃げていた薛礼(セツレイ)なる人物、さらには劉繇配下の豫章(ヨショウ)太守の朱皓(シュコウ)をどさくさ紛れに殺害。
再び主家を裏切り、完全に独立を果たしてしまったのです。
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略奪者の末路
こうして恩を仇で返す形で自立した笮融は豫章の役所を占拠し、群雄としての独り立ちを狙います。
が、当然、元主君の劉繇は、こんな裏切り者を許すはずがありません。
劉繇はすぐに裏切り者征伐の軍を起こし、笮融を攻撃。
笮融も「せっかく奪った土地を渡してなるものか」と奮戦し、一度は討伐軍を打ち負かしますが、執念に燃える劉繇の再びの攻撃には耐えきれず、敗北。
ただ一人山の中に逃げ延びて、再び己の身ひとつで再起を図りますが……行動に移す前に、偶然居合わせた、付近の名も無き農民に襲われてそのまま死亡。
仏教をもてあそび、群雄として立とうとした男のあっけない最期でした。
最後で仏教捨てた?
仏教徒としてという意味に限定すれば、なかなか敬虔で、その教えを広めるのに大きく貢献した人物。
これらの薄汚い謀略や裏切りの事績も、儒教からすれば「異端」でしかない仏教を確立するために必要な事だったのかもしれません。
実際、五斗米道の張魯(チョウロ)、果ては黄巾の乱の首謀者である張角(チョウカク)も、薄暗い陰謀家の一面を秘めているといってもよいでしょう。
……が、これはない。徐州の仏閣捨てて逃げたあたりからの事績は、とにかくないです。
正直、仏教を捨て、乱世に数多立つ群雄の一人として立とうとしたようにしか見えません。
そう考えると、仏教も彼からすると、単に自身に人を集めるための道具に過ぎなかったのでしょうか?
仏教の立役者・笮融の仏教への思いや如何に?
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