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眭固 白兎

 

 

生没年:?~建安4年(199)

 

所属:なし

 

生まれ:?

 

 

 

 

眭固(スイコ/ケイコ)、字は白兎(ハクト)。元々は三国志のなかで一瞬だけ登場した弱小群雄のひとりですが、白兎という妙にファンシーな字と三國志シリーズにおける破壊力抜群の顔グラによって一定の人気を誇っている人物ですね。

 

 

記述はあっさり、出番はわずか2回。本当に語ることの少ない人物ですが……実際には曹操(ソウソウ)も全力で相手をせざるを得ない相手だったようで、豪華フルメンバーを相手取って戦っています。

 

 

 

 

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賊徒の白兎

 

 

 

というわけで、眭固は張楊(チョウヨウ)の配下として出てきますが……実はそれ以外に1度だけ史書に姿を現しています。

 

それが、反董卓連合が解散して間もなく、天下が動乱に満ち始めてきた時の事。

 

 

群雄割拠の様相を呈してきた中国全土は、数十年にもわたる荒廃と動乱の頻発により治安が悪化。周辺にも山賊が多く出るようになり、とりわけその中でも冀州(キシュウ)一帯を根城にする黒山賊(コクザンゾク)なる勢力は群雄といっても差し支えないほど勢力を誇っていました。

 

 

初平2年(191)、眭固はそんな黒山賊の部将の1人として史書に登場。他の将たちと共に勢力拡大のために魏郡(ギグン)に攻め入り、迎撃に出た太守の軍勢を数にものを言わせて周辺地域からの援軍もろとも撃破、陥落させます。

 

しかし、その後に援軍にやってきたのは、他でもない曹操。手始めに曹操は前線基地を攻撃し、これを陥落。

 

 

そしてその翌年からは本格的に攻勢を開始し、眭固の友軍が本陣にしていた箇所が不意打ちによってそのまま奪われてしまいます。

 

眭固はこれを聞くと他の部将らと共に自ら本陣奪還に向かいますが、曹操軍の伏兵に遭って敗北。以後眭固がどうなったのかは知りませんが、後々には張楊(チョウヨウ)の配下となって再登場するのです。

 

 

眭固がいつ黒山賊をやめて張楊配下に収まったのかは不明ですが、もしかしたらこの時に行き場所を失ったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

主の仇を討ったはいいが……

 

 

 

さて、しばらく眭固の姿は史書から消えますが……建安4年(199)、以前完敗した曹操と黒山賊の宿敵・袁紹(エンショウ)がいよいよ対立の動きを深めてくると、その動乱の中で再登場します。

 

というのも、主君である張楊の領土はちょうど曹操と袁紹の境界線にある緩衝地帯だったのですが、この両雄が争うことになる過程で、どちらに付くか決定を迫られるようになったのです。

 

 

しかし、張楊は明確な答えを出す前に配下の楊醜(ヨウシュウ)に殺されてしまいます。そして楊醜が選んだのは、曹操の臣下として生きる道でした。

 

眭固にとって曹操は宿敵であり、何より当時の曹操と袁紹の戦力比は、袁紹が圧倒的。当然多くの群雄や曹操配下の豪族ですら袁紹にすり寄ることを選択している中、この行動は愚行にすら見えたのでしょう。

 

結局、眭固は楊醜を即座に殺害。主君の仇討ちを果たして張楊家臣団をまとめ上げ、そのまま袁紹の側に味方することを決定したのです。

 

 

しかし、すでに後のない曹操には、緩衝地帯がどちらに味方するかという問題を笑って見過ごすほどの余裕はありません。すぐに曹操の軍勢が眭固討伐のために贈られてきました。

 

 

その顔触れたるや、監督役の史渙(シカン)を中心に、曹仁(ソウジン)、楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)、徐晃(ジョコウ)などなど……曹操軍の主力武将がこれでもかと並ぶ豪華な顔ぶれでした。

 

 

さすがにこんなのとまともにやり合っても勝ち目は無し。眭固は自分たちの武将に領地の堅守を命じると、自ら兵を率いて袁紹の元へと救援要請に向かいます。

 

しかし、何のいたずらか犬(ケン)城にてついに史渙、曹仁らと遭遇。一戦交えるも勝つことはかなわず、結局眭固はその場で討死。白兎は曹操という大きな犬に食われるという皮肉な最期を迎えました。

 

後に指導者を失った張楊軍の残党も、皆曹操に降ってこのドタバタ劇はひとつの終焉を迎え、翌年に曹操は袁紹相手に奇跡の大逆転劇を演じることになったのです。

 

 

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ちなみに……

 

 

 

眭固は楊醜を殺した後、軍をまとめて射犬(シャケン)という土地に駐屯していますが……『典略』ではこの時のちょっと面白いエピソードが書かれています。

 

というのも、地名による占い的な話。眭固軍にいた巫女は「射犬という土地は犬という文字が使われており、眭固様の字に使われている『兎』と相性が悪いです」と忠告したものの、それを聞き入れないばかりに眭固が死んでしまったという話。

 

 

どちらかというと、個人的には「犬を射る」から単なる「犬」の字に変わった途端即座に食われる辺りがもっとも皮肉な気がしますが……どうなんでしょう?

 

 

ともあれ、眭固を倒しに行った面子はまさに圧巻。もしかすると眭固は、昌豨(ショウキ)ならぶ実際の戦力以上に厄介な雑魚群雄だったのかもしれません。

 

『魏書』に載せられている曹操の上奏文においては、眭固は袁紹の長男である袁譚(エンタン)と並んで倒した群雄として名が挙げられています。この辺りからも、もしかするとの可能性や推測は膨らんでいきそうですね。

 

 

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