張任
生没年:?~ 建安18年(213)
所属:他
生まれ:益州蜀郡?
張任(チョウジン)といえば、劉璋(リュウショウ)の軍勢の中でも最強と名高い人物ですね。
演義においては魏延(ギエン)による主君暗殺阻止、そして張飛(チョウヒ)とも一騎打ちを行い、挙句に落鳳坡(ラクホウハ:架空の地名のはずが今はそう名付けられた地が実在する)にて軍師の龐統(ホウトウ)を射殺。
最後には援軍の諸葛亮(ショカツリョウ)によって捕らえられ、劉備(リュウビ)に惜しまれながら処刑されるという大活躍をしています。
一方の正史では殺風景な描写し化されていないモブ将なものの、注釈によってなかなか濃いキャンセルら付けをされている事物ですね。
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来歴
張任の正史本文での活躍は、劉璋の主立った将の一人として劉備を迎撃し、そのまま他の将と共に敗北してしまったという記述だけ。
しかし、三国志の編纂者である陳寿が手がけた『益部耆旧伝』……に後付けで細かく肉付けされた『益部耆旧雑記』なる書物に、多少なりとも他の将軍たちよりは詳細な記載が残っています。
まず、彼は益州の蜀郡出身。つまり、劉璋が根付いている益州においては地元採用の人物だったようですね。
しかし、その家柄は最悪そのもの。代々生活には困窮している貧民と書かれていることから、間違っても名士の出というわけではないでしょう。この辺りから考えるに、もしかしたら劉璋あるいはその父の劉焉(リュウエン)統治では、他の勢力よりも家柄が軽視される傾向があったのかもしれません。
そんな家柄に生まれた張任でしたが、その性格は意志が強く勇猛にして大胆。そんな人柄が買われ、なんと最後には益州の従事(ジュウジ:州の副官。秘書的な役割?)にまで出世。平民出身者にしては大往生を遂げていたのです。
貧乏人が家柄主義も珍しく役人採用されたケースとしては、有名どころでは張嶷(チョウギョク)あたりでしょうか。
劉璋は無能のイメージが飛び交っていますが、もしかしたら元来の血統主義に依存しない人物登用の制度を持っていた可能性も……?
そして建安16年(211)に客将の劉備が反乱を起こすと、張任は劉璝(リュウカイ:苗字からして一族っぽい)と共に精鋭を率いて劉備軍の迎撃に出立。
しかし歴戦の精鋭である劉備軍は強く、結局は敗北。駱(ラク)を守る劉璋の子・劉循(リュウジュン)と合流し、籠城して劉備軍とぶつかることになったのでした。
こうして戦線が膠着したある日のこと、何かの策かはたまた動かない戦線に嫌気がさしたのか、突如として張任は軍を率いて駱城を出、雁橋(ガンキョウ)にて劉備軍と激突。そのまま敗北し、囚われてしまったのでした。
劉備は張任が忠義と勇気を兼ね備えている人物と聞き及んでおり、その際を惜しんで降伏を勧告。しかし張任は「老将が二君に仕えるだと?馬鹿にするな!」と憤り、結局降伏することなく処刑されました。
その死を敵である劉備は大いに惜しみ、それが後のメディアでの活躍に繋がっていくのです。
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……老将?
さて、張任の活躍の記述はここまでですが……個人的にはなんとなく引っかかる部分があります。
それが、張任が死ぬ間際に言い放った「老将」という言葉。つまり、張任はこの時、かなり歳をとっていた……?
実際、張任がこの時50~60、あるいはそれ以上のおじいさんだった可能性は大いにあります。というのも、彼の家柄は大変貧しく、名士が跋扈する役人という地位で出世するにはあまりに厳しい環境。
やはり当時は貧乏人というだけで「小物」というフィルターがかかりますし、よほど飛びぬけてないと壮年期まででの出世は不可能。それが従事にまで上ったという事は、それ相応に出世には時間がかかったと考えられないことはありません。
人材大国の魏や名士同士のディストピア一歩手前の呉と比べれば平民が世に出る難易度は低いものの、やはり辺境の益州でも庶民の出という地位は足を引っ張るには十分すぎる要因です。
この辺を考えると、やはり張任は従事に上った段階で相当な年齢。劉備の反乱はそれから数年たってからのものという可能性は十分あります。
張任というと、なんだか働き盛りの壮年将軍のイメージがありますが、もしかしたらかなり高齢なおじいさん武将だったのかもしれませんね。
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