陶謙 恭祖
生没年:陽嘉元年(132)~興平元年(194)
所属:他
生まれ:揚州丹陽郡
陶謙(トウケン)、字は恭祖(キョウソ)。この人ほど、魏と呉で評価が乖離する人物も多くはいないでしょう。
演義ではただのいい人、正史ではどうしようもないクズや危険人物と結託して悪事を働き、にもかかわらず呉書では名君。どちらにしてもドス黒い事をやっていたと言うのはほぼ確定の人物ですね。
本来ならば呉書の記述は補足程度に留めますが……あまりに別人すぎるので、今回は例外的にそれぞれ記述を分けて書き記していこうと思います。
では、超絶不思議人間・陶謙の伝を追っていきましょう。
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三国志本文:ゲスで外道な徐州牧
まずは三国志本文の陶謙から、その記述を見ていきましょう。
陶謙は学問にかじりつくエリートで、郡や県に出仕。最終的に幽州刺史(ユウシュウシシ:幽州の監査官)を経由して中央で議郎(ギロウ:顧問対応。その中でも結構位が高いとされる)となり、西で反乱を起こした韓遂(カンスイ)の討伐にも従軍したと言われています。
後に黄巾の乱が勃発した時に徐州(ジョシュウ)刺史となり、黄巾討伐にも少なからず貢献。後に董卓(トウタク)一派の動乱で中央との連絡が途絶えた時は、使者を送って貢物を献上。
この忠義を買われて安東将軍(アントウショウグン)と共に徐州牧(ジョシュウボク:牧は刺史よりも格上で、大きな州の長官)の位を与えられましたが……ここから、陶謙の様子は激変します。
当時の徐州は多くの人が引っ越してくるほどの豊かな土地でしたが……陶謙は忠節を重んじる趙昱(チョウイク)なる人物を始めまともな人材を疎んじて、曹宏(ソウコウ)や笮融(サクユウ)といった民を苦しめたり腹に一物を抱えるような連中を重用。
さらには皇帝気取りで略奪を働く闕宣(ケツセン)なる人物と同盟を結んだかと思うと、後々には闕宣を裏切って殺した挙句に軍を吸収して自身の戦力を底上げするなど、割と外道な行為に手を染めるようになりました。
こうして跋扈する俗物と小悪党らによって法の均衡は破られ、次第におかしくなっていたのでした。
しかし、初平4年(193)、好き勝手行う陶謙の野望も、ついに終わりを迎えます。なんと、曹操(ソウソウ)が陶謙の部下に父を殺された恨みから大部隊を編制。徐州に総攻撃を仕掛けたのです。
一説には曹操の父を殺すよう指示したのは陶謙とも言われており、これが曹操の心に火をつけたのですね。
曹操軍の快進撃の前に陶謙軍は成す術なく、領土を次々と失陥。苦し紛れに挑んだ大会戦でも大敗を喫し、万にも届く死者数を記録。川の流れがせき止められるほどの大損害を出したとされています。
しかし結局曹操軍は、兵糧切れによって撤退。陶謙は難を逃れ、翌年に行われた攻勢でも内部の反乱でどうにか領土を守り抜きましたが……陶謙はその年のうちに病没。難しい情勢の徐州は息子でなく客将の劉備(リュウビ)に任せ……そこから徐州は、戦乱の災禍に巻き込まれていくことになるのです。
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呉書:普通に名君
一方の呉書では、陶謙は普通に名君であり善人であるかのような扱いを受けています。
まず、目を引くのがここまで出世した要因でもある「剛直で節義のある人柄」という文章。本文ではむしろ節義を捻じ曲げる外道であるだけあって、この段階であまりの違いに目を疑いたくなります。
とはいえ強烈な性格であったのは事実なようで、韓遂討伐の際、自身が作戦指揮能力を疑っていた張温(チョウオン)という上司を酒の席で痛罵して左遷を食らったという話も。
当然、曹操の父親を殺したというとんでもない罪も配下の一存。あずかり知らないところで勝手に悪人に祭り上げられ、曹操の小賢しい陰謀で攻め込む大義名分を捏造され、無辜の民もろとも領地を破壊された被害者という立場で記述を徹底しています。
また、死去した際には、一時期彼の配下にいた張昭(チョウショウ)が彼の死を悼むような詩を作り、「剛直で情け深い人物で民に慕われた」というような本文とは真逆の内容を述べられ、同時に曹操の徐州侵攻を声高に否定するようなフレーズが最後に載せられています。
ちなみにこの張昭、正史本文では陶謙に仕えたものの、気に入らないからと牢屋に繋がれて恨みの方が大きいはずですが……いよいよもって謎です。
また、正史三国志を編纂した陳寿の評では、その評価は以下の通り。
意味不明なままに憂慮の中で死んでいった。凡人以下で、論外である。
しかし呉での評価は一変して名君の気風が強く、陳寿の評価とは全く真逆と言えるでしょう。
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ターニングポイントは徐州侵攻?
とまあ陶謙の本文と呉書の記述の違いは以上の通りですが……正直なところ、どちらも政治的作為が見え隠れしています。
本文における陶謙は、あくまで晋の前身・魏からすると敵。陳寿がどのように考えようと魏を絶対正義として書かなければならないのは大原則で、陶謙はその倒すべき敵の一人。
しかも曹操による歴史的大虐殺が、両国の評価の違いに影響するでしょう。
曹操側の記述としては、あくまで徐州侵攻は亡き父の恨みを果たすのと地盤強化、そして曹操自身が属する袁紹(エンショウ)を中心とした連合軍の敵対組織だからどのみち潰さなければならなかったという側面が強いと考えられます。
対して、呉は曹操の起こした戦乱のおかげで、棚ぼた的に有能な徐州から逃げてきた人事を確保することができた身。曹操に恨みを持つ人物も少なくはなく、事実として『曹瞞伝』では「鶏や犬まで絶え果てて、村里には通りかかる人もいなかった」とまで凄惨に描写されています。
徐州侵攻を是とする曹操側にとって陶謙は原因のすべてを背負った加害者でなければ都合が悪く、逆に彼の侵攻で逃げてきたアンチ曹操を多く抱える呉としては、曹操側が悪逆非道でなければおもしろくない。
この辺のスタンスや政治的都合の違いが、やはり陶謙という人物を善悪キッパリ分かれる人物に仕立て上げたのではないでしょうか。
個人的には善悪どっちだとキッパリ言ってしまいたいところはありますが……如何せん、両国の政治的な思惑や史書によって作られるバイアスがかかり過ぎてよくわからないというのが正直なところ。
私としては、善人面してえげつないことに手をかける、ヤクザ辺りとバイアスを持った政治家みたいな人物だったら面白いのにといった感じの考えですが……如何せん「こうなら面白い」という願望の域を出ないので、はっきり言って考察的には論外といったところ。
何にせよ、当時の徐州や曹操軍の情勢、果ては魏呉の政治的な思惑まで色々と考察できる、興味深い人物だと思います。
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