昌豨


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昌豨

 

 

生没年:?~建安11年(206)

 

所属:なし

 

生まれ:兗州泰山郡

 

 

 

 

昌豨(ショウキ)、あるいは昌覇、その他書き間違い別名多数……。この人物は、三国志界隈のごく一部では超有名人ですね。

 

徐州の東海(トウカイ)郡を中心に暴れ回ったようなので、出身地はそちらという声もあります。が、今回はあくまで正史本文を信じて兗州出身者という事で。

 

 

さて、あくまでその他大勢の群雄の一人にすぎない彼がなぜこうも有名になったのか……その答えは、曹操(ソウソウ)への反逆と奮戦。

 

今回は、そんなちっぽけな群雄でありながら意外な健闘を見せた昌豨の記述を追ってみましょう。

 

 

 

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臧覇の仲間?

 

 

 

昌豨は三国志本文によれば、昌豨は泰山郡の出身であり、臧覇ら独立群雄の一派だったらしいことが伺えます。

 

臧覇は孫観(ソンカン)、呉惇(ゴトン)、尹礼(インレイ)といった人物を率いる無頼の徒であり、陶謙(トウケン)の元で名を上げて独立。その後は徐州の独立勢力のひとつとして動いたとされています。

 

 

しかし、昌豨自身が臧覇勢力の一員であると明確に示す資料は無く、結局はグレーです。

 

それどころか臧覇伝では一派から意図的に名前を省かれており、後漢書では初平年間(190年代前半)に皇族である劉和(リュウワ/リュウカ)を攻めたという記述もあるという有り様。

 

もしかしたら、臧覇とは同盟関係にあるか、あるいは同規模程度ながらほとんど無関係の独立群雄だったのかもしれませんね。

 

 

後に臧覇らは徐州にて乗っ取りを働いた呂布(リョフ)に味方するようになりますが、建安3年(198)に呂布が廃止すると、全員お尋ね者に。後に臧覇らは出頭して曹操軍に加わり、元の領地を与えられ、臧覇は青州および徐州の事を一任されました。

 

この時に配下に加わった人物の一人として昌豨は名を連ねており、これが主に臧覇一派に加えられる要因になっています。

 

臧覇伝では記述が省かれているせいで結局どの土地の太守を任されたか不明ながら、まあ昌豨にもどこかの土地は割り振られたことは間違いないでしょう。

 

 

しかし、こうして降ったものの、彼一人は曹操軍が肌に合わなかったのか……昌豨はあらぬ気持ちを抱き、やがてそれを爆発させるようになっていくのです。

 

 

 

 

アンチ曹操の旗印

 

 

 

建安5年(200)、曹操が北方の英雄である袁紹(エンショウ)との決戦に挑もうとしていた時の事。

 

この大事な局面で、左将軍の劉備(リュウビ)が徐州にて突如叛逆。曹操軍中は乱れに乱れ、袁紹軍を勢いづかせることになってしまいました。

 

 

勝機がないと考えたのか、曹操が単純に嫌いだったのか……反曹操の気持ちを高ぶらせていた昌豨は、これ見よがしに劉備軍に寝返り、反乱を支援します。この時、周辺の県や郡も寝返りまくった結果、劉備軍は数万という数に膨れ上がりました。

 

つまり、劉備や裏にいる袁紹と結べば、曹操を転覆させるのに十分すぎる戦力を味方につけられたわけですね。実際、これによって曹操軍は一気に苦境に立たされることになります。

 

 

が、この時の曹操は早かった。先遣隊が劉備軍に撃退されるのを知ると、すぐさま自分自身で軍を率いて劉備討伐に出陣。神速の勢いで向かってくる曹操軍を前に劉備は逃亡を決意し、昌豨軍も敗北。東方戦線の反曹操勢力の勢いは消沈してしまいました。

 

しかもこの時、曹操軍の東を守る臧覇も精兵を率いて袁紹側の領地を攻撃。とても曹操軍相手に真っ向勝負を挑める状況ではなく、昌豨は本拠地に押し込まれてしまいました。

 

 

そして官渡の戦いが曹操軍勝利に終わった時、ついに曹操は反逆勢力の掃討に力を割くようになります。

 

この時に昌豨討伐に向かってきたのは、夏侯淵(カコウエン)と張遼(チョウリョウ)の二名。絶望しかない

 

 

昌豨はこの時に籠城を決めて、砦を盾に包囲した曹操軍相手に奮戦。なんと数ヶ月もの間持ちこたえ、曹操軍を逆に兵糧切れ寸前まで追い込んだのです。

 

が、そこまで粘った昌豨軍もすでに限界であり、張遼伝には「攻撃が緩慢になり、昌豨は砦から知り合いの張遼をジロジロ見てくることがあった」という張遼の証言があるほど追い詰められたことが本文に書かれています。

 

 

昌豨は、無謀にも単身乗り込んできた張遼の説得を受けて降伏。これによって昌豨軍は一回滅亡を迎えています。

 

しかし、昌豨はまだ、何が彼をそうさせたのか反曹操の意思を捨てきれなかったようで……数年後、いよいよ最期の反乱に身を投じることになります。

 

 

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旧友を頼るも……

 

 

 

官渡で負けるも曹操と拮抗していた袁紹は、建安7年(202)に死去。その後継者は袁譚(エンタン)、袁尚(エンショウ)の二派に別れ、戦力は分断されました。

 

後に彼らが仲間割れを始めると、ついに曹操は河北に進軍。二人の争いに介入して次々と軍を打ち破り、どんどん勢力を北に押し上げていったのです。

 

 

さて、そんなこんなで曹操が北にかかりきりになった時、それまで大人しくしていた昌豨は、ついに曹操に反旗を翻し、再び敵対することになったのです。

 

 

この時、昌豨の討伐に駆けつけたのが、于禁(ウキン)と臧覇の二名。さらに余力として夏侯淵が背後に控えていました。相変わらず人選がえげつない

 

 

昌豨は于禁らの攻撃に対して奮戦し、彼らに対して一切引けを取らない防戦を展開。留守番役の曹操軍がそれほど多くの兵を割けるとも思えませんが……それでも相手が相手。なぜこんな連中と互角に戦えるのか……

 

 

ともあれ、こうして于禁・臧覇軍を相手に互角の戦いを繰り広げた昌豨でしたが、夏侯淵が援軍としてくるとついに形勢は逆転。怒涛の攻勢に陣形が崩れて十余りの屯所を打ち砕かれ、ここにきて昌豨はついに于禁を頼り降伏。

 

……が、ここで法に厳格な于禁に降伏したのが、彼の運命を決めました。

 

 

于禁は法令に「包囲した後に降伏した者は死刑」とあることを理由に、周囲の反対を押し切って「法を曲げて節義は失えぬ!」と昌豨の処断を決定。

 

昌豨は于禁から涙ながらに別れを告げられ、そのまま処断。こうして、昌豨のアンチ曹操の道は終わりを告げたのです。

 

 

 

 

最期まで曹操アンチ

 

 

 

さて、小規模な反逆者にしては昌豨の記述は残っている方ですが、それでもまだまだ記載に関しては謎が多く、とても充足しているとは言えないのが現状です。

 

結局、彼は臧覇とはどういう関係だったのか、曹操になぜ何度も反逆したのか、処刑されるときに何を思ったのか……これらは、史書からはまったく見えてきません。

 

 

ただまあ、彼自身には不思議な魅力があったのか、はたまたどこかいいところの名士だったのか……これだけ背かれた曹操も、昌豨が于禁を頼って処刑されたと聞いたときは「運命という奴か」とぼやいてその死を惜しんだとあり、並大抵の人物ではなかったと言えるでしょう。

 

というか張遼や于禁とも仲が良かったと思わせる記述もありますし、本当何者……?

 

 

ちなみに諸葛亮(ショカツリョウ)伝によれば、昌豨が曹操を撃退した数は五回。ただしこれは諸葛亮自身が曹操を貶す上奏をした時の証言なので、事実かどうかはわかりません。

 

 

 

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