禰衡


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禰衡 正平

 

 

生没年:喜平2年(173)~ 建安3年(198)

 

所属:なし

 

生まれ:青州平原郡

 

 

 

 

禰衡(デイコウ/ ネイコウ)、字は正平(セイヘイ)。世の中には様々な人が住んでおり、その中には到底推し量れない狂人や変人がいるものです。三国志の世界でも、この禰衡という人はまさにそんな感じの人物でした。

 

彼を一言で表すなら、誹謗中傷をするためにこの世に生を受けた男。どこでも悪口、誰に対しても傲慢を貫き通し、自分が認めた人間以外のすべてを徹底的に見下して死んでいった、ある意味最強の人物です。

 

 

今回は荀彧伝に注釈として設けられた禰衡の一生、『平原禰衡伝』を追っていきましょう。

 

 

 

 

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カスに用事はありません!

 

 

 

禰衡の悪口伝説は、実はそこまで長年にわたって築かれていったわけではありません。言ってしまえば、急速に膨らんで破裂してしまう風船のような、1年から長くて3年の間の、ほんのわずかな期間でのものに過ぎませんでした。

 

 

建安の始めに、戦禍を逃れて荊州にいた禰衡が許都(キョト)へと引っ越したとき。これが、伝説の始まりでした。

 

彼は許都について腰を落ち着かせるや否や、自分の才覚に物を言わせて威張り散らし、自分のお眼鏡にかなわない者は話しかけられても完全無視。明らかに行き過ぎた悪口を散々にばら撒いて、周囲の恨みをほしいままに(?)手にしたと言われています。

 

 

ただし、そんな禰衡を見て希代の変人マニア・孔融(コウユウ)は禰衡の弁舌を高く評価し、「本性は宇宙の原理と合わさり、思考は神が宿っているかの如く霊妙です」と上奏文にてべた褒めしています。
こんな奴にコスモが宿っていてたまるか

 

この時、禰衡24歳。

 

 

また、当時の許都は遷都して間もないとはいえ、やはりいっぱしの大人物は割とその辺りにいたとされるほどの栄えっぷりでした。

 

が、禰衡からしてみればそんな大物たちも所詮は雑魚。優れた人物のためにしたためた自分の名士がボロボロになってもだれとも会おうとせず、周囲は不思議がったとか。

 

 

ある人が陳羣(チングン)や司馬朗(シバロウ)といった魏でも立伝されるだけの人物を差して会いに行くよう促しても、「豚肉業者や酒売りみたいなやつらと会いたくない」と完全拒否。

 

当人はただ2人、自身を推挙した孔融ともう一人、楊脩(ヨウシュウ)のみを優れた人物と認め、それ以外をゴミ同然と見ていたのです。

 

 

そんな禰衡が、当時許都にいた名士を揶揄して述べた言葉が以下の通り。

 

荀彧(ジュンイク)は顔だけはいいから弔問の仕事をさせるといい感じだね! 趙融(チョウユウ)?あいつは大食いだから台所を取り締まらせたら満足してくれるんじゃないかな!」

 

 

もう滅茶苦茶やなこいつ

 

とまあ、こんな様子で誰に対しても暴言を吐くか無視するかといった有様だったので、禰衡はいつしか恨まれて許都に住みづらくなり、最終的には疎開先の荊州に舞い戻っていったのでした。

 

 

 

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芸人ってのは芸の中で死ぬんだよ!

 

 

 

とはいえ、まあ彼も一応名士。旅立ちの直前、別れの宴と称して大宴会が開かれることとなりました。

 

しかし、そこに集まったのは恥をかかされた名士たちご一向。ただ気持ちよく送り返すのも癪なので、打ち合わせの末に「禰衡が来ても誰も席を立たず無視する」という嫌がらせを実行したのです。

 

 

……が、禰衡はこの手の嫌がらせにおいてはある意味無敵。到着しても誰も立ち上がらないのを見て、「死体と棺桶がいっぱいでかわいそうだよぉ!!」と泣きはらし、嫌がらせに嫌がらせで対抗してから故郷を後にしたのです。

 

 

 

こうして荊州に舞い戻ってそこのトップである劉表(リュウヒョウ)にお世話になる事になった禰衡は、劉表の案内の元、江夏の黄祖(コウソ)の息子と仲が良かったことから彼の元で養われることになったのでした。

 

 

この時も劉表の配下に対して傲慢に接したことで嫌われたようで、その結果黄祖にタライ回しにされたという説が『傅子』にあります。

 

実際、『典略』では著者本人が劉表から聞いた話として、孫策(ソンサク)にしたためた手紙を見て一笑し、こう言い放ったのです。

 

「これは孫策配下にお見せになるのです? 張昭(チョウショウ)なんぞに見せちゃう系ですか?」

 

この時「張昭を高く買っていた感じではなかった」と言われている辺り、主君と敵方の重臣を同時に敵に回す器用な人間であったのが伺えますね。

 

 

さて、ともあれこうして友人の親父である黄祖の元に落ち着くことができた禰衡。彼は黄祖から高く評価されて賓客との会合などで呼ばれるようにもなりましたが……こういった高い評価を為されていくうちにいつもの傲慢病が再発。

 

他人を見下して自分以外を認めず自分すら罵倒する有様を見かねた黄祖はついにマジギレし、ついに側近に命じて頭をひっつかんで館の外へ引きずり出し、そのまま絞め殺されてしまったのでした。

 

 

まさに芸人とも言うべき人生。しかしながら名声だけは無駄にあったため、黄祖の名声がダダ下がりになったとかならなかったとか。

 

 

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『文士伝』より

 

 

 

さて、ここからはちょっと別の史書より。

 

文学者について述べられた『文士伝』にも禰衡のことが述べられており、こちらではなんと、自分の友人のはずの孔融や当時漢帝国の立役者とされている曹操からも絶縁状を叩きつけられたという話があります。

 

 

孔融は禰衡に関する上奏文を提出して彼を曹操に知らせましたが、禰衡にとってはいい迷惑だったようで、「気が狂ったでござる」と曹操との引見を拒否し、その裏で散々暴言陰口をたたきまくっていました。

 

これに怒りを感じたのか面白いと思ったのか……曹操はついに禰衡に対して大々的な嫌がらせを画策。人を集めて大宴会を催し、禰衡をその中で太鼓打ちの係に任命したのです。

 

当時、楽器演奏は卑しい身分の仕事であり、もし譜面を間違えたら服を脱いで新しい衣服に着替えるというルールがありました。つまり、曹操は名士の禰衡にあえて卑しい仕事をさせ、その時のミスを見世物にしようと企んだわけですね。

 

 

しかし、そんな曹操の思惑とは裏腹に、禰衡は見事なまでに太鼓を演奏。大喝采の荒らしを巻き起こしたのです。

 

しかも、間違えても着替えるつもりは一切無し。役人から怒られるとようやく着替えを行ったのですが……禰衡が着替え先に選んだのは、よりにもよって曹操の目の前。彼はあえて曹操に見えるように裸になってみせたのです。

 

 

やりたい放題な禰衡を見て、曹操は「逆に恥をかかされたぞ!」と大笑い。この時の禰衡の打法は、後に「魚陽参撾(ギョヨウサンカ)」なる名前で広まったとか。

 

 

 

しかし、これで一番大恥をかいたのは、彼を紹介した孔融自身。彼はこの事を知ると禰衡に対して怒りの形相で素行を責め詰ると、曹操へ謝罪に行かせることにし、あらかじめ曹操にその事を伝えて根回しをしておくことに。

 

 

しかし、禰衡はこの時も訪れたのは夕方、しかもみすぼらしい恰好のままという有り様でした。

 

さらに、門の前に座り込んで、地面を杖でバシバシ叩きながら散々に罵声を浴びせまくり、とうとう曹操を本気で怒らせてしまったのです。

 

 

とはいえ、禰衡の実体はともかく、名声だけはピカ1。殺せば今後に響きます。

 

結果として曹操は、禰衡を体よく追い出して、敵である劉表に押し付けることに。後は先述の通り、劉表にも追い出された挙句、最後は悪口がたたって殺されてしまうという顛末を迎えてしまうのでした。

 

 

 

三国志演義ではこの後も曹操配下をとことんまで貶すという脚色がなされており、そのせいか「曹操に喧嘩を売った人物」という謎の人気がある禰衡。彼こそ、ネット社会の住民を超えるレベルの”自重しない”煽りの達人と言ってもよいのかもしれませんね。

 

ちなみに彼の詭弁の才能は、被害がないはずの呉の国の、約30年後の未来でも有名だったようです。

 

その証拠に、敵スパイによる偽の告発書を非難する際に「禰衡並みに巧みな屁理屈」という単語が用いられているのだから、ある意味正攻法よりもはるかに効率よく名声を集めた人物なのかもしれません。

 

 

 

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