黄祖


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黄祖

 

 

 

生没年:?~ 建安13年(208)

 

所属:なし

 

生まれ:不明

 

 

 

 

黄祖(コウソ)という人物は、孫家の仇敵としてたびたび呉書に姿を現します。

 

しかし、その人物は謎。たびたび名前が出てくるときも全戦全敗で、しかも人を重用しない狭量さから将としての器もなし。呉側の記述を信じるなら、「どうしようもない雑魚なのにやたら手こずらせてくれた相手」という解釈になります。

 

 

今回は、そんな雑魚キャラ扱いの黄祖が本当に雑魚だったのかも含め、呉の記述からいろいろ迫っていきます。

 

 

 

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堅パパ殺す大金星!

 

 

 

まず黄祖の名が挙がったのは、初平2年(191)に、孫堅(ソンケン)が劉表(リュウヒョウ)の元に攻め寄せてきた時の事。

 

黄祖はこの時、劉表側の総大将として孫堅にぶつかりました。

 

 

……が、結果は敗北。まさに脂がのって勢い全開の孫堅相手に勝つことは難しく、あえなく敗走しています。

 

しかし、その後に劉表軍本拠である襄陽(ジョウヨウ)が囲まれた時、孫堅は何を考えたのか単独で周囲の偵察を敢行。これを見つけた黄祖軍の兵卒は孫堅に矢を射かけ、なんと射殺することに成功してしまいます。

 

 

これによって孫堅軍は一気に瓦解し、窮地に陥った劉表軍は勝利を得たのでした。

 

 

ちなみに孫堅の死には諸説あります。まず『典略』の話によれば、黄祖はひそかに襄陽の外で募兵を行い、帰る途中で孫堅の待ち伏せに会って敗走。追ってきた孫堅に対して伏兵による一斉射撃を仕掛け、そのまま射殺したと言われています。

 

『英雄記』では、孫堅の死は初平4年(193)の出来事になっており、黄祖軍の呂公(リョコウ)なる人物を追う中で落石系に引っかかって即死しています。

 

 

ちなみに正史桓範伝では孫堅の遺体は劉表が所持していたとされており、何にせよ劉表によって遺体を回収可能な末路を迎えたようですね。

 

 

 

さて、こうして無双状態の敵大将である孫堅を討ち取る大金星を挙げた黄祖でしたが……これが引き金となって、孫堅の息子から仇として命を狙われるようになります。

 

息子の孫策(ソンサク)は相当深く恨んでいるような言葉を残しており、『呉歴』では「黄祖のせいで親父が死んだ」、挙句に帝への上奏文では「荊州で起きた凶事は全部黄祖のせい」とまで書かれています。

 

もっとも、親の仇という立ち位置が大義名分として都合が良かったから名前を出された可能性もありますが……なんにしても、これによって黄祖は孫家一門総出で殺すべき相手と認識されたわけです。

 

 

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父の仇と狙われて

 

 

 

建安4年(199)、周辺の群雄を平らげて勢力を増した孫策は、ついに西方に目を向けました。黄祖は息子の黄射(コウシャ)に、真っ先に狙われる劉勲(リュウクン)を救援しましたが失敗し、劉勲勢力は滅亡。

 

黄祖は余勢を駆って向かってきた孫策と自ら対峙しますが、一万人余りが溺死、援軍として劉表から派遣された将を討ち取られる等敗北。史料に大勝であると記述がありますが、孫策軍側も徐琨(ジョコン)が戦死する等、孫策側も一方的な圧勝とは言い切れなかった様子が伺えます。

 

 

 

後に孫策が急死して孫権(ソンケン)の代になっても、相変わらず黄祖は孫一門の仇敵としてしのぎを削っています。

 

 

建安8年(203)には孫権軍が江夏に侵攻。ここでは水軍戦こそ敗北しましたが、城に逃げ込んで固守。城をなんとか守り抜いたうえ、敵将である凌操(リョウソウ)を討ち取ってここでも一矢報いてみせました。

 

 

ちなみに甘寧伝が引く『呉書』では、凌操は甘寧に殺されたとか。しかし黄祖は荒くれの甘寧を重用せず、この功績も無視し続けたそうな。

 

要するに、敵さんここまで下劣な奴でしたよエピソードであり、実際にヤクザ上がりの流れ者を重用したくないのはわかりますが……狭量さというか、中途半端な対応なのは否めません。

 

 

当然、黄祖の側もむざむざ殺されてなるものかと逆に部下を柴桑(サイソウ)まで攻め入らせていますが、こちらも破られていますね。

 

建安11年(206)に部将をけしかけて攻めさせるも、周瑜(シュウユ)によって武将を捕縛され、また時期は不明ですが防備が手薄な時に攻めたものの、わずかな兵力しか率いていない敵の意外な奮戦に敗北。

 

呉書にはこれ以外何も記述がありませんが、もしかしたらこれ以外にも黄祖は孫権と戦い、勝利することもあったのかもしれませんね。

 

 

とまあ、これはあくまでただの妄想。何がともあれ孫権相手に一歩も引かない戦いを見せていた黄祖でしたが、建安12年(207)にとうとう敗北により住民が拉致され、住民に被害を出してしまいます。

 

これが暗転へのきっかけとなり、次の侵攻でついに黄祖は討ち取られてしまうことになるのです。

 

 

 

 

 

黄祖最期の抵抗

 

 

 

建安13年(208)、ついに孫権は大規模な攻勢に乗り出し、黄祖を完全に攻め滅ぼすべく軍を展開。

 

対する黄祖も、部将の陳就(チンシュウ)を先鋒の大将に据えて迎撃。蒙衝(モウショウ:駆逐艦相当の中型軍艦)を城壁に見立てて碇で固定し、疑似的な水上要塞を築いて孫権を迎え撃ちました。

 

黄祖は蒙衝の上から千名とも言われる弓兵で一斉射撃を敢行。孫権軍はひとたまりもなく、ここで完全に進軍が阻まれてしまいます。

 

 

さて、このまま戦闘は黄祖優位のまま終わるかと思われましたが……ここで孫権軍がついに決死の行動に出ます。

 

孫権軍は軍内きっての勇将である董襲(トウシュウ)、凌統(リョウトウ)の2名を先頭にした決死隊を編制。決死隊は重装備で大型船に乗り込み、黄祖軍の蒙衝のどてっぱらに突っ込んでいきました。

 

そして無理矢理水上要塞に突っ込むと碇を繋ぐロープを叩き斬り、船の固定を完全に断ち切ってしまったのです。

 

 

こうなると、流れの速い河川では船は上手く動きません。蒙衝は勝手が流れて城砦は自壊し、そこに孫権軍は一斉突撃。陳就も敵将である呂蒙(リョモウ)の手で討ち取られ、黄祖軍の敗北は確定しました。

 

 

かくして守り切れないと判断した黄祖は城を放棄。そのまま逃走を図りますが、孫権軍の追撃隊に捕捉されて討死。この時に黄祖を討ち取った馮則(フウソク)なる兵卒がわざわざ名前を史書に載せられている辺り、孫家一門の黄祖に対する恨みがよくわかる気がします。

 

 

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偏狭な人物?

 

 

 

さて、こうして孫家の家を上げての仇敵という立場で名前が挙がる黄祖ですが……これだけ負け続けてボコボコにされてもなお領地を守り抜いたという点には、どうにも疑問符しか浮かびません。

 

他にも完敗したはずの戦いで孫家側に戦死者が出ていたり、お互いやたらと戦闘をして黄祖側が一方的に敗走しているのに戦線は10年近くほとんど膠着していたり……

 

 

やはり、史書の都合で明らかに弱く見積もられた人物の一人である、と思えて仕方がありません。

 

 

 

と、そんな黄祖ですが、史書での悪評について1つ、明らかに嘘でないものが紛れています。

 

それが、短気で偏狭な性格

 

 

甘寧の才覚をガン無視し続けたのは呉側の記述だからまあいいとしても……彼の性格を語る上で一番欠かせないのは、当代随一の厄介者・禰衡(デイコウ)とのエピソードでしょう。

 

 

禰衡は高名な名士でありながら厄介払いされて各地を転々とし、最後は黄祖の元にたどり着きましたが、この時に息子の黄射と仲良くなり、その縁で黄祖にお世話になる事になりました。

 

が、この禰衡という人物はとにかく人を見下し馬鹿にすることが生きがいの人物で、行く先々で人を侮蔑する言葉を吐きまくっていたのです。

 

禰衡は最初は大人しくしていましたが、やがて黄祖の前でもその本性を見せるようになり、最後にとがめられたときには、まるでお笑い芸人のような饒舌な皮肉で黄祖を煽ってしまいます。

 

 

禰衡は名声だけは立派な名士。当時名士は神様同然であり、だからこそ群雄たちは禰衡を追い出し、押し付け合っていたのです。

 

しかし、黄祖の短気さは、この冷静な判断を上回りました。

 

 

ついに禰衡の口汚さに本気でキレた黄祖は、即座に彼を逮捕。そのまま側近に命じて縊り殺してしまったのです。これによって黄祖の名声がどうなったかは書かれていませんが……禰衡が彼の伝でフォローを受けている辺りが答えでしょう。

 

 

このように、黄祖は優秀な人物でありながら性格は癖が強かった……というのが実像なのかもしれませんね。

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