劉表 景升


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劉表 景升

 

 

生没年:漢安元年(142)~建安13年(208)

 

所属:他

 

生まれ:兗州山陽郡高平県

 

 

劉表

 

 

劉表(リュウヒョウ)、字は景升(ケイショウ)。メディアを通じて劉表の活躍を見ると、ただの雑魚群雄。というか正史を見ても雑魚同然といった感じで、正直、何をどう見てもパッとしません。

 

 

しかし、それはあくまで魏や蜀を正当化するときの見方。彼は曹操とは長年敵対していたうえ、劉備の危機の原因も作った人物。そんなどのメディアでも悪人ポジションの人が、どこかでよく書かれるはずもありません。

 

 

実際は、荊州に割拠して暗躍した、なかなかにしたたかな人物でした。その一端は、雑魚キャラのように書かれる正史にも、垣間伺えます。

 

 

 

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荊州に割拠

 

 

 

劉表は群雄として知られていますが、実は若い頃は儒学者として名を挙げていた人物です。彼は当時有名な儒学者であった「八俊」などと呼ばれて他の儒学者と並び称される程の名声を得ていたようです。

 

 

八俊の呼び名は、史書によっていろいろ。例えば後漢書では「八及」となっていますし、他にも「八顧」「八交」などという呼び方も。

 

また、後漢書には若かりし日のエピソードとして、若干17歳にして師匠の極端な倹約ぶりを諫めたものの聞き入れられなかったという逸話があります。

 

 

彼は何進(カシン)の属官として彼に仕えていましたが、やがて董卓(トウタク)らにより中央のゴタゴタが引き起こされるといつの間にか中央からドロップアウト。

 

太守が孫堅(ソンケン)によって謀殺され、無政府状態となった荊州に州刺史として入り込み、反董卓連合軍が結成されると、荊州北部の大都市である襄陽(ジョウヨウ)に陣を敷きました。が、ここからどう動いたか明記されていない……。それどころか、反董卓連合に加わったかどうかも不明という有り様で、なんだか不気味さを感じさせます……

 

おそらく、まとまりがなく無政府状態で混乱していた荊州北部の慰撫に専念していたのでしょう。

 

 

司馬彪の『戦略』には、この辺りの劉表の動きが詳しく書かれています。

 

劉表は荊州刺史になったはいいものの、重要都市の南陽は不仲な関係である袁術(エンジュツ)が抑えており、さらに賊徒も暴れ回って、周辺の豪族も命令に従わないといった有様でした。

 

 

そこで、劉表は単身で宜城(ギジョウ)に入り、周辺名士を招集。ここで応じたのは、蔡瑁(サイボウ)、蒯越(カイエツ)、蒯良(カイリョウ)といった、後に劉表軍の主力となる面々だったとされています。

 

 

劉表はさっそく、周辺豪族への対処と軍事力拡張の方策を名士らに問い質しました。

 

 

すると、まず蒯良が口を開き、「民衆らの反発や統率のなされない有様は、先達の仁愛と信義が足りなかったせいでしょう。領内を手なずけ慰撫すれば、やがて従うようになるでしょう」と提言。

 

それに対し蒯越は、「混乱の時代は策謀によって適宜妙案を採用するのが肝。戦争は兵をどう配下に加えるかにかかっています。まず私の意気がかかった者を利益で寝返らせ、その後道義に外れた者は処刑してしまうのが吉でしょう。その上で、他の者をいたわってやるのが一番です」と発言。

 

劉表は両者の策を折衷し、まず賊徒の主要人物を誘い出して殺害。その配下を襲撃して取り押さえた後、各地の慰撫を実施しました。これにより、荊州の平穏は成ったのです。

 

 

 

その後、孫堅袁術の指示を受けて劉表の治める土地に侵攻。これに対して劣勢を余儀なくされるも、なんと突出した孫堅を討ち取ることに成功。これによって孫堅軍は一気に瓦解し、寄る辺を失って荊州から立ち去って行ったのです。

 

この戦いの勝利により、袁術は劉表軍を攻めきれなくなり、ついに劉表はよって立つ土地を完全に得ることに成功しました。

 

 

 

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更なる軍拡へ

 

 

さて、ここからの劉表の動きが、したたかとも優柔不断ともとれる微妙な物になってきます。

 

まず、亡くなった董卓の遺志を継いだ李傕(リカク)らによって鎮南将軍(チンナンショウグン)の位と侯の爵位を与えられ、また一つ立場を大きくします。

 

 

その後、盟友の袁紹(エンショウ)が曹操との対立を深める中、曹操が献帝を擁護した時に漢王朝に対して貢物を送っています。

 

 

また、その少し後に董卓軍だった張済(チョウサイ)が荊州に略奪に来て、そのまま命を落とす事件が発生した時も、群臣が戦勝祝いをしたいと思う中、劉表は一人だけ「食料不足で張済はここに来た。なのに私が礼を尽くさなかったばかりに戦争になってしまったのだ」と反省の意を述べて祝賀を辞退。

 

この後張済の甥で軍勢を引き継いだ張繍(チョウシュウ)と同盟を結んでおり、彼を対曹操の盾として活用するなど、なかなか狡猾に立ち回っている様子が伺えます。

 

 

また、張繍が曹操に降った後も袁紹との同盟を維持しつつも曹操にあえて立ち向かおうとせず旗色を示さないまま江東を固め、反乱を起こした荊州南部をすべて平定し地盤を固める等、この頃から明白に群雄として独立した動きを見せるようになっていました。

 

 

 

こうした水面下での軍備拡張により、劉表軍の軍兵は最終的に10万を超すものへと膨れ上がっていったのです。

 

 

 

 

憂悶の内に……

 

 

 

さて、袁紹と同盟関係という間柄にあるものの、彼と曹操との間で起こった官渡の戦いでは、彼はあえて中立という姿勢を見せ、袁紹の救援要請も無視、曹操の応援もしないというどっちつかずの態度のまま、自身の領土をしっかり固めることに腐心していました。

 

 

この時幕僚に「曹操につきなさい」と進言され、「こいつは曹操の手先か!」と殺そうとしたなどという逸話も残っていますが……まあ、それはその幕僚の話をするときに回すことにしましょう。

 

 

 

こうして周辺を静観しているうちに、今度は曹操に敗れて逃げてきた劉備が劉表を頼ってきたので今度は彼を対曹操の蓋として使うことにし、前線都市である新野(シンヤ)を貸し出し、曹操の攻撃を防がせることにしました。

 

 

しかし、曹操の隙を突いて背後を攻める劉備の策を受け入れないなど、必ずしも任用したというより、単に利用するだけといった様子がうかがえる辺り、劉表の「人を信じない」スタイルは筋金入りと言えるのかも……

 

 

そうこうしているうちに建安13年(208)、ついに曹操は北方の敵を蹴散らし、劉表を次の標的に制定。南下のために軍を動かしてきました。

 

こうして曹操との決戦か降伏かを迫られたその重大なタイミングで、劉表は答えを出さぬまま病死。

 

 

跡を継いだ嫡子の劉琮(リュウソウ)はその後曹操に降伏し、劉家の血筋を保ったと言われていますが……何とも締まらない、まさに大事な局面での突然の病死でした。

 

 

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人物評

 

 

 

劉表は「長身で立派な見た目をしていた」と言われており、外面は非常に威厳のある人物だったとされています。

 

 

いっぽうで、そんな見た目とは裏腹に立てる戦略は地道な領土拡大の地方割拠志向。

 

戦乱の世において確かな答えを出さず、まさに「割拠」「領土保全」に特化したような動きを示している辺り、やはり地方の群雄止まりだったと言ってしまって過言ではないでしょう。

 

実際に陳寿の評もよいものとは言えず、以下の通りに言われています。

 

 

表向きは温和だが、裏では猜疑心が強く人を使いこなせなかった。

 

 

この評は袁紹と一緒くたにして語られており、確かに彼のしたたかな戦略は、優柔不断にも見えてきます。

 

実際、どっちつかずのまま目先の領土保全に腐心する姿は間違っても華々しいとは言えず、どちらかというと地味な上弱い人物のように見えるかもしれません。

 

 

しかし、乱世など素知らぬ顔で自己の領土拡大、保全だけを考えた独立志向は、決して雑魚群雄のそれではない……というのが、個人的観点です。

 

やはり袁紹などと同じく、人の下に付くような器ではなかったのでしょう。それを指し示すように、劉表は配下の兵や領地を増やすために飴と鞭を見事に使い分けている様子が伺えます。

 

 

所詮は地方群雄の一人にすぎなかったが、決して無能ではないしたたかな強者だった。劉表の実際の人物像は、そんなところに落ち着くのではないでしょうか?

 

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